火種の頸
端原の冬は、中央とはまるで別世界だった。
大館氏が支配する都から東へ東へ、険しい麻生山嶺を越えた先に広がる渓谷の大地――そこでは、山風が鋭い刃のように谷を駆け巡り、薄雪を巻き上げて舞わせる。
谷に響くのは、白い息を吐く若者たちの叫びと、剣が交わる甲高い音だけだった。
「ハッ──!」
金属が弾ける音とともに、端原豪政は大きく踏み込んで相手の竹刀を叩き落とした。
勝利したはずなのに、胸の奥のざわつきは収まらない。息を切らしながら豪政は空を仰いだ。
雲は低く垂れ込め、いつ雪が降り出してもおかしくなかった。
白い谷間を覆う空の色は、なぜかいつもより重く見える。
「……今日はやけに寒いな」
そう漏らすと、背中から軽口が飛んできた。
「豪政が勝手に動きすぎなんだよ。そりゃ寒くも感じるさ」
振り返れば、幼馴染で親友の犬当年が呆れた顔をして立っていた。
豪政は思わず笑ったが、胸のざらつきは晴れなかった。
「動かないと……余計に落ち着かないだろ」
「落ち着かないって、何がだよ?」
当年が首を傾げる。豪政はほんの少し視線をそらした。
(なんだろう……今日は朝から胸の中に霜柱が立ってるみたいだ)
理由はわからない。
ただ、渓谷に吹き抜ける風と同じように、心に冷たさが入り込んでくる。
その時、二人の前に静かな足音が近づいた。
「豪政、当年。よく動けているな」
端原家武術指南役――上大年一成が歩み寄ってきた。
谷を渡る風が、一成の外套をふわりと揺らす。
彼は苛烈な自然の中でも不思議と柔らかい、春の陽光のような眼差しをしている男だった。
豪政にとっては兄のようであり、当年にとっては頼れる兄貴分。そして怜にとっては命の恩人。
豪政は竹刀を置き、居住まいを正した。
「師父。今日は鍛錬の密度がいつもより濃いですね」
「山の空気がそう感じさせるのかもしれん。端原の冬は、心も鍛えるからな」
一成は豪政の腕に触れ、鍛え上げられた筋の張りを確かめるように軽く叩いた。
「だが豪政、お前は少し力みに傾きすぎている。剣は腕だけで振るうものではない。心が揺らげば、それがそのまま刃に出る」
豪政は唇を引き結び、うつむいた。
「……わかっています。でも、どうしても少し、心が落ち着かなくて」
「心が?」
一成が少し表情を変えた。
優しさの奥に、鋭い観察者の目が一瞬のぞく。
豪政は言葉に詰まった。
谷間に吹く風が強まり、雪片が三人の頬をかすめる。
当年が肩を叩いた。
「豪政は昔から、なんか胸騒ぎすると動き回る癖があるんだ。悪いことの前触れだって思ってるのか?」
豪政は俯きながら小さくうなずいた。
(山のどこかで、獣が息をひそめているような……そんな感覚だ)
それが気のせいであってほしい。
だが渓谷育ちの豪政の勘は、よく当たると皆が言う。
一成は豪政の肩に手を置き、柔らかく、しかし力強く言った。
「豪政。お前が感じる風は、大切にしろ。だが恐れる必要はない。剣も心も、恐れとともに研ぎ澄まされる。今日は少し休め。心が冷えているときは、体より心を整えるのが先だ」
「……はい、師父」
一成の言葉は胸にじんわりと染みた。
だがその温もりの裏側で、豪政の胸騒ぎはさらに強くなる。
谷を吹き抜ける風が、どこか遠くから悲鳴のように聞こえたのだ。
豪政は振り返り、白く霞む端原の稽古場を見渡した。
若者たちの掛け声。剣がぶつかる音。
いつもと変わらない光景のはずなのに、今はひどく脆く思える。
(……嫌な予感がする。何かが来る)
しかし、その「何か」がこの端原の運命を揺るがす“火種”であることなど、
その場の誰ひとりとして、まだ知らなかった。
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谷に夕暮れの影が落ち始め、稽古場の喧噪が少しずつ静まってゆくころ、
豪政はまだ胸のざわつきを抑えきれずにいた。
当年が横目で豪政を見ながら言う。
「おい豪政。やっぱり何か気になるのか?」
「……わからない。ただ……胸の奥で、何かがひっかかってる」
「白犬北嶺の霜柱みたいなやつか?」
当年が軽く笑ったが、それが豪政の不安を払うことはなかった。
谷の空気は不気味に冷たく、山の端から降りてくる風が雪の匂いを運んでくる。
そのとき――。
裏手の方から、乱暴な怒鳴り声が、夕闇の静けさを裂いた。
「動けねえのか? 端原家の被官ってのも大したことねぇな!」
続いて、金属の倒れる音、地面を蹴る音、誰かのうめき声。
「や、やめろッ!イッ…」
豪政の胸のざわつきが、一瞬で鋭い痛みに変わった。
「……怜だ!」
「豪政、走るぞ!」
二人は息を合わせるように駆け出した。
裏手の納屋は、山の影で薄暗く、人の気配が不気味に溜まっている。
豪政が角を曲がった瞬間、視界に飛び込んだのは――
地面に押し倒され、殴りつけられている長池怜の姿だった。
怜は端原家譜代の家臣。武闘派の一族で、皆鍛錬された強靱な肉体と、覇気を孕んだ相貌をしている。
怜も決してその筋がないわけではないが、精錬された一族のものと比較してかなり繊細・華奢な体躯である。風貌は幼さの残る目鼻立ちをしているが、その幼気な頬には不相応に、鮮やかな刀傷が深々と刻まれていた。
怜の細い腕が必死に空を掴むが、取り巻きの足に踏みつけられる。
中心に立っていた男が、豪政の怒気を浴びて振り向いた。
姫岡国俊。
端原の周辺では名の知れた無頼者で、その背後には麻霧の所従や、
端原監視役・姉賀久繁の息のかかっていると思しき荒くれ者たちが数人、獣のように笑っていた。
豪政の胸が熱く爆ぜた。
「怜から離れろ!!」
考えるよりも早く、身体が動いた。
豪政は走り込む勢いそのままに国俊へ踏み込み、振り上げられた拳を受け流し、
その胸倉をがっちりと掴んで地へ叩きつけた。
「ぐっ……!」
国俊が呻いた瞬間――。
「豪政、後ろッ!」
当年の叫び。
豪政は振り向くより早く、横から飛び込んできた男の蹴りをまともに喰らい、
身体が大きく揺れた。
「ちっ……!」
だが次の一撃が入る前に、当年が敵の腕を絡め取り、豪政の前に飛び出す。
「豪政! 怜を連れて下がれ!」
「……すまない!」
激しい乱闘の中、豪政は怜のもとへ膝をつき、その細い肩を抱え上げた。
怜の声は震えていた。
「ご……豪政……ッ」
「もう大丈夫だ。立てるか!?」
豪政は怜を支えながら後退するが、敵の数は圧倒的だった。
当年も善戦するが、複数の敵を相手に押され始めている。
国俊が立ち上がり、血に濡れた唇を歪めた。
「いきがり坊主が……調子に乗るなよ」
その目は、まるで飢えた狼のようだった。
彼が懐に手を突っ込む――短剣の銀が夕闇に光る。
そして、怜の背に向けて――。
「死ねや小僧!」
「させるか!!」
豪政が怜をかばい、身をひねる。
国俊が踏み込んだその瞬間――。
「そこまでだ!!」
冷え切った空気を裂く鋭い抜刀音。
国俊の短剣が弾かれ、地面に転がった。
豪政は息を呑む。
闇を裂いて現れたのは、果たして、一成であった。
無駄のない動きで、取り巻きの男たちを次々と斬り伏せるように叩き落とし、
国俊の腕を銃弾のような速度で制した。
あまりの剣速に、豪政は一瞬、目で追えなかった。
「なんだよ……化け物が……!」
国俊は顔を歪め、後ずさる。
「……覚えてろよ。必ずそのムカつく面、血の化粧で塗り潰してやる」
唾を吐き、国俊たちは闇に消えた。
怜が崩れ落ちるように膝をつき、一成に深く頭を下げる。
「一成様……助かりました……」
一成は怜の肩にそっと手を置いた。
「怜。お前は何も悪くない。胸を張れ。もう大丈夫だ」
その声は優しかった。
だが――豪政の胸は、安堵とはまったく逆の冷たさで満たされていく。
(……違う。一成様の言う『大丈夫』は、今日だけのものだ)
闇に消えた国俊の目。
あの獣じみた憎悪の光。
豪政は、背中に忍び寄る別の影を感じていた。
運命の歯車が狂い出すような、静かな気配が、豪政の胸を締めつけて離さなかった。
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豪政は怜の肩を支えながらも、胸の奥に残ったざらつく怒りを押し込められずにいた。
夕暮れの稽古場裏は、さきほどまでの乱闘の気配をまだ濃く残している。土埃の匂いが鼻に残り、倒れた木箱の影が赤い空にゆらいでいた。
当年が荒い息を整え、一成の方へ歩み寄る。
「イチ成様……まさか来てくださるとは。助かりました」
「『かずなり』だ。ふたりともよく持ちこたえた。だが——」
一成は、地に落ちた国俊の短剣を拾い上げ、夕光にかざして眉をひそめた。
その眼差しは穏やかだが、底には冷たい決意が宿っていた。
「刃を向けてきた時点で、これはただの私闘では済まぬ。国俊は、近いうちにまた動く」
怜は豪政の腕にすがったまま、小刻みに震えながら頭を下げる。
「も、申し訳ございません……ぼくが……弱いばかりに……」
「怜、お前が謝ることではない」
豪政は思わず声を荒げた。怒鳴り声ではなく、胸の奥から突き上げた焦燥のような叫びだった。
「お前が狙われるのは、お前が弱いからじゃない。国俊たちが卑怯だからだ!」
怜は怯えたように目を伏せる。
「で、ですが……ぼく、何も返せず……」
「返す必要なんて、どこにもない」
当年が静かに言った。その声音は落ち着いていたが、拳はまだ強く握られていた。
「怜、お前は仲間だ。だから守る。それだけだ」
怜は唇を震わせ、絞り出すように答える。頬傷を軽く指でなぞり、再び目を伏せ、俯きながら言った。
「……はい……ありがとうございます……」
その言葉を聞いた一成は、ふっと柔らかく目を細めた。しかし次の瞬間、表情はすぐに鋭さを取り戻す。
「……豪政」
呼ばれた豪政は、はっと顔を上げた。
「今のお前の踏み込み、悪くなかった。国俊の体勢を崩したのも見事だ」
不意に褒められ、豪政は言葉に詰まった。
だが、一成の声はすぐに低く、重くなった。
「しかし——怒りに呑まれればいずれ足元をすくわれる。今日のように、だ」
豪政はぎり、と歯を噛みしめる。
図星だった。怜を見た瞬間、全身が火のように熱くなって、ただ突っ込むことしかできなかった。
「……はい。肝に銘じます」
「よろしい。だが——」
一成の視線がふと闇の向こうへ向く。国俊が消えた方向だ。
「国俊はあのままでは終わらない。今日の出来事は、間違いなく火種になる」
怜の肩が再びびくりと震える。
「また……来るのでしょうか……」
「来る」
豪政よりも早く、一成が断言した。
「間違いなく、より周到に、より陰湿に」
風が稽古場の裏を吹き抜け、倒れた木箱の板が微かに鳴った。
夕暮れはすでに夜へと移り変わり、影は暗さを増していた。
豪政は怜の震えを抱えるようにそっと支えながら、胸の奥で静かに炎を燃やした。
(もし来るなら——次こそ、絶対に負けない)
その決意とともに、三人はゆっくりと稽古場を後にした。
だが、闇の向こうではすでに、国俊の冷たい笑み―大いなる存在にこびへつらう狐狸の醜笑が、形を成しつつあった。
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稽古場からの帰路。
怜と当年を先に帰らせ、豪政は一成と共に端原家の屋敷へ向かっていた。
夕闇は濃さを増し、山風はさらに冷たくなる。
豪政の胸には、まださきほどの怒りの余韻が残っていた。
怜を守れなかった悔しさ。
国俊の目に宿っていた、あの底なしの悪意。
(まだだ……まだ、何か仕掛けてくる……)
そんな思いを抱いたまま屋敷の前を通りかかったときだった。
「……ほう。豪政か」
薄闇の中、しずしずと歩み寄ってくる影があった。
豪政はすぐに察する。
姉賀久繁。
中央政府の官僚氏族・姉賀氏の出身であり、端原の監視役として派遣されてきた。齢は豪政より十歳ほど年長だろうか。
実力も血筋も端原領内では無視できぬ存在で、国俊の後ろ盾の一つとも噂される男だ。
「久繁殿……」
豪政は一応礼をするが、声に硬さが混じった。
久繁はその態度を見て、唇の端をゆっくりと吊り上げた。
「随分と肩肘張った態度だな。己が領主の子としての自覚が芽生えたか?」
「……申し訳ありません。少々、考えることがありまして」
「ほう。考えること、ねぇ」
久繁の視線は、豪政の頬についたかすかな擦り傷を捉える。
「若造が何に悩む。剣の稽古か? それとも……“余計な揉め事”か?」
豪政の背筋が固くなる。
言葉の端に、確かな含みがあった。
一成が一歩前へ出る。
「久繁殿、豪政殿は家督を継ぐ身。無用な挑発はお控えいただけるとありがたい」
久繁は一成を一瞥し、鼻で笑った。
「上大年の小倅か。貴様が何を守ろうが、流れは変わらんぞ。“中央”を見てみよ」
久繁は、不気味なほど静かな声で続ける。
「大館の屋形が病を理由に政務を離れ、代わりに東殿の勢いが増している。その影で、誰が利を得、誰が斬られるか……端原の若者が思い悩む程度の話ではない」
豪政は思わず口を開いた。
「中央のことなど……今は——」
「関わりがない、と言うつもりか?」
久繁の目が細くなる。
「端原は大館家の東方の要。東府での権力争いが激しくなれば、その火の粉がどこへ飛ぶか——言わずとも分かろう?」
豪政は返す言葉を失う。
(……中央の動きが、端原にも影響する……そんなこと、考えてもみなかった)
久繁は豪政の沈黙を愉しむように笑い、すれ違いざまに耳元で囁いた。
「若君、夜道には気をつけることだ。特に——“恨みを買った後”にな」
豪政の背に冷たい汗が滲む。
その場の空気が、一瞬にして凍りついた。
一成が前に立ちふさがるようにして豪政を庇い、久繁を鋭く睨む。
「……不穏な物言いを」
「忠告だ。受け取れぬならそれでいい」
久繁は一成を押し除けるように通り過ぎ、そのまま闇へ消えていった。
豪政は拳を握りしめる。
(……あの言葉……まるで、何かを知っているような……)
胸がざわつく。
今日の騒ぎだけの話ではない。もっと大きなものが動いている感覚があった。
端原館の裏庭は、館を訪れる人々の散歩道である。
夜霧が降り、庭の石畳に淡い白がかかる。
その中を、二つの影がゆっくり歩いていた。
培良時久と昌航。
いずれも中央・東府の政に深く関わる人物でありながら、端原とは敵対も友好も明言しない“沈黙の観察者”でもあった。
二人は灯籠の明かりを避けるように端を歩き、ひそやかに語り合っていた。
「今日の端原は、やや騒々しかったな」
昌航が淡い声で言うと、時久が静かに頷く。
「国俊が動いたらしい。あやつは火種の扱いを知らぬ。だが……その混乱に乗じて動く輩も現れる」
「久繁殿のことか?」
「ふむ。あの男は“風向き”を見るのが上手い。東方監察府の内情がこうも揺れれば、動かぬほうが不自然だろう」
昌航は小さく笑った。
「頼春公を補佐する観察府の穏健派……そして麻生廣頼・廣俊、寺下晴臣、霊殿瓜顕を中心とする武断派。この二つの派閥が、ついに我慢できなくなってきた。表では沈黙していても、刀の匂いが近い」
「反乱には至っていない。だが——」
時久は足を止めた。
冷たい霧がその頬を撫でる。
「——『誰が最初に』動くか。そこだけが問題だ」
「端原は巻き込まれるのか?」
「巻き込まれまいとしても、山東は東府の玄関。火は風に乗る。端原がどれだけ静かでも、肺の奥にまで煙は入ってくる」
昌航は庭の奥――ぼんやりとした人影のほうへ目を向けた。
「あれは……上大年の若者か?」
「一成だな。評判は聞く。まっすぐすぎるほど、まっすぐな男だ」
「まっすぐな人間は、政治の風に弱い」
「だが――そういう者が、一番早く倒れるからこそ、歯車は回る」
二人はそれ以上何も言わず、再び歩き出した。
その声は闇に吸い込まれ、誰にも聞かれることはない。
ただ一成だけが、ふと振り返った。
理由は分からない。
何かの気配が胸に刺さったように感じた。
そのころ、端原館の広間では、灯火の下で数名が卓を囲んでいた。
中央の情勢――東方監察府を巡る派閥争いの報告が、久彦の口から語られる。
「頼春公を支える穏健派は、統制を重んじ、武断派の独断専行を止めようとしている。しかし……武断派も黙っておりませぬ。麻生廣頼殿・廣俊殿は軍権の拡大を望み、寺下晴臣殿・瓜顕殿らは兵を動かす機会を窺っているとか」
霊殿敬達が眉を寄せる。
「まだ剣は抜かれておらぬ。しかし、互いに腰の柄へ手がかかっている状態……か」
長池暠が低く笑う。
「剣を抜けば、全山東が血で染まる。お家騒動では済まぬな」
安念修身が続ける。
「この状況で端原が軽はずみにどちらかへ与するのは危険です。どちらも、勝つ可能性もあれば滅ぶ可能性もある……」
木帋翔吾は、地図を前にして言った。
「だが、黙っていてもいずれ火の粉は飛ぶ。問題は、我らがどこで盾となり、どこで身を翻すかです」
久彦が豪政に視線を向ける。
「豪政殿。若君であるそなたも、耳に留めておくがよい。東方監察府は、いずれどちらかが“刃”を抜く。そのとき端原は――」
「選ばねばならぬ、と」
豪政は唇を噛んだ。
その重さを痛いほど感じ取る。
「はい。若君が成人され、家督を継がれる頃には、恐らく今よりもっと厄介な状況になっていましょう」
言葉は穏やかだが、その裏にあるものは重い。
豪政の胸が再びざわめく。
(……怜が殴られたのも、国俊が荒れているのも……“外”の情勢が揺れるせいなのか?
ここ端原だけを見ていては駄目なのか……)
一成を見れば、彼は静かに話を聞いている。
その横顔は、何かに覚悟を決めた者のようで――豪政には、なぜかそれが胸に痛かった。
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端原の北方、白犬北嶺は、晩秋の風が刺すように冷たかった。
豪政は外套の襟を立て、背後を歩く怜に振り返った。
「怜、寒くないか」
「ぼくは大丈夫です。でも、豪政さまこそ……」
怜の遠慮がちな声音に、豪政は苦笑してみせた。手には長池暠から渡された小包。凍真――豪政の兄弟であり、精神に不調を抱え、副智山麓の庵に幽閉されている青年への差し入れだ。
小包を渡すとき、怜の兄弟・長池暠は淡々と言った。
「……怜、余計な情けはかけるな。凍真さまは首領にとって“資質ある失敗作”だ。我々が深入りすることじゃない」
怜が反論しようとしたが、暠は冷たく目を逸らして去った。
その光景が豪政の胸に重くのしかかる。
――兄弟なのに。俺たちは、どうしてこうなったんだ。
副智山の麓の石段を上ると、見張り番の小屋の扉が開き、丑詰久彦が姿を現した。
浅黒い顔に刻まれた皺が、緊張を物語っている。
「……豪政さま。来られたのですね」
「これを。暠からです」
差し出された小包を受け取った久彦は、ほっと息を漏らした。
「ありがたい……。昨夜も凍真さまは、月を見て何か呟いておられて……。壮真さまは“まだ使い道はある”と申されているが、わたしには理解が及びませぬ」
豪政は言葉に詰まる。
凍真は、かつて端原の天才児と呼ばれた少年だった。だが情緒が崩れる発作が起こり、ある日、側近に刃物を向けたことで幽閉された。
怜が小さく口を開く。
「あの、久彦さま……凍真さまは、お元気ですか」
「元気……とは言えませぬ。ただ、怜どのの声を聞くと落ち着く、と」
怜は驚いて目を丸くした。「ぼくの……?」
「今日は山には登られませんか。顔を見せるだけで違うと思うのですが」
怜が豪政に視線を向ける。だが豪政は、わずかに首を横に振った。
「今日はやめよう。壮真に知られたら、凍真兄が余計に疑われる」
久彦も沈痛な顔で頷く。
豪政は小屋を後にし、一成の屋敷に戻る山道を歩きながら、足を重ねた落ち葉の音に耳を澄ませた。
怜がぽつりと言う。
「……凍真さま、さびしいと思います」
「わかってる。でも、今の端原は誰が何を見ているかわからない。姉賀久繁の一件で、周囲は俺たちの行動に神経を尖らせてる」
怜は唇を噛む。かつて豪政が久繁に跪かされ、頬を殴られた光景は、怜の胸に深い傷として残っていた。
あの場には、大館から派遣された役人の松浦盛経や、政所の奉行補・中原業資の姿もあった。彼らは近臣同士の政治の均衡を計り、久繁を利用して端原を牽制しているのだ。
「……中央の人たち、こわいですね」
「中央は“端原が力を持ちすぎた”と思ってる。壮真兄上と時久、それに昌航が動いている限り、不信は消えない」
怜は不安そうに豪政を見る。彼の不器用で優しい心は、端原の苛烈な争いに馴染まない。
豪政は怜の肩を軽く叩いた。
「怜。お前がいてくれてよかったよ」
「ぼく、豪政さまの力になれてますか」
「なれてるさ。お前がいないと、俺はとっくに折れてる」
怜は頬を赤らめ、小さく笑った。
だが屋敷が見える頃、ふたりの足は同時に止まった。
門前に、壮真の側近・培良時久が立っていたのだ。昌航の姿もある。
時久は、にこりと笑った。
その笑顔の奥に、豪政は底知れぬ闇を感じた。
「豪政さま。お帰りをお待ちしておりましたよ。壮真さまがお呼びです」
「父上が? 何の用だ」
「さあ……“大事なお話”だそうで」
怜は身を固くし、その袖をそっと摘んだ。
豪政は深く息を吸った。
――また、端原の嵐が動き始めた。
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一成の屋敷に戻った豪政と怜は、廊下奥の密談室へと案内された。
行灯に照らされる薄闇の中、端原壮真が静かに座していた。
その背には覇気があるが、表情はいつものように読み取れない。
「……戻ったか、豪政」
壮真の声は低く落ち着いている。怒りも焦りも、そこには見えなかった。
豪政が膝をつくと、怜も隣で深く頭を下げる。
「凍真への小包……確かに届けました。久彦殿が見張りをしておられ――」
「よい。久彦に任せておけ。あれは口は堅い」
淡々とした返答だった。
壮真が指先で机の端を軽く叩く。
その所作に合わせるように、時久が一歩進み出て、巻状の報告を差し出す。
「壮真さま、中央からの最新の密書です。観察府の様子、麻生殿ら武断派の動向……」
壮真は無言で受け取り、目を滑らせる。
わずかな沈黙。
そのあいだ、豪政の胸騒ぎは強まっていく。
やがて壮真は巻物を閉じた。
「……麻生廣頼・廣俊らが兵を糾合しているという噂は、どうやら真実味がある。しかし――」
壮真の目が、夜気のように冷たく光った。
「今ここで騒ぎ立てるべきではない。中央の真意が読めぬ。姉賀久繁の端原に対する振る舞いも、“ただの威圧”か、“探り”か判然とせぬ」
豪政は拳を握った。
あの屈辱の場面が蘇る。怜が震えていた姿も。
「……父上。久繁が端原をどう扱っているか、あなたはご存知のはずです。端原を軽んじ、ぼく……いや、怜をも……」
「豪政」
壮真の声が、氷のように静かに豪政の言葉を断ち切った。
「感情で動くな。今、端原が取るべきは“忍び”だ。刃を見せれば、中央は確実に潰しに来る。
だからこそ、わたしは均衡を保つ」
その毅然とした態度は、豪政から見れば歯がゆく、弱腰にすら感じられた。
幼馴染みの当年が堪えきれず口を開く。
「壮真さま……それじゃ民が納得できません。久繁殿はやりすぎです。端原を牛耳るつもりでいるんです」
「知っている。だが――」
壮真は静かに息を吐く。
「今は刃を抜く時ではない。久繁は“使われる者”にすぎぬ。彼の背後にいる者たちを見極めるまで、端原は動けぬ。
我らが先に動けば、端原は“反逆の疑いあり”と見なされるだろう」
時久が横で微笑を浮かべ、低く呟いた。
「壮真さまのお言葉の通りにございます。ここは静観こそ最善。……ええ、今のところは」
豪政はその「今のところは」という含みのある言い方に、うっすら嫌な気配を感じた。
壮真は続けた。
「豪政、怜。明朝、お前たちは観察府へ書状を届けよ。
“端原に乱心の兆しなし。あくまで従順にあり”と、奧知呂頼春へ伝えるのだ」
豪政は言葉を飲み込んだ。
怜は怯えながらも必死に頷いた。
「……承知しました、父上」
「ぼ、ぼくもご一緒いたします……!」
壮真は二人を見据え、短く告げる。
「行け。これは端原の未来を左右する役である。」
その背後の暗がりで、時久の影がわずかに笑みを形作った。
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東方監察府の政庁は、夜の帳が降りてもなお明かりを絶やすことがなかった。
総督・奧知呂頼春が外征視察で不在のため、補佐官・氷嶋頼茂が広間中央に座し、
穏健派のもう一人――奧知呂正員がその隣に控えている。
豪政は、居心地の悪さを感じていた。それは、歩き疲れた足の疲れによるものではなかった。
その向かいには、中立派の武綱氏頼と寺地篤彦。
そして、端原から書状を届けに来た若き皇子・端原豪政と、付き人の長池怜が座していた。
部屋には緊張の匂いが満ちている。
氷嶋頼茂は、文机に置かれた書状をそっと押しやり、静かに口を開いた。
「――麻生殿の動きが日を追って大胆になっている。
軍監の更迭、兵糧庫の査閲……役員代の権限を越えておる。」
奧知呂正員が険しい表情を浮かべる。
「寺下晴臣、霊殿瓜顕――あの二名までが麻生殿に近づいているとの報せ。
武断派がまとまりつつある証左でしょう。」
武綱氏頼が腕を組み、低く唸る。狐のように線筋の細い眼の皺が、少し濃くなった。
「だが、まだ断ずるには早い。
麻生殿はこれまでにも軍事に干渉してきた。
今回も“行き過ぎ”ているだけ、という見方もできる。」
寺地篤彦がため息をつき、俯き加減に言う。
「総督不在の今、均衡は脆い。
穏健か武断か――少しでも重みが傾けば、争いは避けられません。」
沈黙が落ちる。
座していた豪政は、そこで初めて小さく息を吸った。
怜も隣で緊張に肩をこわばらせている。
不意に、氷嶋頼茂が二人へ視線を向けた。
「端原殿。そちらの情勢はどうか。」
豪政は姿勢を正す。
「……我が父・壮真は、慎重です。
麻生殿の真意が見えぬ以上、兵を動かす段階ではない、と。」
怜も続けて、やや震えた声で言う。
「ぼくたちには、確証が……ありません。
ただ、山嶺の向こうでも、緊張は確かに高まっています。」
正員がうなずいた。
「端原殿にもご苦労をおかけしている。
だが、こちらも総督が戻らぬ限り決断できぬ。」
そして、広間を見渡した氷嶋頼茂が、重々しく言い放つ。
「――よいな。
頼春様が帰還されるまで、我らは“動かぬ”。
兵も、官職も、何ひとつ変えぬ。
麻生殿を刺激する真似は、決して許されぬ。」
誰も、ただの一言も返さなかった。
頼茂は言葉を続ける。
「ただし――麻生殿がさらに踏み込んだその時は……」
その視線が中立派の武綱へ向く。
武綱でさえ、目を逸らさずに受け止めた。
「いずれ、この場にいる全員が、腹を括らねばならぬ。」
広間の灯火が揺れ、影が壁に震える。
まだ事は何一つ動いてはいない。
だが、誰もが察していた――これは、嵐の前の静寂だ。
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一方その頃、端原の屋敷裏。
降り積もった雪の上を歩くたびに、霜を踏む音だけが冬空へ吸い込まれていく。
その静寂の中、時久と長池暠が肩並べて歩いていた。
暠が、吐く息に白を混ぜながら低くつぶやく。
「壮真さまは……動かれませんな」
時久は、いつものように口元だけで笑った。
その笑みは柔らかく見えて、内心を決して読ませない。
「動かぬというのは、動く時を選んでおられるということ。
――壮真さまは、そういうお方だ」
暠はうつむき、靴先の雪を見つめた。
「……私の弟、怜も危険です。
久繁殿の手勢は本気で、怜を――」
「案ずるな。」
時久の声は、雪の静けさそのもののように落ち着いていた。
「怜は豪政さまが守られる。
……ただし、豪政さまが“端原の刃”となるのであれば――」
そこで言葉を切る。
暠は足を止めて、時久の横顔を注視した。
「その時は、我らも腹を決めねばなるまい。」
雪風が二人の間を静かに通り抜け、衣の裾を揺らす。
暠の顔に、決意にも不安にも見える複雑な影が射した。
「……時久殿は、端原に忠を?」
時久はまた笑った。
その笑みは答えになっていない。
しかし暠には――それが答えであるようにも、思えた。
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豪政たちは一成の屋敷の広間で、冷えた茶をすすっていた。
灯火は揺れ、外の雪はしんしんと積もり続けている。
怜は落ち着かず、指先が膝の上で小刻みに震えていた。
「怜、大丈夫だよ。」
勝実が気遣うように肩を叩く。
「国俊のやつ、もう懲りただろ。一成さんもいるんだし。」
「……そ、そう……だと……思いたい、ですけど……」
当年が苦笑しつつ、豪政の方へ顎を向ける。
「なあ豪政。お前はどう思う?」
豪政は茶碗を置き、ふっと息を吐いた。
「……嫌な風が吹いている。今日は、特に。」
「お前の勘が当たる時は、だいたいロクでもないからなぁ……」
当年が肩をすくめた、その瞬間――
屋敷の外で、悲鳴と金属音が響いた。
「――えっ……!?」
怜の顔から血の気が引く。
次の瞬間、障子が破られた。
雪混じりの風とともに、国俊と私兵たちが雪崩れ込んでくる。
「探したぜぇ……端原の坊ちゃんよ!!」
国俊の叫び。
手には、月光を吸い込むように鈍く光る短槍。
豪政は即座に立ち上がり、怜を背に隠した。
「国俊……貴様――!」
「ここでまとめて殺る! 久繁様だって文句言わねぇよ!!」
雪の冷気が吹き込み、広間はたちまち乱戦の渦に呑まれた。
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勝実が棍を振り、当年が敵を投げ倒す。
豪政は怜を押しやりつつ、自身も必死に刃を躱す。
しかし敵の数は多い。
国俊の一撃が豪政の肩を掠め、血飛沫が舞った。
「豪政! 囲まれるぞ!!」
当年が叫ぶ。
国俊の槍が豪政へ迫った――その瞬間。
疾風のような影が闇を切り裂いた。
「豪政!! 下がれ!!」
飛び込んできたのは、怜の父――上大年一成だった。
その剣が月光を裂き、国俊の仲間を次々と斬り伏せる。
豪政も怜も、その姿に息を呑んだ。
「師父!!」
「怜を連れて逃げろ!! ここは……私が止める!!」
「でも――!」
「行けッ!!!」
一成の怒号が広間を突き破る。
彼は雪煙の中へ踏み込み、数の上で圧倒的に不利な私兵たちを相手に、ただ一人で刃を振るった。
国俊が怯んで距離をとる。
だが――
その背後、積もった雪の影から、ひとりの兵が槍を構えて飛び出す。
怜が叫んだ。
「一成さん!! 後ろ――!」
だが、間に合わなかった。
鈍い刺突音が、広間の空気を震わせた。
一成の身体が、前へ崩れ落ちる。
背中を貫いた刃から、鮮烈な紅が雪混じりの床へ滴る。
豪政は息を呑んだ。
怜の指が震える。
一成は振り返らない。
声もない。
ただ、倒れ伏したその姿だけが、すべてを語っていた。
――守るべきものを守り切って、逝ったのだと。
その沈黙が、逆に豪政の胸を裂いた。
次の瞬間――
豪政の中で、何かが燃え上がるように弾けた。
「うあああああああああああッ!!」
豪政の絶叫が、雪夜の闇を引き裂く。
怒りと悲しみが混ざり、広間の空気までも赤く染めていくようだった。
外では、雪が静かに降り続いていた。
血と死の匂いに混じりながら、白い庭を深紅へと変えていく。
その雪夜の最中――
この一成の沈黙の死が、端原と中央の均衡を大きく崩し始めていることを、
まだ誰も知らなかった。




