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後編〜新たなるステージの幕開け

 本当に天国にでもいるような、そんな気分でいっぱいでした。

 私はこれから、言ってみれば「死刑宣告」を受ける身です。医師から「重篤である」としか考えられないような病状説明を聞こうとしているのです。まさに「地獄」への扉が開かれようとしている、その瞬間なのです。

 私は私の愛した怜美さんがくれた、たったの一言だけで幸せな気持ちが心の中に充満してしまいました。

 反対に、気分を害したことを体中で表現しまくった嶋田氏は負け犬のように、ひと言「勝手にしろ」と残し、出ていってしまい、あとには鉄山医師だけが取り残されました。

「貴女は頭がいいのか悪いのか…。よくわからない人だ」

 そういうと、重大任務を押し付けられてしまったはずの医師は、それでもやっと安らぎを得た子供のような顔をして、

「気分が、いい…」

 と、少しほっこりした表情を見せてくれました。 

「娘、ね…」

 その言葉を、聞こえるか聞こえないか、独り言のようにつぶやくと、

「それでは娘さん、これからお母様の病状を説明いたします。まず、別室へお越しください」

「わかりました、先生」

 おそらく、患者の目の前で取り交わされる会話として、これほど不自然なものもなかったでしょう。

 重病患者の病状説明を別室で、当人に聞かれないように行うことを、患者本人に了承を得るという、本末転倒な話です。

 しかし、私はその矛盾を快く受け入れました。

「お願いよ…怜美…」

 鉄山医師と連れ立って部屋を出ていく怜美さんの後ろ姿に、自然と私は呼びかけ心を預けていました。

 それはなんとも言えない高揚感を覚えた一瞬でした。

 そして振り返り、一言…。

「はい…お母さん…」


 二人が出ていってから一時間近く過ぎました。

 もはや私の病状は、簡単なものではないことを如実に物語っています。

 私はあらためて考えてみました。

「一体、どこが悪いのかしら…」

 確かに、倒れて意識をなくしました。

 一度目は主人の声を聞いて、気が遠くなったのはわかりました。懐かしさと、切なさがいっぺんにやってきて、心があふれてしまった…そんな精神的な原因だと、自分では断言できます。

 でも問題は二度目です。

 なんの理由もわからず、意識がなくなったのです。

 鉄山医師から「貧血気味であることは確か」と言われましたが、今までそんなこと、ありませんでした。きっと、そこに原因があるのでしょう。

 それから、いつのころからか、疲れやすくなっていたのも確かなことです。それはきっと歳のせいと思っていたのが、実は何かの症状だったかもしれません。

 でも、考えてみても素人が結論を出せるはずもなく、私はいつの間にか眠りに入ってしまいました。

「…紀藤さん、お昼ごはんの時間ですよ」

 目を覚ましたのは、食事が運ばれたことを知らせてくれた配膳係のおばさんの声でした。

 ハッとしました。

「怜美…怜美さん…」

 私は大事なことを押し付けたまま、彼女を放り出していたのかもしれません。

 しかし…。

「はい、ここです」

 そして…。

「怜美はここにいますよ…お母さん」

 笑顔が、そこにありました。

 そして私も、心の底から笑顔になりました。

「ありがとう、ずっといてくれたのね」

 なんとも言えない、何物にも代えがたい、心地良い空気が、気持ち良い時間が、この狭い病室にありました。

 愛おしく思える相手がそばにいてくれる幸せ。そばにいて待っていてくれる喜び。

 主人が亡くなってから、こんな気持ちになれたのは初めてです。

「私がやります」

「あら、ありがとうございます」

 怜美さんは、私の昼食のトレイを、持ってきてくれたおばさんから受け取ると、ベッドテーブルの上へ置いてくれました。

「ありがとう、怜美さん」

「いいんです。それからもう私のことは、怜美って呼んでもらえませんか…」

「…いいの?」

「もちろんです。それに私も…」

「え?」

「お母さんって…」

「…」

 もう、病気のことなど、どうでもいいと感じました。

 恥じらうようにうつむく彼女の、そのしとやかな姿を見つめ、私は心から喜びを実感しました。

「ありがとう…怜美…」

「ありがとう、お母さん」

 私は、嬉しさの中にも少しだけの戸惑いを感じ、なんとなくベッドテーブルに置かれた昼食に、視線をぼんやりと向けるだけでした。

 まだ慣れないシチュエーションに、顔が火照るのも感じます。

「あ、ごめんなさい。お腹、空いてた?」

「あ、違うわ。大丈夫よ」

 若いだけあって、彼女の方が柔軟な対応ができるようです。

「食べさせてあげようかしら…」

「え?」

「うふふ、親孝行させて」

 すっかり怜美さんの…いえ、怜美のペースになってしまいました。

 そう、今まで見たことのない、安心しきったような笑顔を、遠慮なく振りまいている、そんな感じがします。

「いいわよ、ひとりで食べられるわ」

「そうかぁ…。ちょっと残念。今までできなかったから、親孝行したかったのにな」

「ありがとう。今は気持ちだけ、いただいておくわ」

 親孝行という言葉に、私は少し酔いしれていました。

「私が元気になって、退院したら…」

「退院したら…?」

「思い切り、親孝行してね。私も思いっ切り、甘えさせてあげるから」

 私は素直な気持ちを、素直な言葉で表しました。

 幸せな未来図を、心の中で描いて、ささやかな幸せにひたろうとしました。

 そう、大切なことを忘れて…。

 怜美の表情は、気のせいか暗く、くぐもって見えました。

 しかし、すぐに変わらぬ、たおやかな微笑みを浮かべ、

「ありがとう、お母さん…」

 と、答えてくれました。

 怜美は、私の娘は、私の病状を聞いているのです。私がこの先どうなってしまうのか、よくわかっているはずなのです。

「あの、お母さん…」

 隠しごとを耐え切れずに告白する、まさにそんな表情と口調がありました。

「さっき聞いてきたことなんだけど…」

 その苦しげに見える顔色に、私はあらためて覚悟せざるを得ませんでした。

「わかってる、もういいの。ごめんね…」

「え?」

「貴女の、胸の中にしまっておいてくれないかしら」

「…」

「貴女に、辛い思いをさせてしまうけど」

 エゴイスト―。

 そんなフレーズが浮かびました。

 あんなに知りたがっていた「真実」を、いざとなって恐れ出したのかもしれません。

 でもそれは、今の自分にとって最も愛しく、そして最も信頼のおける相手が共有してくれているという、何者にも勝る事実が存在しているからに違いありません。

 しかしまた、それがきっと、大切な相手に苦しみを与えてしまうことも間違いないことでしょう。

 ですが怜美は、私の愛しい娘は、決して簡単に心の折れる女性ではないようです。

「わかった…。わかったわ、お母さん」

 そう言うと、冷たい氷も溶けてしまうような、温かい笑顔でうなずいてくれました。

 ひと時でいい。束の間でかまわない。今はこの愛しい娘と一緒にいられる喜びだけを感じていよう。

 私は胸の奥の一番遠く深い所へ、絶望という名前の悪魔をしまい込むことにしました。

 いつか、それも遠くない未来に、それは再び大きな悲しみと苦しみを携えて訪れる日が来ることがわかっていても、今は私の天使と共に歩んでいければいい。全てを忘れることができなくても、今は怜美と共有できる時間だけを信じていければ、それでいい。


 忙しいはずの毎日の中、怜美は以前より頻繁に訪れてくれるようになりました。

 それはまるで、今までの不敬を詫びるかのようでしたが、私には目の前に愛すべき存在がいてくれる喜び以外の何物でもありません。

 病状も知らずにいる私を、鉄山医師や帰ってきてくれた吉江さんも、それまでと変わらない態度で接してくれていました。私自身も、なんの変調も感じないまま、ただ少しずつゆっくり時が流れていくだけでした。

 怜美が主演した「亜莉栖シリーズ」の放送も、どうやら好評のうちに幕が下りたようです。

 そしていよいよ映画化の発表が大々的に行われると、岡野怜美はますます注目を浴びる存在になっていきました。

「いよいよね、映画も」

「もう撮影もほとんど終わってるし、あらためて映画やりますって、なんだか変な気分…」

 ここに来るのも、ずいぶん注目されるようになったようで、至るところでサインをせがまれる姿を見るようになりました。

 すっかり「スター」になるべくしてなったとも言える怜美の輝かしい姿も、私にはかわいい娘の元気に生きる楽しげな表情として、嬉しくてならないのです。

「もうちょっと先だけど、試写会にはぜひ来て欲しいな」

「え、試写会?」

「そう、私の主演映画」

 そう言う怜美の顔は、なんとも言えないまぶしさを感じさせました。

「それはぜひ行かなきゃね」

 私は胸を弾ませました。

 テレビドラマの試写を、松本さんから出版社で見させていただいたことも思い出されました。

 でも今度は、あの時とはまた違う、もっと「身びいき」とも言える感覚が、私の心と体を駆け抜けていきます。

「主演映画、ね…」

「そう、私の…お母さんの娘の…」

 頭の中がぼうっとしています。

 そして…。



「…お母さん、お母さん!」

「奥様!」

「美佐ちゃん、大丈夫?」

「紀藤さん、わかりますか?」

 次々と、私を呼ぶ声が聞こえてくる。

 いつも聞いている声、懐かしい声…。

 頭の中を見知らぬものがぐるぐると回って、何がなんだかわからない。

「…」

 声を出そうとしても、よく口が回らない、開くことさえもできないような、そんな感じ。

「大丈夫だ。呼吸も心拍も正常、意識も戻ったようだ」

「はい…」

 また、声がする。

 聞きおぼえのある声。誰だっけ?

 目も薄らぼんやりして、暗がりにいるみたい…。

 どうしたのかしら、何があったのかしら…。

 ゆっくりと深い所へ沈んでいくような、それが心地いい感じがする。

 開いているのか、閉じているのか、わからなかったまぶたが、重くなってる。

 ああ、眠いんだ…。

 周りの声がだんだん小さくなっていくわ。



 薄っすらと、日差しが頭の上の方からこぼれてきました。

 体中が重苦しく、呼吸もなぜかくぐもっているような感じがしました。

 それが精一杯という思いで目を開けると、どこか見知らぬ空間に漂い出したように感じました。

「あ、紀藤さん、目が覚めましたね」

「…」

 やはり、それが「大変なこと」をしているかのように視線を動かし、やっとの思いで首を振って周囲を見渡すと、いつの間にか慣れてきた自分の病室ではなく、見知らぬ白く閉鎖された狭い空間に横たわっているということに気付きました。

 日差しと思ったのは、室内の灯りだったようで、自然の光ではありませんでした。

「わかりますか、紀藤さん?」

 声をかけてきたのは、どうやら吉江さんのようです。ひどく懐かしく感じてしまいました。

「ここ、どこ?私…」

 気が付くと、口元は透明のカプセルのようなものでふさがれています。呼吸がしにくく感じたのはこのせいか、と思いました。

「大丈夫ですよ。ここは集中治療室です。紀藤さんは、ちょっと具合が悪くなって、それでここへ運ばれてきたんですよ」

 吉江さんの言葉を、私は頭の中で考え直してみました。

 何をしていたのか…そう、怜美さん、怜美がいた。何かを話していて…そうだ、映画の試写会があるっていうことを聞いて…。

「頭がぼうっとなって…」

「思い出されましたか?」

「そうだわ、怜美が…」

 私は体を起こそうとしました。

 しかし…。

「あ、ダメですよ。まだ無理に起き上がらないでください。酸素マスクや点滴のチューブが付いていますから」

「?」

 この口元にあるものは、どうやら酸素マスクのようです。

 腕の辺りにようやくの思いで目をやると、透明なチューブが伸びているのがわかり、その他にも何かコードのようなものもつながっているのも見えました。きっと心電図なのでしょう。

 ずいぶんと厳重に管理されているようでした。

「岡野さんなら今、部屋の外にいますよ」

 吉江さんは、そう言いながら部屋を出ていきました。そして入れ違いに現れたのが怜美でした。

「お母さん!」

「岡野さん、ここで…」

 よく見てみると、私のベッドの周りは透明なビニールの壁で覆われていて、まるでビニールハウスの中のようでした。その前で怜美は止められ、顔の前で私を心配そうに見つめていました。

「大丈夫?びっくりしたわ…急に意識が遠くなっちゃっうんだから」

「私、どうしてたの?」

「丸一日、目を覚ましてくれなかったのよ」

「ずっと?」

「そう、ずっと…。このまま寝続けちゃうのかと思ったわ」

 ビニール一枚あるだけで、声が少し震えて聞こえます。

 いえ、本当に震えているのかもしれません。

「ちょうどね、前に働いてったって言ってたお店の…かぼちゃ亭だっけ?そこのマスターと奥さんがお見舞いに連れて来てくれたのよ」

「え、ほんとに?」

 怜美が静かに首を傾けました。

「会いたかった…」

 なぜか懐かしい声が聞こえたような気がしたのは、二人の呼びかけだったのかと、私は嬉しく思い、また話ができなかったことを残念に感じました。

 でも、誰が二人を呼んでくれたのでしょう。少し気になりました。

「そういえば松本さんが、いたの?」

 遠くで声を聞いたような気がした私は尋ねてみました。

「うん、いた。いろんなこと、話した。お母さんが具合良くなったら話すけど…」

「わかった、ありがとう」

 そう言いながら私は怜美の姿をもう一度、よく見てみました。

 見覚えのある黒いワンピース姿…。

「怜美、貴女…」

「え?」

「ずっと帰ってないの?」

「…まあ、ね」

「寝てないの?」

「ううん、休憩室あるから少しは寝たよ」

 さらりと言い切る怜美は、ビニール一枚の隔たりなどものともせず、気高い美しさを放っているのが感じられました。女優とか、そう言った「くくり」を超え、女性として、また人間として、尊厳に満ちあふれた「美」で輝いているようです。

 私は言葉を失くしました。

 嬉しくて…そして、嬉しくて…。

「もう私はいいから、早く家に帰って休んで。まだ忙しいんでしょ?」

「大丈夫よ、まだ若いんだから」

「そんなこと言って…。身体壊してからじゃ遅いのよ」

「ほんとに大丈夫。よっぽど撮影の時の方がハードよ。一日ぐらい看病で病院に泊まったぐらい、なんともないわ」

「怜美…」

 明るく言いのける彼女を見て、私はなぜか急に、得体のしれない不安感に襲われました。

 なんだか、ひどく高い崖の上を、何も支えるものもないまま、よたよたと歩いていくような、そんな感じでした。

 そう、幸せの絶頂が、実は何の裏付けさえないばかりか、すぐその先には、行く末さえわからなくなっている自分自身がいるのです。幸せな気持ちはその裏腹に、底のない苦しみが、まるで待っているかのように、私を飲み込みます。笑顔と引き換えに、真っ黒な悲しみが、私の心の奥でゆっくりと、しかし確実に、かま首をもたげるように襲いかかろうとしているのです。

「お母さん…」

 察しのいい怜美に、私の気持ちはすぐに伝わっていきました。

「お母さん…お母さん!」

「怜美!」

 ビニールの幕を、突き破らんばかりに手を差し出す怜美に、私も精一杯、動きのとれない腕を伸ばそうとしました。

「紀藤さん…。岡野さん!」

 吉江さんが、びっくりした様に声をあげてきました。

「大丈夫ですよ。すぐに元の部屋へ戻れますから。無理しないでください!」

 私たちの尋常ならざる様子を見て、吉江さんは顔色を変えています。

 私のために一時、心を病んでいたようでしたが、今は以前と変わらない様子です。

 いえ、怜美が真実を知ったことで、少し心の重荷が軽くなったのかもしれません。

「ごめんなさいね」

 吉江さんの前で、二人ともまるで子供のようでした。私は、そして怜美も、そんな吉江さんに対して、苦笑せざるを得ませんでした。

「疲れてるでしょ。もう帰って休みなさい」

 私はゆっくりとした口調で怜美に告げました。

「そう、岡野さん。ここはもう大丈夫です。本当にすぐに一般病棟へ帰れますから」

 吉江さんも諭してくれます。

「…そう、わかったわ」

「帰ってゆっくりお風呂に入って、それで体を休めてね」

「はい。わかりました」

「よし、いい子だわ」

 見交わす目と目。

 時は穏やかに、そして柔らかに過ぎていきます。

 入ってくるはずもない暖かな日差しが、降り注いでいるように感じます。

 私は、自分が今ここに病人としてベッドに横たわっていること、それが事実かどうかさえ怪しげに思えるほど、優しい空間が包みこんでくれていました。

 やがて怜美は帰っていきました。

 お互いに心を預けたままに…。


 ふとした瞬間に私は考えます。

 本当にここが病院で、私は病気なんだろうかと。

 いえ、それ以前に今こうしているのが現実なんだろうかと―。

 もしかすると夢を、長い時間の夢を見ているのではないのかと…。

 とりとめのない思いは、それが私にとって「希望」という名前の虚構であることが、痛いほどにわかり切っていました。

 怜美と知り合い、そして心を通わせた今、これからの時間が短くあっていいはずもないのです。

 一度はできたはずの「覚悟」が、確実に揺らいでいることが、私の心の中ではっきりとしていました。

 怜美と一緒にいたい―。

 言葉にできない叫びが、胸の奥でくすぶり続けていました。


 吉江さんの言った通りに、私はすぐに元の一般病室へ戻ることができました。

 ここは…この部屋は、いつの間にか慣れ親しんだ感さえありました。ほんのわずかな日数とはいえ、他の病室へ行っていたことが、ひどく不自然に思えて仕方なく思えています。

 住めば都、と人は言いますが、まさしく今の心境にしっくりくる言葉でした。

 その私の病室へ、時間を見つけては怜美が来てくれます。

 私は彼女の話す内容を、ひとつひとつかみしめるように聞き入ります。映画の現場の話や、その他にも日常の機微に富んだ様子を、わかりやすく、それでいて気持ちを込めて語ってくれました。

 実の母娘もかくあるものなのかと思いつつ、私は目の前の現実を快く受け止め、そしてひと時の幸せな時間に酔いしれていました。

「あのね…」

「どうしたの?」

 ふと視線を外し、口籠るように言葉を継ぎ足す怜美の様子は、いささか物憂げでした。

「実は私、ある人から話が来て、今度の秋に撮影が始まる映画に出てみないかって…」

「あら、素敵ね。すっかり女優として認められてきたのね」

 怜美がテレビ出演をきっかけに大きく羽ばたく機会を得たことは、例えようのないぐらい嬉しいことでした。そして、それは彼女にとって、何よりも望ましいもののはずです。

 それなのに…。

「なんか…気が進まない…」

「え、どうして?そんなにひどい話なの?」

「ううん…。ストーリーもオリジナルの脚本でけっこう深い内容だし、監督も若手で有望な人…」

 怜美の教えてくれた秋村という監督さんの名前は、私も耳馴染みがありました。

「それじゃあ、何が気に入らないの?」

「…なんとなく、ね」

 そう言うと、何事もなかったかのように、柔らかい笑顔を見せてくれるのです。

 私はそれ以上、この話題に触れることはしませんでした。時に彼女にも考えが行き詰ることだってあるのだと、そう思いました。怜美は怜美であって、ドラマの中のヒロインであり続ける必要などないのですから。

 そうして、しばらくは二人でとりとめもない会話を続けていましたが、

「そろそろ帰るね。明日も早いから」

 そう言うと、帰り支度をし始めました。

 カバンを手に取り、そして肩から下げるしぐさを見ると、愛しい娘が去っていこうとする、例えようのない寂寥感に襲われてしまいます。

 それは失うものがあるという、心に芽生えた強さと、そして裏腹の弱さの証し。

「わかったわ…。気をつけてね」

「うん、また来る」

 素っ気ないような言葉の行き来が、なぜか一層の親密さを感じさせます。

 それは「家族」が、日常に見せるありきたりの光景、とも言えました。

 主人と交わした会話が、特別な言葉でもないのに、深い思いが伝わっていくのと同じ心持ちで、私にはとても嬉しく感じていました。

 そして、その思いはすぐに大きく、抱えきれないくらいになっていったのです。


 少しどんよりとした空が、病室の窓で切り取られ、自分の気持ちまで重苦しくなるような午前中のことでした。

 頻度は少なくなってきたものの、麻衣さんも時折は「業務です」と言いながら、訪ねてきてくれていました。何もあらためてのこともないのですが、そんな訪問は誠実な人柄に合わせて、とても心を和らげてくれるのです。

 そんな彼女が、なぜか心なし元気がないような、表情の合間に見せる、今日の天気のような重い雰囲気が、私には感じられて気になってしまいました。

「何かあったの?」

 いたたまれずに私は単刀直入に尋ねてみました。

「…いえ、なんでもないです」

「なんでもないって顔じゃないわよ。差し支えなければ話してくれない?」

「いえ…その…」

 表情だけでなく、口調までどんよりとしてきてしまいました。

 こんな彼女を見るのは珍しいことです。

「何か悩み事でもあるの?」

 自分だけのことであれば、私の前では「おくびにも出さない」ことはわかっているつもりでした。それだけしっかりと自己管理ができる女性なのです。

 だから…。

「仕事のこと?」

 そして…。

「私に何か言いたいことがあるんじゃないの…」

「…」

 反応のないことが強く肯定していると察せられます。

「いいわよ…。遠慮しないで」

 何か私の「病状」で、耳にしてしまったことでもあるのでしょうか。

「病気のこと、かしら…」

 少しでも端緒となるべく、私は言葉の口火を切ってみました。

 しかし、彼女はかぶりを振ると、

「いいえ、そうではありません」

 自分の体のこと、あれだけ覚悟ができていたと自信があったのに、いつの間にか「気弱」になっているのか、その否定の言葉にほっとした心持ちでした。

「実は…岡野さんのことで…」

 でも怜美の名前を聞くと、心なし気持ちがざわつきます。それも、目の前の有能な編集者が、深刻な顔で語り始めようとしていれば、例えかりそめであっても「母親」としての感情が揺さぶられるのを禁じえません。

「怜美が…何かあったの?」

「え、いえ…。何かあったというより…」

 やはり歯切れの悪い口調は、良くない話の前兆なのでしょう。

「彼女に新しい映画の出演オファーが来ているんです」

「ええ、聞いたわ」

 私はつい先日、ここで彼女から聞いた話を思い出しました。

「確か秋村さん、だったかしら?監督さん…」

「そうなんです。今、あの人に撮ってもらえるなんて大変なことなんです」

 彼女は、まるで自分のことのように、その目を輝かせています。

「そうなの…。それでも何か思い切れないことがあるのかしら?」

 そう、私の方はまるで他人事のように返してしまいました。

「奥様!」

「えっ?」

 麻衣さんの、そのひと言は、今まで耳にしたことのないような「怒気」のようなものを感じさせました。

 しかし彼女はすぐに声を落とすと、

「…あ、申し訳ありません」

「え、いえ、いいのよ。私の方が遠慮しないで、って言ったはずだし…」

 私は麻衣さんの表情の豹変を見て、彼女の動揺を受け止めようとしましたが、さすがに一流の編集者は、その心の持ち様も、決して弱いものではないようでした。

「実は岡野さんがオファーに応じないのは、どうも奥様のことがあるらしいのです」

「私の?」

 ドキリとしました。

 そう言う麻衣さんの目には、冷たいものが感じられたのです。

 言葉や態度には現れなくとも、その心情はわずかな表情にも浮かび上がってきています。

「彼女…奥様のことが、病状が心配なようで…。もし、今度の映画に出演することになれば、今まで以上に拘束されることになるみたいなんです。そうなると、ここへ来ることもなかなか難しくなるから…」

「それで断るって…。怜美は、あの子がそんなこと、言ったの?」

「いえ、はっきりとは…。でも、そうとしか取れないことを…」

 私に対して、あまり批判的な態度で発言することが躊躇されるのでしょう。言葉を選んで、なお口にせずにいるように思えました。

 それは、麻衣さんが怜美に対して、より一層の飛躍を望んでの気持ちの現れであると信じたくありました。それならば、私のことを「批判の的」としても構わない気持ちです。

「ありがとう…」

 誰に言うとでもなく、言葉だけがひとり立ちしていました。


 眠れない夜を迎えたのは、いつ以来だったでしょうか…。

 麻衣さんから聞いた怜美の思いは、私を当惑がかすかに混じった喜びの気持ちで包んでくれていました。

 とうてい叶うはずもなかった―それを安易に表現したくないけれど―孝行娘を持った母親としての誇りのようなもの。そして、大洋にわずかに震える漣のように感じる、娘の飛躍を妨げてしまう罪悪感と、そして原因となってしまった自分の病状…。

 温度など、常に一定して居心地に変わりなどないはずの病室に、なぜか日常と違う心地良さと、そして言い尽くせない幸福感が満ち足りてきていました。

 嬉しい―。

 そう気持ちを表すのに、なんの迷いもありません。

 しかし…。

 娘の気持ちを汲み、なお彼女の未来への飛躍を望むならば、母親としての役割は決まっています。

 決して「本当の母性」を持ち合わせたわけでない私でも、心はひとつに決まります。

 娘の、怜美の未来ある幸せを閉じてしまうことは…自分自身のことで彼女の前途ある道を妨げてしまうことは、母親として許されるわけはありません。

 心を決めました。

 私は怜美の携帯電話に連絡を入れました。

「不携帯」の彼女は受話口に出ることはありませんでした。

「もしもし…」

 留守電に、会いたい旨の一言を残し、通話を終えて切ると、私は不思議な感覚が私を包んでいることに気づきました。

 そう、彼女にこちらから連絡を入れたことが、ましてや「会いたい」と言ったことなどなかったのです。

「母子」などと言い合いながらも、その実はどこか遠慮のある距離感だったのかな、とも感じます。

 いえ、実の母子の感覚もわからない私ですから、やはり本当の母親でも、娘には簡単に「会いたい」なんて言えるものでもないのか、という気もします。

 とにかく、なんにしろ彼女の「真意」を知る必要があるのは確かでした。

 そして何より、もし私のことがネックになっていて大事な彼女の、自分自身の未来を不意にするようなことがあってはならないのです。

 怜美からの折り返しを待つ時間、自分の病状が、こんなにも恨めしいと感じたことはありませんでした。こんな私など、いっそ早く消えてなくなってしまえばいい、そう思うぐらいでした。


「ねえ、教えて。今度の仕事を断るのは私のためなの?」

 折り返しもなく、夕刻になってやって来た怜美に、私は少し詰問するかのように問いかけました。

 普段は感じないでいたであろう私のそんな様子に彼女は一瞬、戸惑いの表情を見せましたが、しかしすぐに、いつもの優美な怜美を取り戻すと、

「いやだわ、お母さん。びっくりしたわ」

「え?」

「会いたい、なんて言ってくるから、何事かと」

「だって、貴女…。せっかくの大きなチャンスじゃない。それを私のために…」

「お母さん!」

「え?」

 今度は怜美が、まさに毅然とした態度を見せつけてきます。

「私だってビッグチャンス、簡単に逃がそうなんて思わない」

「それなら、なぜ?」

「私にとってのチャンスって、やっとお母さんって呼べる人と一緒にいられる時間があること…」

「…えっ」

 全てを、何ものをも見通すかのような、そんな澄んだ瞳で私を見つめる怜美。

 次の言葉を、私は見失い、そして感情の停止に気づきました。

「貴女…」

「ねえ、いいでしょ?」

 甘えるような仕草。それは彼女と出会い、短いながらも「母子」という間柄での付き合いの中でも初めてのことで、私は少しためらいを感じてしまいました。

 このまま、怜美の気持ちを受け止めてしまえば、私も寂しい思いを少なくすることもできるはずです。

 しかし、それは同時に彼女の大きな飛躍を妨げてしまうことにもつながってしまうのです。

 私は母親であると認識し、そして彼女を大きな舞台へと送り出すことを選ばなければいけない局面に立たされているのだと感じています。

 寂しいけれど…。

「あのね、怜美…」

「美佐ちゃん!」

 意を決して心を告げようとした瞬間でした。

 慌ただしくノックされ、急に開いた扉の向こうから現れた二人の姿に、私は自分の心がどこか違う場所へ飛んで行ってしまったような、そんな錯覚に陥ってしまいました。

「おじさん…おばさん…」

「元気になったんだね。よかったよ」

「この前来たときはびっくりしたよ」

 それは私の「心の故郷」とでも言うべき、かぼちゃ亭のご主人とおかみさんの来訪でした。何年ぶりに顔を見るのでしょうか…。歳を重ねた分、お二人とも白髪も増えていましたが、面影はあのころのそのままです。

 でも…。

「久しぶりです。お二人もお元気そうで何よりです」

「ほんとに…この前来たら急に大変なことになっちゃってたから、びっくりしたわ」

「ほんとだよ、俺たちが来たら具合が悪くなるもんだから…。とんだ疫病神だったって、話してたんだ」

 あの日、どこか懐かしい声が聞こえてきたのは、二人が来てたからだったんだと、思いつきました。

 私は、私たちは言葉も少なく、けれど心の底からお互いを思いあえていると感じられました。

「でも、よく私のこと、ここに入院していることがわかりましたね」

 ふと、そんな疑問が心を過ぎりました。

 誰かに話したことはなかったし、あまり報告するような人もいなかったはずです。

「ああ、そのこと。それは、このお嬢さんが…」

「そう、店の方に来てくれて、教えてくれたのよ」

「え?」

 私は二人の言葉を聞き、視線のその先にいる怜美の姿を探しました。

 いつの間にか、彼女は枕元から離れ、二人の懐かしい客たちへ場所を譲ると、足元の方へ移っていました。

「貴女…」

「ごめんなさい、勝手に…」

 そこには私の言葉を待たずとも、少しだけばつの悪そうな表情を浮かべた大切な娘がいました。

「美佐ちゃんさ、いい子だね、このお嬢さん」

「ほんと、わざわざ探してくれたみたいよ」

 確かに、かぼちゃ亭という店の名前と、昔に住んでいた辺りを話した覚えはあります。

 それでも、不確かな情報を頼りに、ちょっとわかりずらい場所を探しあてて、そして私のことを伝えてくれた怜美。

 忙しい毎日の中で、そこまでしてくれた彼女の優しさと思いやり、それに加えて芯の強さに、私は大きく心を揺さぶられました。

「ごめんね、勝手なことしちゃって…」

「ばかね…。ありがたいに決まってるでしょ」

 大切に思う人たちを、大切に思う人に連れてきてもらった―こんなに嬉しいことはありません。

 そう、いわば「両親」のようにかわいがってくれた二人を、娘と呼ぶ怜美が引き合わせてくれたのです。

 こうして見ていると、本当の家族のように感じます。

「お嬢さん、女優さんなんだってね。この前、初めて知ったよ」

「そりゃあ、あんたが若い人が見るようなテレビなんか見ないんだから。わかるわけないでしょう」

「バカ言うな。大事な先生の書いた作品のドラマだぜ、ちゃんとビデオに録って見てるんだからな」

「その割には、このお嬢さんが来てくれた時に全然気がつかなかったじゃないの」

「お前だってそうだろうが」

「まあまあ、二人とも…」

 なんか昔と変わらない、時間が逆回しされているみたいな気分です。

 私たちも、こんなふうに歳を重ねて、いつまでも仲のいい夫婦でいたかった…。

 そうして、ひとしきり懐かしい二人を交えて、お見舞いだかなんだかわからない楽しい時間を過ごすことができました。

 帰り際、

「美佐ちゃん、こんなに優しい、いい娘ができたんだ。元気になって今度は久しぶりに店の方にも顔を出してくれな」

「そうよ、貴女も私たちにとっては大事な娘なんだから。元気な姿を見せてね」

「ありがとう…ありがとうございます」

 去っていく二人の姿は涙の霞でぼんやりと映り、病室にはいつまでも名残り惜しさだけが満ちていました。

「怜美…」

 ひとり残った怜美は、給仕した湯呑み茶碗といただいたお土産の片付けをしていました。

 後ろ姿を、なんとなく目で追いながら、呼びかけました。

「なに?」

「…ありがとう」

「え?どうしたの」

 私の言葉を、不思議な呪文でも聞くかのように、

「なんのことよ」

 わかっていながら、とぼけているのです。

「ええ、いろいろと…」

 私も、少しだけはぐらかせていました。

 本当の気持ちを、本当に言いたいことを、ここで口にしてしまうのが、なぜか無性に惜しい気持ちだったのです。

「変なの!」

 もしも、わかっていることを…わかり過ぎている心を、言葉で表わしてしまえば、その先に来るはずの新しい気持ちが生まれてこないような気がするのです。

 だから今は…。

「そうだ、忘れるところだったわ」

 私は娘のために、その将来のために、言わねばならないことを忘れるわけにはいきませんでした。

「え、今度はなに?」

「映画のことよ。貴女、出なさい!せっかくの話じゃないの。私のことなんか心配しなくても…」

「ごめん、お母さん。私の話も聞いて、お願い」

 私の言葉を遮ると、怜美は少しうつむきながら、

「お願いだから…」

 切実な気持ちを表してくるのでした。

「…どうしたの」

 視線を私に戻す彼女の目には、なぜか涙がうっすらとにじんでいるようです。

「どうしたの!」

「いやなの…」

「え?」

 その言い様は、親に甘える幼子と全く変わりありませんでした。

 そして、まるで我慢が限界に達したかのように、にじんでいた涙が堰を切ったようにほほにこぼれ落ちてきました。何か受け付けられないものを口にしてしまったような、そんな「嫌悪感」をあからさまに私に投げかけてきたのです。

 私の知っている怜美は、優しい心の持ち主ですが、いつも冷静で感情に流されることの少ない、年齢の割には「大人の女性」です。こんな感じで気持ちを、それも弱い心をストレートにぶつけてきたことなどありません。

 もちろん「母娘」を気取っていても、本当の「肉親」としての月日を過ごしているわけでもないのですから、当然のことながら知らない一面だってあるわけですが。

 しかしながら、怜美の「こんな顔」を見るとは思いもよりません。私は少なからず当惑をしてしまいました。

 そう、所詮は「母娘ごっこ」なのかも…。

「どうしたの?」

 掛ける言葉を選ぶ術もなく、私は何度も同じようにたずねるだけでした。

「私…私ね、本当に亜莉栖なのかもしれない…」

 それはあまりにも唐突な言い様でした。

 なんの心構えもできていなかった私にとって、それは受け入れる準備のない言葉でした。

「え、どういうこと…」

「だって、あの人って…」

「あの人?」

 それが誰を指すのか、すぐには思いつきません。

「誰?」

 私は怜美の心の奥にある「真実」を見つけようと、その瞳をじっと見つめてみました。

 そして…。

「もしかして、その監督さんのこと?」

 私がそう言うと、怜美は嬉しそうにうなずきました。

「その人が、どうかしたの?」

「お母さん、私のこと、信じてくれる?」

 その目は一転して深く、重く語りかけてきます。

「信じてって、私が怜美のこと、信じていないとでも思うの?」

「うん、わかってる。でも…聞いてみたかっただけ」

「…」

「ありがとう…」

「うん、いいわ。それで、どうしたの?何があるの?」

 自分を「亜莉栖」と言っている怜美の、その心の深淵を、私はひどく気になっていました。

「私、思うの…。あの人、秋村さんて人、なんかとっても恐ろしい気がする。なんだか私たちが知らないところで、人に言えないようなことをしてる気がする」

「え?」

 私は怜美の顔をじっと見つめてしまいました。

 その表情は、テレビで見せる亜莉栖の冷静でかつ情熱的なものとは違っていましたが、それでも怜美の顔は私にとっては頼もしく、凛々しい「ヒロイン」でした。

「…なんとなく、だけど」

「でも、怜美はそう思う?」

 何も言わずに首肯く怜美。

 私は思いました。

 娘が感じているものは受け止めてあげなければならないと…。

 たとえそれが根拠のないものであっても、いえ間違っていたとしても、彼女が感じているものは私にとっては全てが正しいものであると。

 じっと私を見据える怜美。

 私は言いました。

「わかったわ。貴女がそう思うなら私はそれを信じるわ。間違いであっても、怜美が感じているのなら、それは正しいことなんだわ」

「…」

「いいじゃない、何もこれっきりのチャンスなわけでもないし、まだまだ次があるって信じてるから、ね。今回はパス!」

 申し訳なさそうな、少し心苦しいような表情を見せる怜美に、私はわざとらしいぐらいの笑顔を見せました。

「さあ、それじゃあこの話はおしまい」

「お母さん…」

 怜美の目は、心なし潤んでいるように見えました。そしてそれが「母親」である私の心を熱く揺さぶるのでした。

 暮れなずむ夕陽が病室の窓から差し込んで、少しはにかむような笑みを見せる怜美のほほをうす紅に染めています。

 どんなことがあっても、私はこの愛しい娘の味方でありたい、そう心に思いました。


「衝撃の事実」は、時を待たずに訪れました。

 もたらしたのは…。

「奥様、大変です!」

 朝食が終わって間もない時刻、私は届いた新聞に目をやることもなく、その慌しい声を耳にしました。

「あら、麻衣さん。どうしたの?」

 ノックすらなく、息急き切って病室へ入って来た彼女の、その取り乱した姿を見た私もなぜかひどく落ち着かない心持ちになりました。

「ちょっといいですか。たぶんやってるはず…」

 そう言うと、手元にあるテレビのリモコンを取ると、あまり視聴することもない朝の「ワイドショー」を画面に映し出しました。

「…お伝えしましたように、映画監督の秋村燿一郎容疑者が麻薬取締法違反で東京地検に検挙されました。もう一度、現場を呼んでみます…」

 あまり特徴を感じない女性アナウンサーが映し出され、その背後に車の後部席にうなだれながら乗り込む男性の映像が流れていました。

「これって…」

「そ、そうなんです、岡野さんがオファーを受けていた作品の監督をするはずの…」

 私は「背筋が凍りつくような感覚」というものが、こういうことなんだなと実感しました。

 怜美が言っていた「知らないところで恐ろしいことをしている」という言葉が、まさに的中してしまったのです。

 横で無言のままテレビ画面を見ている麻衣さんの目には、事実以上のことは見えていないはずです。ただ、大勢の人たちに囲まれて連れていかれる秋村という人の姿が、その視線の先に映っているだけなのです。

 でも、怜美は見通していたということ…。

「よかったです、オファーを受ける前で」

 怜美はただ「勘」とか、そういった感性のようなもので、あんなことを言ったのでしょうか?

 それとも、こうなることを知っていたのでしょうか…。

「まさか…」

「え?」

 私は思わず独り言を言っていました。

 そう「まさか」です。

 まさか怜美の言ったことが「真実になる」なんて…。

 麻衣さんは、最後まで「ラッキーでした」と、なんの疑いもないまま「幸運」を噛み締めて帰っていきました。

 一人になった部屋で私はもう一度、怜美の携帯電話を呼び出しました。

「やっぱり出ないのか…」

 耳の奥で鳴り響く呼び出し音を聞きながら、私は不思議な感覚に陥りました。

 そう、その先は「未来」へとつながる一本の暗くて細い道筋のよう。そこへ向かって目を凝らしている自分の姿を、まるで合わせ鏡にして見ているような…。

 どれぐらい鳴らしていたのでしょうか。

「もしもし…」

 突然、耳元に声が飛び込んできました。

「あ、もしもし…怜美?」

 自分からかけておいて、その電話に出てきたからといって驚くのもおかしいものです。

 怜美は電話に出ない、そう決めつけているわけでもないのですが、いざつながってみると、不思議に緊張してしまいました。

「お母さん、どうしたの?」

「どうしたのって、あなた…。びっくりしたわよ」

「え、何?」

 知っててとぼけているのか、朝もそれほど早い時間とも言えないころですが、どこか「寝起き」の声にも感じられる怜美の、少し気だるい雰囲気が感じられました。

「何って、知ってたの?」

「え、ほんとになんのこと?」

「秋村さんのことよ。あなたが言ってた通りになったじゃないの」

「え?」

 私は、早々から麻衣さんがやってきて教えてもらったことを話しました。

「え、やっぱり…」

「ねえ、怜美。どうして…知ってたの?」

 彼女の言葉尻をとらえると、私は問いただしました。

「何か証拠でもあったの?」

「証拠って…。ただの勘、って言うのかな。私、意外と人を見る目があるから」

 電話の向こうでとぼけている表情が目に浮かぶようです。

 私はここで追求してみても仕方ないと思い、

「今度はいつ来られるのかしら」

 と、少し矛先を変えてみました。

「そうねえ、お母さんが会いたいって言うならすぐにでも行ってあげる」

 これもまた、とぼけて言っているのでしょうか。それでも私には心地よく響いてくる言葉でした。

「いつでもいいわ。あなたの都合がいい時で」

「わかった。なるべく早く行くわ」

 快活に答える怜美の声は、私にとって、どれだけ効く薬なのでしょう。身体が奥の方から温かくなってくる気がします。

 私は自分の病状を自分で把握していないもどかしさと共に、それでも怜美がいてくれて私を支えてくれる安心感に包まれているようです。

 だから、何も怖くない…。


 怜美は思いの外、早く来てくれました。

「今日はなんの予定もなかったから」

 笑顔を見せながら入ってくる姿に、私は心の奥底から「安らぎ」を感じていました。

 手に入れたくてもかなわないでいたものが、やっとここに来た、そんな心持ちでしょうか。

「ありがとうね」

「ええ、なあに、あらたまって」

 私の言葉に怜美は、ちょっと素知らぬ風で応えました。

「ねえ、怜美…」

「…そのこと?」

 私の手元に開かれた新聞の記事に目をやると、彼女は自ら切り出してきました。

「私はね、怜美。あなたが勘の鋭い子だって知っているつもりよ」

「…」

「だけど、あんまりにも当たり過ぎて…ちょっと不思議っていうか、不自然な気がするのよ」

「根拠のない推理は…」

「台詞はいいの!」

 亜莉栖の決め台詞を持ち出そうとする怜美を、私は強くさえぎりました。

 それは、大事なことをごまかしてしまうことに他ならない、そう感じられたからです。

「ねえ、怜美。どうだっていいのよ、映画に出ようがどうかなんて。ただね、あなたが一番、誰よりも幸せになってくれれば、それだけでいいの」

「お母さん…」

「だけどね、いくらあなたが勘の鋭い子だからって、ちょっと今度のことはあんまりにも当たり過ぎてて、なんて言うの、怖いって言うか…」

「それは…私が秋村さんのことを見抜いた根拠がわからないっていうこと?」

「そうよ…。いくら名探偵役だからって…」

 私は、自分の心配が何に起因しているのか、実は少しわからないでもいました。もしかすると、怜美の、本当の「洞察力」か、正に「推理力」の鋭さが、少々恐ろしく感じられただけなのかもしれませんでした。

 そう、我が子には不似合いな「能力」が…。

「なあんだ、そんなことか!」

「え?」

「ちょっとびっくりしちゃった、なんだか今日のお母さん、怖い目をしてたから」

「…あら、そう」

「ほんとよ…。でも、なんだか種明かしするの、気がひけるな」

 私から視線を逸らすことなくそう言う、それは照れ臭そうに見える「演技」にも思えました。

 しかし…。

「なんなの?言ってみて」

 何事もないように、私は彼女を促しました。

 敏感な怜美は、そんな私の心を見抜いたかもしれませんでしたが、それでも表情を変えることはなく、言い放ちました。

「私が前にいたちっちゃな劇団の、仲間の子から聞いたことがあるの…」

「なんて?」

「あの人、とんでもない男だよって」

 怜美の方から、今の仕事関係以外で、誰か他の人の話を聞くのは初めてだったかもしれません。

 たまに、友人関係の話を聞きだすことはあっても、あまり積極的に語ろうとはしないし、すぐに話題を変えてしまうので、よほど言いたくないのだろうと感じていたのです。

 私は、今の二人の関係を壊すことが怖かったので、深く追求はしませんでしたが、今回初めて聞くような気がします。

「でもね、ちょっと違う感じだった」

「え?」

「その子ね、あの人にずいぶん迫られたんだって。なんかすごくたちの悪い女たらしだったみたい」

「それで」

「うん、だからきっと私も…。その子と私、けっこう似てたみたいだったから。いやな人と仕事なんかできないって思ってたの」

「そうなんだ…」

 聞いてしまえば、わかってしまえば、簡単な「種明かし」と言えるでしょう。

 結果として怜美にとって「良かった」のです。

「だから、こんなことになるなんて、ちょっと想定外な感じ」

 そう、終わり良ければ全て良し、なのかもしれません。

 私の「大切な娘」が、危うく傷つくところだったのかもしれないのです。それが回避できたということが、何にも勝ることでしょう。

「そうなのね…。それじゃあ、そのお友達のおかげね」

 私は何気なく、ごく当たり前の感想を言ってみたに過ぎませんでした。

 すると…、

「お母さん、今言ったこと、誰にも言わないでね」

「え、どうして…?」

「だって…」

 怜美ははにかむような表情を見せたかと思うと、次には輝くような目をして言うのです。

「だって、もうすぐ試写会だもの!」

「え?本当?」

 驚きました。

 気がつけば、もうそんなに制作が進んでいたのかと。

「もう、やっとここまで来たの。そんなどうでもいいことは忘れてほしいんだ」

 新しい将来へ向け、ステップアップを図れると思っていたことは、やって来るはずの未来の方からいなくなってしまいましたが、それでも現実に目を向ければ、これから大きく飛躍していけるだけの「エネルギー」が、そこには確かに存在しているのです。

 今は彼女が成し遂げた、目の前にある大きくて強い「事実」を、素直に直視してあげればいいだけのことなのです。

「おめでとう、よくやったわね」

「うん…ありがとう」

 今度こそ、本当に照れ臭そうにうつむき加減な娘を、私はまぶしいものを見るように感じました。

「お疲れ様だったわね。やっとゴールが見えたのね」

「そう、苦労したけど…。これで安心できるわ」

 初めての映画の現場。どんなにつらいことも多かったことでしょう。

 私は想像するしかありませんが、いつかテレビの撮影現場を何度か見学させてもらった時のことを思い返してみても、その労苦はなんとなくわかる気がします。

「そういえば一度も現場に行ってあげられなかったわね。ごめんね」

「何言ってのよ…。そんなこと、どうでもいいわ。それより…」

「うん?」

「元気になってね。それで試写会、絶対に来てね」

 それは、何ものにも代え難い、そう至福の瞬間と言えるでしょう。

 愛する娘のまばゆいばかりの笑顔。つらい思いもしたであろう仕事を、それでも無事に成し遂げたこと、その喜びを祝ってあげられることが、こんなにも素晴らしいことだったとは!

 何もいらない…この目の前にいる愛しい娘の笑顔が見られるのならば。

 この笑顔を見続けることができるのならば…。

 怜美の、その美しくも優しい顔が、まるで咲き誇った大輪のバラのように、私の目の前で温かくも切なげに微笑んでいます。

「わかったわ。何があっても絶対に行くわ。私の、命に代えても、必ず怜美の晴れ姿を見に行く…」

「いやあね、お母さん…。大げさよ!」

 怜美は笑顔を絶やさず、まるで自分自身にも言い聞かせるように、告げるのです。

 それはなんだか、テレビの中で見た亜莉栖のようで、なんとも言えない趣きがありました。

 私は心の奥から、この美しい娘を誇りに思えました。花のように咲き誇る怜美を、愛おしく感じてなりませんでした。

 そしてなぜか、気がつくと、すうっと遠ざかっていくように見えました。

「え…?」




 怜美…怜美…。

 たおやかな笑顔…。

 私の…私の大切な娘…。

 にじんで、ぼやけて見える…美しく、誇り高いまなざし…。


「…看護婦さん…吉江さん!」

 遠くから聞こえてくる声…。

 怜美の後ろ姿が、見える…。

 ぼやけて…見える…。


「…聞こえますか?紀藤さん、わかりますか!」

 私を呼ぶ声…。

 吉江さん…?

 体が、揺れている…。

 どこかへ向かっている…。


 怜美…怜美…。

 どこ…どこにいるの?

 そばに来て…。


 怜美…怜美…。



 漂うのは深い海の底…。

 それとも見果てぬ宇宙の空…。

 身体が、自分のものでない気がする。


 いえ、すでに私はもう私自身でなくなっているのかもしれない…。


 ここはどこなの?

 怜美、どこにいるの…。



 見たことのある景色。

 目の前に靄がかかっている。

 ここは…。


「…」

 何?

 誰かが呼んでる?

「…お母さん」

 お母さん…?


 遠くから聞こえてくる声。

「お母さん!」

 怜美?


 どこ?

 どこにいるの?

 怜美…。




 深い海の底を漂っていたのか。

 それとも遠い宇宙の果てを彷徨っていたのか…。

 私は、私自身というものを、いつの間にか失くしてしまっていたようだ。

 私は誰?

 今いるのは、どこ?



「聞こえますか、紀藤さん!」

 耳に入ってくる声。

 そう、それは「声」だと、私の中で認識している。

 誰の、それは「声」なの?

 私を呼んでいるの?

「お母さん!」

 お母さん…?

 私をそう呼ぶのは…。

 私をそう呼んでくれるのは?

「…怜美」

 私は声をあげる。

 確かにそれは「声」だ。

 でも、その声は自分の耳から聞こえてこない。

 怜美…?

 なぜか懐かしい響きのある名前。

 遠い昔の思い出のように感じられる。

「お母さん!」



「お願い、怜美の…、怜美の試写会、見させて…。私はもう、どうなってもいい…」

「私」が覚えている、それが最後の「言葉」…。

 私の、紀藤美佐の意識は、それからもう、なくなっていた。





 薄暗い空間。

 少しだけ流れてくる空気の感触。

 聞こえてくる声。

「気をつけて。ゆっくり、お願いします」

 小さなタイヤが軋みながら進んでいく音。

「ここで…。はい、こっちへ向けてください」

「松本さん、ちょっといいですか」

 指示を出す声の主に呼びかける女性の声が被る。

「あ、満嶋さん、大丈夫です」

 ほかの声が、さらにその言葉を消し去る。

 タイヤの音が止み、流れる空気が静かに止まる。

「目の前」に広がっているのは大きな緞帳。

 何人もの人間が、忙しそうに立ち振る舞っている。

「奥様、いよいよですよ」

 この場には不似合いな、大きな寝台ベッドの移動を指示し、そしてその脇に付き従うようにしながら、思い入れ深く語りかける。

 それは他人に掛ける言葉でもあり、自分自身につぶやく声でもあった。

 いよいよ、なのだ。

 そして…。

「怜美、来てるか?」

 辺りを見回す様子が見られる。

「はい、います」

「隣りに座りなさい」

 近づく足音を確認して、彼が指し示す。寝台ベッドの脇に置かれている小さく見えるパイプ椅子。

 この試写会会場の一番前にとられたスペース、そこは「母娘」に用意された特別な空間。

 二人だけに与えられた、それは…。

 医療機器が周りを埋め、そして医師をはじめ看護師も傍らに控えているのが見える。

「いいですか、松本さん。少しでも具合が悪くなるようでしたら…」

「ええ、わかってます。鉄山先生…。すぐに病院へ戻ってもらいます」

 医師の指示に、少しうんざりした表情で応える。

「お母さん、もうすぐ始まるよ」

 ささやかな言葉と、それ以上に穏やかで白くしなやかな手が、寝台ベッドの掛け布団の上をゆっくり降りていく。

 聞こえるかどうかの返答が空間に流れる。

 ありがとう―。

「お母さん…」

 どうしようもなくゆっくりとした時間をかけて、会場の照明が落とされていく。慌ただしく立ち急いでいた関係者が、さらに慌てたように「定位置」を求めて散っていった。

 始まるのだ。

 岡野怜美主演の新作映画「さよなら亜莉栖」。その記念すべき試写会が…。

 誰もが、その「記念日的瞬間」を、思い入れ深く受け入れようとしていた。

 辛く苦しいことも多かった撮影の日々、それを乗り切った現場でのがんばり。あまりにも時間が制約されていた中での制作は、関わるキャストとスタッフ全ての人間に対し、過酷とも言える辛苦を与えていた。

 暗くなった場内に、ささやく声が伝わる。

「監督、なんでこんなにハードな日程になったんでしょうか?」

「いやぁ、松本さん。私も長い間、この仕事をやってきましたけど、こんなにもスケジュールがタイトだったのも初めてでしたよ。よく乗り切れました」

「今日はお祝いですね」

 男たちの会話は、染み入るように響く。

 すると緞帳がゆっくりと開き、白く広いスクリーンが目の前に現れる。ささやく声も、まるで制されるかのように静まり、厳粛な空気が人々を支配していった。

 やがてカウントダウンの慌ただしい画面が流れ出す。

 そして…。

「さよなら亜莉栖」のタイトルバック。

 それは静かに、しかし突然に現れた。

 それはあたかも…。

「お母さん…」

「…」

 関係者が思い思いにスクリーンを見つめる中、そこだけは特別な空間であった。

 そして始まる「映画」という異世界。そのスクリーンという舞台の中、躍動するひとりの若き女優の姿は、なぜか神々しくさえあり、そこに展開する物語は、まるで神話の世界にも感じられた。

 いつの間にか言葉を発する人もなくなり、身じろぎさえできずに、ただ目の前で無機質に流れていくストーリーに身も心も囚われていくだけであった。

「亜莉栖…」

 進むストーリー。誰かがその名前をつぶやく。

 クライマックスが近づき、亜莉栖の「運命」が大きな荒波にさらわれようとしている。

 そう…。

 そして誰かが呼ぶ。

「怜美…」

 やがて物語は大団円を迎える。

 エンドロールが流れ始めると、誰からともなく拍手がわき、続いてスタンディングオベーションが起こる。

「怜美!」

「亜莉栖!」

 歌舞伎の大向こうのごとく、声が掛かる。

 監督の、プロデューサーの、そしてこの場に居合わせた人たちの、誰からともない賞賛の声。

 それは紛れもなく「大女優」の誕生を思わせる瞬間であった…。




 私は喜びに満ち溢れていました。

 このような素晴らしい映画に関係することができたのです。

 そう、私は…。

 私は…。

「おい、どうした?」

 野太い声が館内に響き渡り、すぐ後には一瞬、闇のように静寂が訪れました。

 松本さんのようです。

「奥様…」

「…」

 声にならない満嶋さんの、それは吐息にも似た静かなすすり泣きが続きます。

 そして、その連鎖が全ての人たちの中に広がっていきます。

「どいてください!」

 鉄山医師が顔色をなくして走り寄っていきます。

「吉江くん!」

 それ以上の言葉がなくても、看護師の吉江さんは鉄山医師よりも先に、設えたベッドへ、吸い寄せられるかのような体で走っていきます。



 声、声、声…。

 涙が、泣き声が、頭の中を響き渡る。

 しかし、ゆっくりと、まるで染み込んでいくように静まっていく…。

 そうして、消えていく意識の奥に、自分が自分でなくなるような錯覚に陥る。


 いや、錯覚ではないのかもしれない…。



 記憶が蘇ってくる…。

 いつ?

 そう、あの日、あの書斎で…砂時計の暗号が解き明かされて、あの小説が見つけられた瞬間の「私」の記憶が…。

 私が…。

 え?

 私が…暗号を解読、した?

 え、解読したのは…誰?

 私は…誰?


「さよなら亜莉栖」の、それはラストへのシーン。

 亜莉栖は静かに去っていく。

 それは自分自身という存在を失くし、この世にあるべき姿を消し去っていく。

 そう、全ての「使命」を全うした亜莉栖は「亜莉栖」という肉体も魂も、自ら消し去ること。それは「死」とか「生命」とか、そういったもの全てを超えて訪れた「物語の大団円」を結んだ。

 しかし、そのラストを「私」は書き換えた。

 ただ、人々の前からいなくなる、という形に…。

 なぜ、そんなことをしたのだろう?

 私は何を変えたかったんだろう…。

 いや、何かを変えたかったんだろうか…?


 そうだ、私は変えたかったんだ。

「運命」という、それは巨大な「怪物」。

 私を取り込み、呑み込んでいく、抗いがたいもの。

 いつの日か、それは私に訪れ、そして私の行く先を決めていった。



 私は誰?

 亜莉栖?

 いえ、怜美…。

 だけど…。



 私は「あの日」、大きな見えない力に、私が考えてもいない道への足先を決められていた。


 あの日…。

 呼んでる声が聞こえてくる。

 誰?

 ―聞こえるかい?

 誰なの?

 ―君を待っていたんだよ。

 私を?

 ―そう、君を。

 なぜ?あなたは一体、誰なの?

 ―君を待っていた男だよ。

 なぜ待っていたの?私に何か用があるの?

 私の問いに「彼」は答えずにいた。

 ―君に、やってもらわなければならないことがあるんだ。

 私に?何をしろって言うの?

 ―これからしばらく時間が過ぎて、君が大人になってからのことだ。君には仕事をしてもらう。

 私が仕事を?

 ―そうだ、大きな仕事だ。

 何?なんのことなの?さっぱりわからない…。

 ―いいんだ、今はわからなくても。「その時」が来ればわかる。

 それはいつなの?一体、なんのことなの?

 ―いずれわかるさ…。


 私が聞いた言葉は幻だったのだろうか。

 そして「大きな仕事」とは、果たしてなんのことだったのだろうか。

 今、私は見えなかった答えが、目の前にあるような気がした。




「怜美…」

「え?」

 うつむきながら、淋しげな声と柔らかな態度で「私」に詰め寄る松本編集長の、真っ赤になった目を見ながら、自分自身も何が起きているのかわからずにいました。

 しかし…。

「怜美…ずっと隣にいてくれたんだな」

 私は「怜美」と呼ばれているのです。

「ありがとう、な」

「え…?」

 なぜ?どうして…。

 私はなぜか「怜美」と呼ばれて、気が付けば「軽やかに」立ち上がっていました。

 私は思わず自分自身の体を見下ろしていました。

 確か、ベッドの上で身じろぎもできずにいたはずの私。意識さえ自覚できず、ただ眠るように時間が通り過ぎていただけの私…。

 それが自分の足でしっかりと立ち上がっています。それも、しばらく感じることもなかった、軽くしなやかな自分がいるのです。

「え、なぜ…?」

「松本さん…」

 見慣れた「私」の主治医である鉄山先生が、顔色を失くして松本さんに近寄っていきます。

「先生、ありがとうございました」

 鉄山医師は「最期を看取り」、そして言葉少なく、その報告をしていました。

 館内にいた、その全ての人たちが「一人の人間の死」を、静かに受け入れ、そして厳かな心持ちでいるのが感じられました。

 そんな厳粛な空気が流れている中、私は一体どうすればいいのか、この先どんな事態が待ち受けているのか、何も思いがよらないままに「茫然自失」という言葉を強く実感していました。

 全く考えがまとまってこない今、私はもう思考することができなくなっていました。

 そして気がつくと、涙があふれてきました。

 悲しいとか、寂しいとか…。そういった感情の括りみたいなものがあるのではなく、ただ気持ちが混乱してきて、もう「そうする」しかなくなってきた結果として、涙がこぼれているようです。

「なあ怜美…」

 松本さんが、真っ赤だった顔を少しだけ鎮めて話しかけてきました。

「本当にありがとうな。最期の時までそばにいてくれた。きっと奥様も心穏やかだっただろう」


 しかし、その時でした。

「貴女、怜美さん…本当に岡野…怜美さん、なの?」

 そう声をかけてくる姿を私は見出しました。

 訝しげな顔をして、何か不思議なものを見るような瞳で私に近づいて来たのは、いつもお世話になっている看護師の吉江さんでした。

「え?」

「あ、ごめんなさい。変なことを言って…」

 どうして…、と言おうとしましたが、声になりません。

「後ろから見ていたら、なんだか貴女の素振りがどうにも紀藤さんの仕草に見えて…。本当にごめんなさい」

 私は「そうです、その通りです」とも言う気持ちがあったのですが、それも口から生まれてきませんでした。

 さすがに看護師さんです。私のことをよく見ていてくれたから、きっと私のちょっとした仕草に、真実の姿を見つけてくれたのでしょう。

 しかし、それを肯定することが、なぜかできませんでした。

 何か、目に見えない物が、私の口を塞いでしまった、としか感じられませんでした。

 吉江さんは、そのまま小さくなって場を去っていきました。どうにもおかしなことを口走ってしまった、とでも感じているのでしょうか、振り返ることもせず、その背中は私を避けていくかのようです。

 私です、と言えたら救われたでしょうか…。

 でも、言えなかった。

 なぜ?


 気がつくと、私が知らないはずの怜美の行動や態度などが、自然に頭の中に浮かんでくるのです。まるで生まれた時から今まで、彼女の人生を生きてきたかのようです。

 そう、私…紀藤美佐という人間が、岡野怜美という人形を操っている傀儡師にでもなってしまったかのように…。

 なんだか、私は怜美の中に入っているようでした。


 鉄山医師に疑問を投げかけたのは渡壁プロデューサーでした。

「そもそも、どこが悪かったんですか?病名は一体…」

 どうやら「私の病気」については誰にも知らされていないようでした。そう「私自身」も、告知されないまま、時間が過ぎていた気がします。

 でも突然、私の…怜美の中にいる私の耳、いえ頭の中に言葉が響いてきたのです。

「…」

 鉄山医師が何かを言う前です。いえ、まだ何も言っていないのですが、私にはそれがどこからともなく生まれてきた「言葉」でした。

 今、初めて知りました。

 おそらく初めて聞く病名です。どんな病気なのか、知識もないはずなのにふつふつと恐ろしいものだというのが、実感として…いえ、冷静なぐらい正体を見極めているのです。

 私の生命は…。

「それが…実は…」

 言いにくそうに口を淀ませる鉄山先生の顔が、心なしか青ざめて見えます。

 その様子を見ている大人たちは、それ以上を無理には促しませんでした。そこに漂う「悲愴感」が、全ての人を無口にしていました。

「いえ、いいです。わかりました。今ここでうかがっても意味はありませんよ」

「ただ、これだけは…。もう余命いくばくもありませんでした。と言うか、今までよく生きながらえていたと思っています。奇跡に近い…」

 深く、噛みしめるようにつぶやく医師の言葉に、人々の上にはさらに悲しみがのしかかっていくようでした。


 そう、肝心の「当人」である私を除いて…。

 しかし、私自身は苦しい立場にいました。

「どうすればいいの…」

 私はやはり、足元から力が抜けていくようでした。

「怜美、今までありがとう。これからのことは我々に任せなさい」

 松本さんが座り込んだ私の肩にそっと手を置いて、優しく声を掛けてくれました。

 そうです、松本さんの気持ちは怜美に対する優しさです。私…紀藤美佐へのものではありません。

 今ほど私にとって、この方に頼りたい時はないし、そして頼りになってくれるはずなのに、それを伝えるすべもなく、ただ苦しい気持ちを自分だけで抱いているしかないのです。

 結局、それからすぐに私は帰ることを促され、この喪失感の海から離れることができました。

 とりあえず…。

 でも、どうしていいのかわからない私は、足取りも重く、行く当てさえないままに試写会の会場になっていたホールの扉を開け、そして薄暗くなった通路に出ました。

 私は初めて、この会場の外に出て、ここへ来たことを「認識」できました。意識も薄れた状態のまま、私はここへ運んでもらい、そして試写会を見ていたようです。

 ここがどこなのかさえわからないまま、私はいた場所を離れることになったのを、実感しました。

 表に出ると、お昼過ぎには始まっていたはずの試写会なのに、すでに夜も更けていました。

「どうしたらいいの…」

 用意してくれたタクシーが目の前に止まろうとしていました。

 しかし、私にはこのタクシーに乗って行く宛もありません。少なくとも、どこへ行っていいのかの「確たる信念」のようなものを持ち合わせていませんでした。

 停まったタクシーのドアが当たり前のように自動で開くと、運転手さんから名前を呼ばれました。

「岡野さんですね。行く先は…」

 怜美の暮らす部屋のある街を言われました。依頼する時に伝えられたのでしょう。

 私はうなずいて乗り込みました。

 何も考えられず、そして何も感じられずに…。 動き出す車の少しずつ揺れ出すエンジンの響きを感じながら、ふと私は思いました。

「ごめんなさい、運転手さん…」

「は、はい」

 目的地に向かって進み始めた彼の背中に、私は「本当の私」、紀藤美佐の住むマンションへ行ってもらうように、その所在地を伝えました。

 急な目的地変更にも、プロのドライバーである運転手さんは、特に迷うこともなさそうでスムーズにハンドルを切っていきます。

 どうしたらいいの…。

 フロントガラスから飛び込んでくる夜の景色を見つめながら、私は同じ言葉を心の中で繰り返しつぶやいていました。

「え?」

「あ、どうかしましたか?」

「え、ああ、ごめんなさい。なんでもありません」

 なんでもないこと、ないのです。

 私はバックミラーの中の怜美の姿を見てしまい、思わず声を上げてしまったのです。予想していたことだけど、それが現実になると、自分の気持ちを制御することが困難でした。

 私ではない、私が愛した「私の娘の姿」で、自分自身を見ていることに、言いようのない恐ろしさを覚え、そして何より、その先にあるこれからの行く末について、どうしようもない寂寞感に襲われてしまいました。


 やがてタクシーは住み慣れた街へ、そしていつ以来か思い出せないぐらい久しぶりの、私がかつて暮らしていたマンションへ到着しました。

「どうもありがとう…」

 私はいただいたタクシーチケットをドライバーさんに渡すと、エントランスから玄関ホールへ入りました。

 目の前のテンキーで、今までそうしていたように四桁の暗証番号をタッチしました。

 今の私には、今までの私の記憶がしっかりと残っているようで、暗証番号などもすらすらと頭に思い浮かんできます。怜美にはまだ教えていなかったはずです。

 すんなりと開く玄関のドアを見つめながら、私はふと違う気持ちが過ぎりました。

 このままでいくと、私の…紀藤美佐としての「記憶」はどうなってしまうのだろうか。

 先ほどから、怜美の記憶や意識が、私の中から自然とこぼれてきていました。

 それでは、二人の人生が重なっていき、二人分の人格が生き続けるのでしょうか。

 ふと気がつくと開いたはずの自動ドアがゆっくりと閉まっていきます。あまりに長い間、ひとりで考えてしまっていたようです。

 もう一度…。

 テンキーを押そうとして、指が止まりそうになりました。

「え…?」

 一瞬、当たり前のように覚えていたはずの、つい数十秒ほど前にも打ち込んでいた番号が、いきなり現れた霞に視線を遮られたように、思い出せなくなっていました。

 なんとか、記憶の底を探るようにして見つけ出した番号を入力して事なきを得ると、再び開いたドアを駆け込むようにすり抜けました。

 私は恐怖を覚えました。

 ほんの少し前に恐れていた「記憶の喪失」が、こうして訪れてきたのでしょうか…。

 だとすると…。

 私は意味もなくエレベーターの前へと急ぎました。

 そうしてボタンを押してエレベーターを呼び、やはり転がりこむように急いで乗り込みました。

 操作板の行き先表示ボタンの数字をじっと見つめると、自分の部屋がある階数を意識してみました。

 しかし、自分の中の深い部分で意識していないのに、私の部屋がある階は容易に思い浮かべることができるのです。私は少しだけほっとして、次の瞬間にそれを強く打ち消してしまわなければならない気持ちに襲われました。

 エレベーターで何階へ向かえばいいのか、それは怜美もよく知っていることだと気がついたからです。

 上へと向かうエレベーターの中で、私は頭がくらくらして、立っているのも辛い気分でいっぱいになってしまいました。

 降りるべき階に着くと、扉が開くのももどかしく感じながら、私は転がるように飛び出していました。

 もう一回、次は部屋のドアを開ける暗証番号を「思い出す」という難関が待ち受けていました。

 いえ、暗証番号で部屋へ入る、ということさえ思い出せなくなってしまうのかもしれない…。今の私にはそんな根本的なことも「恐怖」なのです。

 いえ、それ以上に…。

 私は心を決め、黒く重々しいドアの前に立つと、右手の位置にあるテンキーのカバーを開け、当たり前のように整然と並んだ十個の数字を、まるで貴重な宝石のように見据え、そしておそるおそる人差し指を近づけました。

 よく「体が覚えている」と言いますが、今の私の身体は何も知らないのです。頭が、今までの紀藤美佐の記憶だけが、ここで活きてくる唯一の手段と言えました。

「…」

 息を止め、自分の人差し指を遠くから制御するように滑らせます。

 カチッ。

 乾いた音を立て、ドアの施錠が解かれたのがわかりました。

 今度は急いで、それでもしっかりとノブを回してドアを開けると、思い出せないくらい久しぶりに我が家の空気を吸いました。

 後手に閉めたドアにそのままもたれかかると、目を閉じ、何かを懐かしく感じるように、しばらく立ち尽くしていました。

 私の家に帰ってきた…。

 私が愛した人と暮らした家へ…。

 こみ上げてくる想い。愛しい人に抱かれ、心をほだされて過ごした、短くも切ない日々。

 そう…こんな想いさえ、あの人を愛したというかけがえのない記憶さえ、失われてしまうのが何より怖い…。

 靴を脱ぎ、スリッパを履くこともせず、私は中へ進みました。

 行きたいところは…。あの人の部屋。あの人が情熱を傾け執筆活動をしていた書斎。滑るように、導かれるように、その場所へ、もう主のいない部屋へ私は向かいました。大切なものを引き寄せるように、ドアを開けました。

 明かりの灯っていない部屋に、廊下の薄暗い光がゆっくりと流れ込み、中のディテールがぼんやりと浮かび上がりました。

 たくさんの本が並んだ本棚の中に静かに待っている大きなデスク。まるで今の今までそこで彼が執筆活動をしていたかのように、聞こえるはずのない心臓の鼓動が、感じるはずのない吐息が、私の中に入ってくるようです。

「あなた…」

 声にならないつぶやき。それは私の心が、怜美の口を使って響かせているのでした。

 不思議な、やきもきとした気持ちが湧いてくるのはなぜなのでしょうか…。

 私はゆっくり、大きな黒い椅子へと足を運び、静かに腰を埋めました。

 目を閉じて心をなすがままにしていると、なんだか彼に抱かれているような、安心感に包まれる一方、やはり体が怜美のものであることに奇妙な違和感も覚えるのです。

 私は今までのできごとを思い返そうとしました。

 いつから?

 私の体に異変が起きた時から…。それはいつ?

 いつから私の体を病魔が襲ったのでしょうか…。

 私が自分を見失ってしまったのはいつだったでしょうか…。

 解答の見つからない問題にとりつかれながら、私はふと目の前にあるノートパソコンに手をやりました。

 本当はろくに使い方も知らない「機械」のはずでしたが、怜美の体の今、自然と手が進んで確実に正しい操作をしていました。

 そう、あの日のように…。

 立ち上がる画面に現れた「Alice」の名前。あの日から接続されたままになっていた、砂時計に隠されていたカードの名前です。

「美佐へ」「亜莉栖へ」

 保存された二つのフォルダーが並んでいるのも同じでした。

 私が…紀藤美佐の身体ではない私が、その手を動かしながらマウスを動かして、フォルダーのひとつに矢印の形をしたポインターを合わせました。

 何をしようとしているのか、それは頭の中でぼんやりとしか把握できていない行為でした。まるで自分の手が私を離れて意思を持って動いているようです。

 ダブルクリック。

 開いたフォルダーの中からひとつのファイルを選び、それを立ち上げます。

 一連の流れが、信じられないぐらいにスムーズで、そして心地良いのでいつまでも操作していたくなってしまいます。これぐらいに使いこなせていたなら、きっと楽しかったでしょう。

 立ち上がったのは動画のファイルでした。あの日、怜美が探し出して見せてくれたもの、そう思いました。

 しかし…。

 ―やっと来てくれたんだね…。

 そこにはやはり主人の姿が、あの日に見たのと同じ様子の夫・洋幸の顔でしたが、話しかける言葉がどうも違うようでした。

 そして…。

 ―怜美。

 私は一瞬、何か違和感を覚えました。しかし、それが何か、その違和感の正体が何なのか、しばらくわかりませんでした。

 でも、それがわかった刹那、私は衝撃で体が凍りついたようになってしまいました。

 なぜ、彼が「怜美」と呼んだのか。そもそも、なぜ「怜美」を知っているのか!

 もはや、ここに怜美となった私が現れたことを察知していたかのような事実さえも、私にとっては些細なことに感じられました。

 度重なる驚愕の出来事に、私はもう神経がすり減らされていくのが、手に取るようにわかりました。

 ―驚いているかな、怜美。いや、まだ美佐と呼んだ方がいいかな?

「え?」

 もう何が起きたのか、すでに私は心をなくしてしまったようになっています。

 ―何も話さずにいてすまなかったね。そう、まだ美佐と呼ぼうか…。

「あなた、一体どういうことなの、何があったの?」

 私は画面に向かって、すでにこの世にいないはずの夫へ向かって、強い口調で問い詰めていました。

 ―美佐、僕は君がいつまで変わらずに元気でいて欲しいと願っていた。いや「この世の者」でなくなった今でも、その願いは変わらない。ずっと、永遠に変わることはないよ。

 夫の優しくも熱く語りかける言葉が、今の私には強過ぎる風のように、身も心も揺さぶっていきます。

 ―だから、君が病魔に襲われることを知った時、なんとしても助けてあげたいと思ったんだ…。

 病魔に襲われることを知った時?

 彼は、洋幸は今度もまた、不思議な物言いで私を悩ませようとしているかのようでした。

 もうずっと前にこの世から去ってしまった人が、私の「行く末」を知っていたのか、まるで「預言者」のようなことを告げているのか…。

 ―驚いているかい…。

 またしても、目の前にいて私と話しているかのごとくに、夫は語りかけてくるのです。

 ―驚くな、と言う方が無理だろうね。僕だって「こんなこと」をここに遺せるなんて思ってもいなかったよ。

「あなた…」

 もう、どう考えていいか、まったくわからなくなっていました。ただ彼の「言葉」を聞き入れてみよう、それだけを思うようになってきていました。

 ―僕が「名探偵亜莉栖」のシリーズを書き始めた理由は…そう、何よりも、愛した妻の美佐にだけ読んでもらう物語を残したかったからだった。推理小説なんて書いたことがなかったから自信なんてなかったけど、それはただ君にだけ読んでもらえればいいって、それぐらいに気軽な気持ちだったから、わりとスムーズにペンが進んだよ。

 亜莉栖の誕生秘話、でしょうか。確かに彼はそんなことを言っていたのを思い出します。

 楽しそうに書いていたっけ…。

 ―とにかく、主人公をどうするか、それを少しだけ悩んだんだ。

「…」

 ―でも、それはすぐに解決したんだ。そうだ、自分が一番「身近にいる女性」をモデルにしようって。そう思い描いて書けばいいんだって。

「え?」

 突然の、それは思いもよらなかった言葉でした。

 ―そして、それが全ての解決策だったんだよ。

 亜莉栖という「存在」は、私にしてみれば正しく「ヒロイン中のヒロイン」であり、晴れやかな舞台の上で輝いている女性です。一番身近にいる女性って、それは私のことでしょうか…。でも、亜莉栖とは似ても似つかないと思います。私という「存在」は、地味で目立たず、そして特に取り柄もない女だと自負しています。

「美人でもない…」

 私は自嘲してしまいました。

 それではなぜ…。

 そして、彼の言う「解決策」って…。

 でも、それには答えてくれないで、彼は言葉を続けました。

 ―君はやがて病に倒れる、それは抗い難い運命だった。そしてそれを知ることができた僕は…君の命を救いたかった僕は、全てを「亜莉栖」に託したんだ。

 もう、何を言っているのか、何を言いたいのか、わからなくなってきてしまいました。彼の言っていることは、まるで「絵空事」です。

 そう、なぜ彼が私の「未来」を知り得たのでしょうか?彼にいわゆる「予知能力」があったというのでしょうか…。

「あなた…」

 ―そう、君はどうして僕が君の未来を知っていたか、不思議に思っているんだろうね。

 彼は突然、私にとっての大きな、そして最終的であろう疑問点について言及してきました。

 ―君が病に侵されてしまうこと、それがなぜ僕にわかったのか…。そして今の君のその姿…。

 まるで本当に目の前にいるように話す彼の、その映像を見ながら、私は疑問から疑念へと変わりつつある自分の心の動きを、はっきりと感じていました。

 しかし、そこまでの私の気持ちまでは知りようもないのか、彼は自分の話を続けるのです。

 ―「僕は実は未来からタイムマシンで現代に来たんだ」、そう言えば納得してくれるかな?

「できないわよ…」

 彼の言葉に私は嫌悪感も覚えました。しかし、それはただの「序章」のようでした。

 ―もちろん、そんなことはないよ。僕は昭和に生まれて平成に生きた「現代人」さ。君の知っている紀藤洋幸、そのままさ。そして…。

「…」

 ―君を、紀藤美佐を、そしてその名前になる前、あのかぼちゃ亭で知り合った「お姉さん」の新井美佐を愛した、ただそれだけの男だよ。

 小さなノートパソコンの画面の中、あのころのままの夫が私に語りかける言葉。心に切なく響く優しくも儚い声。私には、怜美になった私の耳には、もう受け止められない想いとして、愛おしく伝わって来るのです。

 決して戻れない、あの懐かしくて暖かい日々。そのもどかしい気持ちが、痛みとして胸の奥にわいてくるのを、私は耐え切れずにいました。

 ―でもね、美佐。僕は死んでしまった。

「あなた…」

 新しい涙が、枯れてしまったと思っていたのに、またこぼれてくるのです。私が怜美になってしまったために、違う源泉の涙なのでしょうか…。

 ―あんなことで、君を残してこの世を去るなんてできない、それだけが心残りだった…。

「え?」

 私はまたしても違和感を覚えました。

 確かに、今の私にとって彼は「死んでしまった」ことに違いないのです。もうこの世にいない、画面の中だけの存在です。

 しかし、彼はこの時はまだ生きていたはず、この世に生を持っていたはずです。「死」はまだ先のはずです。

 それなのになぜ、このように死んでしまうことを知っているかのように、と言うよりも死んだ後になってから語っているようにいられるのでしょうか?

 彼は「未来」を見てきて、そして自分の運命を知って、私にこのようなメッセージを残してくれたのでしょうか?

 もしかして、本当に「あの世」からの映像を私は今、見ているのでしょうか…。

 わからないことだらけです。

 ―僕はね、美佐…。

 そんな私の狼狽を知ってか知らずか、彼はマイペースに語り続けます。

 ―やはり信じてもらえないのかもしれないけど、あの日の夜、僕が死んだその瞬間から、僕は意識がある日まで戻ったんだ。つまり…「ある日」から死ぬ間際まで、同じ時間を二回、生きることになったんだ。そう、砂時計をひっくり返して同じ砂が行ったり来たりするように、ね。

「ええ?」

 ―一回目は何も知らないまま、そして二回目は全てを知って生きてきた。「その日」に死んでしまうことをわかってて、僕は君と生きることができた。「事故に遭う」、それを知ってて僕は生きてきたんだ。

 そう言うと、彼は疲れたように「ふう」と息を吐いたようでした。

 本当なのでしょうか、彼の言う事は…。

 まるで物語のようで…。私には判断ができません。しかし、この映像を見ている限り、なんとなく「つじつま」が合うような気もします。「事故に遭う」ことも知っているし…。

 でも、それだけでは収まらないこともまだ多く残っているのも事実です。

 ―そう、僕は君が重い病気に襲われるのも知ってしまった。

 ひとつ呼吸をした彼は、重大なことを告げる時に見せる「眉間のしわ」を明らかにして、そう語り続けました。

 そうです。彼が「現在と過去」を生きてきたのなら、私が病気になってしまうという「未来」は、どうして知り得たのでしょうか?未来を知る力も得たというのでしょうか…。

 ―何度でも言う。僕は君を…美佐を、愛している。あの日、かぼちゃ亭で君を見た時から、僕の心は君にあった。あの食堂で一所懸命に働く君の姿は美しかった。今までに見てきた、僕が知っていた何よりも美しかった。そして、その美しい姿を見せてくれる君の、その心も何よりも美しかったんだ。そう、僕はそれを知っていて、いつまでも君を愛し続けられると思っていた。

「あなた…」

 ―でも、僕は自分の運命を知ってしまった。こうして生きて、君を見ていられる時間が終わりを迎えることを知りながら、僕は過ごす日々なんだ。

 彼の、その切なくも苦しい気持ちが、なんとなくわかるような気もしました。

 もちろん、自分の運命を受けいれて生きることの、真の苦しみなど…。

 ―「それ」はなぜだかわからない。「時間」を旅するようになって身についた「能力」なのかもしれない。だけど、それが僕の頭の中に、突然に訪れたんだ。

 そうです。私も、気がつけば「死」を目前にして生きているようなものです。

 いえ、怜美の身体に今はこうしている以上、果たしてそうなのかはわからなくなりましたが…。

 ―君がもうすぐ、不治の病に侵されてしまう、っていうことを…。

「…」

 ―君は、いや君も、僕と同じく「死へのカウントダウン」を聞いていたのかもしれれない。いや、聞かされずに過ごしていたかも…。

 そうでした。私は「病名」も、ましてや「余命」さえも怜美が聞いていて、知ることもなかった。

 そう、怜美は私には教えずに、自分だけでしまいこんでいました。彼女は一人で「重い荷物」を、背負ってくれていたのです。

 ―僕はもう仕方ない。助からない命なら、それも運命だ。でも君は…僕が愛した美佐だけは、何としても助けなければいけない、そう思った。でも…。

 何度目でしょう。彼から聞かされる私への優しくも熱い想い。それは愛情と呼んでしまうにはあまりにも切なく、そして哀しい気持ち…。

 ―君を助けることは、僕自身の手で…力で、どうにかしてあげることができないのは、もう知っていた。だから何か違う形で君を、君の命を救うことを考えた。

 彼の苦痛にも見える表情が、私の心に鋭い針のように刺さってくる気がしました。

「あなた、もういいの。それ以上、苦しまないで…」

 すでに終わってしまった時間に、それは全くの無意味なわけなのに、私は呼びかけずにはいられなくなって、そして声をあげてしまいました。

 ―だけど無力な僕は、なんの手立てもなかった。ましてや君に「もうすぐ病気になってしまうから気をつけろ」「健康診断に行ってこい」と言うわけにもいかない。そうこうしているうちに「あの日」が来ていた。

 私の心配をして、そして自分がこの世を去る日が、去ると知っている日が襲ってくる…。どんなに苦しい日々だったのでしょう。そしてそれを、その苦悩を私に感じさせずにいた彼の強さ、優しさをわたしは改めて実感させられました。

 ―せめて子供でもできていたらと、僕は後悔してしまった。それは僕の責任だ。

 お互いに「子供が欲しい」と言っていたのですが、こればかりは「授かりもの」、どうしようもなかったことを覚えています。そして、そう「あの日」が近づくにつれ、彼の口から頻繁に「ごめんね」という言葉を聞かされたことに気がつきました。

「そういうことだったの…」

 私は切なくて…彼が悪いわけでもないのに、私だって「責任」はあるのに…。そう思うと胸の奥が痛み、それなのに涙も出ないくらい悲しくなってしまいました。

 ―どうするすべもなく、僕が迎えた日。いつもと、なるべく君に余計な心配をかけまいと、普通に過ごしすつもりだった。いや、今こうして語っているこの瞬間の記憶はもちろん何も知らないでいたときのものだから、それは当たり前か…。

 彼の気持ちが揺らいでいるように見えました。淡々と語っていた口調も少しだけ重くなっているように聞こえます。

 ―明日、それが僕の命日だ。

「え?」

 私はこれ以上ない衝撃を受けました。

 自分の「病名」を怜美になってから知って、その重さを感じた時など、なんでもない簡単なことに感じてしまいました。

「なんで…」

 そう、知っていたならなぜ「そこ」へ行ったの?避けることだってできたんじゃないの?

 画面の中の彼は沈黙を守っていました。私の追求を察知していたのでしょうか。

 やがて徐ろに口を開いて、やっとの思いで言葉をつなげてきました。

 ―君はきっと、なぜ「死ぬことがわかって出かけたか」、怒っているんじゃないかな?少なくとも、不思議に思っているんだと信じたい。

「当たり前じゃない、怒るわよ。カンカンになってるわよ…」

 ―ごめん…。

 本当に、目の前で話しているように、私の言葉を聞いているように、画面の中で彼は答えてくれていました。

 ―本当にごめんね…。でも、それは避けられない運命なんだ。「時間」を変えることはできないって、もう一度やり直した中で、自然に感じられるようになったんだ。だから…。

 そう言うと、彼はしばらく言葉を失くしていました。

 苦悶の表情を浮かべただけの夫の姿が、小さな画面の中で静かに揺らいでいるようです。

 ―何も言わずに、普段と同じように僕は出かける。そして気がつくと、それが「最後の別れ」になることは君には悟られることなく、僕は笑顔でここから出て行く。そして…。

「…」

 ―もう、ここへは戻らない…。

「…………!」

 ―ごめんね、美佐。この後に及んで君を、病に倒れる君を助ける手立てが思い浮かばない。「時間」を旅した僕なのに、少しだけ「超能力」を身につけたのかなと思った僕なのに、最愛の人を助けるための方策が思い浮かばないんだ!僕は君を…君だけを想って生きてきた。君の幸せだけを考えて、これからも二人で人生を歩んでいこうとしていたのに…。もうどうすればいいのか、わからない。君にただ「病院へ行ってくれ」「健康を第一に考えてくれ」としか、そう言うしかないみたいだ。でも、それでも病気は発症するんだ。もう、間に合わないのか。今から医学が飛躍的に発展して、君の命を救う医者が現れることがないのか。明日までの命しかない僕には何も思い描くことはできない…。

 彼の言葉の端々に、私への想いが聞かれました。そして何より、その言葉のきらめきに私の想いが、彼への変わらぬ愛が、応えているのを自分自身で強く感じられるのです。

 ―ごめん、美佐。本当にごめん。もう少し、そう「その瞬間」まで、僕は君を助けられると信じていよう。何か手段があると強く信じていよう。だから…だから美佐、愛しているよ。今夜は君を強く抱きしめるよ。これ以上ないぐらいに、ね。

「あなた…!」

 ―生まれ変わっても、美佐。一緒になってくれないか…

 画面はそこで消えました。

「私も…私もよ、あなた…」

 私は彼の言葉の余韻を胸に引き止めると、その想いを強く噛み締めていました。聞こえるはずのない愛しい相手に、抑えきれない自分の気持ちを投げかけながら…。

 もう、これで彼の「最後の姿」は終わったのです。

 私は何も映っていない画面を、虚ろな目で見つめるだけでいました。

 しかし…。

 ―お母さん、お母さん…。

「え?」

 終わったと思った画面の中に、続いて新しい映像が現れました。

 そこには今の私の姿である、やはり愛おしい「娘」である怜美が映っていました。

 ―私です。怜美です。

 そんなこと、言わないでもわかる…と思いつつも現在のことを考えれば、それも何か重要な「儀式」にも感じられました。

 ところが、すぐに新しい驚きが待っていました。

 ―私です。怜美です。

「え…」

 まるで「ステレオ」の音を聴くように、同じ言葉が聞こえてきました。

 いえ、画面の怜美が語りかける声が耳から入ってくるものだとしたら、もう一つは直接、私の頭の中に響いてくるように感じました。

「怜美…。貴女、今どこにいるの?私は一体どうなってしまったの?」

 ―「お母さん」って、呼んでもいいんですよね?

 画面の怜美が質問します。

 私は「何を今さら」と思いましたが、もう一人の怜美が答えるのです。

 ―うん、いいのよ。

 その「やりとり」とでも言うのでしょうか、今の私には成り行きが全く読めてきませんでした。

 そしてさらに、追い討ちをかけるような言葉を耳にしてしまいました。

 ―今は「私」になっているのかしら?

 それは画面の中から、パソコンのスピーカーから聞こえてくる声でした。

 問いかける怜美の声に、私の中の怜美が、もう一方の、耳に響いてこない声が答えてきます。

 ―そうよ、今のお母さんは私の中にいるわ。

「え…え?」

 私の中と外で、まるで「双子」が会話をしているように、耳に頭に声が響き渡ってきます。その合間を縫って私は、おろおろと言葉にならない声を発するだけでした。

「な、何?どうしたの、一体…」

 ―この映像を見ているということなら、お母さん…きっと「うまくいった」っていうことね。でも、お母さん、びっくりしたかしら?

「びっくりも何も…。どういうことなんだか、さっぱりわからないわ。教えてちょうだい…」

 ―これはお母さん、先生も…紀藤さんも知らないこと。いいえ、望んでいたけれど結果は知らずに逝ってしまったこと…。もちろん今の私も、どうなっているか結果はわかっていない…。

 少しずつ画面に慣れてきた私がよく観察してみると、映っている怜美の姿、その装いは見慣れた黒を基調としたワンピースの様ですが、不思議と「見覚え」と言うか、懐かしさを感じるものでした。

 そう、胸の白いバラの形のコサージュです。あの日、私を訪ねてきてくれた、その時の怜美のようです。

「いつの間に…」

 怜美はあの日にこの映像を撮影していたのでしょう。

 そう、まだ私を「お母さん」と呼ぶ前のことです。だから「呼んでもいいのか」と、確認をしていたのでしょう。そして、現在の彼女が「答えた」のだと思われます。大き過ぎる不可解な現実の中の、ほんの「ひと欠片」だけはわかったということです。

 しかし、私はさらに不思議なことに思い当たりました。

 いつ、これを撮ったのか…。

 そうしているうちにも、怜美は語り続けてきました ―あの日…事故が起きたその時に、紀藤さんは私のすぐそばにいて、そして私を救ってくれた。自分の体を…命を投げ出して、目の前の見ず知らずの少女を助けてくれた…。

「え?」

 私の知らない、知る由もない大きなことを、小さな画面の中で淡々と語る怜美のその目は清み、そしてそれを見つめる今の私は同じ目をしています。

 ―私は…本当はもう、死んでしまいたかった。あの時、とっくに死んでいるようなものだった。学校ではいじめられ、親さえもいなくなってしまった。誰からも愛されず、そして誰にも心を開けない毎日の中で、本当に生きているのかどうかさえわからないまま、ただ息をしているだけの存在でしかなかった。だから、あの後…。

 怜美は目を閉じ、そしてしばらく声を出さず、何もない時間と空間が過ぎていました。

 私も彼女の「告白」を、息を潜めて見守るだけでした。

 やがて再び、意を決したように目を、そして口を開きました。

 ―死のうって思っていた。本当は…。もし、紀藤さんに助けていただかなくても、それはそれで良かったのかもしれない。でも、私は助けていただいた。そして今際の際に、苦しそうに、息をするのも精一杯の声で私に告げた。「美佐を、助けてくれ」と…。

 そう言うと、また目を閉じました。まるで「その瞬間」を蘇らせるように、そして私にも見せてくれるかのように…。

 そう、それは今の私の中の怜美の記憶が、見えないはずの光景を脳裏に浮かべ、そして息使いまでも再現してくれるかのようです。私は自分の、いえ今は怜美の頭の中に広がる「過去」という名前のスクリーンを見つめる一人の「観客」のようでした。

「あなた…」

 血にまみれた愛する夫の手が、息も絶え絶えにこちらへ差し伸べてきます。

 ―美佐を助けてくれ…お願いだ。

 その手は震え、そして徐々に力が入らなくなっていくのが目に見えてわかります。

 最期の、その命の絶える寸前でありながら、彼は自分の身体の心配もせず、私のことを、ただひたすらに私のことだけを心配してくれているのです。

 ―僕の妻だ…。もうすぐ、彼女は病気にかかって…重い、不治の病…。彼女を…美佐を…。

 ゆっくり、いえ精一杯の早さで、彼は倒れた自分の体の下、上着のジャケットの内ポケットから何かを取り出そうとしてもがいています。

 ―君は…岡野…怜美さん…。

 目の前にある、服に着けられた学校の名札を読んで、精一杯の力で呼びかけてきます。

 ―これを…お願いします。

 力無く手渡そうと差し出したもの、それはメモリーカードでした。

 ―頼み…ます…

「あなた…あなた!」

 ………。

 最後の力を振り絞って、その優しくも力強く生き抜いた人生の、その最期をかけて、この私のことだけを考えてくれた、彼の愛を痛いほど、そして哀しいほどに感じずにはいられませんでした。

 もっと自分のこと、置かれている自分の状況を感じて「助けてくれ」と言っても良かったのに。そうしてくれても…いえ、そうしてくれれば私も少しは「救われた気分」になれたかもしれないのに…。

「…愛して、くれていたのね…本当に…。愛してくれたのね、あなた…」

 怜美の体で今、止まらない涙を拭うことさえできずに、私は強く、そして狂おしいほどに彼を、彼の存在を実感していました。

「あなた…あなた…」

 ―私がその時に紀藤先生から渡されたのが、実は「亜莉栖シリーズ」の、そう全十一巻のデータだったんです。その当時はまだ見ることすらできずにいたし、もちろん、それ以前は亜莉栖の小説など知る由もありませんでした。だからそこで初めて、私は亜莉栖と「出会った」ことになるんです。そして…そう、これらの小説がその後にどうなっていくか、先生は見事に予言していました。映像化のない先生の小説で、このシリーズは初めてドラマとして発表される。そしてその主役に、亜莉栖役に私が立候補し抜擢される、そういったことまで書かれた文章もデータになっていました。でも、なぜ…。

 怜美は再度、言葉を止めました。

 そして…。

 ―なぜ、私がそこにいたのか、亜莉栖になり得る私が先生の最期の場所に居合わせたのか…。そもそもどうして亜莉栖がこれほどまでに私に似ているのか…。

 そう、私も同じことを思いつきました。

 ―先生は、同じ時間の旅を二回していました。

 それも彼が遺した言葉にありました。

 ―私が先生と顔を合わせたのは本当に、事故のあったあの時が最初で最後です。もしかすると偶然に亜莉栖のイメージに合った人間と、最期に奇跡的な出会いをしたのかもしれない、そう思いました。でも、むしろ「時間の旅」を繰り返したこと、それが真実なら、先生は「最期に出会った」私のイメージを心に刻み、そして、遡った時間の中で亜莉栖を生み出していたのかもしれないんです。そう考えれば私が亜莉栖になったことも自然なことと考えられます。

 いつしか、彼女の話も佳境に入ってきたようです。

 ―亜莉栖は先生の最期の瞬間に生まれたんだと思いました。最期に見た私のイメージを、そのまま活かして書かれたとしか思えないし、それだからこそ、みんなが私を見て「亜莉栖」って言ったんだと考えられませんか?

 彼の言った「一番身近にいる女性」、それは私でなく、最期の最期に見た怜美のことだったのでしょう。身近、と言うよりも「身体の近く」にいた女性…。

 私はふと、最初に彼女を見た時のことを思い出しました。あの「カメラテスト」をする場所で、初めて彼女を見た時に、小説の中から亜莉栖が出てきたとしか思えなかった衝撃を…。

「そうね、みんなが口を揃えて言っていたわね」

 亜莉栖って…。

 スタッフの人たち、みんなが驚いていたのを、私は覚えていました。

 ―監督やスタッフのみんなが、私を「亜莉栖だ」って、驚いたりしていたのを覚えてるわ。

 私の頭の中の怜美が答えます。

 ―「亜莉栖は映像になる」「君がその役を演じるんだ」。そう先生は遺していました。もちろん私はそんな未来が本当に来るなんて思ってもみませんでした。でも…。

 でも、事実になった。映像化が熱望され、そして「亜莉栖」が現れた…。

 全ては彼が描いたストーリーなのでしょうか。私のために遺してくれた「遺産」なのでしょうか…。

 信じられないような話ですが、もし今のことが「事実」なら、彼は壮大な物語を遺したことになります。

 それも私のためだけに…。

「だけど…」

 ―そうですね、お母さん。

 頭の中で答える声が聞こえます ―亜莉栖は映像になった。それで私が現れ、そしてお母さんを支えることになる。

 画面の中の怜美が続けます。

 私が何を思い、そして何を問うのか、すでにわかっていたかのように、目の前の怜美も語ってくれます。

 ―それはすでにわかっていることですよね。でも、きっと知りたいことは…謎に包まれていることは、なぜお母さんが私になってしまったか、そのことだと思うんです。

 私の気持ちを読み解くように…亜莉栖が事件を解き明かすように、彼女は話を展開していきます。

 ―それは…先生が書き上げた「本当の十一巻」に答えがあるんです。

「え、本当の…?」

 ―いえ、十一巻の「本当の結末」と言った方がいいかもしれません。

 何を言っているのか、私は判断できませんでした。

 物語の中では亜莉栖が小気味好く推理を展開させ、最後に犯人を暴き出し、そして大団円を迎えるのです。

 そして、現実と虚構が入り混じっているような今、その時が来ているのはわかりました。

 ―亜莉栖は、先生が書いた本当の結末で「大事な人」を守るため、自分を犠牲にするのです。最期は「身代わり」になって…。

「………」

 ―そうです。先生は亜莉栖を…いいえ、私をお母さんの身代わりになって欲しいと思って、そんな結末を書き、その通りになることを願ったんです。それだけが先生が、自分が愛した人を助けるための最後の手段と、心に決めていたんだと思います。

 なんということなのでしょう!

 夫が書いた物語の、その結末はあまりにも哀しいもののようだったのです。

 そして、それが私を助けるための唯一の手段と考えていた。亜莉栖を、いえ怜美を犠牲にしてまで、私の生命を助けようと、ただひたすらに、それだけを願っていたのです。

 ―先生は「砂時計の暗号」についても教えてくれた。その暗号を私に解くことも指示してくれた。そして先生の書斎で「全十一巻」のデータを見つけることにして、その最後の十一巻をその時初めてお母さんに読んでもらうことになっていた。物語の哀しい結末を、最後まで知って欲しくなかったから。でもさっき、いえ今これを見ているのから考えると「あの日」ですね。お母さんが気を失っている間に、私は以前に先生から遺された原稿を読んでいたので、私が十一巻の結末を勝手に直してしまったものと差し替えてしまったんです。

「なんて…」

 私は声を無くしました。

 それは怜美がやったことを咎めるとか、非難するとかではなく、そこへ至る気持ちの断片が…怜美の中にいる今、切ないくらい伝わってくるからでした。

 ―亜莉栖を死なせない。ただ去っていくだけにしたい。私はそう結末を書き換えてしまいました。

 そう言うと、しばらく…苦しいほどの時間、沈黙が続きました。

 今、画面の中の怜美は「それ」を終えたばかりなのです。「亜莉栖」となり、その貴重な物語の重要性を知ってきたことだと思います。その「原稿」を、彼女は書き直してしまいました。

 私の夫が、私を救うためにわずかに残された…しかし、どう考えても荒唐無稽としか言いようもない話。でも、彼女に…怜美にとって、それは続いた現実化の延長として、避けられないことと信じざるを得なかったことだったでしょう。

 そして、それがどれだけ彼女の心を震撼とさせたことだったでしょう。

 亜莉栖となり、生きることへの渇望が蘇ってきたであろう彼女の、その潤いのある心には、どれだけの重い仕打ちとなってしまったことだったでしょう。

「貴女…」

 画面の中へ、そして今の自分自身へ、私は哀しいくらい温かい言葉をかけてあげたく思いました。

 彼女の、怜美の真意が感じ取られたからです。

 もし、私が彼女の中にいなければ、大切な人の大事な原稿を書き換えたことに憤りを感じていたかもしれません。

 でも、何も言わずとも私はわかった…いえ、感じていました ―死にたくなかった…。ううん、死にたくなくなった。あれだけ、もう嫌になって、この世からいなくなりたくなった私なのに、みんなから大切にされるようになって、そして「亜莉栖」になって…。嬉しかった。本当に生きていてよかった、って思えるようになって…。だから、もっと生きていたくなった…。亜莉栖が死んでしまうように私も消えてしまうのは…嫌だった…。

「そうよね、怜美。みんなが貴女を愛してくれたものね」

 ―でも、でも…一番に愛してくれたのは、誰よりも私を愛してくれたのは、お母さん。私が幸せな時間を過ごせたのは、お母さんと一緒だったからでした。

「怜美…」

 ―だから、ごめんなさい。お母さんにとって誰よりも大切な人の、大事な原稿を勝手に変えてしまいました。亜莉栖を…。

 いいのよ、怜美。そんなこと言わないで。生きている人間にとって一番大切なのは、生きている貴女を大切にすることよ。死んでしまった人間を想うことよりも、生きている愛しい人を抱きしめることの方が、ずっとずうっと尊いことなのよ。

 私は今ようやく、それに気が付いた。

 夫は私を愛してくれた。その結晶と言えるのが、この結末だった。

 でも私には…今の私にとっては、こんなこと望みでもなんでもない。

 ―お母さん…。

 何より、怜美…。私には、私自身より貴女の方が大切なの。親が子を思う気持ちは、間違いなくこういうもの。自分のことより、娘のことが一番なんだっていうこと。貴女のことが何よりも大切だということ。

 そう、貴女と共に生きていた時間。それはとっても短かったけれど…でも、彼と生きていた時と同じぐらい、いいえ、もしかするとそれ以上にも素敵な時間だったかもしれない。

 だから…。

 ―お母さん…。

 私の生命なんていらない。私はこのまま生き続けても、それはただのまやかしに過ぎない。

 それよりも貴女にずっと生きていて、そして幸せな人生を歩んで欲しい…。

 それが…それだけが、今の私の真実の幸せ―。

「怜美…。帰ってきて!」




「続きまして主演女優賞に輝いた岡野怜美さんにお話をうかがいましょう。岡野さん…」

 まばゆいばかりに輝く金色のスポットライトの中、にこやかな表情を見せ、タキシード姿の司会者が近寄ってきます。そして、私の目の前に銀色のマイクを差し出してきました。

「いかがですか、今のお気持ちは」

 私は目の前で光るブロンズのトロフィーを持ったまま、答えるのでした。

「ありがとうございます。映画にデビューした作品で、こんな立派な賞をいただけるなんて光栄の限りです」

「そうですか…。そのお気持ちを伝えたい方はいらっしゃいますか」

 ベテラン、と言っていい男性の司会者は、ありきたりだったけれど、それが当たり前なのでしょう、世の中でこれほど「安心して受け入れられるものは他にないであろう質問」を投げかけてきます。

 私はそれを絹のように柔らかく、素直に受け止めていました。

 伝統ある映画祭の授賞式が行われている大きな、そして華やかな会場。ステージに立つ私は、目の前に広がる客席から、多くの人たちに見つめられています。

「ええ、今まで一緒に制作に携わっていただいた共演者の皆さんや大勢のスタッフの方々、それから…」

 私はそこで声を詰まらせてしまいました。

 大事な言葉を大切な人へ向けて発信しなければいけないと思う気持ちが、私の中の脆い部分を震わせていました。

 ―怜美、がんばれ。

 私は頭の中で優しく、心地良く響く声に後押しされると、心の中でうなづきました。

「母…私を本当の娘のように愛してくれた、原作者の奥様でいらっしゃられる紀藤美佐さんに、私の全身全霊をもって感謝の言葉を捧げたいと思います」

 ―ありがとう…ありがとう、怜美。

 私の耳には、鳴り響く拍手の音は聞こえていませんでした。

 ただ、誰よりも愛してくれた人、私が敬愛するお母さんの、その声だけが心を揺さぶっていました。

 誰にも見えない、私だけが感じられるその優しい面影に向かって、私は呼びかけます。

 もう二度と会うことはできない…でも、いつだってそばにいてくれる、大切なお母さんへ…。

「ありがとう…ありがとう、お母さん!」

 ―怜美…

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