窓辺のノート
昼下がりの喫茶店。
窓際の席に座り、僕はコーヒーを冷ましながら、ノートを開いた。書きかけの文章は、いつも途中で途切れる。
「また、だ」
そう呟いて、ペンを置く。
書きたいことは山ほどあるのに、どこから書けばいいのか分からない。母が倒れた日のこと。父と交わした最後の会話。学生時代に失った友人。どれも僕の一部であり、今の僕を形作っている断片だ。
でも、その断片を言葉にすると、まるで過去を裏切るような気がしてしまう。紙に書いた瞬間、記憶が固定され、もう別の解釈を許さない。それが怖いのだ。
窓の外では、高校生らしい二人が笑いながら並んで歩いていく。僕にも、あんな時間があった。
けれど、その時間を「幸せだった」と断言する勇気が、いまだに持てない。楽しかったのか、苦しかったのか、両方だったのか――思い出は、いつも曖昧に揺れている。
僕はノートを閉じ、カップに残った冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
きっと、誰かに読ませるためじゃない。自分のために書けばいいのだ。正しい文章も、整った物語も要らない。ただ、忘れたくない気持ちを並べればいい。
席を立つとき、ノートの隅にだけ書き残した。
「僕は、まだ生きている。」
それが、今日の唯一の一行だった。