中編〜新しいヒロインの誕生
朝晩は気温も下がって、言葉にすれば「凌ぎやすい」と言うよりも「少し肌寒い」と言った方が合う季節になりました。街は外国から入ってきた新しい習慣で、子供たちを中心としてにぎわいを見せ、秋から冬への移ろいを、少しずつ楽しむかのようです。
もうすぐ始まる亜莉栖シリーズの連続ドラマ放送開始を目前にして、撮影もいよいよ大詰めを迎えたようです。
撮影が済めばそれで完成、というわけにはいかないようですが、それでも気持ちの上ではずいぶん楽になるのでしょう。
珍しくプロデューサーの渡壁さんから連絡が入り、やっとめどが立って「ホッとした」と報告をいただきました。
そして「本家」の小説は、一足先に最終巻である「喪服の戦士」が店頭に並びました。
ついに亜莉栖シリーズが「完結する」ということで、最後に大変な盛り上がりを見せています。私も、やはり小説の評判は気になってしまいますので、人気が終始あったことはとても嬉しく思いますし、あらためて主人の作品を愛してくださった多くの方に感謝しています。
でも、そうなってくると気になるのは、怜美さんが言っていた「十一巻」の存在です。
もし、怜美さんが言うように、もう一巻が存在するのならば、一体どこにあるのでしょうか?
主人はパソコンを使って執筆していたので、私はもう一度、調べてみたのですが、簡単にはわかりません。もし、データーを記録したものがほかの場所にあるとするならば、それはどこなのでしょうか。
いえ、そもそも「隠す」なんていうことをする必要があったのでしょうか…。
私は最近、少しだけ忘れかけていたのですが、ここにきて最後に「喪服の戦士」が世に出てからというもの、再びその疑問に苛まれる日々が続いています。
気持ちが落ち着かないでいるからでしょう、体まで不調を感じていました。
もう亜莉栖に解決してもらうしかありません。
「怜美さん…」
愛しい娘を思うように、私は怜美さんを待ちます。
それは、解けない疑問を晴らしてもらいたい気持ちと、そしてそれ以上に、怜美さんに会って話をしたい気持ちのようです。
「人恋しい」のは、まだ若いつもりでいた私も、すっかり歳をとったということなのでしょうか。
主人を亡くし、考えてみると、両親にも早くに死に別れた私は、生きている時間の多くを、独りで過ごしていることになります。
だから本当は、淋しいことにも慣れっこのはずなのです。
それなのに、怜美さんと知り合ってから、久しぶりに「独り身」が切なく感じるようになりました。
「いやだわ」
すると、私の気持ちを察したかのように電話が鳴りました。
携帯電話ではなく、固定電話の方にかかってきたことで、私は胸が高鳴りました。
案の定、
「もしもし、岡野です」
「怜美さん、会いたかったわ」
まだ、何も用件を話していない怜美さんでしたが、勝手に来訪を決めていました。
でも怜美さんも、
「私も、です。これからうかがってもかまわないですか?」
「いいわよ。貴女ならいつでも大歓迎って、言ってあるわよ」
「そうでした」
初めて来てもらった時と同じように、それからほんの少しの間で、彼女はやってきました。やはり、近くで電話をかけてくれたようです。
いつものように黒いワンピースを着こなし、そして珍しく、胸に白いバラの形のコサージュをしていました。とても良く似合って素敵です。
「撮影もやっと一段落です」
「そうみたいね。渡壁さんから連絡があったわ」
ソファーに落ち着いた怜美さんに、私は紅茶を煎れて持っていきました。
「これ、現場でいただいたんです。奥様と一緒に食べようと思って持ってきました」
「あら、美味しそうね」
怜美さんが持ってきてくれたのはクッキーでした。
私と一緒に食べたい、なんて嬉しいことを言ってくれます。
「スタイリストさんがお菓子作りの好きな人で、よくいろいろ差し入れしてくれるんです。奥様にも持っていきたくて、ねだっちゃいました」
「まあ、嬉しいわ」
「紅茶に合いますね」
温かい紅茶の、香り立つ湯気の向こうで、怜美さんの穏やかな表情が見えます。
忙しい仕事のめども立ち、少しは気持ちもホッとしていることでしょう。
「そういえば、先生の命日って…」
「あら、ご存知?もうすぐよ」
怜美さん、いろいろなことに気が付く女性です。
「それはそうと、あの話…」
「いつも愛してるよ、美佐」
「え?」
私はまるで心臓をつかまれでもしたかのような「衝撃」を感じました。
怜美さん―。その素顔は亜莉栖に似て神秘的で、時に畏怖の念さえ覚えるような、少し怖いような雰囲気も漂わせています。
そしてそれは、まだ何度も会っていないので当然なのかもしれませんが、でもそれ以上に、彼女の持つ「本性」のようなものを、私がつかみきれなていない実感から来るものとも思えます。
「な、なに?どういうこと…」
怜美さんの発した言葉にたじろいでいる私へ、ソファーから腰を上げて顔を近づけてくると、にこやかだけれども、ミステリアスな目をしてささやくのでした。
「『十一巻』があるっていう解答です」
「え?ええ!」
一言、そう言うと、彼女は顔を遠ざけソファーへゆっくり座り直しました。
亜莉栖シリーズのような推理小説で言うと、いよいよ「事件の真相」を名探偵が解き明かすシーンなのでしょう。私は、現実にそのような場面に出くわすとは、思ってもいませんでした。
小説のような場面…。そういえば主人が私に「プロポーズ」をしてくれた時も、自分が書いたラストシーンを演じてくれようとしていたはずでした。結局は全然うまくいかなかったのですが…。
でも今まさに、謎が解明されようとしているのです。
「一体どういうことなのかしら?」
「『い・つ・も・あ・い・し・て・る・よ・み・さ』…十一文字です」
呪文を唱えるように、指を折りながら数える怜美さん。
私もそれを倣って、指を折って数えてみました。
「確かに十一文字だけど…。それが『十一巻』だっていう根拠なの?」
「はい」
見据える怜美さんの目は冷静で、しかも熱い自信の念が宿っているのがわかりました。
「ねえ、もったいぶらないで…。教えて、貴女の答えを」
自信に満ちた怜美さんを前に、私は少し苛立ちを感じ始めました。
そういえば、推理小説では探偵が謎を解く場面で、大抵は周りがイライラしていることを思い出しました。そういったスタイルが「定番」なのでしょうか。
「ごめんなさい、気を持たせてしまって…」
しかし怜美さんは、きちんとした礼節も持ち合わせている女性でした。
「私が『十一巻』あることに気が付いたのは、最初に亜莉栖シリーズの『全巻』を松本さんから読ませていただいたからなんです」
「松本さんから?」
「もちろん、ほとんどが本になっていない、プリントアウトしたものばかりでしたけど」
「え、っていうことは、小説の内容に何かヒント、とかみたいなものがあったっていうこと?」
すると怜美さん、今度はいたずらをするような目で、
「いいえ、そんなに難しいことではありません」
「え?」
「気が付かなければ永遠に気が付かないままだったと思います。でも、きっと誰かほかの人も、今ごろは気が付いているのかも…」
そう言うと彼女は大振りの手帳を一冊、バッグの中から取り出し、そのページを繰ると、
「これを見てください」
そこには第一巻の「愛しの亜莉栖」から始まる亜莉栖シリーズ十巻の「タイトル」が全て書かれていました。
「愛しの亜莉栖」
「月夜の悪魔」
「瑠璃色ブーケ」
「イスラム遥か」
「夜の街角」
「死にゆく先に…」
「見知らぬ女」
「淡く、儚く…」
「手探りの愛」
「喪服の戦士」
そして続いて次のページをめくりました。
そこにはやはりタイトルが、今度は「ひらがな」で書かれています。
「いとしのありす」
「つきよのあくま」
「るりいろぶーけ」
「いすらむはるか」
「よるのまちかど」
「しにゆくさきに」
「みしらぬおんな」
「あわくはかなく」
「てさぐりのあい」
「もふくのせんし」
私はまだ、これを見ても何を意味するのかわかりません。
「ねえ、これは一体…」
「みんな『七文字のタイトル』なんです」
「ええ、そうね…」
まだ、その意味するところにはたどり着きません。
「何か不自然というか…先生の作為、みたいなものを感じてしまったんです」
「作為?」
「そうです。タイトル自体に何か隠されているんじゃないか、って」
いよいよ謎解きの核心が近づいてきているようです。
「いろいろ考えてみたんです。それでふと思いついたんです」
「それがさっきの言葉?でも…」
私の質問には答えず、
「タイトルの最初の十文字をいろいろ並べ替えてみたんです。そうすると…」
また手帳のページを開くと、
「いつもあいしてるよみ」
と書いてあります。
「『いつも愛してるよ、み』にたどり着きました。アナグラムになっているって気が付いたんですが、どうしても『み』で終わってしまうんです。それで…」
「それであの時、私の名前を確かめたのね!」
唐突に名前を聞かれた時のことを思い出しました。
一体、なぜ名前を聞かれたのか、あの時はとても不思議でならなかったのですが、今やっと真相がわかりました。
でも、そのことは怜美さんにはもう深い興味はないようです。
「それで、実はもう一冊、今度は美佐の『さ』で始まる『十一巻』があるはずだと思ったのです」
「はあ…」
私はうならざるを得ませんでした。
タイトルに隠された言葉。
それが、夫が遺した私へのメッセージとも言えるものでした。最期まで私を思い続けてくれていた、その「証し」でもありました。
しかし…。
「でもどういうことなのかしら。これはいたずら好きだったあの人の茶目っ気なの?それとも何か意味があって、こんなことをしたっていうの?」
「その前に…」
怜美さんは私の問いを遮ると、
「では『十一巻』がどこにあるのか、それが問題になってきます」
「そうよね。私もパソコンを調べてみたりしたけど、見つからなかったのよ」
私は、私なりに「捜査」してみたことを告げました。
「そうですか、やっぱり…」
「やっぱり、って?」
「私の、これは予想です。根拠はないんですが…」
意を決したかのように、
「きっと『十一巻』のタイトル、って…」
そこまで言うと、怜美さんは少しだけ目を伏せ、どこか悲しげな表情を見せました。
「『さよなら亜莉栖』…」
「…」
静かな「間」が訪れました。
次の瞬間、私を見つめる怜美さんの目には、涙があふれていました。
それは、まるで怜美さん自身が「別れ」を告げなければならないような、そんな運命が待っているかのようでした。
何を言ってあげればいいのか、私は言葉をなくしてしまいました。
「え、ちょっと待って。なんで、なんでよ。別にそんなタイトルって、わかったわけじゃないんでしょ?もし、そうだからって、それがなんなの…」
精一杯、運命から逃れる術を探すように、そう言って、
「怜美さん、貴女がさよならするわけじゃないのよ!」
「あ、ごめんなさい…。なんだか亜莉栖とさよならするのが、なんか淋しくなっちゃって」
「もう、びっくりさせないで…」
笑顔を取り戻す怜美さんを見て、それでもどこか不安な気持ちを感じていました。
でも…。
「なんでタイトルがわかったの?『さ』から始まるのはわかったけど…」
「それは『十一巻』のある場所を特定したら、そんなタイトルが思いついたんです」
「え、どこにあるかわかったの?」
また、私はまたもや驚かされました。
本当に、亜莉栖に負けない洞察力の持ち主のようです。
「ええ…」
再び、タイトルがひらがなで書かれたページを私に見せると、
「これを『いつも愛してるよ、美佐』で並べ替えてみます」
そして「愛しの亜莉栖」「月夜の悪魔」の発行順で並べられていたタイトルを、順番を変えて並べ替えたものを見せてくれました。
「いとしのありす」
「つきよのあくま」
「もふくのせんし」
「あわくはかなく」
「いすらむはるか」
「しにゆくさきに」
「てさぐりのあい」
「るりいろぶーけ」
「よるのまちかど」
「みしらぬおんな」
文字の頭を続けて読むと、確かに「いつも愛してるよ、み」になります。
そして最後に、
「さ○○○○○○」
と、書き足す怜美さん。
「これで『いつも愛してるよ、美佐』になります」
主人の「愛の表明」、何度聞いても嬉しくなります。
「さあ、ここからです」
私の気持ちを知ってか知らずか、淡々と謎解きを進める名探偵。
「私が次に注目してみたのが『語尾』です」
「語尾…一番後ろの文字ね」
私は怜美さんの言葉を聞いて、彼女が先頭も文字を並べ替えてみたように、最後の文字もそうしてみました。
「え?『すましくかにいけどな○』。何これ、意味がないみたいだけど…」
私は首をひねりました。どう考えても意味がある言葉とは思えません。
「ええ、そのまま読んでは駄目なんです」
名探偵は私の「ミス」を指摘します。
いつのころから「正解」に、たどり着いていたのでしょうか。少なくとも、私に「名前」を確認してきた時には「全容」がつかめていた、ということなのでしょう。でも、それがいつだったか…もう、遠い昔の話にも思えていました。
「こちらから反対に読んでみてください」
と、怜美さんは「○」の方を指さしました。
私は言われた通り、先ほどとは逆の方から読んでみました。
「ええと『○などけいにかくします』…。ええっ!」
読み終わった途端、怜美さんを見てしまいました。
その顔は「謎解きを終えた名探偵」といった様子ではなく、どことなく「子供を見守る母親」といった表情でした。
「…などけい、って、これ…」
「『花時計』、かもしれないけど…」
「違う。これは…」
確信するものがあります。これは「花時計」ではないと。
「『砂時計』、ですね」
怜美さんも、ひらめくものがあったのでしょう。
解答を知って、私は息が切れそうになってきました。
主人はこれだけの物語を作り、さらにそこに大きな「仕掛け」を用意していたのです。
「『砂時計に隠します』、か…」
大きく息をついてソファーに深く座り直しました。そして首をそらして天井に目を上げました。
天国がその先にあって、そこに主人がいるのを確かめるような気持ちです。
「あなた、一体どうしてこんなことを…」
非難とか、そういう気持ちは全くありません。
ただ…。
「怜美さん、ありがとう。貴女がいなかったら…」
「そんなこと、いいんです。それより奥様、この『砂時計』に心当たりは?」
私はゆっくりうなずきました。そして、やはりゆっくり立ち上がり、怜美さんを手招くと、
「こっちよ、いらっしゃい」
主人の書斎へ連れていきました。
怜美さんが「砂時計」を導き出してくれた瞬間に、書斎にあるオーダーメイドの砂時計に思い至りました。もう、それ以外には考えられません。
書斎の前まで来て、私はなんだか、そこが「異境」へと続く扉のようにも思えました。
怜美さんが答えを出した主人の「置き土産」。それが今、明らかになるというのです。どんな形で待ち受けているのでしょうか。
「どうぞ」
私はドアを開け、怜美さんを中へ招き入れました。
毎日のように入ることはないけれど、それでも馴染んでいるはずの部屋が、そんなことはないはずなのに、やはりどこか謎めいて感じられます。
「これですね」
大きな木製の文机の上にある、ここには少し似つかわしくない、パソコンの脇に置かれた「砂時計」。その存在に気付くと、怜美さんはそれを手に取りました。
「なぜ先生は、こんな回りくどいことをしたのでしょう」
「わからないわ…子供っぽくて、いたずら好きではあったけど」
私は怜美さんの問いにも首をかしげるしかありません。
「でも『砂時計に隠します』って、どこに隠すというのかしら…」
目前の、それも疑問です。
「もしかすると…」
そう言うと、怜美さんは手にした砂時計をひっくり返しました。
今まで下にあった白い砂が上になり、今度は下へ向かって落ちていきます。
すると…。
「これです、奥様」
「え?」
怜美さんが砂時計を私の目の前に差し出しました。
そこには、ゆっくりと落ち続ける白い砂に混じって、小さな黒い四角いものがありました。一センチ程度の長方形をした、おそらくプラスチックでできている物体が、砂時計の中でひどく異彩を放っています。
「これって…」
「そうです。これパソコンのデータを保存するメモリーカードです。きっとこれにデータが入力されているはずです」
『砂時計に隠します』は、砂時計の砂の中に隠した、ということだったのです!
なんということでしょう。私は今までこの砂時計を触っていなかったので、このカードの存在に全く気が付いていなかったのです。
私はあらためて怜美さんの顔を見返しました。
小説のタイトルを見ただけで、全てを見通したような「答え」を出してくれた、その明晰な頭脳に私は驚きとともに恐ろしささえ感じてしまいました。
そんな私の心中を知っているのか、涼しげな表情を崩さないまま、手にした砂時計をじっと見つめています。
「怜美さん…」
「これ、どうやって出すんでしょうか…」
「え?」
私は一瞬、体が強張りました。
「砂時計の中に入っているものを取り出す」なんていうことは、未だかつて考えてみたこともありません。もし、そんなことをするのだとしたら…。
「壊す、の?」
「…」
無言で見つめ続ける怜美さん。
主人が大切にしていたものです。できれば壊してほしくなんかありません。
でも、必要ならば仕方のないことです。そこに大きな秘密がある以上、そして主人もそうなるであろうことはわかっていて仕掛けをした以上は、この砂時計の「運命」は怜美さんの手に委ねられたことになります。
しかし、怜美さんはしばらく、手にした砂時計を逆さにしたり軽く振ってみたりして、何かを見つけるようにしていました。
そしておもむろに、
「ああ、そうか…」
と言うと、カードの入っている方を上にしたまま、左手で本体を支える三本の木の柱を持ち、直径が十センチぐらいある白木の台座を、右手で揺すりながら上に引き抜くように力を入れて引きました。
やがてほどなくして、台座部はゆっくりと外れてしまいました。
「やっぱり…」
「え、どうしたの?」
私は台座を外した砂時計の上の部分をのぞき込みました。
するとどうでしょう。そこには、あるはずのガラス部分がなく、砂が入っている中へ直径三センチくらいの丸い穴が開いたようになっていました。
「なんなの、これ…」
これも主人が最初から考えて作らせたことなのでしょう。まず砂時計を作り、あとから完成した小説のデーターを入れようとしたのでしょう…。
一体、何を思ってこんなことをしたのか…私には皆目見当がつきません。
そしてそれ以上に、そんな予測不能なことを容易く解き明かす怜美さん、一体どのような「思考回路」を持ち合わせているのでしょう。もはや言葉も出ません。
その怜美さんは砂時計を傾け、中の砂がこぼれないようにしながら、ゆっくりとカードを取り出そうとしています。
私はその様子を不思議な実験か、あるいは怪しげな遊戯でも見るような、少し変な気持ちで見守っていました。
「出ました」
怜美さんは苦労してカードを出してくれましたが、彼女の心根には申し訳なくあるけれど、もう砂ぐらいこぼれても関係ないような気持ちになっていました。
「パソコン、お借りします」
怜美さんは、目の前にあるノートパソコンをためらうことなく開き、そして慣れた手つきで立ち上げました。
電源が入ったパソコンは、画面が徐々に明るくなり、やがて主人が好きな青い海の広がる風景が現れました。
「カードリーダ、付いてますね」
そう言うと、取り出したばかりのカードを、パソコンに接続されていた小さい装置の、いくつかある挿入口のひとつに差し込みました。
すると、しばらくして画面に新しいアイコンが現れました。
「カードの名前が『Alice』になってます」
机同様に整然とした画面に「Alice」という文字が浮かび上がっています。
それは、今までの怜美さんの推理が正しく流れてきているのを証明しているということでしょう。そして「クライマックス」も近いのでしょうか…。
怜美さんは、立ったままマウスを操作して、カードを開こうとしています。
「待って、怜美さん」
「え?」
私は、怜美さんがクリックしようとしていたのを止めました。
「ちょっと待ってもらえないかしら」
「あ、はい…」
出鼻をくじかれたように、少し戸惑いの表情を見せる怜美さんに、私は正直に言いました。
「なんだか怖いような、恐ろしいようなことが待ってるって、そんな気がするの」
子供が親にすがるような気持ちでいました。それがしかし、私の偽らざる心持ちでした。
でも怜美さんは、今度はまるで「母親」になってくれたかのように、優しくささやくのです。
「大丈夫、奥様を愛していらした先生のなさったことです。決して奥様を悲しませたり、つらい気持ちにさせたりするはずがありません」
自信に満ちた、強くて優しい声です。
その声は私にゆっくりと浸み込むように聞こえてきます。
「そうね、そうよね。あの人が私に遺してくれたものですものね…」
怜美さんの言葉に満たされて、私は気持ちが落ち着いてきました。
これではどちらが母親なのか、わかりません。
「お願いするわ」
私はパソコンの操作を任せ、画面に食い入るように身を乗り出しました。
「どうぞ、お座りください」
二人とも立ったままでいましたが、目の前の椅子を怜美さんが勧めてくれました。
「貴女こそ。私は後ろで見てるから平気よ」
そう言うと、彼女を半ば強引に椅子へ座らせてしまいました。
「大丈夫よ。まだまだ足腰は弱くなってないから」
私の言葉に怜美さんは黙ってうなずくと、マウスを持ったまま椅子へ座り、操作を続けました。
夫以外の、それもわかくて美しい女性がこの椅子に座ることに、私は少しだけ胸がやきもきするのを感じてしまいました。
「なんだか…ドキドキします」
いつも冷静な怜美さんでも、こんな場面では緊張するのでしょうか。やはり可愛い女性です。
それでも意を決したのか、怜美さんは画面をカチカチッとクリックしました。
怜美さんが言うように、主人が私を悲しませるようなものを遺すはずなどないのはわかります。でも、やはり一瞬、目を覆いたくなりました。
「あっ…」
「え?どうしたの?」
怜美さんの声に、私は少し体がビクッとしてしまいました。
「いえ、ごめんなさい。これを…」
私はおそるおそる画面をのぞき込みました。
すると、開いたフォルダーの中は、
「愛しの亜莉栖」に始まり、続いて「月夜の悪魔」「瑠璃色ブーケ」と、発売された順番に画面の上からタイトルが並んでいます。それぞれの作品のデーターのようです。
そして見ていくと『十作品』が並び、その下にあったのは、
「え?フォルダ、ですね」
怜美さんが怪訝そうな表情で指さします。
そこにあると予想していた『十一巻目』のデーターは現れませんでした。その代わりにフォルダーが二つ、待ちかねていたように登場しました。
そして、そのフォルダーに付けられていた名前は、
「『美佐へ』…」
「『亜莉栖へ』、って…」
私と怜美さんは、思わず同時に声を上げると、お互いに顔を見合わせてしまいました。
『十一巻目』が、このどちらかに入っているのでしょうか。それであればいいのですが、もしそうでなければ…。
そして何より私たちの心にさざ波を立てたのが、私宛てのフォルダーがあるのはわかりますが、もう一つが「亜莉栖」に宛てていることです。
「亜莉栖、って貴女のことかしら…」
「え、まさか。だって先生がこれを遺したの、ずいぶん昔のことですよね」
怜美さんは怪訝な顔で答えます。
そうです。主人が死んでからもう七年にもなります。そして、ここにこのデーターを遺したのは、少なくともそれより前のこと、七年以上たっているはずです。
それとも、主人が生前に「怜美さん」の存在を「予知」したとでもいうのでしょうか。
「とりあえず見てみます」
なんにしろ、考えてみても何もわかりません。止まった手をあらためて動かす怜美さん。
「奥様の方から…」
私宛て、と思われるフォルダーを開きました。
画面上の矢印の動きを、私は固唾をのんで見守っていました。
すると…。
「動画、みたいですね」
そこにあったファイルを見て、怜美さんは言いました。
「動画?じゃあ…」
「『十一巻』ではなさそうです」
アルファベットと数字が並んでいる、私には意味のわからないものです。それを怜美さんは当然のように、何であるかを見極めるのでした。
「…では、いきます」
怜美さんがマウスでクリックをすると、画面が動き出し、やがてテレビのようになってきました。
そして次の瞬間、
―美佐、そこにいるんだね…。
「あなた!」
主人が、死んだ主人の「生きている顔」が、そこに現れ語り始めたのです。
「あなた…あなた…」
私は画面を抱きしめるようにしながら、とめどなくこぼれ落ちる涙を拭うことも忘れて見入ってしまいました。
怜美さんがいることも気にも留めずに。
でも次の瞬間、頭がぼうっとしてきて、やがて意識も朦朧となってしまいました。
「奥様!」
怜美さんのその言葉を聞いた、そのあとのことは思い出せません。
気が付くと、私は自分の部屋のベッドの上にいました。
「あ、気が付かれましたか」
私は自分が覚醒したことを認識できない中、それが大仕事でもあるかのように目を開け、そしてベッドで横になっている状態であることを知ると、やっとの思いで体を起こしました。
「怜美…さん…」
目の前にいて私の顔をのぞき込んでいるのが怜美さんであることに気付きました。
そして、ぼうっとしている頭を軽く振ると、主人の映像を見て気を失ってしまったことを思い出しました。
「よかった…。びっくりしました。急に倒れられて…」
「ごめんなさい…。なんだか主人の声を聞いたら、胸がいっぱいになってしまって…」
倒れてしまった私を、彼女はベッドまで運んで寝かせてくれたのでしょう。
「ありがとう、怜美さん。でも、貴女一人で連れてきてくれたの?重かったでしょう」
「ええ、でも必死でした」
笑いながら答える怜美さん。
「ずいぶん寝てたのかしら」
私は時計に目を向けました。
「そう…一時間ぐらい、ですね」
「まあ、ごめんなさい」
「いえ、なんでもなかったのでよかったです」
ほっとしたように微笑む彼女に、私はとても申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいました。
「本当にごめんなさいね」
私はベッドから起き上がろうとしました。
「あ、無理なさらないで」
まだ不安な気持ちがあるのか、体を起こそうとした私を、怜美さんは押しとどめようとしました。
「ううん、大丈夫よ」
彼女の優しさを嬉しく思いながらも、私はゆっくりと起き上がりベッドを出ました。
先ほどの主人の映像が気になってしまい、寝てもいられなくなりました。
「もう一回、見せてくれる?」
「ええ、は、はい…」
私は怜美さんを尻目に、足早に書斎へと向かいました。
すでにパソコンは消されていて、待ち人たちを無視するかのように閉じられていました。
怜美さんがもう一度、立ち上げると、
「今度は先に『亜莉栖へ』のフォルダを開けてみます」
私が再度、気分を悪くすることを避けたかったのでしょう。よっぽど「もう平気」と言おうと思いましたが、怜美さんの気遣いも考え、黙って従いました。
フォルダーをクリックする怜美さんの手を、不安な気持ちを持ちつつ、見守っていました。
「あ!」
怜美さんが小さく声を上げました。
「え?」
画面をのぞき込む私。そこに見えたものは…。
「『さよなら亜莉栖』、やはり十一巻目がありました」
画面の中に見える「さよなら亜莉栖」のファイル。怜美さんが「予言」していた、まさにその存在が今こうして目の前に現れたのです。
私は、今度は違う意味で、そして今度こそ本当に、恐ろしさがこみ上げてくることを禁じえませんでした。
「怜美さん、貴女の言った通りだった…」
十一巻目が存在したということと、何より「さ」で始まり「す」で終わる七文字のタイトル、そしてそれが正に「さよなら亜莉栖」であること。
いえ、もはや十一巻目の存在など、信じて疑わないでいました。
あまりにも読み通している怜美さん。あまりにも「亜莉栖」である怜美さん。
「タイトル名は…当て推量です。まさか本当にこうだとは思ってもいませんでした」
そう言うと、少しはにかんだような表情で微笑み、その流れでファイルを開く怜美さん。
「やはり十一巻のデータですね」
そこには主人がいつも書いていた小説の、今までと同じような文章が流れているページが現れました。
怜美さんは開いたファイルを読み始めました。
「印刷してみましょうよ」
「そうですね。では…」
彼女が部屋の片隅に置かれているプリンターのスイッチを入れると、静かな部屋にガチャガチャと大きな音を響かせて動き始めました。
やがて、その大きな機械の中から白い用紙が次々と吐き出されてきました。
「少し時間がかかりそうですね。先生の映像、ご覧になりますか?」
「あ、そうね」
と、言いましたが、ふと気が付いて、
「待って。印刷が終わって静かになってからにしましょう」
主人の声は、静粛な気持ちで聞きたいと思いました。
やがて印刷も終わり、プリンターの吐き出し口にたくさんのコピー用紙が溜まって、それと引き換えに部屋には静けさが戻ってきました。
そして…。
「お願い、するわね」
「はい…」
再び、動画のファイルを開いてもらうと、私は主人との対面を果たしました。
―美佐、そこにいるんだね…。
静かに、ゆっくりと語り始める主人。穏やかな、優しい顔のままです。
「あなた…」
―いつか君に僕の遺書として見てもらいたくて、この映像を撮ったんだ。そして君がこれを見ているということは、きっともう僕はこの世にいないということなんだろうね…。
決意のこもった表情になって主人は語り続けました。
私はやはり涙があふれて止まらなくなっています。
―美佐、ごめん。君をいつまでも守り続けたいと考えていたけれど、どうやらそれもできなくなってしまったようだね。
もういない主人が、自分のことを客観的に語る姿は、見ていて胸が張り裂けそうになります。
しかし…。
―でも美佐、そこに今、亜莉栖がいるんじゃないかい。
「え?」
一瞬、息が止まりそうになりました。
―亜莉栖が、ここまで連れてきてくれたんだよね。
パソコンの画面を二人で見つめながら、主人の話す内容に驚きを禁じえませんでした。
「なぜ…」
―美佐、君はあんまり物事を深く考えないほうだから、一人でここにたどり着けるとは思ってなかった。でも亜莉栖がいてくれれば、きっと君を導いてくれると信じていたよ。
よく見てみると、いつもと変わらないような普段着でいる主人の後ろに映っているのは、私たちが今いる書斎でした。ここで撮影されたもののようです。
―この映像を見てくれるのがいつなのか、僕もわからない。でも…でも君にはいつまでも元気で幸せな人生を歩いてほしい。毎日を笑顔で暮らしていってほしい。僕がいなくなっても、そんなこと忘れるぐらいになってほしい…。
「ばか…。そんなことできるはずないじゃない」
私は画面の中の主人に向かって言いました。
すると…。
―君は「そんなことできない」って、そう思うかもしれない。でも僕にとっては…もう君を抱きしめることができなくなった僕には、そう願うしかない。そうなってくれることが、僕にとっての一番の「供養」なんだよ。
私の心を見透かしたように、画面の中で主人は語りかけてくれます。
微笑んで、小さな子供を諭すように。
―美佐、隣にいる亜莉栖と一緒になって新しい未来を生きていってくれないか。
亜莉栖…怜美さんを伴っての人生。
もちろん、比喩的な表現なのはわかります。でも、それは私にとっては願ってもないことです。
これから「亜莉栖シリーズ」をステップに、さらに人気を高めていくであろう怜美さんを、そばに押しとどめることなどできるはずもありません。それでも彼女の活躍を、テレビを通してだけでも応援していく人生も悪くないと思っていました。
―亜莉栖、僕の大切な美佐をよろしく頼むよ。
「はい…」
「怜美さん…」
隣でうなずく怜美さんの目にも涙が浮かんでいます。
―こうやって話をするのも難しいものだね。今までこんなことをしたことがなかったから、ちょっと戸惑ってしまったよ。
照れ臭そうに笑う主人。
―とにかく、まあなんだ。美佐、元気で幸せに暮らしてくれ。あんまり良い夫ではなかったかもしれないけど、その分、君には感謝してもしきれないぐらいだ。ありがとう。
「あなた…」
―あの日、かぼちゃ亭に行って良かったよ。そして…君に出逢い、君を愛せて、なんて幸せな人生だったことだろう。ありがとう、本当にありがとう。
主人の顔に満面の笑みが浮かんでいます。
―そして、今言うのもなんだか全然、実感がわかないんだけど…。美佐、さようなら。
そう言い終えると画面が途絶えました。
「あなた、ありがとう…」
涙で目の前がかすんでいました。
怜美さんは動画を終了させると、パソコンを消しました。そして静粛な儀式を終わらせるように、静かにノートパソコンを閉じるのでした。
「奥様、先生にとっても愛されていたんですね」
怜美さんが、自分のことのように嬉しそうな笑顔で私を見ています。
「あら、恥ずかしいわ」
私は指先で涙を拭いながら、少しはにかんでしまいました。
短い映像でしたけれど、主人が私のことを本当に心配してくれていたのが、今さらながらわかりました。私を残して逝ってしまったこと、さぞかし無念だったことでしょう。
「あの人、照れ屋だったから簡単には気持ちを伝えたくなかったのね。でも、必ず『亜莉栖』が現れて、これを見つけてくれるって、そう信じていたのね。だからこんな形の『遺書』を遺したのね。それがこんなに早く訪れるなんて…」
しどろもどろだったプロポーズをはじめ、気持ちを表現することに不器用だった主人を思い返しました。
小説ではあんなに素敵な言葉を紡ぎだすくせに…。
でも、少し違和感もあります。
亜莉栖が、怜美さんが本当に現れて、そして見事に見つけてくれたから良かったけれど、もしそういうことがなければ、私だけでは永久に発見されずにいたでしょう。
そんな危ういことを、夫はなぜしたのでしょうか?
もちろん、夫も「この時」には、自分がこの世からいなくなる日が、そんなにも早く来るとは思ってもいなかったはずです。だからきっと、深くは考えていなかったのでしょう。
まさか、自分の最期の時が、悪魔のように目の前に来ていたとは、考えてもいなかったはずです。
そう、あんな事故に遭ってしまうなんてことを…。
「ところで奥様…」
「あら、何かしら」
一瞬、自分の思考の世界に浸ってしまっていました。
「この小説、どうしますか?」
怜美さんは、印刷された用紙を持って私に手渡してくれました。今までの亜莉栖シリーズと、枚数は同じぐらいのようです。
「そうねえ、まず読ませてもらおうかしら」
「…そうですか。そうですね」
なんとなく怜美さんに元気がないような気がします。
そういえば、もう日も暮れて夕食時も近づいています。
「ねえ、夕ごはん食べない?」
「え、いいんですか…」
「もちろんよ。ごちそうするから待ってて。私が作るから、怜美さん先に原稿、読んでて」
「は、はい…。ありがとうございます」
どこか遠慮がちながらも、小さく笑顔を見せてくれます。
「かぼちゃ亭仕込みの腕前を見せてあげるわね」
「わぁ、楽しみ!」
私は、料理をするのがこんなにも浮き浮きするということを、すっかり忘れていました。誰かを笑顔にすることが、こんなにも幸せな気分になるのかと、全く思い出せないでいました。
主人が言っていた「幸せになってほしい」ことを、私はすぐに実現できた気がします。
幸せって、こういう所にもあるのがわかりました。
「そうだわ、久しぶりにかぼちゃ亭にも行ってみなくちゃ」
「かぼちゃ亭って、奥様が先生と知り合ったお店ですよね?」
「そうよ。今度、連れていってあげるわ。小っちゃな店だけど、味は確かよ」
「嬉しい!」
怜美さんの笑顔、私にとっての最高のご褒美です。
それから私がキッチンで夕食の準備に取り掛かっている間、彼女は発見された原稿をダイニングで読んでいました。
はりきってごちそうを振舞おうと思った私は、久しぶりに「腕によりをかけた料理」を作ろうと、いろいろと凝ってみました。もっとも、かぼちゃ亭で覚えたようなメニューばかりなので、和食を中心にした「家庭料理」しか思い浮かんでこないですが。
「怜美さんは嫌いなものってあるかしら?」
ダイニングテーブルで熱心に原稿を読んでいる様子の彼女に、少し気を散らせて悪いなと思いつつ、尋ねてみました。
「…え、私?いえ…特にありません」
答える様子を見ると、集中して読んでいる表情がよくわかります。
私はそれを微笑ましく見守ると、また調理に手を進めました。
冷蔵庫を見て食材を探し、そしてメニューを決めていきます。誰かのためにメニューを考えるのも、本当にいつ以来のことでしょう。きっと、主人が亡くなる直前に食事を作ってあげたのが、私にとって一番最近の「お料理」だったと思います。それ以来、包丁を握るのは自分が食べるものを作るだけでしかありませんでしたから。
「さあ、がんばろう!」
メニューも決め、自分に気合を入れて、いざクッキングです。
どれぐらい時間がたったでしょう。
少しだけ気張っていたこともあり、一時間以上は時計が進んでいたようです。
ふと気が付くと、なんだかすすり泣くような声が聞こえてきます。
「おや?」と思い振り返ると、怜美さんの後ろ姿が小刻みに震えているのが見えました。
「怜美さん…」
それ以上、私は声を出すことができませんでした。
衝撃的でした。
冷静でいることが多い怜美さんだって「人の子」、涙を流すことだってあるでしょう。
しかし、それを「そぐわない」という感覚でいるのは、やはり失礼なことです。
まだ読んではいないけれど、十一巻はきっと感動的な話なのでしょう。その内容に触れ、感極まって涙してしまったに違いありません。
そう決めつけると、私は少しだけ静かにしようと思い、準備の手を止めていました。
「あ、奥様…」
ふと我に返ったように、怜美さんが振り向き私の方を見ました。
気のせいか、目が赤いようです。
「すみません、お手伝いもしないで…」
「あら、いいのよ。お客様なんだから。ゆっくり座ってらっしゃい」
私はにこやかに言いました。
「それに、小説も早く読みたいでしょ?こっちは平気だから」
「ありがとうございます。もうすぐ終わります」
いたずらを咎められ、ばつの悪い思いをしている子供のようにも見えました。
やはり繊細な心の持ち主なのです。
私はわざとゆっくりと手を動かして、彼女が読み終えるころあいを待ちました。
すると、
「ごめんなさい、終わりました。お手伝いさせてください」
と言いながら、近づいてきました。そして、できあがってきている料理の盛り付けられている皿を見ると、
「わあ、美味しそう!」
まるで小さな子供のようにはしゃいで、歓声を上げました。
「はい、それじゃあテーブルに運んでちょうだい」
そして私は母親の気分で命じました。
「はぁい」
ひと時、あきらめていた「感情」を味わうことができた私は、不確かだけれども、そこに小さな幸せを感じていました。
夫と共に暮らしていた時間、それはもちろん満ち足りていた幸多い毎日だったと言えます。
それでも、愛し愛されていた二人の間に、もし子供が授かっていたら、きっとまた違った幸せな時が流れていたことだったでしょう。
今こうして食事を運んでくれている怜美さんの笑顔に、私はそんな「幻影」を見ているのでしょうか。
「本当に美味しそう」
「さあ、どうぞ。召し上がれ」
テーブルに並んだ私の手料理。かぼちゃ亭で教わった「家庭の味」。
夫も喜んで食べてくれた煮物、焼き魚、ポテトサラダ、おひたしと甘口の玉子焼き。そして白いご飯に野菜たっぷりのお味噌汁。
特別なものはないけれど、でも心を込めて作った、私の会心の料理。
美味しそうに箸を進める怜美さん。
このまま時が止まればいい、そう思う。
そして、それができるのであれば、この場にもう一度、夫の笑顔が欲しい。
時が遡って、私の愛したひとに、帰ってきてほしい。
ほんの一瞬でいいから…。
その後にどんな罰でも受けるから。
命も、差し出します…。
怜美さんの帰った夜。
久しぶりに満ち足りた時間が終わった後は、今まで以上の「虚無感」に苛まれてしまいます。
夫が逝ってしまってからは、やはり「負の感情」でいることの方が多かったと思います。そして孤独というものに慣れてしまって「楽しい」とか「嬉しい」とかの気持ちを忘れていたのかもしれません。
それを怜美さんと一緒にいることができて、しばらく消えていた心の底から発する光に照らされて、止まっていた時計の針も動き出したのでしょう。
だから、その反動は大きくのし掛かってくるようです。
私はいつもより大きくなってしまった寂しさを傍らに、残された原稿を読み始めました。
それが唯一の救いでもあるかのように…。
「さよなら亜莉栖、か…」
タイトルを口にし、帰っていった怜美さんへも重なると思いました。
あっという間に読んでいった感のある怜美さんでしたが、私はマイペースに読もうと決めていました。
しかし…。
気が付くと日付が変わっていました。
夫がデビュー作として書いた「愛しのキッチンパンプキン」を徹夜で読んでしまった時と同じように、一気に読み終えてしまったのです。
他の亜莉栖シリーズも、どちらかというと「中編小説」程度のボリューム感なので、読むのにもさほど時間はかからなかったのですが、最後の「さよなら亜莉栖」はそれまでのものよりページ数の多い作品でした。
「怜美さん、ずいぶん読むのが早かったわね…」
そして、衝撃的なラストシーンが待っていたました。
「最後の事件」を解決した亜莉栖が…。
「えっ?」
私は目を疑いました。
〈私はあなた方の前から姿を消します。もう私を探さないでください。多くの事件に関わって、私は疲れ果てました…〉
なんと亜莉栖は「置手紙」を残して、自ら行方をくらまし、事件捜査の現場から、それに彼女を慕う人たちの前からさえも消え失せてしまうというラストなのです。
夫の書いた作品の結末としては、なんだか不自然で、何より淋し過ぎるような気がしました。
十巻続いた、難事件を解決した立役者が表舞台から降りるシーンにしては、少し中途半端な気もしましたが…。
でも、あらためて考えてみました。
あえてこういう形にしておけば、亜莉栖を「再登場」させることも可能なはずです。きっと夫は亜莉栖を大切に思い、いつか「続編」を書こうと思っていたのでしょう。
しかし彼のその願いも、今では永遠に叶えることができなくなってしまいましたが…。
それから私は考えました。この物語も、それまでの十巻と同じように発表するべきなのか…。
怜美さんは、
「それは奥様のご意思のままでいいと思います」
と、私に「一任」して行きました。
十巻まで続いたシリーズに、実はもう一巻が残されていた。それも、まるで小説さながらの「仕掛け」があり、しかもヒロイン役でもある怜美さんが、物語の中の亜莉栖のごとき名推理で解き明かした…。
こんなセンセーショナルな話は、絶対に評判になること請け合いですが…。
「事実は小説より奇なり、よね…」
なにせ最後は亜莉栖が去っていくというのも、シリーズを締めくくるのに適していると思います。
今までの「最終話」だった十巻の「見知らぬ女」でシリーズの幕を閉じるより、それはそれで「形」になっているでしょう。
そう思いを巡らせた私は、さっそく出版社へ電話をかけることにしました。
一冊を読み終わり、そうこうしているうちに外もだいぶ明るくなってきてしまっていました。
呼出音が受話器の奥で鳴っている間、十一巻があることを告げたら、麻衣さんや松本さんは一体どんな表情をするのでしょうか。
私は、少し楽しみになってきていました。
「もしもし、紀藤ですが。松本編集長か満嶋さん、お願いできますでしょうか…」
電話で「十一巻がある」ことを松本さんに簡単に話すと、信じられないぐらい驚いた様子で、本当に飛ぶようにやってきました。
「奥様、一体どういうことなんですか?」
まさか会社から走ってこの家までやってきたわけではないのでしょうが、そう思えるぐらい息を切らし、この季節にはちょっとそぐわないような汗をかいています。
「これなんです」
夕べ印刷した十一巻「さよなら亜莉栖」のずっしりとした原稿を松本さんに渡すと、怜美さんが解き明かしていった一部始終を、私が「名探偵」になった気分いっぱいに、ちょっと探偵小説の中のシーンを思い起こさせるような感じで話してあげました。
「すると亜莉栖シリーズのタイトルが暗号になっていたと、そういうことなんですか!」
信じられない、そう言いたげな表情で、手にした原稿を見つめる松本さん。
「事実は小説より奇なり、ですね…」
私が感じたことと同じように、彼もつぶやきます。
「いやぁ、しかし…。まさか、そんな…」
「え?」
松本さんの様子は、存在など考えもしなかった「十一巻」があったということに対しての驚き、とは別の何かがあるような感じでした。
「いえ、奥様。この原稿なんですがね、実はずいぶん早い段階からですが、怜美が言っていたんです…」
「…」
「もう一巻あるんじゃないか、って…」
怜美さんが「タイトルの暗号」を解くためだったと思われた、私に名前を聞いてきたのがやはりだいぶ前のことだったですし、それを周りにもほのめかしていたのでしょう。
「そうだったんですか…」
私は彼女に「名前」を聞かれたことを話しました。
すると松本さん、もっと驚いた様子で、
「え、怜美、奥様のお名前を知らなかったんですか?」
「大人になると名前の方は気にしなくなってくるし…。きっと確信するためだったんじゃないですか」
「え、でも、だって、怜美は…」
松本さんの顔色が変わっていくのが、目に見えてわかりました。
「怜美さんがどうかしまして?」
何が待っているのでしょう。私は、松本さんの次の言葉を聞くのが恐ろしくなってきました。
「怜美は…怜美は、奥様が連れてきたんではないんですか?」
「ど、どういうこと…?」
言葉が続かない。
何を言っているの…。
「え、みんな…稲村監督も、渡壁プロデューサーも…。みんなが、怜美を連れてきたのは奥様だって…」
思考…。
私が怜美さんを連れてきた…?
「ああ、そういうことね」
一瞬、頭が凍りつくような感じがしました。が、すぐに氷解しました。
「いやだわ、松本さん…。あの日はビルの前でたまたま、どう見ても亜莉栖にしか見えない女の子がいて、それで声をかけてみたら…。本当に偶然、あの場所で会ったから連れてきた、っていうわけ」
暑い夏の日の一場面を思い返すと、私は説明しました。
そう、誰もが初対面で「亜莉栖」と呼んだ日のことです。
私が連れてきた、というのは、私が案内しただけのことです。
「?松本、さん…」
解けたはずの謎は、しかし決して消え失せていなかった。いえそれどころか、さらに新しい問題を投げかけてしまっていたのです。
松本さんの目は、見てはならぬものを見てしまったかのように、大きく開かれ、表情までなくしていました。
「そ、それでは…一体、誰が…誰が彼女を、怜美を連れてきたんだ…」
「え、誰って…?」
「奥様、あのカメラテストは、誰にも知らされていなかったんです。関係者以外は、あの日にあの場所で行われることは、誰も知っているはずがない…」
「え、それって、だって松本さん。亜莉栖役にいい人がいた、っていうからカメラテストをするって、そうおっしゃられていませんでした?」
いつだったか、麻衣さんから連絡があったことを思い出しました。
「確か監督さんが、雰囲気のある人がいるからとか、そんな話だったと思いましたけど…」
「え?監督…稲村さんはそんなこと言ってはいませんでしたよ」
「うそよ、麻衣さんが言ってたはずよ」
私は自分の記憶に、だんだん自信がなくなってきました。もしかすると違ったことを言っていたのかも…。
「第一、もしカメラテストの前なら、満嶋は稲村監督とは面識ありませんでしたから」
「ええ、それじゃあ何て言ってたかしら…」
もう曖昧なことしか思い出せません。
ただ、間違いないのは…。
「でも松本さん。私が怜美さんを亜莉栖役に、っていうことで連れてきたんではないわ。本人が言うんだから、これは間違いないわ」
「本当ですか?」
「絶対…」
「それでは一体、誰が…。現場のスタッフは全員が、怜美は奥様が見つけて連れてきた女優だって、そういう認識でしたよ」
全くもって身に覚えがない話です。
いくらなんでも、私自身がそんなことを認識していないのですから。
「正直に言えば、紀藤先生の奥様が推薦する女優だっていうことだったから…。亜莉栖にピッタリの子だっていうんで、それなら特別にカメラテストやってみようっていうことになったんです。だから実際に怜美を見るまでは、少し心配っていうか、半信半疑だったんです」
「そうだったの…」
もし冷静に聞けば、ひどく失礼な話だったかもしれません。わがままな女が、夫の作品を盾に自分の横車を押すようなことをしていたと、そういうわけなのですから。
そして、それを渋々聞き入れていた、という構図なのでしょう。
でも、それこそ身に覚えがないのだから、怒る気にもなりません。
「でも、ふたを開けてみれば、あまりにもイメージ通りの女優が現れた…」
「…」
「実はそうでなければ、あらためてオーディションだったんです」
「そうだったの…」
考えてみれば、あの時にスタッフの方たちが怜美さんを見て、一様に驚いていたのを覚えています。そう、監督の稲村さんも、怜美さんを見た瞬間に驚きの声をあげたことも思い出しました。そして、私に「よく連れてきてくれた」みたいなことを、誰ともなく言っていたような気がしました。
そうしてみると、スタッフの方たちにとっては本当に「私が怜美さんを連れてきた」ということだったのです。
「もしかして…ほんとに違うんですか?彼女は奥様が連れてきたのでは…」
私は何も答えず、ただ首を横に振るだけでした。
「それじゃあ一体、誰が怜美を連れてきたんだろう。怜美はどこから現れたんだ…」
謎が深まっていきます。
「…誰が、怜美は奥様が連れてきたって、言いだしたんだろう」
誰が連れてきたのか、心当たりのある人がいないから、だから必然的に私が見つけてきたことになってしまったのでしょう。そしてそのまま、私が「適任者」がいるから会ってほしい、ということが発端だったと、逆説的に収まっていたに違いありません。
けれど、それは間違いです。
もう一度、始まりに戻って考え直していく必要があります。
「本当に私は何もしていないわ。天に誓ってもいい」
「そう、ですか…」
頭に手をやり、松本さんは考え込んでしまいました。
「…いえ、別に今となっては、誰が連れてきたとかなんて、もうどうだっていいことなんですけどね」
「そう…そうよね。怜美さんのおかげで素敵なドラマができたわけだし…」
「まあ、いつか怜美に会った時に確かめてみますよ。本当のことを」
「もうそんなこと、どうでもいいじゃない」
私はなぜか怜美さんが、真実を告げられないような「負い目」でもあるのではないかと心配になってしまいました。それを知られてしまうことは彼女にとって辛いことであるような…。
しかし、松本さんは頓着せず、
「何より…」
松本さんは手にした原稿を上にあげると、
「幻で終わるところだった『さよなら亜莉栖』も見つけてくれたんです。怜美には感謝しかありません」
「それで、その原稿はどうするの?」
怜美さんのことも心配でしたが、原稿のことも気になって尋ねました。
「もちろん、これからスタッフ会議です。こんな話題豊富な作品を見過ごすわけには参りません」
大きな謎はとりあえず封印して、新しい展開に向かうのでしょう。意気揚々とした、本来の松本編集長の顔になってきていました。
「そうだ、これだけの話題作だし、もっと大きな舞台に立ってもいいのかもしれない…」
帰り際、意味深げにそう言い残していきました。
今晩も、違った意味で眠れなくなりそうです。
一体、誰が怜美さんを連れてきたのか…。
ドラマの中でも、そして現実の世界でも、見事に亜莉栖を演じきった…いえ、亜莉栖であった岡野怜美という女性。
そして、私にとっては「かけがえのない娘」です。
彼女が、罪を犯しているとか、そういう人間でないと信じていますし、おそらく誰もそんなことを思ってもいないでしょう。
しかし…。
驚くべき報告が届いたのは、怜美さんと「さよなら亜莉栖」のデーターを見つけ出してから、わずか一週間しか経っていない、少しずつ寒さが増してきた日の午後でした。
「映画化、ですか?」
「そうなんですよ。もうテレビの枠を飛び出して、今度は映画になります」
報告に来てくれた松本さん、嬉々として話してくれます。
「それからもちろん、小説も映画の公開と同時に発表です。『亜莉栖が見つけた幻の最終作』、話題満載です。これは大評判になりますよ」
まるで我がことのように、声も裏返らんばかりです。
しかし、急にトーンが下がり出すと、
「あのう…それで、最初に確認しますが…。映画にするのをお許しいただけますよね?条件とか、正式な契約はあらためてしますが…」
今までの経緯から、心配になったのでしょう。おそるおそる、といった様子で私は顔を覗きこまれました。
私は、微笑みと言うよりも苦笑いを浮かべる自分の顔を想像しながら答えました。
「はい。どうぞよろしくお願いします」
気持ちは、決心はすでに固まっています。
どのような形であれ、亜莉栖シリーズは最後まで見届けるつもりでいました。映画であっても、テレビであっても、それはもうどうでもいいこと、映像化を許した以上は、より良い作品に仕上げてほしい、ただその一点に尽きるのです。
「あ、ありがとうございます。今度も最善を尽くして最高の作品にしますので、よろしくお願いいたします」
立ち上がると、深々と頭を下げてくれます。
「…」
考えると、この「亜莉栖シリーズ」、書き上げたのはもちろん夫です。夫がいなければ、この「物語」は始まらなかったことです。
そして、その「物語」を紡ぎ続けたのが松本さんや麻衣さんたち、出版社の方々。それとプロデューサーの渡壁さんや稲村監督たち、映像化を支えたスタッフの皆さんです。
それから怜美さんをはじめ、多くの出演者の人がいて、はじめて完成できるのです。
そこには「私」などの存在が、全く不要なのではないか、そう思えて仕方なくなってしまいました。
今、目の前でこんなにもかしこまって頭を下げられるような、そんな立場ではないなと、つくづく感じます。
何度も何度も、こちらが恐縮するほどに頭を下げながら、映画の成功を確信するように、松本さんは帰っていきました。
その姿を見送りながら、私は今ほど、自分の存在が無力に等しいことを実感せずにはいられませんでした。
そのとき…。
無力…力…力が、入らない…。
「……?」
松本さんを玄関口で見送った、ドアノブを回しながら、私は体がずるずると、崩れていくような、溶けていくような…。
「奥様、すみません。忘れ物…。え、奥様!」
松本さんが戻ってきたのはわかりました。
そこで、私の意識が途絶えました。
ここは…どこだろう…。
「…誰か…早く…」
もうろうとする意識の中、どこからか聞こえてくる誰かの声。
途切れ、途切れ…。
目を開けているのか、それとも閉じているのか。それすらも不明瞭。
「…それでは…」
松本さんの声?
ここはどこ?
「あ、気が付かれましたか?」
目が覚めた、と私には感じられました。
はっきりと、意識が帰ってきていることが自覚されました。それでも、今までどうしていたのか、眠ってでもいたのか、自分自身の現在の「立場」が不安になってきました。
目の前にいて私の顔を見ているのは麻衣さんのようです。心配そうにしていて、少し顔色が悪く見えます。
「ここ…どこ?」
私はベッドに寝ているようです。
そういえば、先日も怜美さんが来てくれた時も同じようなことがありました。
「良かったぁ…」
ほっとしたように大きく息を吐いた麻衣さん。どうやら長い時間、私は目を覚まさなかったようです。
「びっくりしました。編集長から電話があって、奥様が倒れられて、それで救急車で病院へ行った、って…。私、慌てて飛んできたんです」
まだ、その気持ちを引きずっているのか、いつものように冷静な話し方を忘れているようです。
「私、どうしたのかしら…」
「覚えて…いらっしゃるわけないですよね。ご自宅で倒れたんです。ちょうど松本が訪問して帰ろうとしてた時だったんです」
そうだわ、なんとなく思い出してきた…。
あの時…。
「松本も驚いて…。いきなり救急車、呼んでしまったんです」
「まあ、ご迷惑かけちゃったのね。ごめんなさい」
「迷惑だなんて…。それよりお加減、いかがですか?」
「ありがとう。もう大丈夫よ」
ぼうっとしていた頭も、どうやらすっきりしています。何が原因なのかわからないので不安ですが、とりあえず痛いとか、苦しいとかの感覚はないので、平気でしょう。
いえ、なんだか腰のあたりがひどく痛むような気がします。きっと、しばらく寝ていたので痛みが出てしまうのかもしれません。
「でも先生がもう少し様子を見ましょう、っておっしゃっていました。まだ帰っちゃダメみたいです」
私の気持ちを先まわりするように、麻衣さんはお医者さんの言葉を差し出してきます。
「あ、念のため、だそうです」
「…」
私は声を出せませんでした。
彼女の言った「念のため」っていう言葉、小さいけれど鋭い刃のように、私の心の「不安」という名前の弱い部分を、まるで計ったように突き刺してきました。
麻衣さんに「他意」は無いのでしょう。言葉通りの気持ちに違いありません。
でも、私はひどく反応をしてしまいました。
「せっかく、っていうのもおかしいですけど、少しゆっくりしていかれたほうがいいですよ。きっとお疲れなんだと思いますから…」
「心配してくれてありがとう」
ベッドの中から、私は麻衣さんを見ました。
待ってくれている人もいない私。ここで―どこの病院だかわからないけれど―こうしていても誰も困ることもありません。
ただ…。
「今、何時かしら?」
「ええと…夜の七時過ぎですね。もうすぐ八時になります」
麻衣さんは自分の腕時計に目をやると答えてくれました。
「あら、もうそんな時間…。ずいぶん眠っていたのかしら」
「そうですねぇ。松本がどうしても社に戻らなければならなくて、それでさっき私と交代したんです。だから…」
私のせいで、皆さんに迷惑をかけてしまったようです。
「ごめんなさい、麻衣さん。こんな遅くまで残ってもらって、悪いわ。適当にお帰りになって」
「いえ、大丈夫です。仕事してるときなんか、もっと遅くまで会社にいるの、当たり前ですから。全然、問題なしです」
出版社の仕事は不規則で、時には徹夜になるようなことも多いと聞いています。
でも、本来の仕事でもないのに、こうして病院に残っていてもらうのも、少し気が引けてなりません。
「ちょうどサボれていいです」
気を使ってくれているのか、明るく受け答えてくれる麻衣さん。
私は素直に好意を受けることにしました。
「そういえば、映画を作るんですってね」
「ええ、おかげさまで…。きっと評判になると思います」
仕事の話になると、途端に目の輝きが増すのがわかります。根っから、この仕事を愛しているのだと思われます。
それからしばらく、今までのドラマのことなどを立て続けに話してくれました。
「出版社に勤め始めて、まさかテレビドラマの制作に携わることができるなんて、思ってもいませんでした」
大きな「制作」という括りで言えば、私などのように何も知らない人間からしてみれば、本を作るのもドラマを作るのも変わらないことに思えますが、実際の現場に立つと全くの別もののようです。
「でも、刺激があって楽しいです。今までやってきた仕事でも、また違った見方で切り込めるので、すっごく役に立ってます」
嬉しそうに話す麻衣さんでしたが、やはり「あのこと」を尋ねてみたくなりました。私は話をしやすいように、ベッドの上半身を上げて、視線を高くしました。
「ねえ、麻衣さん…。ちょっと聞いておきたいことがあるの」
「あ、はい。なんでしょうか…」
上半身を少しギャッジアップして同じぐらいの目の高さで話す私は「ベッドの壁」を背にしているので、麻衣さんから見ると「立場」もあることだし、少し威圧感があるかもしれません。
私は、しかし気にせずに切り出しました。
「怜美さんのことなんだけど…」
松本さんと話したことは、すでに彼女の耳に入っていることでしょう。私は多くを語らずに、彼女に真意を読み取ってもらうつもりでいました。
「奥様、ではなかったんですよね」
やはり聡明な麻衣さんは、少ない言葉でも空気を読んでくれています。
「最初に、誰から聞いたんだか…。なぜかはっきりしないんです」
「貴女じゃない、そうは思うの」
最初に怜美さんを迎えた時、松本さんが麻衣さんに知らせるからと、携帯電話で写真を撮って送っていたことを覚えています。麻衣さんの知り合いならば、そんなことをする必要はないと思うのです。
「仲村さん…?」
彼女は旧知のイラストレーターの仲村さんの名前を出しましたが…。
「仲村さんは、違うって言ってらっしゃったわ」
「うーん、そうなると…」
麻衣さん、頭を抱えてしまいました。
「直接、本人に確かめてみます」
そう言うと、バッグを引き寄せ、中から携帯電話を取り出しました。
私はその様子を無言で見ていました。
「そういえば彼女、岡野さん、変わってるんですよ。いえ、そんな言い方、失礼だけど…」
「どういうこと?」
「あ、電話かけて、いいですよね…個室だし」
そんなことはどうだっていいと思いました。一体、どこが「変わってる」というのでしょうか。
「それがですね、今どきの若い子なのに携帯、持ってなかったんです。いえ、自分の部屋にも電話引いてなかったし…」
「え?」
「それでプロデューサーが、それじゃあ連絡もできなくて困るからって、それで会社で用意して持たせたんです」
「…」
私は言い出す言葉がなく、ただ息苦しさを覚えました。
「あれ、出ない…」
麻衣さんの耳元からは、相手が電話に出ないというメッセージがこぼれてきました。
「私は彼女には、めったに用事もないし、向こうから電話もかかってきたこともないから、気にもしてなかったんですけど…」
「ほかの人は連絡したりしないの?」
「そうですね…撮影のスケジュールが変更になったりすると進行係の誰かが電話をするようです。でも、そういう時は前もって、いついつの予定は変更になるかもしれない、その時は連絡する、って言ってあることが多いから、たぶん携帯鳴るのも注意してるはずですよ」
いつか彼女が家に来た時に、携帯電話が鳴ったのを気が付かずにいて、それで稲村さんから私宛てに連絡が入ったのを思い出しました。あの時は急なスケジュール変更だったから、怜美さんは電話が鳴ることを考えていなかったので、電源を切っていたと思われます。
でも、麻衣さんではないけれど「今どきの女の若い子」が、携帯電話を気にもしない、それ以前に電話を持つことすらしないというのは…。あり得ること、なのでしょうか。
いえ、ひどく不自然な感じがしてなりません。
愛しいはずの「娘」に小さく疑惑が生じて、私の心にはさざ波が立つのを禁じえませんでした。
気持ちの中では「聞いてはいけない」と言っているのですが、それでも私は麻衣さんに尋ねずにはいられませんでした。
「ねえ、怜美さんって、どこの人なのかしら。どこから来て、それからどこに住んでいるのかしら…」
「マスコミでもあまり詳しく報道していないんです。少しミステリアスなイメージをもたせようって。でも本当に少し謎めいたところもありますね」
「確か身寄りがいなかったって…」
両親とも死に別れて、最近は独りで生活してきた…。どこか私と似た境遇だと思っていました。
でも…。
「だけど出身地とか、はっきりとしてないわよね」
「ええ、都内っていうことになってます」
「本当は…」
本当は…。
私はさらに深い疑問に行き当たりました。
もっと根本的なこと…。
そもそも「岡野怜美」っていう名前、本名なのでしょうか?
そんな女性が存在しているのでしょうか…。
「一応、ちゃんと教えてもらってます。後で問題になっても困りますから」
「それで…。何かあるのかしら?」
私は、とても恐ろしい答えが返ってくる気がして胸が痛くなってきました。
でも…。
「別に何もありません。都内の…確か八王子の出身。ええと、二十一歳。誕生日は…」
「そうなのね…」
「はい、住民票も見せてもらいました」
「なら…」
私の心配も杞憂なのでしょう。
電話も持たない、少し「人見知り」の女性―。
ただそれだけのこと…。
病院にいて、余計に具合を悪くしてしまいそうでした。
もう、むやみに心配をするのはよそう。そう念じて、こんなことは終わりにすることにしました。
「それで…私はいつ退院できるのかしら?」
「さあ、それは…。さっきも言いましたが、先生にうかがってみないことには…」
麻衣さんの言葉を、うがった気持ちで読み取ってみると、全部知っていて話せないでいる、ともとれてしまいます。わかっていて隠している、と。
でも、本当に困ったような表情を見れば、そんなことはなさそうです。
どうやら私は少しだけ、臆病になっているようです。
「怜美さんのことも…」
「え、なんですか?」
「いえ、なんでもないわ…。それより少し眠たくなってきたわ。貴女もお帰りなさい」
「そうですか…。わかりました。お言葉に甘えて、帰らしていただきます」
「そうしてちょうだい…」
私の言葉に、彼女は座っていた椅子から立ち上がりました。
「それではお大事に。またうかがいます」
そう言って帰ろうとする麻衣さんに、私は声をかけました。
「待って。その前に教えてもらいたいんだけど…」
「あ、なんですか?」
「ここ…どこ?」
目が覚めたところがどこだかわからないのは、とても不安なものだと、よくわかりました。もっとも、そんな状況に陥ることが、そうそうあっても困りますが。
「ああ、ごめんなさい…」
そう言うと、家から少し離れた大きな病院の名前を教えてくれました。以前からよく知っていた病院でしたが、まさか自分が急患で運ばれることになるとは、思いもよりませんでした。
私は麻衣さんに何度もお礼を言うと、彼女も少し安心したような顔で病室をあとにしました。
「ふう…」
一人になって病室の静けさが大きく感じられてくると、あらためて自分の身に何が起きたのか、心配が募ります。
怜美さんといた時に倒れたのは、どこか気が遠くなるような感覚で、なんだか死んだ夫の声に引き寄せられたかのような、体というより心が沈んでいく感じでした。いわば精神的なものだったと思います。
でも、今回はその時とは全く違う、体が重力に引き付けられていって、どんどん重くなっていったような、そんなイメージでした。
「どうしたんだろう…」
「紀藤さん、お加減はどうですか」
気が重くなりかけたその時、明るい声で病室へ入ってきたのは、胸元の名札に「吉江」と書いてある、若くて可愛らしい女性の看護師さんでした。
私は、なんだか少しだけ救われたような気持ちになりました。
翌朝、食事が済むと先生の回診がありました。
前日にすでに診ていただいているようですが、私は意識がなかったので、いわば「初対面のお医者さん」でした。
「初めまして、と申し上げてもよさそうですね。私は紀藤さんを診させていただく鉄山といいます」
五十代半ば、といったところでしょうか。少し小柄でおとなしそうな笑顔の男性でした。名前と違って柔らかな感じのする先生です。
「担当は総合診療内科です」
「総合診療内科?」
「ええ、紀藤さんのように急患でいらっしゃって、外傷などなく、病名といいますか悪い所がわからない場合に、いろいろな可能性を考えながら診察させていただく部門です。特に今回は意識をなくされていたので、多方面からの診察をしなければなりませんでした」
「それで先生、私は…」
説明の内容はなんとなくわかりました。
でも私が今すぐに聞きたいのは、私の身体が一体どうなってしまったのか、その一点に尽きます。
ベッドから上半身を起こしたままの姿勢で、私は小柄な医者の顔を見据えました。
彼が、何かを心の奥にしまっているのならば、その隙間も見逃すまいと思いました。
しかし…。
「はっきり申し上げて、今の段階ではまだ何ともお伝えできないと言うしかありません。本当に申し訳ないのですが」
「それはどういうことでしょうか?」
「ええ、まだ結論を出すべき材料が乏しい…ちょっと乱暴な言い方でしたが、もう少し検査をさせてもらって、それから原因を見つけて、その後に対処法を決めていきたい。そう答えさせてください」
「そうですか…」
「ええ。あ、ただ間違いなく貧血気味ではあります」
医者としての姿勢なのでしょう。軽はずみな発言はしないように気をつけているようです。
おとなしそうですが、やはり現場での経験を積んでいる「ドクター」の威厳を感じずにはいられませんでした。そこは名前と同様、きっちりとされている様子です。
「…わかりました」
「それで今後の件ですが…」
鉄山医師が自ら、私の検査についての予定などを詳しく説明してくれました。
しばらく検査入院が続き、少しの間は帰宅もできなくなるようです。
「それで、お加減が良い時でかまいません。一度、ご自宅に帰られて入院の準備をしてきてください。着替えとか、身の周りのものとか…」
入院案内の冊子を手渡して説明を付け加えてくれました。
「どこか痛みや違和感のある所はありますか?」
「いえ、特には。ただ、昨日から少し腰が…。寝過ぎかしら」
「…病院に入院しているのですから、寝過ぎてもよろしいんですよ」
私はどうやら本格的に病人になってしまったようです。
元気でいた毎日の生活の中ではあまり感じていなかった「独り身」というものが、いよいよ差し迫ってきたな、と思いました。
鉄山医師が出ていくと、私はいただいた冊子を見ながら、差し当たり必要となるものを頭の中でピックアップしてみました。
いつか「こんな日」も来るとは想像していたものの、これほどにも早い時期に、それも突然に訪れると、どうしてよいのか戸惑ってしまい、そして打つべき手立ての少なさに、ひどく心細くなってきました。
誰を頼ればいいのか、誰にすがればいいのか…。
「おはようございます。お加減、どうですか…」
病室のドアをノックし、優しい声と共に現れたのは、昨日に引き続き編集社の満嶋麻衣さんでした。
「あら、いらっしゃい。こんなに早くから…」
「いいえ、会社に行く前にお見舞いで直行って言って、来ちゃったんです。いつもより楽なんです…って失礼しました」
明るい笑顔を見られると、気持ちも軽やかになります。
「その後、お加減は?少し顔色も良くなってきてますね」
「そうかしら、ありがとう」
私は、先ほどもう少し検査入院をしなければならないと言われた旨を話し、一度帰宅して必要なものを取りにいかなければならないことを打ち明けました。
「その時はおっしゃってください。私どもがお手伝いさせていただきますので」
私は、なんだかんだ言いながらも、この方たちを頼りにしているのでしょう。そういった言葉を聞くと、心底ほっとした気持ちになりました。
夫がお世話になっていた人に、私までが甘えてしまうような形で、心苦しく感じてしまうのですが、彼女の笑みを見ると、どうしても抗えなくなります。
「悪いわね…」
「いいえ、遠慮しないで、必要なことがあればおっしゃってください。松本から、くれぐれも奥様のお力になれるようにと言われておりますので」
家族のいない私にとって、そのようなことを言われるのはとても嬉しいものです。
当然、松本さんも知っているからこそ、親身になってくださるのだと思います。
振り返って考えてみると、怜美さんも同じように独りで生きている女性です。家族のない生活は心細く感じているのではないでしょうか。
もちろん素敵な女性ですから、寄り添ってくれる男性がいるのかもしれません。そうであれば、家族がいない淋しさも、少しは薄れるはずです。
しかし、売り出し中の今は、恋人の存在など認められないことでしょう。「アイドル」とは違うのかもしれませんが、恋愛を自由に楽しめる立場ではないでしょう。
でもそれより、なんとなくですが、怜美さんにそのような方がいるようには感じられないのです。どこか孤独感が漂っていて、どうも男性と一緒にいるイメージがわいてきません。
いえそれどころか、麻衣さんから「電話も持たない」という話を聞いてしまったので、友達もあまりなく、いつも独りでいるようにさえ感じてしまいます。
私の偏見ですが…。
「ねえ、怜美さんは…そうそう、撮影の方はどうなってるのかしら」
「ドラマの撮影はもう終わりなんですが、今度は映画の制作も決まったので、落ち着いたっていう雰囲気は全くなくなりました」
「そうなの…」
「スタッフも、それからもちろんキャストも、そのまま映画へ移る人ばかりになりそうなので、まあバタバタです。もちろん、岡野さんも亜莉栖をやってもらわないわけにはいきませんから」
終わったと思っていた仕事が急遽、続くようになってしまったので、現場は混乱しているのでしょうか。当然、そのまま映画の撮影に入るというわけにはいかないでしょうから、一区切りはあるのでしょうけれど。
「あとはスケジュールの調整など進めて、それから『制作発表』です」
そうでした。亜莉栖が映画になることは、世間的にはまだ誰も知らないことでした。
それに「十一巻」があったことも、ごく一部の人たちにしか知られていないはずです。
私は、自分自身を取り巻く環境が大きく変わっていっていることを、強く実感せずにはいられませんでした。
夫が亡くなって、もうこのまま静かに生きていくしかないのか、そう思っていた先行きの中で、テレビとか映画とか、そんな華やいだ話に囲まれるようになるとは、全く考えてもいなかったのです。
体調を崩してしまったのは、そんな「激変」のせいなのでしょうか…。
「岡野さん、心配してるみたいですよ」
私の気持ちを知ってか、麻衣さんは怜美さんのことを持ち出してきました。
「岡野さんが遊びに来た時にも倒れられたそうですね」
「ええ。でも、あの時は意識をなくしたっていうより、失神…なんか、こう『魂がどこかに行ってしまった』みたいな感覚だったの。わかるかしら?」
その時のことを簡単に説明してみました。
「今回とは違う…?」
「そうね、今回は体調が悪かったっていうか、どこか体の具合がおかしい感じだったけど、この前は…そう、むしろ身体的には気持ちが良かったっていうか…」
「つまり、精神的なことか、肉体的なことかっていう違いですか?」
「言ってしまえば…」
どこまで理解してくれているのか、私には図りかねましたが、でも若くて柔軟性があるので、言いたいことの「胆」は把握してくれているようでした。
「でも、どちらにしても心配です。入院の準備をするならば早めにしておきましょう」
「そうね…」
「体調が悪くなければすぐにでも。ご自宅までお送りします」
あまり麻衣さんにも迷惑をかけてばかりもいられません。来てくださっている時に済ませられるものならば、早くに片付けたほうがいいでしょう。幸い、自分でも「病気」を感じることもなく、むしろベッドに寝てばかりで腰が痛くなるようなことに、少し嫌気がさし始めていたぐらいです。
私は教わっていたナースコールを押すと、やってきたのは昨夜も来てくれた若い看護師の吉江さんでした。
私は入院の準備のために、いったん自宅へ戻りたい旨を伝えると、
「わかりました。先生に話してきます」
そう言い置いて部屋から出ていきました。
やがて程なくして、朝方に説明をしてくれた、担当の鉄山医師が入れ替わりに来てくれました。
「もう大丈夫ですか?特に急がなくてもいいんですよ」
私の顔を見ながら、医師としての見解を言ってくれました。
私は体調もそうでしたが、
「家のことも心配ですし、寝てばかりというのも…」
麻衣さんに迷惑をかけたくないことは言わずにおきました。
くれぐれも無理をしない、具合が悪くなったらすぐに連絡をする、と言い含められ、私は自宅まで戻ることにしました。
とにかく「善は急げ」です。
麻衣さんに甘え、タクシーで家まで戻り、案内に書いてあったような着替えや洗面道具などを揃え、大きめのバッグを引っ張り出して入れると、
「私が持ちます」
と言う麻衣さんに、とことん甘えまくり、病院へ戻りました。
途中で何か食べてこようかと提案したのですが、
「お医者さんに許可をもらってません。私はかまわないので…」
こんなことなら出る前に鉄山先生に許可、というより「食べてきます」と言い切ってくれば良かったと思いました。
昔に比べて美味しくなったと言いますが、それでも病院食です。まだ二食しか採っていませんが、でももう、私は家で食べたいし、まして一緒に食べてくれる相手がいる機会、麻衣さんとどこかで食べたかった、というのが本音でした。
病院へ戻ると、鉄山先生がやってきて、
「体調は悪くないですか?」
と、尋ねられました。
「ええ、おかげさまで…」
外へ出て気晴らしができて気分もいいです、と言いたかったのですが、検査で入院中の身です。あまり強く出てもいいことなんかありはしません。
「そういえば…」
先生に着いてきていたナースの吉江さんが、
「お留守の間にお見舞いで…」
白衣のポケットから何かを取り出すと私に差し出しました。
「え?」
それは一通の封筒でした。
表書きに「奥様へ」とあり、裏を返すと…。
「すぐに戻られますよ、とお伝えしたのですが、お急ぎだったようで。こちらで書かれて、紀藤さんへ渡すように頼まれました」
怜美さんでした。
「そういえば、今日の午後から映画の打ち合わせがある予定でした」
裏書きの名前に目をやって、麻衣さんが説明してくれました。
「忙しい中を寄ってくれたのね。悪いことしたわ…」
私は怜美さんに会えなかったことを悔みました。
もちろん、会う機会などこれからいくらでも作れるのでしょう。でも会えることができた時に会えなかったことはとても残念です。
私は封筒を開けると、中から便箋を出しました。
いつも持ち歩いているのでしょうか。そうだとすると、なんて用意のいい女性なのでしょう。
―奥様、お加減いかがですか?病院へ運ばれたとうかがい、非常に驚いています。先日も私がお邪魔した際も倒れられましたし、あの時に病院へ行っていればよかったのではないかと、申し訳なく思っています。くれぐれもお大事になさって、早く良くなることをお祈りしています。
「怜美さん…。ありがとう」
丁寧で優しそうな字でつづられていました。
「女優の、岡野怜美さん…ですよね?」
吉江さんが嬉しさを隠しながら尋ねてきました。
怜美さんも人気が出てきて、少しずつ「有名人」になっていくのでしょう。こういうところでそんなことを実感できて、私としても喜ばしい限りです。
それから昼食後に検査をするというので、留まろうとする麻衣さんを帰させると、私は少し眠気もあってしばらく目を閉じ、うとうとしていました。
夢とも、現実ともつかない時間が、ベッドの上の私に流れていきます。
検査をして、何か病気があったら…。
もしもの時に、私はどうすればいいのか…。
不安が私を包み込み、そして私の中へ入ってくるような錯覚に陥ります。
独りになると、再び心細さに襲われます。
あの人の、死んだ夫の所へ、もう行ってしまうべきなのか。
それとも…。
いえ、少なくとも「亜莉栖シリーズ」の完成だけは、見届けなければなりません。夫が私のために遺してくれた、この大切な作品だけは、何としても…。
そう考えると、不思議と力がわいてくるような気がします。勇気と元気が蘇ってくるイメージが現れてきます。
大事な亜莉栖を、そしてかけがえのない怜美さんを、私は守っていかなければならないと感じるのです。
病気なんかではない―。
午後、遅めの昼食をとると、しばらく待たされた後、検査をしてもらいました。
血液検査や大きな機械に入れられてのMRI、それからレントゲン撮影など。テレビでは見たこともありましたが、実際に体験するとは…。
およそ簡単な健康診断しかしていなかった身には、この精密検査というものは、かなりの負担を感じられ、これで具合が悪くなってしまうのではないかとさえ思えてなりませんでした。
検査結果は早急に、ということでしたが、私自身の勝手な見立てでは「無罪放免」も近いと信じていました。
「こうなったら、もう少しだけ入院生活をエンジョイしますか!」
開き直りともとれる自虐的な独り言で、自分を慰めてもみました。どうやら腰の痛みも消え、いよいよ入院生活への適応性が、早くも出てきたようですし。
そんな中、麻衣さんは「言い含められた」ということですが、朝な夕なに顔を出してくれます。
「失礼な言い方ですけれど…業務の一環です」
「それでも嬉しいわ。だって毎日のようにお会いできるんですもの。主人がいたら羨ましがってたわ、きっと」
「そうですかぁ…」
照れてうつむく麻衣さん。夫も、この明るくて元気な編集さんを、大変に気に入っていましたから…。
少しずつ生きてきた日々も、気が付けばいつの間にか多くのページが流れ去り、私の日常生活も徐々に変化をしてきたようです。
そして今回の、入院という「アクシデント」を迎え、また違った形で生活のリズムを変えることになったのも「運命」なのでしょう。甘んじて享受しようと思います。
ベッドから起き上がり、窓の外を眺めます。
頼りなげになってきた日差しは、なんだかスローモーションを見ているみたいに、ゆっくりと差し込んでくるようです。触っても、遠慮がちにその手を撫でるだけで、流れていってしまうような…。
「そうそう、ついに映画の制作発表、決まりました」
「本当?」
「はい…」
麻衣さんは手帳をバッグから取り出すと、その日を教えてくれました。もう目の前に来ています。
「大々的に記者会見する予定です」
と、前回にもテレビドラマの制作発表をしたホテルの名前を挙げ、さらに、
「部屋も、前の時より大きな場所を押さえたそうです。力の入れ具合も、もっと大きくなってますよ」
「そうなの…」
私まで駆り出され、大勢の記者の前で恥ずかしい思いをした日のことが、鮮明に蘇ってきます。もう二度と繰り返したくない経験です。
「十一巻が発見された経緯もそこで発表します。話題になること間違いないです」
きっと、怜美さんが小説のタイトルから「隠し場所」を探り当てたと発表されるのでしょう。そうなると、ますます彼女の名声が上がっていくことになります。
そう、本当に亜莉栖だと…。
会見場でのどよめきが聞こえてくるようです。
「怜美さんが見つけたことを発表するのね」
私は「当然のこと」を言いました。
しかし…。
「それがぁ…」
煮え切らない言葉。麻衣さん、少し困ったような顔をしています。
「実は彼女、自分が見つけたことは話さないでほしい、って…」
「え、どうして?砂時計に隠されていたのを見つけたのは怜美さんなのに?」
「そうなんですけど…」
本当に困っている表情です。
どうしたことなんでしょうか。怜美さんが見つけなければ十一巻はこの世に現れなかったのかもしれないのです。彼女の行為は「快挙」であり、黙っているような話ではないのですが…。
「なんか…差し出がましいことをした、って…」
「差し出がましい、って…」
私は意味がわかりませんでした。
怜美さんには誇っていい功績です。なんで「差し出がましい」なんて、そんなことを言ってしまうのでしょうか。
「一度、会って真意を聞いてみたいわ」
「そういえば、あれから岡野さんは来てませんか?」
私はうなずきました。
「そうですか…。今、映画の方で忙しいですし…」
麻衣さんは申し訳なさそうに言い訳してくれました。
「あら、いいのよ、そんな。早く退院して、久しぶりに現場に顔出してみるから」
「そう、そうですよ。それが一番です」
私は、自分自身を元気づけるための「素」を作りました。
退院したら怜美さんの「陣中見舞い」をする…。
「もう、あっという間に退院ですね」
麻衣さんの優しい言葉は、しかし実現をみることはできないでいました。
今すぐにでも退院できるつもりでいた私でしたが、鉄山先生からは色よい返事をいただくことができません。
「いえ、すみません。少し検査の結果が良くない所がありますので、再度、調べさせていただきたいのです」
「悪い所があるんですか?どこが良くないんでしょうか…」
私は「良くない」と言われたことに対し、不安や怖れといったものより、ただ退院を日延べされていることに、当たりどころのない苛立ちを感じていました。
それは、私自身が目立った症状を感じていないのが大きな要因だと感じました。
しかし、私のそんな「感情」に気づいているのでしょう。鉄山医師は努めて冷静な表情を保ち、そして冷徹とも言える口調で告げてきました。
「紀藤さん、ここは病院で私は医者です。そして貴女は患者として入院しておられます。少しでも、例え爪の先ほどでも病の疑いがあれば、私どもは徹底的に調べさせていただき、その上で判断を下します」
断固として反論を許さない言葉でした。
「それが医者としての私の為すべき仕事なのです」
決して荒らげたりせず、淡々とした語り口であったがために、私は何も言い返せませんでした。
「よろしいでしょうか」
「は、はい…」
毒気を抜かれる、とはこんなことを言うのでしょうか。それまで胸にあった苛立ちとか焦りとかいったような感情を、私はゆっくりと鎮めることができました。
もう一度、その顔を見ると、穏やかな笑みを浮かべていまいた。私は少しだけ、この病院へ運ばれたことを幸運に感じました。
もう少し我慢してみよう。そう思えるようになりました。
私が、すっかり「まな板の上の鯉」になってから数時間後、会いたかった顔がドアをゆっくり開けてのぞいていました。
「失礼します…」
消え入りそうな声で来訪を告げる彼女。
「いらっしゃい、怜美さん」
ベッドの頭をギャッジアップし、遅くなって朝刊に目を通していた私は、自分でもわかるぐらいに笑顔を見せて迎えました。
「ご無沙汰して申し訳ありませんでした…」
さらに消え入りそうな声と、もっと小さくした姿勢で、なんだか職員室へ呼び出された生徒のような雰囲気で、おそるおそる入ってきます。
「あら、いいのよ。今度は映画で忙しかったんでしょ?」
「すみません、言い訳をさしていただければ…」
「なに言ってんの。今が大切な時なんだから、私のことなんかを心配するより、もっと自分のことを考えてなきゃだめよ」
本当に職員室で生徒指導をする先生のようです。
「それで。どうなの、映画の方は?」
彼女が何かを言う前に、まだ部屋へ入ってきて間もないのに、私の方から話を切り出しました。
どうしても、彼女から「お見舞い」を言われるのが辛い気持ちがありました。ただ、日常の一ページとして、普通に会話をつなげて、そして見送っていきたいと感じていたのです。
「ええ。まだ撮影にも入っていないですし、今はまだなんとも。それより、奥様…」
「そうよね、この間やっと制作発表があったばかりだったわよね。これから本格的に…」
「奥様!」
私の言葉を、初めて感じる強い語調で怜美さんは遮りました。
「奥様…」
ゆっくりと私の枕元へ歩み寄ってきます。
私は言葉を飲み込むと、近づいて来る怜美さんの顔を、いえ目を見据えました。
「お気持ちは、わかるつもりです。ですが奥様、少しだけ話をさせてください」
「…」
そう言うと、彼女は私のベッドサイドまで来て、いきなりひざまずきました。
ベッドの頭を上げていた私の視線の、かなり下の方に彼女の姿がありました。
「怜美さん、そこに椅子あるから…」
慌てて、足元に置いてある来客用の椅子を指さしました。
しかし、彼女は私の言葉を必要としませんでした。
「聞いてください、奥様…」
なぜか、にらみつけるような、少し威圧するような怜美さんの雰囲気に、私はすっかり飲み込まれていました。つい今しがた感じていた職員室の先生と生徒の関係が逆転していました。
「絶対に、奥様は元気になられます。いえ、今までよりも健康で若くいられるようになります」
「え?」
彼女の、唐突とも言える発言に、私は何度も頭の中に「?」を点灯させられてきた気がします。まだ知り合って間もない、この年若い女性に、すっかり主導権を握られた付き合いをしていることに、今さらながら感じさせられ、それでもそれがとても心地良いことにも気付かさせられました。
「どういうことかしら。励ましの言葉なら嬉しいけど…」
時に見せる、彼女の「不器用な誠実さ」の現れなのだと直感しました。
でも怜美さんの次の言葉は、私を震撼させるほどに強い意志を感じました。
「私が…私がお守りします」
「え?守るって…。怜美さん、貴女…」
私は思わず彼女を見つめていました。
その瞬間、今まで見たこともないような涼しげなまなざしと、そしてその裏側には言いえないような寂しく悲しい気持ちを感じてしまいました。
「怜美、さん…」
一瞬、彼女の姿が消え入りそうになったような、そんな錯覚に陥りました。
本当に見えなくなっていったように、私は自分の目をこすっていました。
しかし、彼女はそのしなやかな容姿を私の前から消すことはありませんでした。ただゆっくりと、床についていた膝を上げて、立ち上がっていたのです。
「すみません、奥様。私はこれで失礼させていただきます」
「え、もう?もっとゆっくりできないの?」
「申し訳ありません」
「忙しいんだ…」
私の言葉に答えず、私の気持ちに応えず、彼女は自分自身を続けました。
「奥様…。もし、これから誰かにどんなに受け入れがたいことを言われても、決して悲観したり、あきらめたりしないでください」
「悲観、って…」
「必ず私が、お守りします。必ず、助けにまいります」
「怜美さん、一体…」
あまりにも唐突過ぎる彼女の言い様に、私は二の句が継げられませんでした。
でも、徐々にその言葉の持つ深淵のようなものを感じてくると、私は大きな闇に飲み込まれるような不安と猜疑心に襲われました。
「ねえ、どういうことなの?私、誰に何を言われるっていうの?」
「奥様…」
「ねえ!」
「奥様…。今はただ、私を信じてください。それ以上のことは申し上げられないんです」
「信じろって…」
「お願いします」
そう言うと、彼女は深々と頭を下げ、そしてしばらくその姿勢を崩そうとしませんでした。まるでそうすることで全てのことを請け負ってしまうかのように…。
岡野怜美という女性の、それが誠心誠意の現れといったように。
「怜美さん…」
私は、その様子を見ていると、これから心に生じる「負」を、なんだか消し去ることができるような、そんな気持ちになれました。
「いいのよ、私は最初から貴女のこと、信じてるわ。これから何があるのか、わからないけど、でも怜美さんの言葉を守るわ。絶対にあきらめたりしない。だって、私の大事な怜美さんが、きっと守ってくれるんですものね」
「…ありがとう、ございます」
「さあ、頭を上げて。私と貴女の間で、そんなことしないで」
いつまでも姿勢を変えない怜美さんを、私はとても不憫にさえ思えました。
それぐらい誠実なのです。
哀しいぐらい、誠実なのです。
私のことを思って一所懸命なのに、こんなにまで遜る必要なんてないのに…。
私は、今度会った時に質してみようと思っていたことも、もはやどうでもいい過去の一瞬に過ぎなく思いました。
そして、私は心に閉じ込めていた私の思いを、伝えたくなっていました。
「ねえ、怜美さん…」
「はい…」
「こんなこと言われても、貴女には迷惑かもしれないけど…」
「なんでしょうか。奥様に言われて迷惑なんてこと…」
「ううん、私の勝手な気持ちだから」
今なんとなく、あの日、主人が私にプロポーズしてくれた時を思い出していました。
きっと、あの時の主人の気持ちも、こんな感じだったのかな。
嬉しいような、照れ臭いような、それでいて不安もあって…。
「私ね、子供がいないでしょ。だから本当の気持ちなんてわかりっこないんだけど、でもね、なんとなくだけど、親ってこういうものかな、って感じることがあるの。貴女と一緒にいると…」
「え…」
歳を経た私は、あの時の主人よりも、言葉はスムーズに出てくるようです。
「なんだか、怜美さん。貴女が本当の娘のように思えるの」
怜美さんを目の前にしながら、どこか遠くを見ているような気持ちでした。
そう、恋の告白なんてしたこともなかった私にとって、これほど心の中をあからさまにすることなど、今までもなかった気がします。
静かな時間と穏やかな空間が流れていきます。病室であることも忘れ、ただゆっくりと身も心も任せて、その中を漂っているようでした。
そう、ゆっくりと…。
何も言葉など要らなかった。
過ぎてゆく全てが、心地よかった。
「奥様…」
静かに、忍び寄るように怜美さんが応える。
「ありがとうございます…」
「ごめんなさい。勝手なこと、言っちゃって」
ううん、とかぶりを振る怜美さん。
「嬉しい、です。私なんかのこと、そんなにまで思ってくれて…」
うつむきながら、少しずつ言葉をつないでいく姿が、ますます愛おしく思えます。
「私も、ずっと前に親がいなくなってるから…。奥様の優しさ、とっても…」
その肩が小刻みに震えているのがわかりました。
「とっても…」
「…」
本当に言葉は必要ありませんでした。
病室の中を優しい風が吹いているようです。柔らかな日が差し込んでいるようです。
「ありがとう、怜美さん…」
「ごめんなさい。失礼します…」
その顔を上げることなく、急に踵を返すと彼女は部屋を飛び出していきました。
「怜美さん…」
私は強いて止めることもせず、去りゆく怜美さんの背中を、ただ目で追いかけるだけでした。
それ以上、何も言わなくても、何も聞き返さなくても、気持ちはわかっているつもりです。
今、二人には言葉は要らないと感じていました。
「ありがとう…。例えどんな女性であろうとも、私は貴女を…」
もうそこにはいない、愛しい娘に向かって、私は思いのたけを言葉にして捧げていました。
夢を見ました。
想いが強すぎて、ほとんど見ることがない、主人の夢です。
「あなた…」
目の前にたたずむ彼。
私は手を差し伸べますが、主人は何も語りかけてくれません。ただ静かに微笑みを浮かべ、私のことを見つめてくれているだけです。
彼と暮らした時間。普通の夫婦であれば…愛し合った二人であれば、決して長いとは言えないけれど私にはわかる。こんな顔をしている彼は、心の中では、とても寂しくいたたまれないような気持ちでいるのが、私にはわかります。
「ねえ、どうしたの?ねえ、あなた…」
私はその真意が知りたくて必死で声をかけます。
でも、彼は何も答えてくれません。
私は彼と話をしたくて、彼の声だけでも聞きたくて…。
「あなた…私ね、怜美さんに話したの。本当の娘に思えるって」
昼間にあったことを、私は彼に伝えかけました。
必死で…。
「美佐…」
ゆっくりと、前と変わらない口調で、彼は話し始めてくれました。
「よかったね。もう、独りじゃないんだね」
「ええ。でも、あなた…」
「大丈夫。君は独りじゃないんだ。強くなったんだ。何があっても、もう平気だよ」
「何があっても、って。ねえ、あなた。やっぱり、あなたがいないと、私…」
彼は、私のすがる言葉に、ただ笑顔を返すだけでした。
「あなた、あなた…」
主人の夢を見た翌日の朝は、決まって、胸の奥を引っ掻き回されたような感覚が残ってしまいます。
会いたくても会えないのに、どうして夢の中で会ってしまったのか。私の心の深い所で、どれだけ彼を求め続けていることなのか…。
忘れられないことなどわかっていても、でもあえて忘れようと気持ちの奥底にしまいこんでいるから、ふとした弾みで扉が開いてしまうと、あとはとめどなく感情があふれ出してしまう。
今も、今でも、いつまでも、私は彼を愛している。ただそれだけ。
いえ、だからこそ会いたい。
夢でも、せめて夢の中だけでいいから…。
そのあと、どんなに辛くても悲しくなっても、寂しさに打ちひしがれてもいい。
会いたい…。
夢でいいから…。
今日も、ここに入院して一番、辛い気持ちでいっぱいの朝を迎えました。
「紀藤さん、なんだかご気分が優れないようですね」
看護師の吉江さんが朝の検診で体温などを計りに来てくれた時に、私の顔を見るなり心配してくれました。
こういう仕事をされている方は、相手の表情だけで状態がわかってしまうのでしょう。
「あら、そう思う?」
「はい。いつもの朝よりも少し表情が固いようなので。どこかお加減でも?」
吉江さんは私を気遣い、そう声をかけてくれます。
でも「主人の夢を見て、気分が落ち込んでいる」とも言えません。なんとなく何も答えづらい気分でした。
「お熱もないし、血圧も普段通りです。もしかすると…」
「え?」
「そろそろ、ここにいるのが苦痛になってきた?」
私の顔をのぞき込むように、いたずらっぽく尋ねてきました。
入院して日数も過ぎ、すっかり打ち解けてきた吉江さん。私の気持ちを解してくださろうと、部屋に来るといろいろなお話をしてくれるし、とても優しい女性です。
「そうねえ、きっとそうかも。ごめんなさいね、いつも良くしてくださるのに…」
「いいんですよ。病院にいるのが楽しくて仕方ない、っていうのも困りますから」
いつも柔らかな表情に、さらに温かな笑みを浮かべ、私を癒してくれました。
ともすれば変化のない毎日になってしまう入院生活。日々の過ぎ行く時間の中、こんな方がいてくださることが、どんなにか心休まっていることでしょう。
体温計や血圧計をワゴンに片付けながら、吉江さんは明るく話を続けてくれました。
「病院っておかしいですよね。患者さんに来てもらわないと駄目なのに、その患者さんを来ないようにするのが役目なんですよね」
「そうね、本当よね」
おもしろい考え方だなって思いました。発想も柔軟な女性のようです。
私は、そんなとりとめもなく話題を振ってくれる彼女と話すうちに、昨夜の夢の落ち込みからすっかり立ち直っていました。気持ちが軽くなっているのが、自分でもわかります。
「あら、お顔の色が良くなってきたみたいですね」
「そうかしら?貴女が元気づけてくれたおかげね。ありがとう」
「いいえ、私が元気にできるなら、お医者さんは要らなくなってしまいます。きっと、紀藤さんが一所懸命、元気になろうと努力されてるからですよ。それが一番のお薬かもしれませんね」
努めて愉快そうに話してくれる吉江さんの、やはり明るい笑顔に、私は心の底から元気になったようです。
それからすぐに届いた今朝の食事は、いつもに増して美味しく、そして優しく感じました。
それから数日、私は入院してから初めて、心穏やかな時間を過ごすことができました。
怜美さんに会って、自分の気持ちを伝えられたことが良かったのかもしれません。
それとも、夢で主人と「再会」したから…。
いいえ、そんな後ろ向きな気持ちでいても、いいわけはありません。
一日でも早く退院すべく、がんばっていかなければいけないのです。
ですが…。
「先生。そろそろはっきりしていただけませんか」
私は鉄山先生が回診でいらっしゃった機会に、強く詰問しました。
今のまま、はっきりとした症状などわからないままでは、気持ちの上でもすっきりとした気分になれません。少しでも、何かの「病状」が現れているなら教えてほしいものです。
「このまま何もおっしゃっていただけないでいると、私としても気持ちに納得がつきません。わかっているだけでいいので、話していただけないのでしょうか」
「…」
私の言葉に、担当医は口をつぐんだまま、ひと言も返事をくれずにいました。
そう、何かを言葉にすることが、それがまるで誰かを傷つける刃物を振りかざすことになってしまうのと同じであるかのように…。
そしてその瞬間、私は察してしまいました。
話してくれずにいるのは症状がわからないのではない、ということを。
話すわけにはいかない病状である、ということを…。
「先生…」
「…」
彼の沈黙が全てを語っています。
もはや逃げおおせない事実としか言えなくなっています。
よく「足元が崩れていく」という表現をすることがあります。
ショックを感じ、絶望という淵へ落ちていく、そんな時に感じる気持ちを言い表すのでしょう。
しかし…。
「先生、遠慮せずに言ってください。正直に話していただけませんか」
私は、きっと不自然に思えるような、柔らかな表現をしていると思います。笑みさえ浮かべ、目の前の事実を受け止めることを、楽しんでいるかのようでしょう。
悪趣味な「怖いもの見たさ」のように。
「紀藤さん…」
鉄山医師は、そんな私の顔を見やると、明らかに戸惑いの色を見せました。
「申し訳ありません…」
「あら、なぜ?」
「いえ、そのう…」
「謝ることなんてあるのかしら?」
「いえ…。ただ、今はまだはっきりとした結論は出ていないのです」
何度も聞いた言葉です。
そして私は、初めての言葉を口にしました。
「いいのよ、言えないような病気、なんでしょう」
「違います!そんなことはありません。ただ…」
「ただ?何かしら…」
「正直に申し上げます。血液に、少し異常が見られます」
「血液?」
私は一瞬、違和感を覚えました。
「血液の…病気、ですか…?」
あまり意味がわからず、なんとなく目の前に靄がかかっているようでもありました。
それは、この鉄山医師の言い方がはっきりしないせいもあるのでしょう。
でも、だんだんと煩わしい靄が晴れてくるように、頭の中も澄んでくるのがわかりました。
そして…。
頭が澄み渡ると、今度は心がどんよりと曇ってくる感覚が襲ってきました。
私のつたない知識の中から「血液の病気」という項目を引き出してくると、そこにはひとつの言葉が浮かび上がってきたのです。
「血液の病気、って…」
乏しい知識を、このスペシャリストに披露することが、いかにおこがましいことなのかはわかっていました。それでも、口にしなければならない、言葉にして吐き出してしまいたい、そんな感情に私は支配されていました。
そう、口の中に溜まった汚いものを捨て去るように。
「白血病…」
鉄山医師の反応は冷ややかでした。
嘘をついているのか、私を騙そうとしているのか。
「紀藤さん、血液の病気と言っても、何もそういうものだけではありませんよ。以前に私は、血液に異常が見られると言いましたが、病気だとは申し上げていません」
「…」
ではどんな異常があるのか、尋ねる気にもなりませんでした。
きっと「答え」は前もって用意してあるのでしょう。差し障りのない回答を。
「わかりましたわ、先生。大人しく入院患者を続けさせていただきます」
私が物わかりよく引き下がったので、拍子抜けしたのでしょうか、鉄山医師は気の緩んだ表情を見せました。
でも私は、このまま何も聞かずに終わらせるつもりはありませんでした。
「ですが先生、いつごろはっきりしていただけるのかだけ、教えていただけませんか?それで私はどんな治療を受けることになるのか、どれぐらい入院することになるのか」
彼にとって、この質問は非常に有意義なものだったのでしょう。ほんのわずかに、その目が光ったように見えました。
きっと、こんな質問があるだろうことも織り込み済みで、きちんとした「模範解答」が用意してあるに違いありません。
それはおそらく、病院にとっての「マニュアル」でもあるのでしょう。
「承知しております。紀藤さんが早く、そして安心して退院できるように、心配の元を確実にあぶりだしてまいります。その上で対処法を確定していきます」
「…よろしくお願いしますわ」
もしかすると、全くの「杞憂」なのかもしれません。
かの医師が言う通り「血液の異常」があっても、それは大騒ぎするほどのことでもないのかもしれません。よくある「症状」を言われているだけの可能性もあります。
でも、私にはそう簡単なことには、どうしても思えませんでした。
笑って退院の日を迎えられるような、そんな先行きを思い描けないのです。
そう、最悪の事態を、想像することが容易に思えていました。
しかし…。
「奥様、なんだか顔色が良くなってきてますね」
「あら、そうかしら…」
「ええ、とっても。退院も近いですね」
頻繁にやってきてくれる麻衣さんが言ってくれるのだから、きっと私の様子は健やかに見えるのでしょう。
実際、自分自身でも身体が軽く感じられ、何をするのも気持ち良くできる気がしていました。
「ありがとう。貴女がこうして来てくださるから、私も気分が良くなるのよ」
「いいえ、そんなこと…。奥様がしっかり養生されているからです」
本当は、負担の多い検査も多くなったし、さらに気が付くと日々多くの薬を飲むようになっていたりで、以前より「病人扱い」が加速しているのですが、あの日、鉄山医師と対峙してから、どうやら気が晴れたのか、すっかり開き直った気分と、そして不思議と怖さを感じる感覚が、いわば麻痺してしまったのか、どんな状況に陥ろうが平気な心持ちになっていました。
それはもしかすると、あの夜に見た主人との夢の中で「何があっても平気」と言われたことが、心の支えになっていたからなのかもしれません。
そして、もうひとつ…。
「映画の方も順調に進んでいます。撮影だけでなく、イベントや宣伝活動のテレビ出演も決まって、岡野さんも忙しくなってきているみたいですよ」
「テレビ出演?」
「ええ、バラエティ番組とかクイズ番組とかに出て映画の宣伝をするんです。彼女、絶対にイヤって頑なに拒否しているんですけど、渡壁さんからも出演命令が出てて、仕方なく承諾するみたいです」
「怜美さんがバラエティに出るの?」
「まあ、たぶん…」
私が怜美さんを気に入っていることを知っていて、麻衣さんも彼女の知っている情報を伝えてくれるのですが、時にはこんな些細でも気になる話も耳に入ります。
考えてみたら、あの日この部屋で、怜美さんが本当に思いつめたような表情で、私を「守ってくれる」と宣言してくれたこと、それもどれだけ心の支えになっているか…。
「よく承知したわね、怜美さん」
「渡壁さんがけっこう強引に進めたみたいだって、松本が言ってました」
ふと、懐かしく感じる名前が耳に滑り込んできました。それと共に、なぜか違和感のようなものも、胸に忍び込んできました。
「そういえば、松本さんに全然お会いできないけど、元気にしてらっしゃるのかしら?」
「え?ああ、もちろん…」
「?」
なんだか一瞬、時間が止まったような感覚がありました。言ってはいけない言葉がこぼれてしまったような…。
松本さんが「禁忌の存在」であろうはずはありませんが。
でも、入院してからまだ一度も、松本さんは顔を出してくださっていないのです。あれだけ親身になってくださる方が来てくれないのは、よほど忙しい時間を過ごしているからなのでしょうか。
それとも…。
「それならいいけど…。よろしく伝えてくださいね」
「わかりました。時間ができたらお見舞いに来るように、言っておきます」
「いいのよ、無理なさらなくても」
今が大切な時期であるのはわかっているつもりです。
本人が来られなくとも、こうして麻衣さんを頻繁に「業務」と言っては差し向けるのですから、その真意に疑いなど必要ありません。
「ありがとうございます。松本にもよく言っておきます」
少し、どこかぎこちなく見える笑顔を残し、麻衣さんは帰っていきました。
顔色がいい、と言われた私は、気分も身体も軽くなった気がしました。いつもはめったに独りで部屋から出ることのない私でしたが、たまにはいいかなと、少し表を歩く気になりました。
パジャマ姿にカーデガンを上掛けにし、病室の扉を開けると、そろそろと廊下を歩き出しました。
窓からこぼれる日が、明るく私の顔を照らすのが心地良く、ますます気持ちも上向きになってくるようです。
横になっている時間が長い身にとり、こうして歩くことは今までのようにはいかないけれど、でも足が楽しげに進むのを感じ、なんとも言えない高揚感を覚えずにはいられませんでした。
長い廊下を、それこそ亀のようにゆっくりと、歩くことを楽しみながら進むと、その先にはナースステーションがあります。ふと目をやると、そこに見慣れた、というより見たばかりの姿がそこにあります。
「麻衣さん…?」
先ほど部屋から出ていった訪問客が、まだそこにいるのを見つけました。
まだそれほど、三十分とたっていませんが、まだ院内にいるのは、何か用事があったのでしょうか。少し訝しく感じましたが、それでもその姿を見つけると、気持ちが高揚し、自然に足も軽くなります。
私はあと二十メートルぐらいある彼女との距離を、一気に近づこうとしました。
しかし…。
「松本、さん…」
私は「心臓が凍りつく」というのは、こんなことを言うのだと思いました。
ここに松本さんがいるのは決して不思議なことでもないはずです。私が「どうしているのか」麻衣さんに話してからすぐ、彼が駆け付けたか、それ以前に初めから今日の来訪を予定していたのかもしれません。
けれど、なぜか私にはそういった「柔らかな憶測」は生まれてきませんでした。
なぜなら…。
「鉄山先生…」
松本さんが一緒にいたのは、他ならぬ私の担当医である鉄山医師だったから。
そして、その二人の間に流れる、例え遠くからでも判る緊張感が、痛いほど襲ってくるから。
さらに、麻衣さんの顔が痛々しく強張っているのさえ見えてくるから。
全てが私にとって…。
部屋へ慌てて帰った私。
何か悪いことをしてしまったような気にさえなりました。
ベッドの端に座り、しばらく何もせずに、ただそうすることだけが精一杯のように、ゆっくりと呼吸をするだけでした。
でも、なぜでしょう。不思議と気持ちにざわめくものなどありません。
そこにあるのは、先だって鉄山医師と話した時に予感させられた「最悪の事態」を確固たるものにするものかもしれないのに、やはりどういうわけか、私は落ち着きを失うことなく、平静な心地でいられるのです。
だいぶ日が傾いてきて、窓から差す日も、今日の役目を終わらせようとしていました。
私は思い立つともう一度、ルームシューズに足を通し、部屋を出ました。
長い廊下は、さっき歩いた時より薄暗くなっていました。
そこで、見かけるはずのない松本さんを見て引き返した所よりも、さらに先へ進むと、視界が広がるナースステーションまで歩きました。
そこには担当の吉江さんや、顔見知りの看護師さんが大勢いて、それぞれ持ち場で働いていました。
「あら、紀藤さん」
さっそく私に気が付いたのは、やはり吉江さんでした。
「どうされたんですか?ご用事なら、お呼びいただければ…」
「あら、ごめんなさいね。そうじゃなくて、ちょっと気分もいいし、歩きたくなったのよ」
彼女と会話をしながらも、私は視線をゆっくり回しながら「何か」があるでもないのに、様子をうかがってみました。
「そうですか。それはいいことですね。がんばってください。でも、無理だけはなさらないで。疲れたら休みをとってください」
そう気遣いながら、ステーションを出てくると、近くにあった椅子を持ってきてくれました。
「ありがとう。大丈夫よ…。でも、お言葉に甘えさせていただくわ」
私は彼女の好意を素直に受け止めました。
本当は少し疲れていたかもしれません。ゆっくりと、ステーションのカウンター脇に置いてもらった椅子に腰かけると、
「吉江さん、いつもありがとうね」
椅子に座って下から見上げるように、この若く優しい看護師さんに、心からのお礼を言い、そしてそのどこか言葉の奥に、なぜか「お詫び」のような気持ちが含まれていることに自分で気が付きました。
「紀藤さん…」
ゆっくりと腰を下ろし、視線を私に近づけてきます。
この察しの良い女性は瞬時に、私の気持ちの裏側に気が付いたようです。
そして私も、彼女が私の本心を察したことに勘づきました。
お互い、その先の言葉を言いださないでいました。
「いつも来ていたのね、松本さん…」
「…」
「鉄山先生と何を話していたのか、教えてほしいわ」
担当看護師とはいえ、そんなことを話せはしないでしょう。
それ以前に、何を話していたのか―担当医と患者の縁者が―例え想像はできても、聞き及ぶことなどできはしないでしょう。
「ごめんなさい、意地悪なこと、言っちゃって…。え、吉江さん?」
ふと、彼女の顔にあふれるような涙が、まるで何かを拭い去ろうとするように伝わっていくのを、私の目に飛び込んできました。
本当に、はらはらと流れて落ちていきます。
表情を失ったままで…。
若いけれど、それなりに経験値はあるはずの看護師に、それはありえないシーンでした。
患者である私に、全てを物語ってしまったのですから…。
吉江さんの涙は、目の前にいる私しか気付きはしなかったようです。
まるで瞬きをしただけで、ほかに何もないような、そんな静かなできごとだったのです。
私は彼女に、
「ごめんなさい、ちょっと部屋まで連れていって」
少し声を大きくして、そう伝えました。
ゆっくり歩いてきた道のりを、さらに歩みをゆるめて、戻っていきます。
私も、横でサポートしてくれている吉江さんも、何も話をしません。
ちらっとのぞいた吉江さんの顔は、少し赤くなった目と、乾いた涙の後には、ほほに薄っすら筋が見えるような気がしました。
少し長く感じながら行き着いた先から帰る二人の道行きは、来た時よりもさらに長いものとなり、今までにない重く切ないものでした。
なんと声をかけてあげればいいのでしょう。いえ、何か声をかけてあげるべきなのでしょうか。
本当は私の方が、辛く厳しい立場に立っているはずなのに、なぜだか彼女を労わってあげなければならない、そんな気持ちでいっぱいでした。
「…申し訳ありません。本当に…申し訳、ありません」
切れ切れに、私に言っているのかどうなのか、それすらわからないような声で、吉江さんはささやいていました。
自分自身につぶやいているように…。
優しく、慈悲深そうな顔には、心の奥底に沈めていたのであろう苦渋の思いがにじみ出ていて、それが今までずっと、私に対して抑えていたものであったことを察しさせられました。
「いいのよ、いいの…」
抑えていた気持ちと、そして抑えきれなかった思いが、今は彼女が自分自身を強く苛んでいるように感じられます。
私に対して、全ての患者に対して、看護職に携わる者として、決して見せてはいけない種類の涙に違いありません。そして、今まではそんな「禁忌」を破ることなどなかったことでしょう。
しかし…。
「貴女が私のことを本当に想ってくれてる、だからこそよ、ね」
彼女の、吉江昌美という一人の―看護師という立場を超えた―人間としての、温かい気持ちを、私は嬉しく感じてなりませんでした。
私の病室へ戻ると、彼女の心の防波堤は、あらためて崩れていきました。涙はとめどなく、さらに嗚咽はやがて号泣へとなっていきました。
他に誰もいない空間で、吉江さんは何もかもさらけ出さずにはいられなかったのでしょう。
私は彼女の体を引き寄せ、しっかりと抱きしめました。腕の中で泣きじゃくる吉江さんもまた、とても愛おしく感じられました。
「ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…」
今までは仕事で失敗したことを上司に謝罪する部下、そんな態度だったのが、気が付くと、いたずらを見つかって親に謝る子どものようになっていました。
「いいのよ、謝ったりしなくても」
私を気遣って我慢していた涙と、決して流してはいけない涙が、重なって私の腕に熱くこぼれてきました。
「私…私…」
「もういいから。何も話さなくていいから」
私は彼女の背中をぽんぽんとさすると、号泣は、やがてすすり泣く声に変わっていきました。
冷静になって自分を取り戻したからなのか、それとも…。
「すみませんでした。失礼な、恥ずかしい姿をお見せしてしまって…」
埋めた腕の中からゆっくりと顔を上げる彼女の、温かいぬくもりが少しずつ離れていく感触に、私はなぜだか淋しさに似た感覚が心に過ぎりました。
職務に立ち戻ろうと、懸命に自分を取り直そうとする看護師の顔を見せてくれます。
「大丈夫?」
「平気です」
「顔、洗ってらっしゃい」
「あ、はい…。ありがとうございます」
ほとんど化粧っ気はないものの、涙で少しくしゃくしゃになった彼女の顔を見て、部屋にある洗面台を使ってもらいました。
「ありがとうございました」
顔を洗い終えた彼女には、まだどことなく目元に違和感がありましたが、そうと思っていなければ気にする人もいないはずです。
それ以上は引き留めるのも、忙しい仕事に差し障るだろうと、何も言わずに見送りました。
言いたかったこと、そして何より、言ってしまいたかったことがたくさんあったと思います。言わずに行くことの方が、心に仕舞いこんで戻ることの方が、彼女にとっては辛い選択だったかもしれません。
それでも最後の瞬間で、彼女は看護師を取り戻したのでしょう。
私と一緒にこの部屋へ来た時とは全く違う、しかしそれは平素で見せている表情を意図して繕っている顔で、そして心なしか重々しく感じられる足取りで、自身があるべき場所へと彼女は帰っていったのです。
こうして一人になってみて、やっと自分だけのことを考えられる時間が訪れました。
顔を出さないでいる松本さんの不自然としか思えない態度。そして、それを隠している麻衣さんの、明らかに不審な様子。
何より、私の担当医と内緒話をしているかのような―いや、もうすでに内緒話としか言えない―彼らの表情に、私は覚悟を決める必要があると信じました。
吉江さんには申し訳ないけれど、彼女が心を痛めてまで私を思い、そして「真実」を明らかにさせないようにしてくれたことも、もう不要なことだったと思えました。
あとは…そう、ただあとは隠されている「事実」を、私自身が知ることだけです。
私の「病気」がなんであるかを…。
偽りは欲しくありません。
それは優しさでも思いやりでもないのです。
真実だけが、それを知ることだけが、私にとっての何よりの安らぎだと言えるのです。
私はこの夜を、いつの間にか降り出した雨の音を聞きながら、静かな心持ちで考えていました。
これからどうすればいいのでしょう。誰に何を話していけばいいのでしょう。
気が付くと時計の針は十時を越えようとしています。
すると…。
「すみません、よろしいですか…」
静かな、消え入りそうな、ドアをノックする音と共に、世の中の全てに心を預けるような、そんな声が私の耳に、ゆっくりと、それでいて心強く響いてきました。
「どうぞ、お入りなさい」
どこかで予想をしていたのかもしれません。今夜にもやってくることを…。
そう、彼女ならきっと「そうする」と思っていた…いえ、信じていた、と言うべきでしょう。
「いらっしゃい、吉江さん…」
毎夜定期的に「巡視」として静かにドアを開け、夜勤の看護師さんが見周りに来てくださっているのは知っていましたが、それとは違う訪問であることも、今の私にはそれ以上に重要であることも、わかっていたつもりです。
「ありがとう。待っていたわ」
部屋は、ベッドサイドのライトは点いていましたが、薄暗いままでした。
「お休みになられているところ、申し訳ありません」
少しの音を立てることさえ、世界中の非難を浴びるかのように、彼女は足音さえも忍ばせて入ってきました。
それは、私が寝ているということに対する「配慮」であり、それ以上に、彼女が「意を決した行動」である、ということに相違ありません。
薄暗がりの中、目を凝らして見ると、彼女はいつも着ているナース服ではなく、普段着で来ていることがわかりました。
明らかに「勤務外」であり、おそらく「服務違反」になってしまう行為でしょう。それでどんな「処分」が下るのか、勤務時間外に職員が患者の病室を私的に訪ねることが、どれだけの罰則を与えられるのか、私にはわかりませんが、彼女にとっては想像以上に重大な行為だと、容易に想像できました。
そう、親しい患者さんと仲良く話をしたい、そんな穏やかなシーンではないのですから…。
「先ほどは…なんだか恥ずかしいところを見せてしまって…。本当に申し訳ありませんでした」
いつまでも、薄暗いライトだけで向かい合っているのも不自然です。しかし今は、この非日常的とも言える時空間が、私たちの心境を表装しているような、そんな気がします。
彼女も、吉江さんも気持ちは同じように思えます。
もっとも彼女の場合は、こうして「ルール違反」をしていることに対する「罪悪感」というものも背負っての心持ちもあることでしょう。
「いいのよ、何も…」
薄暗がりに少し目が慣れてくると、吉江さんの姿が見えるようになってきます。白いブラウス姿に淡い水色のジャケット、上着に合わせたブルー系のパンツ姿。仕事中にはしていないお化粧もしていて、街中ですれ違えばわからないかもしれません。
そう思って相対しているからか、普段よりも幾分か大人っぽく見える気がしました。
「わざわざ謝りに来てくれたの?」
「いえ、そのう…」
私は、彼女の「決心」を感じてはいながらも、少し意地悪い言い方をしてしまいました。われながら大人気なく、そしてのど元に嫌悪感の残った言葉でした。
私は、自分で自分の「悪い言葉」を洗い流さずにはいられなくなってしまいました。
「ごめんなさいね、それでいらしたんじゃないわよね。もっと…違うことで来てくださったのよね…」
何もないような薄暗い部屋の中で、彼女はゆっくりと、何も言わずにうなずいてくれました。
「ありがとう。待っていたわ…」
最初に言ったのと同じ言葉で、私は今の自分の心境を言い表しました。
察しのいい彼女に、それ以上の説明が要るわけもなく、私の「覚悟」は、しっかり届いてくれたようです。
そして「彼女の覚悟」も、私は受け止めようと思いました。
「ごめんなさい、本当に、どうやって話したらいいのか…」
胸に覚悟を決めていても、あまりに重い決断に、彼女の唇も滑らかに動くことが難しいようです。
少しの間、私のベッドサイドで何も語らず、身じろぎもせず、ただ視線をさまよわせるだけで、遅い夜の空間はいつもと同じように、過ぎていました。
「ごめんなさい、やっぱり私…」
「待って!」
重圧は、彼女の決心をも飲み込んでしまいそうでした。強い思いを持って開けた扉に向かって、全く反対の気持ちで去っていこうとしているのです。
うつむいて、この場から逃げゆくことで、全てを消し去ろうとする吉江さんに、私は渾身の力で呼びかけました。
「待って、くれる…」
「…」
「…もう、いいわ。貴女に、これ以上の苦しみを抱いていてほしくない」
静かに、でも強く、私は彼女に語りかけました。
このまま時が過ぎても、彼女は心の重しを外すことはできないでしょう。
「ひとつだけ…お願い、教えてくれる?」
扉へ向かいかけた彼女の背に、私は言葉を向けました。
「それが本当なら…私の考えが当たっているなら、そのまま帰ってください」
歩を止めた吉江さんの後ろ姿は、決して何も応えてくれませんでした。
それでも私には、見えないはずの彼女の顔が見えているように感じ、その後に続く担当患者からの、答えにくいであろう質問の内容を、敏感に察して苦悶の表情を浮かべているのさえわかるようでした。
私も苦しかった。
彼女に、こんなにも辛い役回りをさせてしまうのであれば、もっと違った形で真実を知っても良いのでしょう。彼女をもってして、病院への「クレーム処理代表」のようにあたる必要なんてないはずです。
しかし…。
「私は…正直言って、ここに来てからはっきりとした説明を、ほとんど何も受けていないの。病気なのかどうなのかも、よ」
自分が置かれている立場を思うと、彼女になんの罪はなくとも、それが八つ当たりのようであろうとも、言わずにいられない気持ちが頭をもたげてきます。
「ごめんなさい、貴女が悪いわけじゃないのよね」
しかし、感情に押し流されてはいけないと、努めて冷静になるよう、心を制御しつつ、
「でも、私が話を聞ける人って、今は貴女しかいないの」
私は自分の本音を、この「夜の訪問者」にぶつけていました。
後ろ姿の肩口が、細かく震えているように見えました。
「私って、本当は…」
「ごめんなさい!」
ただ夜が創り出す闇の空気が、そこにわずかな残り香と共にあるだけでした。
何も聞き出すことなく、いつもと同じ時間に戻った部屋で、それでも私は強く確信を持つことになりました。
「もう、終わりなのね…」
不思議とよく眠ることができた翌朝、本来なら早番のシフトで会えるはずの吉江さんが、夕べ立ったその場所には現れず、他の看護師さんがやってきました。
「なんか体の具合が悪いらしいです」
時々来てくれる、吉江さんよりも若い太田さんという背の高い看護師さんが、不在を説明しながら、朝のバイタルチェックをしてくれました。
「昨日も夕方から調子が悪そうだったんです」
体温計を抜きながら話してくれる吉江さんの様子は、事情をよく知る当事者にとって、胸を締め付けられる思いで聞かされます。
「夕方から?」
「そうです。私も一緒にいたんですけど、顔色が悪くて…。熱発…熱があったんじゃないのかな」
「…」
私には、太田さんの明け透けな言い方の中に、吉江さんの苦しい胸のうちが感じられました。
「吉江さん、もう終業だから平気って…。婦長がいなかったからいいけど、本当ならきっと、帰らされたはずです」
病人を看るべき看護師に具合の悪い人がいてはいけません。もし、どこか悪ければすぐに業務から外されるはずでしょう。
そう「体の具合」が悪ければ…。
太田さんの話を聞き、私は吉江さんに対する申し訳ない気持ちと共に、彼女を、そして私を苦しめている病院の方針だか決まりだかに、沸々と憤りが生じてきました。
私は、もう何を言われてもかまわない。それなりの覚悟はできたつもりです。
死―。
「あ、すみません…。こんなこと、言っちゃいけない…」
「ん?いいのよ、誰にも言わないわ」
そう「私が原因」なのだから…。
慌てる様子の太田さんを、私はフォローしました。
彼女は、吉江さんは、体の具合が悪いんじゃないはずよ―。
本当は言ってしまいたかった。
決まりごとの作業を終えると、そそくさと部屋を出ていく太田さんの後ろ姿を、私は自己嫌悪の気持ちで見送りました。
もうこうなったら一刻も早く真実を聞きだし、そして私だけでなく、吉江さんと、それに麻衣さんも、すっきりとした気分にしたいと思いました。
そう、私なら大丈夫です。真実というものが、どれだけ残酷な正体を現そうとも。
夢の中で主人が言ってくれた、
―何があっても平気だよ。
その言葉が、私を支えてくれているのですから。
それから…。
―必ず私が、お守りします。必ず、助けにまいります。
そう言ってくれた怜美さんの気持ち、それが私を強くしてくれているのです。今までにないぐらい、私の心は、折れることがない強靭さを備えているのです。
どこにも確固たる裏付けなどありません。ただ私が「信じている」、それだけです。
それでも、それは何にも勝るオーラを放ち、私を強く大きく包んでくれています。優しく温かく抱きしめてくれているのです。
「あなた…。怜美さん…」
私は枕元にあるコールボタンに手をやりました。
「紀藤さん、そうおっしゃられましても…」
当直明けで帰宅するところを無理に呼び出され、眠そうな目をして現れた鉄山医師は、憮然とした表情を隠そうともせず、私に相対しました。
「いいえ、今度こそはっきりと言っていただきますわ」
毅然とした態度を崩さないことを決めて、私は強い口調で言い放ちました。
「いつまでもこのままだと、私だけでなく、他の方にも迷惑をかけることになるって思ったので」
「他の方、ですか?」
「そう、吉江さんも体の具合が悪いって、休んでしまうし」
「それは本人の問題でしょう。貴女には関係ない」
何を言い出すんだとばかりに、薄っすら髭の伸びた口元に、薄ら笑いの表情を浮かべながら言い返す鉄山医師。
私も、夕べのできことを話すわけにはいかないけれど、でも真実を独り知るものとして、その表情に負けずに冷たい笑みを返しました。
そして…。
「忙しいのに呼び出されたりして大変な方、とか…」
すると一瞬、思考を張り巡らせた後、
「な、なんのことです…」
目の前にあった薄ら笑いは、見る見るうちに引きつった表情に変わっていきました。
「お見舞いにも来ないで…」
「そ、それは…」
「担当医と、こそこそするような、そんな方…」
「…」
鉄山医師は、言葉を失くしていました。
睡眠不足ではなく、もっと強い理由で顔色を失ったその視線は、あてのない宙をさまよい続けました。
「はっきりおっしゃってちょうだい!」
私などのありきたりの声は、大して強くも大きくもなかったはずです。
それでも、目の前で体力と精神力も失くしている一人の男性には、かなり大きなダメージがあったようでした。
誰かの身体が大きくビクッとなるのを、あからさまに見るのは初めてだったかもしれません。
「紀藤さん…」
その目には明らかに観念した色を浮かべ、しかしながら十分に言葉を選ぼうと、その口元は少しだけ歪んだ様子で開きだそうとしていました。
「実は…」
覚悟した、その瞬間が迫ろうとしていました。
しかし…。
「奥様、待ってください!」
それはまるでドラマのシーンを見ているようでした。
いきなり開いた病室の扉の、その先にあったのは、まさにヒロインの姿でした。
「怜美さん…」
黒いワンピース姿の怜美さんは、今まで会った中でも特別に凛とした態度を見せていました。
ありきたりな言葉で表現するなら、正しく「かっこいい」と言うべきでしょう。
「お願いします。その先はお聞きにならないでください」
「どうして?自分のことよ、知りたいわ。このまま何も教えてもらえないでいるなんて、どうにかなっちゃうわ」
私の哀願を、あっさりと―しかしクールに―払いのけると、ヒロインは目の前まで歩み寄ってきました。
「奥様、ここでこの医者に聞かれても、きっと正しい答えは得られません」
「え?」
彼女はそう言うと、今度は風を切るように、鉄山医師の方を振り返りました。
「貴方、この期に及んでも、まだ白を切るつもりね」
「し、白って…。なんですか、その言いぐさは。まるで犯罪者扱いだな」
「まるで犯罪者扱い」っていうか、テレビの亜莉栖シリーズのワンシーンを見ているような錯覚に陥ります。
亜莉栖の、胸のすくような台詞回しを、今ここで聞けるとは…。
でも…。
「怜美さん、どうして?鉄山先生が嘘をつくっていうの?」
私の「鋭い追及」に、完全に牙城を崩した、そう信じていたのですが…。
怜美さんの言葉に、私はもう一度、鉄山医師の顔をよく観察してみました。
「当直明け」の疲れ切った顔色に、私の「追及」で色を失くした表情。
そう、完全に私が勝利した、はず…。
「ははは…」
力なく、それはもう何も残っていない、万策尽きた表情を、はっきりと見せていました。
この顔を見ていると、今までの様子はいかにも演技くさいのがわかりました。
「貴女、女優の岡野怜美さん、だっけ。ずいぶん察しがいいんだね。ホントに女優さんなの?」
「お世辞ならいりません」
そう言い切る彼女の後ろ姿は、本当にドラマの中の亜莉栖そのものでした。
いえ、今のこの姿が、本当の亜莉栖なのかもしれません。怜美さんが、ドラマの中の亜莉栖を演じているというより、彼女によってひとつのキャラクターが確立された、私はしっかりとそう感じました。
「どうやら私には貴女のような役者になる資格はないようだ。演技力がなさすぎる。でもね、岡野さん。今ここで紀藤さんに、どういう言い方をすればいいのか、何を伝えればいいのか、それは医者としては知っているはずなんだけどね」
「…」
「確かに紀藤さん、貴女の診察の結果は出ています。でもね、ホントにずっとはっきりしなかったことは事実なんですよ」
そう言うと、ベッド脇へ椅子を持ってきて、ゆっくりと、心の底から「疲れ切った」といった表情のまま、吸い寄せられるように座りました。
「いつだったか、貴女が言っていた白血病…急性白血病の疑いもあった」
「あった?」
「目が覚めた時に腰の辺りが痛かったことありませんか?あれは骨髄の検査をしたからです。白血病が疑われていると、必ずする検査なんですが、どうしても腰に痛みが残る…」
そう言えば、入院してすぐに、ずいぶん腰が痛いことがあったのを思い出しました。寝過ぎて腰が痛くなったのかとも考えていました。
「それだけではわからなかったし、確かに当初はかなり、その要素が多かった。もし陽性なら命に直結するから、我々としても慎重にならざるを得ない」
深い息をつくと、言葉を探すように語ってくれていました。
「貴女には詳しく話さなくて申し訳なかったですが、その他にもいろいろな検査をさせていただいた。詳しいことは話さないが、でも結果は陰性だったということははっきりした。つまり、それは疑いで終わったわけです」
気が付くと、疲れの見える顔の中に、医者として持っているのであろう、強い信念のような表情を見せていました。
「そうだったんですか…」
そう言うと自然に怜美さんの顔を見ていました。何も判断のつかないことの「答え」を求めるように…。
すると怜美さんも、気が付くと深い肯定の表情を見せています。
「娘」の意見に私は全て、信頼を寄せていました。
「それで私は…」
「紀藤さん…」
私の言葉をやんわりと、しかし有無を言わせぬ強さで遮ると、
「それで、覚悟はできていますか?」
冷静を超えて、冷酷ともいえる表情で言い切りました。この人に、こんな顔があるのかと、少しだけ驚きを感じました。
鉄山医師にとっても、使うことをためらわれる言葉を発してしまったことは、医者としての職業的な覚悟も必要だったはずです。
とにかく、とっくに「それ」は、できていたつもりです。でも、いざ医者から具体的に「覚悟」などという重すぎる言葉を突きつけられてしまうと、さすがに心にさざなみ、というより荒波が立つのを覚えて、尋常な気持ちではいられませんでした。
もし、今ここに、差し出せば手の届くところに彼女が、怜美さんがいなければ、私の気持ちも萎えてしまったかもしれません。
「怜美さん…」
私は、ちらっと彼女の顔に目をやりました。
怜美さんは、つい今しがた鉄山医師と対峙していた時の厳格な表情を消し去り、温かく包みこむような優しさを見せていました。
「ええ、お願いしますわ」
私は怜美さんの大きな想いに後押しされるように、力強くうなずき、そして鉄山医師をしっかりと見据えました。
「そうですか…。わかりました」
鉄山医師は静かに首を前に傾け、少しの間、動かずにいました。
何かを考えているようです。
「少しお待ちください…」
そう言うと、やにわに立ち上がり、扉の方へ足を向けていきました。
その足音は、入って来た時と比べて格段に速く、そしてしっかりとしていました。
彼が出ていくと、残された私はたまらずに、怜美さんへ話しかけました。
「よく来てくれたわ。待ってた、いつ来るかって」
すると一瞬だけ、にこりとして、すぐに真剣なまなざしで私を捉えました。
「奥様、本当にお覚悟、よろしいですか?」
「ええ、もちろんよ。貴女がいてくれるのだから、怖いものなんかないわ」
怜美さんの研ぎ澄まされた目を見て、私は何者にも代えがたい安心感を覚えていました。
「きっと、辛い現実が待っていると思います…」
「そうね…。これまでのことを考えると、何があっても不思議はないわね」
なんの説明もないままに長引く検査入院のこと、松本さんが内緒で鉄山医師と会っていたこと、それに吉江さんがどうしても話をしてくれなかったこと、そういうひとつひとつが、これから明かされる真実の重みというか深刻さを、嫌と言うほど物語っています。
それなのに、なぜだか心はだんだん落ち着いてくる気がします。
怜美さんの存在が、私を強くしてくれるのでしょう。
しばらくして鉄山医師が再び現れましたが、今度は一人でなく、彼よりも年上で、おそらく立場も上であろう男性を伴っていました。
「来ました…」
「来たわね…」
期せずして、怜美さんと同じ気持ちになっていました。
そう、彼らがまるで病気そのもので、そこに立ち向かう「同志」であるかのように…。
「紀藤さん、うちの院長の嶋田です」
六十をいくらか越えたであろう年齢を感じさせる、鉄山医師に比べてやや長身で、白髪の目立つ頭部に、恰幅の良い体躯をしたこの男性は、ここの院長という、いわば病院の中の「総責任者」ともいえる方でした。
「嶋田です。この度は鉄山がずいぶんと迷惑をお掛けしたようですな」
押しの強そうな性格を感じさせる物言いで、この場の雰囲気を一気に持っていこうとしているかのようです。
口元に、あまり上品に感じられない笑みを浮かべ、なんだかドラマに出てくるような院長を地でいっているように思えます。
「とんでもありませんわ。彼だけが悪いわけではありませんよ」
私も「悪役院長」に負けず、少しは気の強い役を務めあげようと思い、普段よりもきつい口調を試みてみました。
そう、どんな悪役が来ようが、こちらにはヒロインがついています。負けるわけありません。
「いえいえ、紀藤さん。なんと言っても患者さんの気持ちが一番大事ですから。なんだかずいぶんと検査が続いて、はっきりした報告もしなかったらしい、なあ鉄山君」
「え?ええ、まあ…」
いきなりお鉢が回ってきて、少し面食らった様子の部下の医者は、言いたいことも飲み込まざるを得ないようです。
「それで…結局のところ、この方の病状はどうなんだね?」
その言葉を聞いた刹那、鉄山医師はさらに困惑した表情を見せました。
私でもわかりました。だから、怜美さんも当然のように気づいているはずです。
鉄山医師は、私の病状を上役である嶋田院長から説明させようとしていたのでしょう。責任転嫁とは言わなくても、重大な職務を重い役職にある人間が執行すべきなのは、社会的にも常識であると、私は考えます。
重病患者が自分の病名を知りたがっているが、それを伝えてほしい―。
そこで彼は院長にその責務を渡した。
もちろん、嶋田氏は私の病状を、鉄山医師から聞いているはずです。そして彼は、紀藤美佐へ病名を告げる役割を引き受けた―少なくとも鉄山医師に、そう認識させた―はずなのです。
しかし、実際は…。
「院長…」
「どうなんだね、鉄山君!」
有無を言わせぬ口調、と言うのでしょう。俗に言う「パワハラ」とも、とられかねないような、ひどく尊大な態度は、本当にテレビに出てくる嫌われられるために出てくる権力者の姿、まさにそのものでした。
悪役院長のパワーに押しつぶされ、鉄山医師は次の言葉も態度も、見つからないでいるようでした。
私は少し、彼が気の毒に思えてきました。
「先生…」
「鉄山先生!」
私が声をかけようとした瞬間に、怜美さんが私を制止するように、追い越すように、彼の名を呼びました。
「ぜひ、先生からお願いします。いつも診ていただいてくださる先生からうかがう方が、誰だかわからないお偉方のお医者さんの言葉より、ずっと信頼できます」
その言い方、それこそ「亜莉栖」です。端で聞いていて、留飲を下げる思いでした。
彼女に、半ば侮蔑的に扱われた嶋田院長はというと、一瞬、何を言われたのか判りかねるような顔つきをしていましたが、やがて真意に気づいて、その表情を一変させました。
「君、どういう意味だね?」
ギリギリのところで怒りを抑え込み、震える声を怜美さんへぶつけました。
しかし怜美さんは、しれっと、
「あら、特別な意味などありません。言葉の通りですわ…。お偉い先生」
怒り心頭に発する、と言うのでしょうか。
およそ、院長などという役職に就いていて、その威光に対して歯向かったり、楯突いたりする相手もいなかったことでしょう。院内でも、おそらくは患者からも。
きっと「先生」と呼ばれ続け、逆らうもののない道を、揚々と歩いている日々であったのでしょう。
思いもよらぬ扱いに、怒りと、そして戸惑いを感じているようでした。
「君は何を言っているんだ。一体、何者なんだね?」
もはや、発する言葉も支離滅裂です。
正義の名探偵・亜莉栖こと岡野怜美の面目躍如。私は心酔してしまいました。
しかし、次の彼女の言葉は、私をまるで「天国」へでも連れていってくれる、そんな芳醇で香しいものでした。
「私は…そう、私は紀藤美佐の…娘です」