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前編〜愛する人の遺した贈り物

 私を包む、まばゆいばかりの光。

 降り注ぐ金色の風。

 鳴り響く万雷の拍手は、私の身体も揺さぶる。

 これは私?

 今の私なの?

 私のために残してくれた、これからの始まり…。



 作家だった夫は私にたくさんの作品を遺してくれました。

 いえ、そういった「形」のあるものだけではなく、私を心の底から愛してくれた、数え切れないほどの想い出も、もちろんあります。

 彼が亡くなってからもうすぐ五年になりますが、今でもふとした拍子に「ああ、そういえば…」と、彼の仕草や言葉が、日常の中で思い起こさせることがたびたびあります。そして、そのたびに彼の優しさだったり、思いやりだったり、そんな気持ちが感じられて涙がこぼれてきてしまうのです。

 愛し合い、夫婦となり、同じときを過ごしたのはたったの七年間。出会ってからも、数えてみれば十年にも満たない、短い時間でした。


 早くに両親を亡くした私は、頼れる親族も無く、高校を卒業する間もなく、社会に出て生活しなければなりませんでした。

 と言っても学歴もなく、これといった取り柄や特技もなかった小娘に、世間の荒波は甘いものではありません。時にはつらい目を見たり、苦しい思いをしたりして、涙を禁じ得なかったことも一度や二度ではありませんでした。

 それでも、決して他人に後ろ指をされるようなことなどせず、苦しくても真っ当な生活を送ることができたのも、そして、のちに夫となる男性と出会うことができたのも、私のようなものには僥倖と言えましょう。

 人並みな収入すら得る術もない私にできるのは、休みもなく働き続けることだけでした。仕事を少しずつ掛け持ちして、そうして人並みの暮らしをしていく毎日が、その当時すでに十年以上も続いていました。

 そんな日々の中、ある店で働いていた時に出逢ったのが「新米小説家」の彼だったのです。

 私は昼間、自動車の部品工場に勤めていましたが、その仕事を終えた後は当時住んでいた古くて狭いアパートの近くにある食堂で働いていました。

 アパートの大家さんのおばさんがとても親切な方で、私が経済的に苦しいのを知って紹介してくれた、彼女の幼馴染が経営する店で、長い間この界隈で愛されている、いわゆる「定食屋」でした。

 安いけれどボリュームもあり、常連さんに言わせると「懐かしい味」で、私は「まかない」として夕食もいただけるため、食費も助かったものです。

「かぼちゃ亭」という、少し笑えるような可愛い名前のこの店での私の仕事は、お客様に注文をいただくのと、できあがった料理を運ぶことでした。

 私は努めて笑顔を絶やさないようにし、食事に来てくださるお客様にかわいがっていただくのはもちろんのこと、雇っていただいた経営者のご夫婦と、そしてこちらへ紹介してくださった大家さんの気持ちにも報いたい思いで必死に働きました。

 少しずつ仕事に、そして店にも慣れていった私は、いつしか厨房の仕事もさせてもらえるようになりました。今でも、私が作る料理の味はこの店で覚えたものが基本になっています。

 まだまだ若いつもりではいたし、経営するご夫婦や多くのお客様も、私にはとてもご理解のある方たちばかりだったのですが、それでも昼間の長い時間の仕事を終えた後でのこと、時には失敗することもありました。

 注文を取り違えたり、お皿を割ってしまったり…。

 そんな時でも、あまり文句や小言も言われることもなかったので、私は独りになって初めて多くの人から「可愛がられている」という実感に包まれていました。

 そう、私は少しずつ、幸せになっていったのです。


 そんなある日、良く晴れて、冬の始まりとしては暖かかった夕食時「彼」に出逢いました。店も多くのお客様でいっぱいの時間帯でした。

 混み合っていたこともあって、最初は特に印象もなかったし、むしろ後々彼に言われてから「ああ、そう言えば…」と思ったぐらいでした。

 お客で賑わう時間帯に来店した彼に対して私は、相席をお願いしました。店内はすでに満席に近かったのです。

 その時は黙って了解してくれたのですが、あまり愛想も良くなく応じた態度に、私は内心「ああ、一度きりだな」と思っていました(だからと言って手を抜くつもりはありませんが…)。

 ぼさぼさ頭に、なんだか古くさいセーターの上からあまり暖かそうに見えない袢纏を着込み、汚れたジーンズを履いた彼は、どう見ても「老けた学生」にしか見えませんでした。

「日替わり定食…」

 座るとすぐさま、ぶっきらぼうというか、言葉少なに店の定番メニューを注文してきました。

 お客様が多かったこともあって、その時はあまりよく観察してはいなかったのですが、出てきた定食を、無愛想な中にも美味しそうに食べていたことは思い出せました。

 それからも度々、食事に訪れる姿を見るようになったことで「一度きり」と予想した私の勘は外れてしまいました。

 それでも、いつもぼさぼさ頭で、着るものも変化がなく、そして必ず「日替わり定食」と、店で一番人気のある、というより「一番安いメニュー」を注文していて、私なんかからしても少しだけかわいそうに思ってしまいました。

 ただ最初に来た時以外は比較的、店も空いた時間を選んでくるようになったことだけが、変わったところでした。そして注文してから料理を運んでいくまで、いつもノートを出して何かをしきりに書いている様子でした。あとから、それが小説を書いていたのを知り、あんなごみごみして、落ち着かない状況でも、集中して創作できていたことをとても驚いたものです。

 毎日ではなかったものの、頻繁に通ってくるちょっと変わった雰囲気の男性に、私は少しずつ「興味」を覚えてきていました。

 と言っても、あまり積極的ではない私が、自分から何か特に話しかけることもありませんでしたし、無口に見える彼からも、それほど会話が続くようなことは多くありませんでした。

 それでも、世話好きで人の好いおかみさんが声をかけてあげると、決して無愛想とかとっつきにくいとかではなく、ちょっと不器用なだけで、気が付けばいつの間にか少しずつ言葉も交わすようになり、私もそこに加わるようになってきました。

 ただそれでも、店の中ではユニークな存在には変わりありません。

「また、あの人来ました」

「ああ、日替わりね」

 注文を厨房へ通すと、調理をするご主人がいつもの優しげな笑みを浮かべ、さも楽しいことがあったかのように答えてくれました。

 でも、おかみさんは、

「ねえ、あの人さぁ、こんだけちょくちょく来るのは、あんたに気があるんじゃないのかね」

 と、からかってくるのです。

「ええ、やだわぁ、おばさん。おじさん、なんとか言ってください」

「いやぁ、案外もしかして、もしかするかもよ」

 調理の手を休めず、ご主人も私をからかってきました。

「だって、あんたもさ、もういい歳じゃない。そりゃあ、いつまでもここにいてもらいたいけど、そろそろ結婚してさ、幸せになりなよ」

「おばさん…」

 優しい、母のような言葉が私を温かく包んでくれました。

 気が付くと三十路も迎えて、ほとんど浮いた話もなく生きてきた私は、これからの人生を考えてみる必要もあるとは思っていました。

「まあ、だからって、どうしてもあれを選ばなきゃいけないこともないけどね」

「そうですよね」

 私はおかみさんと、何も知らずに料理を待っている彼を見て、二人で顔を合わせてうなずいてしまいました。


 それでも、運命というか、生きていく道筋というのか、とにかく先行きというのはわからないものです。

 彼が店に通ってくるようになって、気が付くと一年の月日が流れていました。いつのころからか、少しは会話をするようになった彼ですが、どこで生まれて、どこで育ち、どんな生活をしてきて、そして今、どんな日々を送っているのか、それ以前に名前さえも知らないままでいた私だったのに、一気に転機がやってきました。

 それも…質素に。

「ヒレカツ定食。あとビールも一本」

「え?」

 決して油断していたのではありませんでしたし、まして侮蔑とか差別的な気持ちを持っていたつもりもありません。

 でもいつか、彼が日替わり定食を注文する時に、親しみを込めて、

「いつもの」

 と、そう言ってくれる日が来ると信じていました。

 だからと言って、違う品を、それもうちの店で一番高いものを、しかもビールまでつけて頼むとは予想外でした。

 私は思わず聞き直してしまいました。なんて失礼なことなんでしょう。

 それでも彼は、普段はあまり見せなかった笑顔を、満面に浮かべると、

「いやぁ、おめでたいことっていうか、嬉しいことがあったんですよ。実は、僕が書いた小説が、ついに日の目を見たんですよ」

「小説、ですか…」

 私は、彼の言っていることが最初は飲み込めず、嬉しそうに語り出した話を、ただ聞くだけでした。

「恥ずかしながら小説家を志して十数年。やっと文学賞を受賞することができました。これでいよいよ本格的にデビューができるようになりました」

 どうやらこの「老けた学生」は作家の卵だったようです。

「まあ、それはおめでとうございます…」

 彼の言葉を聞いてもあまり実感が湧かず、何と言ってお祝いしていいのか、よくわからなかったのですが、よくよく考えれば、例え普段は「日替わり定食」だけでも、大切な常連さんに違いありません。そんなお客様が喜んでいられるのです。ここはしっかりと祝福してあげようと決めました。

「素敵ですね、小説家さんだったんですね。ちっとも…」

 ちっとも、なんだったんでしょうか。私は「しまった!」と思ってしまいましたが、どうやら彼は無頓着でした。

「ありがとうございます。いえ、これも貴女の…貴女たちのおかげですよ」

 ここで食べたものが美味しくて、いいストーリーも浮かびやすかった、とでもいうのでしょうか。

 運ばれてきたビールをコップに注ぐと、美味しそうに飲み干し、それだけで顔を赤くしていました。

「なにせ、この店をモデルにした話を書いて、それが大賞を取ったんです。感謝してもしきれません」


 それからしばらく、彼は今まで通り「日替わり定食」を注文する日が続きました。「ヒレカツ定食」はお祝いで一日だけ、と決めていたようです。

 変わらない日々の中、小説家であるということがわかった彼とは、それからは以前よりも少しずつ、交す会話が多くなっていきました。

 そして、そろそろ暖かくなってきたある日のことでした。

「皆さん、出版されました!」

 今までは遅めの夕食時にしか現れなかった彼が、日曜日の午後に息せき切ってやってきたのです。

 工場が休みの日は一日中かぼちゃ亭で働いていたので、偶然でしょうか、その場に居合わせることができました。

「おいおい、にいさん、なんだってんだい、一体」

 休日の昼食時の忙しさから一息つき、厨房から出てテーブルの一席で新聞を読んでいたご主人が、びっくりした声を上げました。

 おかみさんと一緒に夜の分の仕込みをしていた私も、慌てて厨房から飛び出してしまいました。

「ごめんなさい、やっと僕の小説が本になったので、急いで持ってきてしまいました」

 彼は、その手に一冊の本を大事そうに持ってきていました。

「なんだ、小説か?」

 ご主人が真っ先に手に取ろうとしましたが、なぜか私を見ると、

「ぜひ、読んでください」

 と、手渡してきました。

「はぁ、ありがとうございます…」

 なんと言っていいのか、またしてもよくわかりませんでしたが、とりあえず手渡された本を見ると、

「『愛しのキッチンパンプキン』って、本当にこの店を舞台にしたんですか…」

 私は思わず苦笑してしまいました。

 ちょっとカラフルなタッチの表紙には、大きな文字で「愛しのキッチンパンプキン」と、これも少し柔らかいイメージの字体で書かれていました。

 キッチンパンプキン…この店の名前「かぼちゃ亭」からつけられたものであるのは一目瞭然です。

「なんだってぇ?」

 ご主人も、私の手から本を取ると、老眼鏡をかけたまま、その表紙を見やり、やはりちょっと苦笑いを浮かべ、おかみさんも、

「なんか、不思議な気分だねぇ」

 と、笑い出しました。

「と、とにかく、ありがとうございました。ぜひ読んでみてください」

 顔を紅潮させると、

「では、また。夜に来ます」

 と、まるで逃げるように去っていきました。

「なんだい、慌ただしいやつだなぁ」

「ほんとだ。きちんとお祝いしてあげなきゃねぇ」

「まあ、あんたから先に読んでやりな。まずはレディファーストだ」

 ご主人がもう一度、私に本を戻してきました。

「え、いいんですか?」

「いいも何も。まずはあんたに読んでもらいたい、ってやつの顔に書いてあったろ」

「え?」

「やっぱり、そうだったんだねぇ」

「ええ?」

 二人にからかわれて、私はなんと答えていいか、わかりませんでした。

 その夜、いつものように現れ、いつものように日替わり定食を注文した彼を、私は妙に意識してしまい、何も話しかけることができませんでした。

 彼も同じような気持ちなのか、必要以上に口を開くことがなく、それでも帰り際にやっと、

「読んでいただけましたか?」

 と、尋ねられただけでした。

「いえ、まだ…。今晩、帰ってから部屋でゆっくり読みます」

「ああ、そうですよね。まだ渡したばっかりですしね…」

 何かいたずらしたことを見つけられたような顔で、照れくさそうに言って、

「ぜひ読んでください」

 と、念を押されました。

 でも、なぜかその目が輝いて見えて、少しうらやましく思えました。

 彼を送り出すと私は、手渡された本が妙に気になってきてしまいました。


 その夜、アパートに戻った私はさっそく、彼が書いたという小説のページをめくってみました。

 元々、読書をする習慣などなかった私ですが、少なからず見知った人が書いたものが一冊の本になり、それを手にして読むということが、不思議で新鮮な感覚でした。

「へえ、私より年上だったんだ。意外…」

 私は表紙をめくったすぐ裏にある「作者紹介」の箇所を読み、今まで知らなかった彼の人となりを初めて認識することになりました。それこそ、年齢や出身地などはもちろん、名前さえも…。

 そして、目の前にあったものを、ひどく遠回りして手に取るような、そんなもどかしさを正直言って感じました。

 しかしページをめくるにつれ、それ以上にもっと「深いもの」を手に入れることになろうとは…。

 軽いタッチの表紙や身近に感じるタイトルなど、私は最初、気軽な気持ちで読み始めました。「知り合いの作品」を読ませてもらう程度の思いだったようです。

 それは「私小説風」とでも呼ぶのでしょうか、主人公が自らの体験を通して感じられた気持ちを、時に軽やかに、また時には切なく書かれているのですが、その登場人物が私の周りにいる人たちを思わせる人たちばかりでした。

 主人公が「売れない作家」、そしてその彼が毎日のように通い「日替わり定食」を注文する食堂の「キッチンパンプキン」の人たち。

 元気な「ご主人」や明るくて気さくな「おかみさん」もいるし、よくよく顔を見かける常連さんを思わせる人たちや、さらに私自身を連想させる女性「お姉さん」も。

 そんな身近な存在のありふれた日常が、まるで「おとぎ話」みたいに描かれているのです。

 軽妙な文章もあって私は一気に読み続けました。

 笑いがこぼれたり、涙があふれたり…。

 でも、最後に思ってもみなかった結末が待っていました。

 それは「売れない作家」が実は「お姉さん」に恋をしていた、というのです。

 私自身を思わせる「お姉さん」は、私が彼に少しだけ話したような、身内もいない独りぼっちの女性で、それでも一所懸命に生きている健気な人でした。主人公の「売れない作家」は、そんな「お姉さん」と言葉を交わしていくうちに、今までに感じることのなかった安らぎを覚え、そして一緒に生きていく決意をする、という筋書きでした。

 最後は「売れない作家」が「お姉さん」にプロポーズをする場面で終わるのですが、あまりに切ない気持ちが込められていて、もう涙が止まりませんでした。

 読み終わると、もうとっくに日付も変わっていて、夜明けも近づいていました。

 でも、私は複雑な思いでした。

 これは、本当に「現実の話」なのでしょうか。あの「彼」が、私のことを「そういう気持ち」で見ていたということなのでしょうか…。

 もし、それが「真実の話」なのであれば、彼はこれほどまでにも「壮大な告白」を用意してくれた、ということになります。

「まさか、私に…」

 私なんかみたいな女に(たとえ冴えない風体でも)将来を嘱望されるような存在になった男性が、想いを寄せてくれる?それとも、ただの「物語」を私が勝手に期待をしただけ?

 恋愛経験に乏しい私には判断のしようがありません。

 空が白々と明けてくるころになっても、私は一睡もしなかったことが気にならないほど、頭が冴えていました。

「一体、どうしたらいいのかしら…」

 なんにもなかったかのように、ただ普通に、今まで通りに接する、という手立てもあると思いますが、私のような要領の悪い人間が、この本を読んでそんな態度をとれるはずもありません。

 だからと言って、彼に「貴方は私をどう思っているの?」と「本当の気持ち」を直接聞きだすのも、私なんかにしてみればかなり難しいことです。

 私は工場でも一日中、頭の中でいろいろ考えてしまい、仕事が少しだけおろそかになってしまいました。

 そしていよいよ、工場での仕事も終わってしまい、今度は次の仕事先のかぼちゃ亭に向かう刻限がやってきました。

 夕べは一睡もしていないというのに、全くと言っていいほど眠気を感じません。きっと、それだけ気が張って緊張しているのでしょう。

 裏口から店に入り、ご主人やおかみさんに挨拶をして、身支度を整えているときから、妙にそわそわしてしまいました。

「どうしたんだい、もう大先生の本は読んだのかい?」

「え、ええ、まぁ…」

 おかみさんに言われている、なんでもない言葉が「訊問」に感じてしまいます。

「へぇ。で、どうだった?私がイイ女で出てたかい?」

「ええ、まぁ…」

「なんだよ、今日は一体?変な子だねぇ」

「は、はあ…」

 歯切れが悪すぎる受け答え。どうやらすっかり「挙動不審」になっていました。これで彼が現れたら、私は壊れてしまうかもしれません。

 私は心の中で、彼が来ないことを祈っていました。

 しかし…。

 いつもの時刻になり、彼はいつも通りやってきました。扉を開けてゆっくりと入ってきます。

 その(冴えない)姿を見ると、私は心臓が止まりそうになりました。

「いらっしゃい。…おや、大先生のお出ましだね」

 おかみさんは何も知らずに軽口をたたきながら、いつものように迎えました。

 でも私は、当たり前のようにすべきことができません。「いらっしゃいませ」の言葉も、そしてテーブルへ案内するための一歩も、出ないのです。

 しかし、私が何もしなくても、彼は慣れた足取りで店へ入ってくると、いつも座っているテーブル席へ向かいました。そして、いつもと変わらず「日替わり定食」を注文しました。

 私の耳には、注文するその言葉が、遠く離れた所から聞こえてくるように感じ、私自身さえもどこか遠くへと飛んで行ってしまったみたいに、足が地に着いていないかのようでした。

 私をじっと見つめる彼の目がありました。

 身動きできない私に彼は、私が彼の小説を、その最後のシーンを読み、そして彼の私に対する気持ちを知ったであろうことを、察したのだと思います。

 その目は真剣で、それでいて穏やかで、そして何より温かでした。

 私はその目を見て気づきました。彼の気持ちが本当であることを…。

 それは、彼が私のことを、そう…「愛してくれている」ということだったのです。

 まぎれもなく、私はひとりの人に愛されたのです。

 今まで、そんな気持ちで受け入れてくれた人のいなかった私。

 でも今は確かに、愛されている実感がここにあるのです。

 次の瞬間、私は自然に彼の胸へ飛び込んでいました。それから、周りに誰かいることさえ気にもせず、大声で泣いていました。


 小説の終わりでは「売れない作家」が「お姉さん」にこう言います。

 〈僕は貴女のことをほんの少ししか知りません。貴女もきっと僕のことをほんの少ししか知らないでしょう。だけど貴女がどんなひとであるのか、そんなことは関係ありません、どうでもいいんです。僕はただ、貴女と一緒に歩く人生しか考えられないのです。僕を信じて、ついてきてください。貴女だけを守らせてください〉

 しかし、小説の中の雄弁な主人公とは違い、現実の彼は本当に無口で、そして不器用でした。彼の胸の中で私は、小説みたいな素敵な言葉をいただけるのかなと、少しは期待していたのでしたが、残念ながら現実は思ったようにはいきませんでした。

「ぼ、僕は…あの、あ、貴女が…あの…」

 かぼちゃ亭の中は、一瞬の沈黙があった後、大きな笑いに包まれていました。

 ご主人やおかみさん、居合わせた常連さん。経緯はわからない人たちのはずでしたが、私たちの様子でなんとなく成り行きは察したのでしょう。そしてそのムードをすっかり壊してしまった彼には、みんな容赦なかったのです。

 そしていつの間にか私も、涙を流しながら、こらえ切れずに笑い出していました。

「ごめんなさい、もう何も言わないでいいです。わかります」

 小説にあったラストシーンのような、そんなスマートな展開ではなかったけれど、私が彼の「それなりのプロポーズ」を受け入れると、店の中にできた大きな笑いの輪は、いつしか温かい拍手の渦に変わりました。


 それから、新しい苗字を授かった私は、彼との新しい生活をスタートさせました。

 彼は、その後も次々と作品を発表し、どんどん名声を上げていきました。

 初めて店で見た時と違い、別人に見えるほどスタイリッシュになり、そしてほんの少しは弁も立つようになって、いわゆる「売れっ子作家」として、恥ずかしくないようになってきました。

 それでも、最初に出逢ったころと変わらず、無愛想に見えたけれど実は少しだけ不器用なだけの彼のままでした。

 そして、そのままの彼が、私を愛してくれました。


 優しい、穏やかな彼との日々。

 しかし、それも長くは続きませんでした…。

 季節がやがて寒さを運んで来ようという、ある日のことでした。

 その日、普段は必要以上に外出することのない彼が、久しぶりに「取材」も兼ねて出かけようとしていました。

 若いころから「売れない小説家」として苦労をしていた彼は自動車など持たず、外出する時は専ら公共の交通機関を使っていて、その日も家を出てその足で最寄りの駅へ向かいました。

 行き先も告げず、ただ、

「すぐに帰るから」

 と、いつもと変わらない口調で一言残して…。

 私も普段と変わらない言葉だけ、彼に返したのです。

「いってらっしゃい、気をつけてね」

 いつも何気なく使っている言葉、それがなんの意味もなかったことを知ったのは、その日も暮れていき、夕げの支度に取りかかろうとしていたころでした。

 何気なくつけたテレビに、突然入ってきた「臨時ニュース」の一報。

「ただいま入ってきた情報によると…」

 それは電車の脱線事故のニュースでした。

 私たちの住む街を通る路線の電車が、脱線事故を起こし、たくさんの人が被害に遭ったというのです。

「速報」は、まだ全体の様子を掴みきれていないのか、被害状況を詳しくは報じていませんでした。ただ、大きな事故であることだけを告げ、

「詳しくは追ってお伝えいたします…」

 と、機械的に言うだけでした。

 私は路線の名前と、事故が起きた場所が最寄り駅のすぐ近くであることから、少なからず不安を覚えました。

 そろそろ彼が帰ってきてもいい時間帯でした。

 私たちは、そのころはまだ携帯電話を持たない生活をしていました。お互いに「すぐそばにいる」という感覚があって、何も無理して「つながる必要性」を感じなかったこともありました。

 しかし、その時ばかりは「なぜ持っていなかったんだろう」と、後悔してもしきれないぐらいの思いで胸が締め付けられるようでした。

 それからの時間、それをわずかと言うのか、それとも長いと言うのか、私にはわかりません。でも、彼のことを思い、そして心を切り裂かれるような時間は、私の周りをただ淡々と流れていくだけでした。

 やがて鳴った電話の呼び出し音。

 それが彼からの連絡であるとばかり信じていました。

 しかし…。


 いつまでも続くと信じていた、それが当たり前のように思っていた幸せ。

 それがたったの一日で、いえ厳密には、ほんの一瞬で、もろくも崩れ去っていったのです。

 電話は事故現場から緊急搬送された病院からかかってきたものでした。

 事故に遭遇した彼は、折り重なるような乗客たちの下敷きになって…。

「…」

 なんと答えていたのでしょうか。何かを話していたのでしょうか…。

 今となってはそんな簡単なことさえ思い出すことができないのです。

 月並みな言葉ですが、私は目の前が真っ暗になりました。

 いいえ、そんな状態すら、その瞬間には思い当たらない、きっと「魂が抜ける」とは、そのときの私のことを言うのではないかと。

 今は時がたっているから言えるのですが、あの時の記憶の中には「感情」と言ったものが存在していないようなのです。そして、何かを口にしたのか、何かを耳にしたのか、何かを目に入れたのか、そういったすべてのことが、私の頭の中から抜け落ちて、何も考えずに歩き続け、気がついたら見知らぬ街にいたような、そんな思いしかありません。

 涙を流すことさえできなかった私…。

 きっと泣くことができれば、もしかすると少しは楽になれたのかもしれなかった…。

 子供も授かることができなかった私。よく立ち直ったと、自分自身で感心しています。

 でも実は、もしかすると心底、立ち直ってなどいないのかもしれない。今でも…。

 気がつくと、ただの「抜け殻」でしかない私が今、見たり、聞いたり、しゃべったりして、そして毎日を意識しているだけなのかもしれません。

 ここにいる私は「あの時」に、すでに私でなくなっているのかもしれない…。


 それでも私が、こうして毎日を生きているのは、最初に述べた、多くの「作品」が残っているからに違いありません。

 彼の残した作品。それは作家として功なり名を成した彼が残した物語の数々。

 多作だった彼は、たくさんの作品を仕上げていました。そして、その小説はたくさんの読者の方に愛されていました。

 でも、その中には発表され、多くの読者に読まれたものだけではありませんでした。

 時には、

「こんな話を書いてみたよ」

 と、生まれたばかりの原稿を、いたずらっ子のような笑顔とともに見せてくれることがありました。

 それは、まるで私だけのために書き上げてくれたみたいで、

「この作品はいつ、出版されるの?」

 読み終わった後で私が聞いても、

「どうしようかなぁ」

 と、まるで子供が自分の楽しみだけのために作ったような、そんな顔をするのです。

「気が向いたら、ね」

 本当に、いたずらっ子みたいな顔でそんなことを言うと、夫はいつの間に仕上げたのか、そのすぐ後には全く別の新しい作品を世に出していくのです。

 だけど気がつくと、私だけに見せてくれる物語の数が、なんだかずいぶんたくさんになっていました。

 しかも、ひいき目もあるのでしょうが、私しか読まない作品の方が、素敵な仕上りになっているような、そんな気すらしました。

「ねえ、こんなにいいお話、たくさんあるのに発表しないの?」

 私は不思議に思い、一度だけ聞いてみたことがあります。

 すると彼は答えを決めていたように言ったのです。

「君だけに読んでもらいたいから書いてるんだ。今は発表したいとは思わない」

「でも…」

 私がちょっと心配になっていると、

「僕が生きている間、このシリーズの読者は君だけでいい。でも、もし僕がこの世を去ったら、君が好きにしていいよ」

 その言葉が、あまりにも不吉な言い方だったので、私は怖くなりました。

「やめて、そんな縁起でもない話!」

 彼がいなくなってしまうなんて、考えたくもありませんでした。

「ハハハ、おっかない顔しないでくれよ」

 でもそんな彼は、大きな声で笑いながら、優しくあったかい手で、心配な気持ちでいっぱいの私を強く抱きしめてくれました。

 そうしてもらうと私は彼の腕の中で、不吉な話も忘れるように、無邪気な気持ちになりました。


 でも彼のそんな言葉が、あの日、現実となって私に襲いかかってきたのでした…。


 多作家の夫が書くものは様々なジャンルに渡っていました。純文学をはじめ、恋愛ものや時代小説、それから少しコミカルな短編集など、いろいろなストーリーを紡いできた彼でした。

 でも、夫が私だけに残してくれた作品は、それまでに出版された彼の小説とは違うジャンルのものでした。

 SFも書いた彼でしたが、大きなカテゴリーの中で、唯一と言っていいでしょう、発表していなかったのが「推理小説」でした。

 そんな夫が私のために書いてくれたものが、少女から大人への階段をのぼりかけた、少しミステリアスな雰囲気を持つ女性が探偵役を務め、警察でも手を焼くような難事件の真相を追って活躍する筋立ての推理小説でした。

 中には少々陰惨とも思えるような「事件」が起きる筋立てにも関わらず、読み終わった後、なんだかほっとする気分にさえさせてくれるようなストーリーもあり、私はほかの作品と比べても(私だけに書いてくれたことを差し引いても)大好きでした。

 いろいろな話を展開させている彼の、間違いなく「真骨頂」と言ってもいい作品だと、妻として私は断言できます。

 なぜ、これほどの作品を、夫は決して発表することなく、私だけに残していったのか。今となっては不思議に思えてなりません。

 これから先、私はこの作品を世に出すべきかどうか、迷ってしまっています。

 これだけの素敵なストーリーを、たくさんの人に読んでもらいたい気持ちと、そして少しわがまま過ぎますが、私一人のものにしておきたい気持ちとが、心の中で葛藤しているのです。

 作家としての彼であるべきか、それ以前に私だけの愛した夫であるべきか。もはや寄る辺のない私にとって、それは何者にも比べ得ない問題なのです。



 満嶋麻衣さん。

 夫の最後の担当だった出版社の編集の方。まだ三十代半ばと、お若いのですが、なかなかの「やり手」でいらっしゃる女性です。

「奥様、ご無沙汰しておりました」

 命日も近い、小春日和の午後のことでした。

 手土産だと言って、私とそして甘いものに目の無かった夫も好きだった、出版社の近くにある洋菓子屋さんのケーキを持ってきてくださいました。

 私はその中から、特に夫が大好きだったチョコレートケーキを仏間の遺影の前にお供えし、紅茶をいれると、

「麻衣さんもお一つどうぞ」

 と、彼女に勧めました。

「ありがとうございます。では遠慮なく…」

 ショートカットに丸顔の麻衣さんは、はじけそうな笑顔でケーキを選んでいます。そうした様子を見ていると、二十代でも通用しそうですし、とても「敏腕編集者」には見えてきません。

 結局、彼女はさんざん迷った末に季節にぴったりのモンブランを、私は紅茶によく合うチーズケーキを選ぶと、久しぶりに一人きりでなく、誰かと過ごすティータイムを迎えることができました。

 紅茶から立ち上る湯気が私の目の前で揺らぎ、窓から差し込む柔らかな秋の日に映え、優しい時間が流れました。

 それからしばらくは、とりとめもない話が続くと、最近の出版業界の話題になっていきました。

 …と言うよりも、彼女が勤める出版社のことでした。

「やはり、先生のお力は私どもにとって大変大きかったです」

「ありがとうございます。そのように言っていただいて、主人もさぞ喜んでいることでしょう」

「そうなんです、先生がお亡くなりになったころから…」

 彼女の顔色が悪くなっています。

「どうも我が社は今ひとつ、調子が出ません」

「…」

「もちろん、私どもがもっとがんばらなければいけないのですが…」

 ケーキを前にして輝いていた笑顔は消え、いつの間にか苦悩する敏腕編集者の顔を見せていました。

 生前の夫は、彼女が勤める出版社に専属で作品を提供していました。他の会社から夫の作品は出版されていません。

 義理堅い夫は、受賞後から駆け出しの頃にお世話になった出版社に恩義を感じていて、名前が売れるようになってからも他社の誘いを断っていたのです。

 最後は麻衣さんが担当してくれていましたが、それまでも何人かの編集の方にお世話になっていました。特に、最初に「手取り足取り」指導をしてくださったと言っていた松本哲生さんという編集さんには「頭が上がらない」くらいの気持ちだったようです。

 今は編集長の要職にお就きなっていらっしゃる松本さんは、担当を外れてからも何くれと無く支えてくださって、私も大変感謝していました。

 夫が死んだときは、ご自分の家族が亡くなったかのように悲しみ、通夜の席で人目もはばからず泣き叫んで大きな声で夫の名を呼び続けてくれました。

 そのときには、私も悲しみを新たにしました。

 麻衣さんの話を聞いていると、松本さんもきっと悩んでらっしゃるんだろうな、と思いました。

「あ、ごめんなさい。奥様の前だと、私つい気がゆるんじゃうのかな、何でも話しちゃいますね」

「あら、いいのよ。むしろ嬉しいわ」

 私は、麻衣さんが心の底に沈み切れていない悩みを、吐露してくれたことになんだか嬉しい気持ちになってしまいました。

 もちろん、会社の景気が良くないことに苦しんでいるのであろう彼女の心情を思えば、そんな心持ちになってしまうことは、いささか失礼なことだとは思いましたが。

「あ、先生の小説は、いまでもよく読まれています。私どもの会社にとって、なくてはならない財産です」

「ありがとう。おかげで私も、こうしてなんの心配もなく生活していけてるわ」

 少し下世話な言い方だったかもしれませんが、麻衣さんが素直な気持ちを話してくれたから、私もつい軽口をたたいてしまいました。

「本当に、よく売れているんですよ」

 麻衣さんの言葉を待つまでもなく、入ってくる「印税」の額をつぶさに知っている私にとって、夫の作品がどれだけ大きな存在であるか、容易に想像できました。

 でも、それでも「出版不況」は彼女の会社にも訪れているようです。

 一人の作家の作品が、どんなに売れていようとも、大きくなった出版社を支えきれるものではないということなのでしょう。

「あら、いけない。もうこんな時間」

 明るく差し込んでいた秋の日差しは、あっという間に傾き、気がつくと窓から見える景色はオレンジ色に染まっていました。

 麻衣さんは腕時計に目をやると、驚いた様子を見せました。

「申し訳ありません、すっかり長居をしてしまいました」

「あら、いいのよ。私の方こそ、お忙しいのに話し相手にしてしまって、ごめんなさいね」

 わざわざ命日の近くに訪れてくれたことは、口には出さずとも夫を思ってくれた彼女と、松本さんをはじめとした会社のご好意に違いありません。

 でも…。

「今度は松本も一緒に参ります。あらためてお線香をあげさせてください」

「いつでもお待ちしています。私も麻衣さんにまた会いたいわ」

 私は素直な気持ちで彼女を送りました。

 玄関のドアを、心なしか重そうに開くと、

「では失礼します。だんだん涼しくなってきますから、お体に気をつけてください」

「ありがとうございます。皆さんにもよろしくお伝えください」


 主人は、他の出版社には一切、作品の提供をしてはきませんでした。

 そして、それからもうひとつ、自分の作品の「映像化」を、決して許可しませんでした。

 それは、彼が小説という世界、ひいては文章の世界に強い思い入れがあったからです。

 彼が生み出した、描き続けた「人物」は、彼の文章の中だけで生きさせたかったのです。それを誰かが演じるということは、作家としての「生き様」に反することと考えていました。

 少々頑固だったかもしれませんが、私は夫のそんな「哲学」を誇らしく思っていました。

 中には、とても高額で放映権を得ようとしたテレビ局もあったという話でした。

 でも主人は、

「お金の問題じゃないんだ。わかってくれるね?」

 と、誰よりも私を納得させるべく、そう語っていました。

「もちろん、あなたが望んだことは、私も賛成だわ。あなたが書いたお話は、本の中で完結する世界なのよね」

 私がそう言うと、彼はほんとうに嬉しそうに、そして自信たっぷり微笑むのでした。

 きっと、夫の小説を映画やテレビの作品にすれば、間違いなく高い評価を受け、もっとたくさんの人たちに彼の世界に触れてもらうことができ、読者層も広がったことでしょう。

 そして…。


 私は麻衣さんの来訪に、なんとなく会社からの「意図」を感じられたような気がしました。

「出版不況」で厳しい会社を再建させる、いわば「切り札」として、夫の作品が託されたのではないでしょうか。

 それも「全集」とか、今までのものを再編集したりするようなものではなく…。

「きっと、お願いされるわね…」

 麻衣さんが帰った後、仏前に備えたチョコレートケーキをおろしてくると、なんとなく一口二口、夫とふたりで食べているような気持ちでフォークを使っていました。

「映像化、ね」

 遺影を見つめながら、私は思ったことを口にしていました。

 数ある作品の中では、テレビ化を望まれて高額な放映権を提示されたシリーズや、晩年に書き上げた栄誉ある文芸の賞をいただいた小説も、映画化を待望されていました。美しい映像を紡ぐことで有名な監督の方から、生前にも直接オファーをいただいていました。きっと今回もまた同じようなお話があるのではないでしょうか。

 主人の書いた小説が映画になる―。

「ひとりの愛読者」としては、とても楽しみなことです。

 本の中の登場人物を現実の人間が演じることにより、また新しい魅力が生まれてくるに違いありません。今まで気がつかなかった価値観が見出されることがあるのかもしれません。

 それでも…。

 私は、夫が文章の中だけで生き続ける登場人物たちを、彼に代わって守っていってあげようと思いました。それは「ひとりの愛読者」としての立場は捨てて「作家を支える妻」という役割に徹することです。

 そして何より、愛する夫の心情をいつまでも見守っていきたい、そんな気持ちでした。

 しかし、麻衣さんや皆さんのお役に立ちたい、その思いも決してないがしろにするつもりはありません。

 もちろん、出版社の方から直接、そういった依頼があったわけでもありません。私が今ひとりでやきもきしていても仕方がないのはわかりきったことなのですが…。

「そうね、何かお話があってから考えればいいわね」

 私はソファーでチョコレートケーキの残りを食べてしまうと、お行儀が悪いけど、そのまま横になってしまいました。

 もう夕飯の準備をしなければいけない時刻になっていましたが、ケーキを二つも食べてしまったので、なんとなく食欲もわかないでいるうちに、うとうとしてしまい、もうこのまま寝てしまおうかと思いました。

 独り身の、唯一の気楽さです。

 目を閉じると、先ほどの麻衣さんの様子が思い浮かびます。

 そしてなぜか、主人が書斎で原稿を書いている姿も、懐かしくよみがえってきました。

「あなた…」

 涙がほほをつたうのが感じられました。

 もう、数え切れないくらい泣いたのに、いつでも悲しみは新しく、そのたびに私の心は張り裂けそうなほど痛みました。

 今日も、切ない夜をおくるのでしょうか…。


 麻衣さんの来訪から数日が過ぎ、今度は編集長の松本さんが麻衣さんと連れ立っていらっしゃいました。

 五年目の命日を前にした訪問は、当然のことなのでしょうが、それ以外のことで私は「いよいよ」と思ってしまいました。

 以前は太っていて、いつも体が重そうなくらいだった松本さんでしたが、久しぶりにお見かけすると、少しおやせになられたようで、顔もちょっとほっそりされていました。

 今回はケーキでなく、主人がこの季節に大好きだったコスモスの花束を仏前に供えていただきました。

 ひと通りのあいさつをすませ、夫への悼みと、そして私への心配をいただくと、単刀直入の言葉を投げかけてきました。

「お願いです、助けると思ってご了承いただきたいのです」

 決して暑い季節でないのに、額やほほには汗が浮かんでいるのが見えます。

 さらに麻衣さんと二人、深々と頭を下げ、

「先生の作品の映像化を認めてください」

 やはり…。

 会社の立て直しには、夫の作品が必要なようです。

「やめて…。松本さん、それに麻衣さんも、頭を上げてください」

 座っているソファーから降りて、土下座でもされそうな勢いでした。

 予想していたこととはいえ、このように丁重にお願いをされるとは思いもよりませんでした。

 おそらく、それほど景気が良くないのでしょう。

「我が社の今の危機を乗り越えるには、先生の作品に頼るしかありません。もちろん、先生がご自分の作品を映像化することに強く反対されていたことは忘れたわけではありません。非常に心苦しい限りです。ですが…」

 通夜の席で、大声で泣いていらっしゃったときの松本さんそのままに、体中から「苦しみ」がわいてくるようでした。

「もはや、先生の遺志を曲げていただくしか策が見つかりません。なんとか奥様に了解をいただきたいのです」

「奥様、私からもお願いします。決して先生の小説を粗末に扱うようなことはいたしません。立派な企画で最善のスタッフの下で制作にあたります。絶対に素晴らしい作品を、責任を持って世に送り出させていただきます」

 麻衣さんも、必死の表情で、それでいて冷静な言葉で私に訴えかけてきました。

 私は横目で、サイドボードに載った主人の写真が入っている小さな額縁を見ました。

 にこやかな、今にも話しかけてきそうな表情の夫の顔。

 私は目の前の二人と、そしてもうこの世にいない、愛する夫を心の中で引き合わせてみました。

「わかった、いいよ」と言ってくれるのでしょうか。それとも、初志貫徹の姿勢を崩すことなく、あくまでも映像化には首を縦に振らないでしょうか…。

「松本さん、麻衣さん…」

「はい」

 同時に二人が返事をします。

「夫は自分の作品を愛していました」

「ええ、そうでした」

「先生は自分の書いた小説に、誇りをお持ちでいらっしゃった方です」

「そして…私は夫を愛していました。いいえ、今でも心の底から愛しています」

 二人は、少し切なげな目で私を見据えます。

「私は、私が愛した人の気持ちを、いつまでも守っていきたい。そう思っています」

 私は、何を言いたいのか、どんな結論を出すべきか、わからないでいます。ただ、今の自分の正直な気持ちが、言葉になって口からこぼれていました。

「彼が心に決めていたことは、私にも同じことなんです」

「…」

「きっと夫は、いつまでも自分の作品を映像にすることは望まないと思います」

 冷徹に聞こえるかもしれない。私はそう思いながら言葉を続けます。

「だけど今までお世話になっていたお二人には、ほんとうにささやかでも、私にできることなら、なんでもして差し上げたいのも偽らざる気持ちです」

「では、ぜひとも…」

 松本さんは少し身を乗り出し、私の次の言葉を引き継ごうとしました。

 私は、彼らの望んでいる「次の言葉」が、自分の中から出てくるのかと思いましたが…。

「松本さん、ほんとうに申し訳ないですが、少し時間をいただけませんか。私自身の気持ちも含めて整理してみたいんです」

 そうか、私の「今の心」はそういうことか。

 受容でも拒否でもありませんでした。

 何日も前から自分の中で勝手に「映像化の依頼」を受けてしまっていたけれど、実は今日になって初めて言葉にされたこと。私自身の本心など、まだどこにも無かったことに気づきました。

「わかりました。奥様がそうおっしゃるのなら私どももこれ以上、強引にお願いするわけにはまいりません」

「突然、無理なお願いにあがりまして、こちらこそ申し訳ありませんでした」

 丁重に、でもどこか後悔を残すような、少し淋しさを感じさせる去り際の二人でした。

 玄関のドアを閉め、去っていく二人を、私はこれ以上ないくらいのやるせなさで送り出すと、どうしようもない嫌悪感に襲われました。自分でも重苦しく感じるくらいのため息が漏れ、独りで勝手にうなだれていました。

「どうすればいいんだろう…」

 夫の遺志も、あの方達の会社も、どちらも大事にしたい、守りたい私。

 でも、どちらかの気持ちを立てようとすれば、必ずもう一方の心をないがしろにしなければならなくなるのが現実なのです。

「ふう…」

 私の身には大きすぎる問題なのがわかりました。

「…でも、生きて生活をしている人たちのことを優先するべきなのかもしれない」

 これは、大前提にある命題だと思います。

 最後に決断を迫られたならば、その一点が結論になるのだと…。

 だけどまだ何か、良い方法があるような気がしています。夫も彼らも納得できるような方法です。

 私は夫の仕事場である書斎へ入ってみました。

 夫が原稿を書くのに愛用していたノートパソコンが、少々居心地が悪くなるような古い木製のどっしりした文机の上に、ずっと載ったままになっています。閉じられて久しいパソコンは、もう開けるべき主がいないことに悲しみを覚えているかのように、淋しく佇んでいました。

 男性にしては几帳面な方であっただろう主人の机の上は、必要最小限のもののみ置かれています。パソコンの脇には、原稿を書くときに「時間の目安にしている」と言って、使っていた砂時計があります。オーダーメイドで作ってもらったもので、三十分計れる比較的大きな砂時計でした。主人が言うには、パソコンを使い続けるのは体に悪いから「三十分たったら必ず休憩を入れることにしている」ようでした。

 でも、実際は身が入ってくると何時間もキーボードを叩いていたような気がします。

 私が時折、執筆中にコーヒーを持っていったときも、気がつかないのか、それとも最初から使っていなかったのか、いつでも白く細かな砂はすっかり下の方へ落ちてしまっていたものです。

 たくさんの小説を短時間で書き上げていた主人ですから、時間を気になんかしていられなかったと思っています。

 そんな砂時計も、私には忘れられない想い出のひとこまとして、なつかしくも切なさを感じさせられます。

 文机の左右には参考にしていた文献や刊行された主人の作品が並んだ本棚が、やはり物悲しそうに立ちすくんでいます。

 私は、かつて主人がそうしていたように、愛用の椅子に座ってみました。彼がこの世からいなくなって初めてのことです。

 いえ、生前もこの椅子には座った記憶はありません。

 当然、そこに夫がいて執筆活動をしていたからなのですが、それ以上にこの椅子が彼の「ステータス」であり、私がそこに座ることがやはりおこがましくも思えたからでした。

「ちょっと固い…」

 長時間、執筆をしていた椅子の割にはとても固く感じられます。

「腰、痛くならなかったのかしら…」

 もう心配しても仕方のないことに、私は心が行ってしまいました。

 もういない夫の身が、今さらながら気遣われ、私は心が痛みました。

「あなた…」

 どれくらいたったでしょうか。私はしばらくの間、大切な椅子へ座っていました。そうしていると夫の温もりが、座面や背もたれを通して、私に伝わってくるようでした。

「ほらできたよ。これは君のために書いた作品だよ」

 この椅子をクルリと回転させながら、夫が私だけのために書き上げてくれていた作品を、笑顔で手渡してくれたことも思い出されました。

 ふと、その瞬間、

「そうか、これだわ!」

 私は素敵なアイデアを思いつき、椅子から立ち上がりました。

 勢い余って椅子を後ろに飛ばしてしまいそうになり、あわてて押さえながら。

「なんで、こんな簡単なことに気がつかなかったのかしら」

 急いで携帯電話を取りにリビングへ向かうと、出版社へかけてみました。

「もしもし、松本編集長様をお願いします」

 あまりにも性急だったため、私は自分の名前を名乗ることさえ忘れ、怪訝そうに聞き返されたりもしてしまいました。

 お帰りになってから時間もたっていなかったため、松本さんは戻っておらず、麻衣さんが代わりに電話口へ出られました。どうやら彼女もたった今、帰社されたようでした。

「もしもし奥様でしたか、さきほどは大変失礼をしまして…」

「いいのよ、麻衣さん。それより、すぐに来てくださらない」

 私は麻衣さんの話の腰を折ると、とにもかくにも夫が残した原稿の話をしたくて、失礼を顧みずに彼女を呼び出してしまっていました。

「え、ええ。ただ松本は別件で…」

「いいから、貴女だけでもすぐにいらして」

 夫が死んでこのかた、こんなに興奮した自分を初めて見たような気がしました。

 そして麻衣さんもまた、私のただならぬ雰囲気に何かを感じつつあるようです。

「承知いたしました。これからすぐにうかがわせていただきます」

 声のトーンが上がり気味です。

 きっと会社のトーンも上がってくれるのではないかしら…。



 夫が私だけのために書き残してくれた原稿。

 それを目の当たりにした麻衣さんは、一瞬「意味が分からない」といった表情を見せていました。

 それはもちろんそうでしょう。他の誰にも見せる予定のなかった作品が、シリーズとして立派にそこにあるのですから。

 そんな「有り得ない事態」に直面して、人がすぐさま状況を判断できることなど難しいのは、私が夫の死を知らされたときに痛いほど味わったから、彼女の動揺もよくわかります。

 でもその次の瞬間には、私が見ていてもわかるくらい、名前のように舞い上がってしまったようでした。

「奥様、先生の作品が…手つかずで、こんなにあるなんて…」

 原稿を持つ手が震えていました。

「そう『シリーズ十作品』よ。これは夫が私に託してくれたもの。私が好きにしてもいい物語なの。私は素人だし、身びいきにもなっちゃうかもしれないけど、でも素敵な小説だと思うわ」

 プリントアウトされた原稿に、夫が万年筆でサインを入れる。今まで何十もの作品に施された夫の「証」が、これらの中にもしっかりと記されていました。

 それぞれが二百ページ前後、ずっしりと原稿の重みを、麻衣さんは自分の手に取って実感してくれているようです。いえ、紙の重みではなく、書かれた作品の存在感に圧倒されていると思いました。

 誰にも知られていない、知らされていない未発表の作品。そのあまりにも大き過ぎる価値観は、編集の方なら身にしみてわかると思います。

「奥様、本当にこの原稿は、生前に先生がお書きになっていらっしゃったものなんでしょうか?いえ、疑うわけではないのですが、これほどのものを先生は一体、いつの間にお書きになられたのかと…」

「あら麻衣さん、よくお読みにもなっていらっしゃらないのに、ずいぶん信用してくださるのね」

 私は、ちょっと意地悪な言葉で麻衣さんを困らせてみたりしました。

 でも、それくらいはしても罰はあたらないですよね。

「も、もちろん帰ってからあらためてじっくり読ませてもらうつもりですが、ちょっと目を通しただけでも、先生のお持ちになっていた筆力を感じました。間違いなく、傑作ぞろいだと確信しています」

 だんだん事の重大さをまともに受け止めてきたのか、麻衣さんはどんどん興奮してきているのがわかりました。

「ありがとう。主人もね、この小説は楽しんで書いていたみたいなの。たぶん仕事で書いていた小説が行き詰まってしまったときなんかに書いていたんじゃないのかしら」

「そうなんですか…」

「これはね、私だけに読ませたいんだ、って。いつもそう言って渡してくれた…」

 そう、そのときのあの人の笑顔ったら…。

 思い出したって帰ってくるはずもない。だから思い出すのはつらいのに…。

「だから私たちにとって、かけがえのない作品なの。私にとっては何ものにも代えられないものよ」

「わかります。よく、わかります。奥様のそのお気持ち、絶対に無にはしません。私どもでしっかりプロジェクトを立ち上げて、発表していきます。奥様にとって大切な作品は、私どもにとっても大事な宝物ですから」

「あら、お上手なこと」

 麻衣さんの目は、キラキラ輝いているように見えました。

 夫が残してくれた私だけの物語は、こうして世に出ていくことになりました。

 私だけの手の中にあった大きな宝物は、やがてたくさんの人たちにとっての素敵な物語になっていくのでした。



 あっという間に事は流れました。

 麻衣さんに原稿を渡すと、その日のうちに松本さんからお電話をいただきました。

 感極まった、とでも申せば良いのでしょうか、その声は電話口でも震えてらっしゃるのがわかりました。目の前にでもいるかのようで、私は少し恥ずかしくなってしまいました。

 そして、その翌日には松本編集長と麻衣さんだけでなく、初めてお目にかかる社長様が訪問され、私はたいそうなお言葉をいただきました。

 夫が亡くなった時以来、久しぶりにお目にかかる社長の鹿野さん。六十代前半ぐらいでしょうか、小柄で大人しそうな方でしたが、お話をされるに従ってとてもエネルギッシュな様相を見せてくださり、そして何より、今回の原稿の提供にあたり、私などは恐縮してしまうほどご丁寧なお礼をいただきました。

「いやあ奥様、本当に今回のご英断、心から感謝いたします」

「いえ、とでもございません。主人が残した素敵な作品を、私が独り占めしてしまうわけにもまいりませんから」

「そんなことはございません。心から愛し合ったお二人の間の大切な宝物です。大事にしておきたいお気持ちに、我々は口を挟めた立場ではありません」

 眼鏡の奥の、丸い目をきらきらさせ、そうおっしゃっていただきました。

 でも、それは原稿を提供できたからこその言葉ではないでしょうか。

 もちろん、最初からこの作品の存在を知らなければ、今こうして新しいシリーズが刊行されることもなかったのですから、彼らの中に喜びとそして少なからずの感謝の気持ちは芽生えていなかったわけです。きっと、こんな風に恭しい態度を示してくれることもなかったでしょう。

 私は、この場の雰囲気に少し辟易としてきました。

「どうぞ、お気になさらずに。もう私と、それから主人の手も離れた作品です。皆様でどうか世に出してあげてください」

 半ば逃げを打つように、

「今後のことは、もう皆様にお任せいたします。主人はいろいろと指示を出していたのかもしれませんが、私は全くの素人ですから、一切口出しいたしません」

 投げ出してしまうような気持ちを言い放ちました。

 子供が大事にしていたほんのささやかな秘密も、一度さらされてしまうと途端に興味が薄らいでしまうかのように、主人が残してくれた私だけの作品が、私だけのものでなくなってしまうと、大切でないとは思わないですが、少し色があせてしまったかのように感じます。

 夫はどう思っているでしょうか…。

「奥様、そうはまいりません。これから我が社ではプロジェクトを立ち上げ、大々的にキャンペーンを行います。いろいろご相談にのっていただきたいと思っておりますので、どうかご協力をお願いします」

「はあ…」

 私は気乗りがしませんでした。

「それからもちろん、原稿料のことや今後の印税の件なども含め…」

 私は鹿野さんの話を聞き流していました。

 お金のことなど、もうどうでも良かったのです。主人の最後の作品を、いかにたくさんの人に楽しんで読んでもらえるか、ただそれだけでした。そうすれば、たぶん彼も喜んでくれるのではないでしょうか。

 長い時間、鹿野さんをはじめ、皆さんお話をされていかれました。

 夕刻になり「夕食に招待させて欲しい」とおっしゃってくれましたが、はっきり言って気乗りがしなかったので丁重にお断りいたしました。残念そうに「次回はお付き合いを」と念を押され、私は三人を見送る時間を迎えることができました。

 今はなぜだか疲れて、一人になりたかった。主人の面影に包まれて、少しでも安らぎを得たかった。

「もう後悔してもだめよね…」

 遺影を見つめ、本音ともつかない言葉をこぼしてしまいました。

 写真の笑顔が、なぜかにじんでしまいました…。



 新しい年度の始まりは、私にとっても新たな旅立ちを迎える節目となりました。

 夫の作品が出版され、目の前に形のある本として手にしたことは、これまでも当然ですが何度もありました。

「ほら、できたよ」

 今までは彼が作り上げた作品を、自らの手で私に渡してくれていたのです。

 でも今回からは、私が直に手にすることになります。

「奥様、ありがとうございました」

 松本編集長から、生前主人に対してそうしていたように、私にできたての本を持参してくださいました。夫が残した作品は、出版社から新刊本として出版されることになりました。

 残された「十作」は、一作品ずつを定期的に発表することになったようです。

 その第一作が、満を持して世に生まれてきたのです。

「幻のシリーズ」と銘打ち、大々的なキャンペーンを展開した今回の作品は、宣伝された当初から大きな評判と話題を呼び、予約の段階ですでに夫の今までの全作品の中でもトップランクの売り上げを記録したそうです。

 それは、夫が手を付けていなかったことになっていた「推理小説」ということも、もちろんあったと思います。ミステリアスなイメージを醸し出すヒロインの魅力を全面に謳い、読者の心に大きな期待をもたらしたのかもしれません。

 でもそれ以上に、当然もう読むことができないと思っていた故人の作品に、思いもよらぬ形で「再会」できた喜びから来るものだったのではないでしょうか。夫の作品を数多く読んでくださっていた愛読者の方から、数え切れないほどのお手紙が出版社へ届いたようですが、拝見させていただいたその内容の多くが「感謝」の言葉でした。

「もう二度と読めないと思っていた新刊を読めることができて感激です。ありがとうございました」「奥様だけのものでなく私たちにも解放してくれたことに感謝です」「今度は初めての推理小説、期待で胸がいっぱいです」などなど。

 本当に今はまだ、公にはどなたの手にも渡っていません。一般の読者の方が、この作品を読むことができるのは、もう少し先のことです。ですから、推理小説という以外は詳しくはどんなお話なのか、誰も知らないはずなのです。

 それなのにこれらの言葉の数々…。期待の大きさと、そして何より主人の作品が多くの皆様に愛されていたのが感じ取られました。

 それと同時に、やはり私だけのものにしておかなくて良かったんだなと、今さらながら痛切に感じられました。こんなにも多くの、いえ実際はもっともっとたくさんの、顔も名前も知らないけれど主人の作品を読んでくださっていた皆様が、心待ちにしているに違いありません。

 そして、そんな多くの読者の方に愛されていた作品を創り上げていた主人を、今また尊敬の念で想うことができました。

 松本さんから手渡された新刊本を手にし、私はそんな気持ちが胸にこみ上げてくるのを感じました。


 こうして「幻のシリーズ」と命名されることになった「名探偵・亜莉栖(ありす)の事件簿」、その記念すべき第一巻「愛しの亜莉栖」が、大きな期待のもと、いよいよ店頭に並ぶ日を迎えることになりました。

 桜の花の舞う、日本でも随一の美しい季節の訪れと共に…。



 満を持して発刊された「名探偵・亜莉栖の事件簿」は順調に売り上げを伸ばしているようです。

 前評判の高さが、そのまま反映されたようで、売り切れる書店もあるようです。

「評論家」と呼ばれる方達の評価も概ね高いものでしたが、特に生前の夫の作品を高く評価してくれていたような方は、小説の良さと、そして何より「亡くなられたことが本当に悔やまれる」という言葉で占められていました。

 そんな言葉の数々を夫はあの世で喜んでくれているのでしょうか…。

 それから、マスコミも今回の新作発表を「重大事」と認識したのか、テレビや雑誌などでも大きく取り上げてくださっています。中には夫の特集ページを組んでくださる雑誌もあり、久しぶりに「ブーム」を呼んだかのようです。

 その余波か、私にも出版社を通して数多くの取材オファーが届きました。

 それに対しては、松本さんをはじめ皆様が私に気を使ってくださり、マスコミの方の取材を最小限度に制限してくださって、おかげであまり苦労をすることもありませんでした。「興味本位」ともとれるような取材に対してはきっぱりとお断りしていただけたようです。

 ただ、私は夫との想い出を大事にしようとしていただけのことを、たいそうな内容で「愛の物語」のように書かれたりいたしますと、少し面映く感じられてしまいます(特に松本さんの出版社で発行している女性誌は、読ませていただいたら恥ずかしくなるほど「美化」してくださっていて…)。

 私が躊躇していた発表を、もしあのまま封印していたらどうなっていたでしょうか。

 まだ第一巻が世に出ただけで、なんとも評価のしようはないと思います。それでも、これだけの評判を得ている以上、私の決断は正しかったと言えるのではないでしょうか。少なくとも世間的には、私が発表を認めたことは多くの読者や関係者の方々に喜んでもらえた「事実」として、肯定的に捉えていただけたと信じています。

 何より、松本さんの出版社の景気が少しでも持ち直してくれている、その助力になっているということが、私にとっては喜ばしい限りでした。

「亜莉栖ブーム」に乗るように、今までの作品も再び注目を浴びるようになったようで、次々に再版をすることになりました。以前は夫の作品に目を通したことのない方も、読者に加わっていただいているようです。

 たびたび訪れる松本編集長や麻衣さんの顔を見ていると、詳しいことはわからなくても、その輝いている表情で前向きな結果が出つつあることを感じさせられました。

 そして深緑の季節を迎え、いよいよ名探偵亜莉栖が活躍するシリーズ第二巻の「月夜の悪魔」が店頭に並ぶ日がやってきました。前作でデビューを飾った亜莉栖が、さらに名推理を発揮していく作品です。


 さて、ここで名探偵亜莉栖が登場する「全十巻」のサブタイトルを表記いたします。

 最初に発売された「愛しの亜莉栖」に続き、今回の第二巻「月夜の悪魔」、そして三巻以降のタイトルが「瑠璃色ブーケ」「イスラム遥か」「夜の街角」「死にゆく先に…」「見知らぬ女」「淡く、儚く…」「手探りの愛」「喪服の戦士」と順次発行される予定なのです。

 主人が、笑顔を見せながら私に手渡してくれた順序そのままに、隔月の予定で発売されることになりました。約二年かけて、シリーズの全作が多くの方に読まれることになるわけです。


「奥様、本当にありがとうございました」

 第二巻が出版されて間もなく、私は松本編集長さんに招待を受け、都内のホテルにある創作和食のレストランで夕食をごちそうになることになりました。以前にも鹿野社長さんのお誘いをお断りしていた分を「今度こそは」と、半ば強引とも思えるように招待され、あまり固辞するのも申し訳ないと、少し重い腰を上げてうかがいました。

 雨の多い季節の、合わせてくれたかのように晴れ間がのぞいた一日です。

 夕刻、ひとりで電車に乗って、指定されたホテルの最上階にあるお店に足を運びました。

 このようなお店は主人とも来たことはありませんでした。小説が売れるようになってからも、あまりぜいたくをすることが好きでなかった私たちは、たまの外出でもあまり気取らないような店ばかり行っていたものです。

 お店の前では麻衣さんが私を待っていてくれました。

「奥様、ようこそおいでくださいました」

「ありがとうございます。お言葉に甘えてごちそうになりに来ました」

 中に入り、和服を着た店員さんから個室へ通してもらいました。ほんのりと間接照明に照らされた室内は安心できる空間になっていました。

 八人は座れるような、ゆったりした掘り炬燵風の席で、松本さんに迎えていただきました。

 社長の鹿野さんは別件でいらっしゃられないことをお詫びされましたが、松本さんと麻衣さんのお二人がお相手をしてくださることで、私はむしろ気兼ねせずにお食事をいただけると、失礼かと思いましたがホッとしてしまいました。

 落ち着いた雰囲気のお店で、私にはもったいないような気もする素晴らしいお料理が次々と運ばれ、また「少しぐらい」と勧めていただいた日本酒もとても口当たりがよく、久しぶりにぜいたくな時間と空間を堪能させていただきました。

 そんな中、コースのお料理もおしまいに近づいたころ、松本さんが「おそるおそる」といった様子で、それでいながら強い口調で切り出してきました。

「おかげさまで亜莉栖シリーズも大変、人気があり売れ行きも順調です。奥様が発表をご決断くださった賜物です」

「本当に感謝してもしきれません」

 麻衣さんも出版社の一員としての自信に満ちた表情で付け加えてきました。

「主人が遺した作品がたくさんの方に読んでいただけるのですから、私にとっても喜ばしいことですよ。こちらこそ、私に決断させていただいたこと、感謝しております」

「そうおっしゃっていただけると私どもも幸せです。出版人冥利に尽きますよ」

 少しはお酒が入ったせいもあるのでしょうか、少々大げさでは…とも感じましたが、そう言っていただけると私も嬉しい気持ちになります。

 でも…。

「それでですね、あらためてご相談と申しますか…」

 勢いのあった松本さんの口調が心なしかこもるようになると、

「まだ予定の段階ではあるのですが…」

 歯切れも悪いようです。

 またもや私に何か「都合の悪い」頼みごとがあるようです。

「なんでしょうか?どうぞはっきりおっしゃってください」

「ええ、その今回の亜莉栖シリーズなんですが、各方面から非常にウケがよろしくて、特にそのテレビ局から高い評価をもらっていまして…」

「私どもといたしましても、ぜひ奥様にもお勧めしたい案件なのです」

 上司の煮え切らない口調に苛ついたのか、麻衣さんが横から口を挟んできます。

 そして出てきたのが…

「ぜひ亜莉栖の映像化を許可してください」

「お願いします」

 予想通りの内容、でしょうか。

 お二人に揃って頭を下げられてしまいました。

 今夜の食事会の本当の目的がこういうことだったのか、と私は少しうがった考え方をしてしまいました。そう思ってしまったら、今までいただいた美味しい料理の数々も心なし味気無さを覚えてきます。

「お二人とも、頭を上げてください」

 なんだか「既視感(デジャヴ)」を見ているような気さえしてきました。

 そのせいでしょうか、私の回答も早かったのは…。

「どうぞご自由になさってください。たくさんのファンの方たちを楽しませてあげてください」

 亜莉栖は、私の手を離れた瞬間から、もう私だけのものではなくなることを覚悟していました。

 いえ、もしかするとそういう話になることは、心のどこかですでに予想していたのかもしれません。何より、ひとりのファンとして私自身、そんなことを望んでいたかもしれません

 今までは小説の中でしか存在しなかった「人物」が、映像とはいえ「実体」を持つということに、私も少しは興味がありました。

 夫はどうしても「映像化」を許さない、まさに「小説家」ではありました。その意志に反するような気持ちを持つことに、いささかのためらいが無いわけではありません。でも亜莉栖を「好きにしていい」と言っていた彼の遺志には背いていない、と自分自身を納得させることにします。

 そして何といっても…。

「ありがとうございます」

「本当にありがとうございます」

 目の前の、そしてその後ろにいる出版社の人たちの一助になるのなら。

 いえ、それは自分自身への「言い訳」かもしれませんね。どんな女性が亜莉栖を演じるのか、そしてどんなシーンが展開されるのか、大変に興味深く思います。

 この場は簡単な「口約束」だけということで、お互いに別れました。

 帰りはタクシーを呼んでいただき、すっかり「お大尽様」でした。会食だけでも恐縮してしまうのに、私にはもったいない心遣いでした。

 もしかすると、それほどまで亜莉栖に力を入れているのか、もっと言ってしまうと賭けているのか…。

 タクシーの後部座席で、お酒のせいかうつらうつらしながら、そんなことをぼんやり考えていました。

 カーラジオからはNHKの「ラジオ深夜便」が流れています。アナウンサーのトーンを落とした声がタクシーの薄暗い車内に合っていました。

「あら、もうこんな時間なのね」

 深夜まで出かけていたことなど、もう何年もなかったので、年甲斐もなく「罪悪感」を覚えて少しドキドキしてしまいました。

 都会という深海の中、眠らない灯りをフロントガラスに流しながらタクシーは走ります。喧騒の消えない街は、いつまでも夜の闇を知らないかのようです。

 私はそんな仮面を被ったような空間から、息つぎをするために抜け出そうともがいているのかもしれません。

 やがて車窓に映る橙色の灯りが、少しずつ少なくなってきました。

 入れ替わるかのように、私の気持ちはなんだか軽くなってくるような気がしました。



 後日、今度は鹿野社長の来訪をいただきました。初めておひとりでのお越しです。

 こうしていろいろな方が何度もいらっしゃるのですから、皆さんの亜莉栖に対する期待の大きさがわかります。

「あらためまして奥様、このたびは映像化のご許可をいただき誠にありがとうございました」

 以前にもこんな場面があったな、と私は思いましたが口にはしませんでした。

「それから、いつぞやはせっかくお呼び出しをしておきながら、お席にうかがえず申し訳ないことをいたしました」

 気兼ねなくて良かったです、とも言えませんが。

「正式な発表などは先の話になってしまいますが、ご許可をいただいたお礼と、大まかな内容だけでもご説明差し上げたく参りました」

 それこそ麻衣さんだけに来ていただきたかった…。

 鹿野社長さんのエネルギッシュな表情を見ながら、私はため息をつきそうになってしまいました。

 でも、これもお仕事のうちですし、私もこの作品に対して思い入れと少なからず責任があります。しっかりと把握すべきことは把握しておかなければならないでしょう。

「大まかな説明」を聞いてみますと、亜莉栖シリーズは「全十巻」を発行した後にテレビの特別番組として二時間ドラマの放送、その後に「オリジナル脚本」を含めた連続ドラマとして制作する案が内定したとのことです。

「オリジナル脚本というのは?」

「原作にないストーリーを、現在活躍している脚本家さんに書いていただいて新しい物語にするのです。ぜひ長期間のシリーズにしたいという局側の意向もありまして…」

 亜莉栖をほかの人が書くということになる…。

 主人の笑顔がよみがえってきます。

「君のために書いた作品だよ」

 そういって手渡してくれた「亜莉栖シリーズ」。

 もともとは主人が私だけのために書いてくれた小説です。それを連続ドラマにしたいがために、ほかの人にも書かせるというのでしょうか。それは主人と私だけの想い出に無神経に入り込んでくるのと同じではないでしょうか…。

 主人が「映像化」を決して許可しなかった理由がなんとなく判ったような気がしました。

 話の途中でしたが、私はゆっくりと微笑むと、

「申し訳ありませんが、今回のお話はなかったことにさせていただきます」

 一言、言い放ちました。

「えっ?」

「映像化のお話は白紙です!お帰りください」

 思わず立ち上がって鹿野さんをにらみつけてしまいました。自分でも気持ちが荒ぶるのがわかりました。

 きっと「何事が起きたのだ?」と、驚いたことでしょう。私も少しずつ冷静さを取り戻しました。

「失礼しました」

「いえ…」

 ソファーに座ったまま、目を丸くして私を見上げています。端から見ればひどい女に思われても仕方のない光景でしょう。

 私はゆっくりと座り直し、

「正直に申し上げます。私はほかの人に亜莉栖を、主人の生み出した物語を、書き直してほしくありません」

「いや、奥様。脚本というのは…」

「すみません、考え方はいろいろあるのでしょうが、私にとって亜莉栖を書いてくれるのは夫だけなんです。夫と私だけのものなんです。もう、出版をお願いしたことだけでお許しください」

 鹿野さんは黙ってしまいました。

 ご自分の会社の女性誌に載せた私たちの「愛の物語」にも、誰も手を触れることのできない「神聖なるもの」といった表現をされていました。きっと、そのことも頭を過ぎったのでしょう。

「うーん…」

 テーブルに肘をつき、両手で顔を覆って悩んでいる様子です。

 しばらくの間、そうしていた鹿野さんでしたが、どうにもならないと思ったようです。

「わかりました。私の一存で決められることではありません。もう一度、奥様の意向も考慮して関係者で検討するようにいたします」

 何も収穫がなく、というよりも事態を悪化させてしまった状況で苦渋の帰社になったようです。

 ドアを開け帰りゆく足取りは、何も成果を得られないまま引き下がっていく「駆け出しのセールスマン」さながらです。帰って会社で部下の松本さん達になんと言って事態の打開を図るのでしょうか。

 少し悪いことをしてしまったような、罪悪感にもかられた今の気持ちでしたが、それは自分の態度や物言いに対してや、一度は松本さん達に「了解」したことを撤回する無礼であって、亜莉栖を誰かほかの人に書かれることを拒否したことに関しては、一切の妥協をするつもりはありません。

 主人の、信念とも言える心に背くことはしたくない。それが恩ある出版社のためであっても…。

「そう、あなたが書いてくれた『十巻』なら、いいと思うのよ…」

 ほおを涙が伝っていくのがわかります。

 気が付くと、子どもができなかった私にとって、なんだか亜莉栖という娘ができたような錯覚に陥ってしまったようです。

「亜莉栖を守らないと…」

 それが「母性」というのでしょうか。

 そして、もう一つ…。

「亜莉栖を幸せにしたい」

 私は今まで感じたことのない、そんな不思議な強さが、自分の中に芽生えたような気がしました。

 このまま小説のヒロインとして生き続ける亜莉栖も魅力ある存在だと信じています。でも、それだけで良かったのでしょうか。もっと違う「生き方」を与えてあげるのも、私の役割なのかもしれない…。

 そう思うと居ても立っても居られなくなってしまいました。急いで携帯電話を探すと、出版社へかけました。

 呼出音が鳴るのさえ、もどかしく思えます。

 松本編集長を呼び出すと、先ほどの鹿野社長との経緯を簡単に説明して、不遜な態度をとったことをお詫びしました。

「いえ、こちらこそ奥様のお気持ちを考えもせずに勝手に話を進めたことになってしまい、大変に申し訳ありませんでした」

 まだ鹿野さんは戻っておられないということで、後ほどご報告いたします、とのこと。

「それでですね、松本さん…」

「はい」

「私も少し大人気なかったと反省しておりますの」

「いや、そんなことございません」

「ですが、やはりオリジナル脚本という形は、私は納得できません」

「はあ」

 電話の向こうからため息が聞こえてきそうです。

「ただ、主人が書いた『十本』なら、最初の約束通りにドラマにしていただいてもかまいません」

 彼らにとっては「一進一退」といったところでしょうか。

「このままの亜莉栖に、新しい命をあげてほしい…」

「娘」に新しい幸せを与えてあげたい、そんな一心で私は話しました。

「父親」である、夫の遺志も守りながら…。

 受話器の向こうの松本さんからは何の返事もありません。私の言葉を吟味しているのか、もしかすると図りかねているのかもしれませんでした。

「今はなんともご返答はできません。また検討してからご報告いたします」

 鹿野社長と同じような答えで会話は終わりました。

 一度決まった企画は簡単に変更できないということなのでしょうか。

 すでに「映像化の了解」を私が出していたため、彼らは彼らなりの解釈のもとに計画を進めていたのだと、想像できました。

 おそらく「そういったこと」は、彼らの世界では常識的な範疇なのでしょう。今さら私ごときが意を反するようなことを言ってくるとは思わなかったようです。

「それでも…」

 例え私は大勢の関係者に迷惑をかけようとも、独りででも「私たちの意志」を貫こうと思うのです。



 今年も日本は、全国的に暑さに支配される毎日が続いています。

 そして、はっきりとした回答もないまま、いつの間にかシリーズ第三巻「瑠璃色ブーケ」が店頭に並ぶ日がやってきました。

 当初の話題性はなくなってきましたが、その代わりストーリー性とエンターテイメント性の高さが再認識されていました。

 何より、大きな話題を呼んでいるシリーズであることに変わりはありません。発売日は平積みされた新刊が勢いよく売れていたようです。

 今、私の手元に三冊の亜莉栖シリーズが並んでいます。

 以前から主人の書いた本の表紙を数多くデザインしてくださっていた、イラストレーターの仲村祐一さんが、久しぶりに手掛けてくださっています。

 これまでの三冊の表紙は、主人公の亜莉栖があえてはっきりとした姿を見せず、それがミステリアスなイメージをよりいっそう際立たせ、私から見ても素敵な出来栄えになっていると感じています。

 きっとこの後も、同じようなイメージで続けてくださるのだと思います。

 そんな折、仲村さんからお電話をいただき、無沙汰のお詫びと新しい仕事に対する感謝の言葉を頂戴しました。

「また、先生の新しい本のお仕事をさせていただけるとは、思ってもいませんでした」

 しみじみと語る仲村さん。

 初めてお会いした時はまだまだ美大を卒業して間もないような方でしたが、主人のデビュー作でもあり、私にとって忘れることのできない「愛しのキッチンパンプキン」は、仲村さんにとっても出世作だったようです。

 今ではすっかり実力派のイラストレーターになられて…。主人もきっと喜んでいることでしょう。

「ところで奥様、ちょっと話を聞いたのですが、亜莉栖がドラマになるのって本当ですか?」

「そのことでしたら今はなんとも…」

 私はあまり話題にしたくない内容に、少し口ごもりました。

「先生はご自分の作品を映像化することに反対の態度を通された方でしたからねえ。ですがいつも僕は先生のご本のお仕事をさせていただくときは、なるべくリアルっていうか、内容がストレートに伝わりやすくなるような表紙にしてきましたし、事前に読ませていただいてその方がいいかなって、感じていました。先生も反対をされていませんでした」

 私は初めて聞く話です。

 そう言われてみると、今回の亜莉栖シリーズの表紙は以前までのものと趣が違っています。

 そこにイラストレーターの方のこだわりがあるのでしょう。

「ですが、今回のシリーズは読んでみてなぜか具体的なイメージがあまりわいてこないのです。だから亜莉栖の顔、はっきり描いていませんよね」

「そうですね。私にはこういうイメージの表紙も素敵だと思っていますけど」

 仲村さんは感謝の言葉をくださると、

「これまでの先生の小説は、言ってしまえば本の中ですでに映像になっていたと思うんです。だから先生がおっしゃらなくても、それ以上の映像化を小説自体が拒んでいたって感じていました。僕はただ許されて、その世界を表紙にしてきただけなんです。でも亜莉栖は違う。まだまだ映像化というか、なんて言うのか、もっとリアリティとか具現性の世界に近づく余地が残されているように感じてならないのです」

 思いもよらない、というか想像の難しい言葉でした。それは、素人の私などには理解し難い、主人や仲村さんのような、感性の世界に生きていらっしゃる方にしかわからないことなのでしょう。

「今までにはなかった感覚です」

 電話の向こうで、そう言い切られる仲村さん。

 私は鹿野社長さんからうかがった話の内容と、それに返した回答を聞いていただきました。

「そうですか、そういうことがあったんですか…」

 今度は電話口で考え込まれているのが察せられます。親身になっていただけるのを感じて、私は嬉しくなりました。

「微力ですが、僕からも松本さんに奥様のお気持ちを話させていただいてよろしいですか?」

「ええ、もちろんです。仲村さんがお力添えをいただけるのなら心強いですわ」

「いえ、実は僕も亜莉栖のドラマを楽しみにしているほうですから。ぜひとも本当の『オリジナル亜莉栖』を制作してもらいましょう」

 仲村さんの力強い言葉に、ここのところわだかまりがあった私の気持ちが、なんだか少し緩んでくるように感じました。

 その晩、久しぶりにゆっくり眠れた気がしました。


 結果はすぐに表れました。

 すでに「改訂案」ができていたのかもしれませんが、仲村さんの助言も効いたのでしょう。

「特別番組として最初に二時間ドラマの放送をし、その後、各話を前後編二話ずつに分けての一時間ものの制作」ということになったようです。制作サイドとしては、どうしても長期間の放送がほしかったのでしょう。

 当初の「オリジナル脚本」の案は見送りになったことで、ようやく「私たちの亜莉栖」は守られました。

「ということになりましたので奥様、今後も亜莉栖シリーズにつきましては、いろいろご協力をお願いします」

「こちらこそ、私のわがままを受け入れてくださって、本当にありがとうございました」

 松本さんが麻衣さんと一緒に訪問してくださって、制作に関する説明をいただきました。

 亜莉栖シリーズは、来年の秋に「二時間ドラマ」が放送され、その後は「最終十巻」が発売された後、年明けから「連続ドラマ」の放送開始予定のようで、制作スケジュール的にはなかなかハードだということです。

 私の意見を飲んだのも、そんな思惑があったのかもしれませんね。

「メインの出演者については交渉も進んで、ほぼ決まっています」

 麻衣さんが、登場人物を演じてくれる数名の役者さんの名前を挙げて説明してくださいました。

 もともと決まった登場人物の少ないシリーズです。たくさんの方に続けて出演していただく必要はなさそうです。

 でも、亜莉栖は…。

「一番大切な主人公役なんですが…」

 私は個人的にも興味がありました。

「何名か、候補が挙がっているのですが、どうもしっくりこないんです」

 と言って、私も知っている女優さんやタレントさんの名前を挙げてくれました。

「そうねぇ。皆さん、素敵な方だと思うけど、ね」

「それでですね、プロデューサーも監督も、これはやっぱりオーディションをすべきかな、と」

「オーディション…ですか」

 夢を見る大勢の若い女優さんが集まり、監督やプロデューサーの前で自分を売り込む…。そんな様子が思い浮かびます。

 なんにしろ、狭く厳しい門を通らなければならないのでしょう。

「誰か演じてほしい女優さん、いらっしゃいませんか?」

 麻衣さんの「リップサービス」だろう、と思いました。

「そうねえ…」

 知り合いの娘さんで、確かお芝居の勉強をしていた方がいたな、と思いつきました。

 でも、本格的なテレビドラマに出演するようなことになると…。

「ちょっと思いつかないけど、でも大事な役を演じていただくのだから、私も考えさせてね」

「もちろんです。奥様のご意見はしっかり反映させていただきます」

 あら、お上手だこと!

 私はつい口に出しそうになった言葉を飲み込みました。

「娘」を演じてくれる女性は、私にとっても大事な存在に違いありません。できれば私が指名したい、それほどの思いもあります。

 主人だったら、いったい誰を選んでいたかしら。

「よろしくお願いしますね」

「経過は報告いたします。楽しみにお待ちください」


「そうですか、それは良かった。これで一安心ですね」

 その日のうちに、私は仲村さんに連絡し、経緯を報告しました。

「仲村さんがお力を貸してくださったからです。本当にありがとうございました」

「いいえ、とんでもないです。僕なんてたいしたことできませんよ。奥様の思いが通じたんですよ」

 心をくすぐる、嬉しい言葉を贈っていただきました。

「それで亜莉栖をやる女性は、まだ誰も決まっていないのですね?」

「そうなの、まだほんとにぴったりとくる方がいらっしゃらないみたいで…」

「それでオーディションですか…」

 まだまだ、道のりの長いことになりそうな制作現場の状況です。

「そうかぁ…。なんか表紙担当者として誰か推薦できないかなぁ」

「あら、どなたか心当たりでも?」

「亜莉栖のイメージって、どこかミステリアスで謎めいたところがありますよね。それが大きな魅力なんだと思うんですよ」

「ええ、若いけどちょっと過去のある、少女から大人になりかけた感じかしら。男性って、そんな女性に惹かれるのかしら?」

「…ま、まぁ一概には言えませんけど。でも、そういうイメージの女性ですから、実際に演じてくれる女優さんにも、そんなところが欲しいですよね」

「なるほど」

「ですから、今も人気があってテレビでの露出度の高い人より、無名で誰にも知られていないような、そんな女性がいいな、って思うんです」

 仲村さんの意見はなかなか「正鵠を射る」ものに思えました。

「それでオーディション?」

「確かに…。でも、その前に誰かピッタリな女優さん、見つけられそうですよ」

 仲村さんの推薦なら私にも満足ができそうです。

 ご本業に差し障りのない程度にがんばってもらえれば嬉しいと伝えました。

「お礼に今度、ごちそうさせてくださいね」

「ありがとうございます。ぜひお願いします」

 短い時間の電話でしたが、とても実りの多い会話でした。

 おまけに年甲斐もなく、若く素敵な方とお食事する機会も作ってしまいました。

 きっと亜莉栖にぴったりの女性が現れることでしょう。


「カメラテスト、ですか?」

 電話で仲村さんとお話させていただいてから一週間ほどで、麻衣さんから連絡を受けました。

 どうやら亜莉栖に相応しい女性が見つかったようです。

「ええ、それでプロデューサーがとりあえずカメラテストをしてみたいと言ってるんです。本来なら最初からはしないらしいんですが、どうやらずいぶん雰囲気がある方のようで、監督も乗り気だとか。それでいけるかどうか、一度テストしてみようじゃないかということになりまして…」

 仲村さんがいい方を見つけてくださったのでしょうか。

「どなたかから推薦があったのかしら?」

「いえ、私も聞いただけで詳しくは…」

「そうなの?」

「それで、もしよろしければ奥様にも立ち合っていただけないかと思いまして。プロデューサーと監督にもお引き合わせしたいので」

 思いがけない提案でした。

「娘」を演じてくれる女性に、私もお会いしてみたいし、もしイメージ通りでなければ一言は言わせてもらいたい。

「もちろんです。うかがわせていただきますわ」

 私は快諾すると、日程と場所を聞き、必ず行くと伝えました。

 なんだか当日が来るのが待ち遠しく感じます。昔、主人とデートをした日がなかなか来なかったように感じたこととオーバーラップして、期待感も大きくなってきます。

「制作する」ということは、このようにいろいろな思いが交錯していき、完成という「ゴール」へ向かうものなのでしょうか。

 主人は、そんな世界に長く、そして最期まで身を置き続けたのですね。

 その中で遺してくれた「亜莉栖シリーズ」。私には、このプロジェクトをしっかりと見守る義務があるようです。


 やがて迎えたカメラテストの当日。

 私は朝から緊張感に満たされ、まるで自分がテストを受けるかのようでした。

 目を覚まして起きようとしたとき、ベッドから落ちそうになったり、朝食の準備をしていてやかんのお湯をこぼしそうになったり…。

「いけない、私がこんなでは周りの人に迷惑をかけてしまうわ」

 努めて、冷静さを持っていよう、そう自分に言い聞かせると、まだ刻限には早すぎるけれど、会場へ向かうことにしました。気持ちを落ち着けるにはいいころあいです。

 ただ、少なくとも「娘」の大切な日である、という感覚は持ち合わせようと決めていました。

 電車を乗り継ぎ、目的地にほど近い地下鉄駅の出口から地上へ上がると、都会の喧騒が待ち構えていました。真夏の日差しが肌に痛く感じます。

 裏通りにある、そのスタジオが入っているビルまでの道は、地図をいただいたにも関わらず、都会に不案内な私には少し迷ってしまいました。でもなんとか茶色い建物の前にたどり着きました。あまり大きくない、ちょっと古めかしい造りです。

 ホッとした私でしたが、時計を見ると約束の時刻にはまだ早すぎることに気づき、どこかで時間をつぶそうと考えていました。

「喫茶店でもないかしら…」

 あたりを見まわした私に、ふと一人の女性の姿が目に映りました。

 その途端、それは体中に電流が走ったような、そんな衝撃を感じてしまいました。

「亜莉栖…」

 小説の中で、亜莉栖が初めて登場するシーンに、

 〈まるで漆黒の世界から抜け出してきたかのように、彼女は黒のカットソーにロングのスカート、長く伸ばした黒い髪を柔らかな風になびかせていた〉

 と、描写されていましたが、目の前に同じようなスタイルでたたずむ彼女を見て、そのままのイメージが思い浮かんできたのです。

 もちろん、似たような服装や髪型をしているだけならば、ただそれだけならば、私もそれほどのショックを覚えることもなかったでしょう。亜莉栖を意識しただけと、思ったでしょう。

 しかし今、私が見ているのは、まるでそこだけモノトーンの世界になったような、そんな不思議なイメージを醸し出している一人の女性の存在なのです。見た目とかそういったことではなく、直接的に心に訴えてくるような、なんだか今までに経験したことのない、少し怖いような感覚なのです。

 私が彼女に目を囚われてしまっていると、気が付いたのか振り向いてこちらに視線を送ってきました。

「あのう…」

「亜莉栖…亜莉栖よね」

 なんということ!

 私は初めて会った彼女に向かって、なんのためらいもなく、そう呼んでいました。

 まるで私の中にいる別の誰かが、私に向かって「呼べ」と言ったかのようでした。

 なんとも説明できない、不思議な感覚でした。

 すると、彼女も一瞬の躊躇もなく、

「はい」

 と、肯定したのです。

 私も、瞬間的に彼女の手を取りました。

「いらっしゃい。よく来てくれたわね」

「ありがとうございます」

「さあ、こっちよ」

 私は大事な「娘」を導く母親のように、初めて入るビルに彼女を引き入れました。全く知らないはずの建物の中を、見知った顔で案内していくと、エレベーターの扉が開いて中から知らない男性が煙草をくわえながら歩いて来るのに出会いました。

 私と、それから私が連れてきた彼女を一瞥すると、驚くべき一言を発しました。

「えっ、亜莉栖…?」

 五十歳台半ばぐらいでしょうか。よれよれになった半袖のダンガリーシャツに、色あせしたベージュの綿パン、お世辞にも「おしゃれ」とは言いたくないスタイルをした彼は、私の隣の彼女を見たとたん、くわえていた煙草をポロリと落としてしまいました。

「き、君、亜莉栖、今日のカメリハに来てくれた人だよね?」

 大の大人が、まだ少女のあどけなさの残った彼女に、すっかりうろたえている様子は、少々滑稽な感じでしたが、なんとなくその感じは理解できました。

「こっちこっち、こっちへどうぞ」

 私に続き、この男性からも半ば強引とも言えるような勢いで彼女は引っ張られていきそうになりました。

「あっ…」

 私からとも、彼からとも、どちらからともなく小さく声が出ました。

「あ、失礼しました。もしかして…奥様でいらっしゃられますか?」

 私を見とがめると、慌てて向き直りました。

「え、ええ…」

「わたくし、こういう者でして…」

 そういうと姿勢をいくぶん正し、バツの悪そうな顔をしながら、胸のポケットに手を入れました。

 私は、おそらく「名刺入れ」を取り出すのだろうと思いましたが…。

「あ、あれ?無いなぁ」

 さらに慌てた様子で胸ポケットからズボンのポケットまで手を入れながら探し物をしています。

 その、少し滑稽な姿に私は失笑しそうになってしまいましたが、隣で「亜莉栖」は全く表情を変えずにいました。

 本当に物語の中の亜莉栖、まさにそのものと言っていいようなムードでした。

「す、すみません。あの、とりあえずスタジオの方へ来てください」

 名刺入れが無いことに気が付いたのか、慌ててエレベーターの上りのボタンを押して「スタジオ」へと案内してくれました。

 やってきたエレベーターに乗り込み、彼は四階のボタンを押すと、

「今日は暑い中をわざわざありがとうございました」

 彼女にも私にともなく、そう労いました。

「いいえ、こちらこそ無理を申し上げたようで、申し訳ありませんでした」

 私は一応、本日の来訪を許可いただいたことにお礼を述べさせてもらいました。この少々頼りなさそうな男性に言う必要があるのかどうか、疑問もありましたが。

「いやぁ、とんでもない。感謝いたします」

 そこまで恐縮されるのかな、と私はいぶかりましたが、それも亜莉栖の人気が高いからなのだろうと、納得しておきました。

 四階に着いて扉が開くと、すぐ目の前に今日の訪問先として教えていただいた「スタジオ」の看板が貼られた黒っぽいドアがありました。

「さあ、どうぞ。おおい、みんなぁ」

 彼がドアを開けてくれながら、中にいる方々に大声で来訪を告げてくれました。

 人は見かけによらないと言いますが、彼の物言いからは、この男性がどうやら上の方の立場であることが想像できす。

 私は「亜莉栖」を伴うような形で彼女の肩を少し抱えるように中へ入っていきました。

 初めて足を踏み入れるスタジオという所は、なんだか雑然とした雰囲気で、こういう場所でいろいろなドラマなどが制作されるのかと思うと、いささか不思議な感じがします。

 数名の、スタッフの方でしょうか、男性がパイプチェアに座ったりして、少し寛いだ感じでいましたが、私たちが入ってくるのに気が付くと、急に立ち上がり緊張した雰囲気になりました。

 そして私の後ろにいる一人の女性を見ると、一様に感嘆の声を上げるのでした。

「奥様、早かったですね。今日は本当にありがとうございました」

 松本さんが笑顔で近づいて来ます。どうやら仲村さんはいらっしゃっていないようでした。

「こちらが…。いやぁ、まさに亜莉栖です。イメージ通り!」

 後ろから彼女はゆっくり頭を下げ、小さく会釈しました。

「先ほどは失礼しました。今回のシリーズの監督をさせていただきます、稲村と申します」

「え?あ、申し訳ありませんでした」

 名刺をいただいていないからではありませんが、つい軽く見てしまったことにお詫びしてしまいました。

「?…あらためまして本当にありがとうございました」

 稲村監督は私の言葉に腑に落ちないような表情でしたが、再び来訪に感謝の言葉をくださり、今度こそ名刺を差し出してくれました。

「そして、貴女が…」

「今回はありがとうございました。岡野怜美と申します。よろしくお願いします」

 彼女、怜美さんとおっしゃるようです。

「いやぁ、しかし怜美さん。亜莉栖のイメージにピッタリだねぇ」

 稲村さんは彼女を見ながら、しみじみとおっしゃいます。

「本当に。小説の中から出てきたみたいだね」

 松本さんも嬉しそうに言いながら、携帯電話で写真を撮っています。

「満嶋が今日は来られないから、写真を送ってあげようと思いまして」

「そうなんですか。でも、また会える日があるんじゃないですか?」

「いや、一刻も早く教えてあげたくて。彼女、今回の企画にすごく力を入れてるんですよ。なにせ先生の小説の初めてのドラマ化ですから」

 そう言いながら、素早い手つきでメールの送信をしていらっしゃいます。

 部屋にいるスタッフの方たちは、怜美さんの周りに集まり、楽しそうにしています。

「渡壁さん、早く戻ってこないかな」

 他にも誰かがいらっしゃるのか、松本さんが探しています。

「あ、いえ、プロデューサーの渡壁さんって方がいるんですよ。今回の亜莉栖シリーズの」

「ああ、プロデューサーさんですか」

「あ、戻られました!」

 一人のスタッフが大きな声を出して知らせてくれました。

 稲村さんと同じぐらいの年齢で、少し白髪交じりの立派な体格をした男性です。ポロシャツを着ていますが、稲村さんよりもずっと、こざっぱりしています。

「なんだい、いきなり?」

 帰ってきた途端に注視されて戸惑っているようです。

「渡壁さん、こちらが…」

 松本さんが私の横の怜美さんを手で指し示します。

「おお、亜莉栖だぁ」

 皆さん一様に同じようなリアクションをとられ、そして満面の笑みになります。

 でも、渡壁さんのそれが一番オーバーです。

「いやぁ、決まりでもいいねぇ!」

「いや、決まりでしょう」

 口々に喜びと、おそらく安堵の言葉が出てくるようです。

「それじゃあ、いきなりで悪いけどちょっといいかな」

 渡壁さんが怜美さんを長テーブルの前の椅子に座らせると、稲村と松本さんも一緒に彼女に相対する形で着席しました。

 これから面接なのでしょう。

 私はほかのスタッフと一緒に少し離れて見守ることにしました。

 聞くともなしに聞いていると、怜美さんは東京生まれで年齢が二十歳、亜莉栖の設定とも近いようです。

 もっとも、亜莉栖が実際はどこの出身で何歳なのか、はっきり書かれていません。いろいろなことがミステリアスなのが亜莉栖の特徴です。

 そのほかにも怜美さんは少し前までは小さな劇団にいたそうですが、今までにはテレビドラマの出演などの経験もあまりなく、求めていた「露出度の低さ」はクリアできたようです。

 そういった内容のやり取りを少しだけ聞くと、私はあまり関わってはいけなさそうだし、冷房も効き過ぎていて肌寒く感じてきたので席を離れると、入ってきたドアを開けて部屋の外へ出てしまいました。

 ちょっと薄暗い廊下は部屋の中に比べると冷房の効きも良くないせいで、暑さが肌にまとわりついてくるようですが、冷え性気味の私にはこれぐらいの方がいいようです。

 どれくらいたったでしょうか。しばらくしてドアが開くと、面接は終わったのか、プロデューサーの渡壁さんが松本さんと揃って出てきました。

「申し遅れました。プロデューサーを務めさせていただきます渡壁といいます。このたびは本当にありがとうございました」

 松本さんが私を紹介してくださり、お返しに恭しく名刺を差し出されると、やはり来訪を感謝してくださるのか、お礼の言葉を頂戴しました。

「どういたしまして。お安い御用ですわ」

「ハハハ、頼もしい。これからカメリハ…カメラテストをしますが、ご覧になっていかれますか?」

 確かに興味があって来たのですが、中にいると冷房が強くて居心地が悪く、風邪をひきそうです。

 それに怜美さんがテストされるのかと思うと、どうしても胸が痛くなってきます。

「申し訳ありませんが、あとはお任せします。素人の出る幕はなさそうですし」

 渡壁さんは、強いて引き止めませんでした。

 私は部屋へ戻ると、最後に怜美さんの手を握って「がんばってね」と激励の一言と、

「ありがとう、亜莉栖」

 と、どうしても伝えたかった言葉で感謝を言いました。

 すると怜美さんも、

「私の方こそ、ありがとうございました。これからも亜莉栖としてよろしくお願いします」

 私は嬉しくて涙がこぼれてきました。

 たったの何時間か前に出逢ったばかりなのに、ずっと一緒にいるような錯覚を感じています。そして、なぜだかこれからもずっとそばにいられるような、そんな気さえするのです。

 本当に、主人が遺してくれた亜莉栖が、私に新しい出逢いを持ってきてくれたようです。


「そうですか、そんなにイメージ通りの女性でしたか」

 帰り道、さっそく私は仲村さんに携帯を使って電話をかけると、今しがたスタジオであったことを報告しました。

「あら、仲村さんの紹介の方ではなかったんですか?」

「いえ違いますね。僕は誰も…」

 皆さん、怜美さんを見て驚いたり喜んだりしていたから、あの場にいた誰かが呼んだのではなさそうだったので、私はてっきり仲村さんが推薦してくれたのかと思っていました。

 それでは誰の紹介だったのかしら…。

「でも良かったですよ。そんなにピッタリの人が見つかって。きっと成功しますよ」

「そうね。皆さん、喜んでいらしたから、絶対にいい作品ができるわね」

 私は仲村さんの言葉を聞き、それからスタジオでのスタッフの顔を思い出すと、明るい気持ちになれるのがわかりました。

 家に帰り着くと間もなくして松本さんから電話が入りました。

「ええ、無事に亜莉栖役、決定しました」

 私は当然そうなっていたものと思い込んでいたから、その報告を聞くのが不思議な気さえしました。

 でも、とにかく怜美さんが亜莉栖を演じることになって一安心ですし、何より嬉しさでいっぱいです。

「本当にありがとうございました」

「いいえ、私の方こそ怜美さんを選んでいただいて、感謝しています」

「撮影のスケジュールなど詳しいことは決まり次第、ご連絡差し上げます。その節はよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 これで、いよいよ亜莉栖が誕生します。

 私の娘が…。


 しばらくして「名探偵亜莉栖シリーズのテレビドラマ化」を報じる発表がありました。

 都内のホテルで行われた制作記者会見には、先だってお会いしたプロデューサーの渡壁さんや監督の稲村さんをはじめ、主だった出演者の方が出席されました。

 その中にはもちろん「岡野怜美」の姿もありました。

「無名女優の起用」ということで、制作者に対していろいろな質問が投げかけられました。

 怜美さんにも多くの記者の方から問いかけがあったのですが、その都度とても「新人」とは思えないような堂々とした受け答えで、見ている私もなんだか誇らしい気持ちになっていました。

「それでは奥様に質問ですが…」

「え?は、はい…」

 そうなんです。実は私も松本さん達に「どうしても」とお願いされ、断り切れずに会見に同席していました。

 でもこんな経験の全くない私は、すっかり舞い上がってしまい、答えるのもしどろもどろ。どうやら歳がずっと上の私の方が、怜美さんよりも頼りないようです。

 一体全体、何を聞かれ何をどう答えたのかも定かでないまま、悪夢のような時間が過ぎ去り、私はやっと解放されました。

「お疲れ様でした」

 最初にそう声をかけてくれたのは、一緒に壇上にいた怜美さんでした。

「ありがとう。慣れないことするから、なんだか緊張しちゃったわ」

「ふふふ、そうみたいですね」

 優しく微笑むと、普段とは違う魅力が垣間見え、また一段とチャーミングです。

「でも怜美さん、これからスターの仲間入りね」

 私は怜美さんの未来を思い、素直な気持ちを口にしました。

「…」

 しかし怜美さんは、何と答えればいいのかわからないといった顔で、私の言葉を受け流しました。まだまだ「実感」もないのでしょう。

「いやぁ奥様、お疲れ様でした」

「もう松本さん、こんなことこれっきりにしてくださいね」

「いえいえ、なかなかご立派な受け答えでしたよ」

「嫌な方。怜美さん、あっちに行きましょう!」

 これで解散と思い、私は怜美さんと一緒に逃げ出そうとしました。「お役御免」です。

「ごめんなさい、怜美はまだこれからインタビューもあるので…」

 残念ながら、連れ出そうとした怜美さんを松本さんが引き止めてしまいました。

「そうねえ、忙しい身ですものね」

「奥様、ごめんなさい」

 怜美さんに謝られると、なぜかとても寂しい気持ちがしました。心なしか、彼女も悲しそうな表情に見えました。

「今度ゆっくりお話させてください」

 とても嬉しい提案でした。

「もちろん。私も楽しみにしているわ」

 それがいつごろになるのか、本当に実現するかどうか、わからないことです。でも、楽しみに待つのは私にとって心の張りになってくれるでしょう。

「もっと忙しくなってくると思うけど、がんばってね」

「ありがとうございます。奥様もお体に気をつけてくださいね」

 優しい言葉を投げかけてくれる怜美さん。

 私は今まで、こんな娘が欲しかったのかもしれない……。



 日々はあっと言う間に過ぎ去っていきます。

 気が付くと亜莉栖シリーズも「第八巻」の「淡く、儚く…」が発刊され、気が付くと残すところ「あと二冊」になってしまいました。ドラマの収録の方も、急ピッチで進められているようです。

 そして私は、秋に放送される予定の二時間ドラマの完成試写を、特別に出版社のほうで松本さんに招かれ、麻衣さんや鹿野社長をはじめ、大勢の社員の方たちと見させていただきました。

 初めて怜美さんが映像の中で亜莉栖を演じる姿は、主人が書いた小説の中の亜莉栖そのもので、見ていて私は胸がいっぱいになり、涙があふれてしまいました。

「これは素晴しいドラマができましたよ」

 見終わると皆さん、大きな拍手をくださり、隣で見ていた松本さんが声をかけてくれました。彼の目元も心なしか潤んでいるように見えます。

「やはり怜美が亜莉栖をやったのが大きかったです。本当にありがとうございました」

「いいえ、何をおっしゃるんですか。お礼なら怜美さんに言ってあげてください」

 本当に娘を褒められた母親の気持ちになってしまいました。心底、嬉しく感じます。

「せっかくだから今日も来てほしかったのですが、撮影が延びてしまったようで…。まだまだ落ち着きません」

「先生にもご覧になってほしかったです。どんな評価をいただけたでしょうね」

 麻衣さんが感慨深げにつぶやきます。

「きっと喜んでくれた…ううん、天国で喜んでくれているわよ」

「奥様…」

 今見終えた映像の中の怜美さんの活躍する姿を思い返し、そしてそれを見つめる主人の顔を想像して、私ははっきりと確信していました。

「やっぱり亜莉栖には怜美さんだ、って…」

 その怜美さんとの「今度ゆっくり」の約束は、今もって実現されないままに、時間だけが通り過ぎて行き、また暑い季節を迎えようとしています。

 そして私はと言うと、特別な変化もない毎日を送るだけでした。

 何度か撮影現場にお邪魔させていただいたりしたのですが、文字通り「お邪魔」になってしまいそうなので、いつの間にか足も遠のき、松本さんか麻衣さんからの「現場報告」を時々うかがうだけで、あとは「打ち上げにいらしてください」と、なってしまっていました。

 本当に、変わりのない日常でした。


 そんなある日のこと、突然、驚くようなできごとが起きました。

 それは一本の電話から始まりました。

 珍しく固定電話の方にかかってきたので、少し不審に思って受話器を取ったら、

「お久しぶりです。岡野です」

 一瞬、だれだかわからなかったのですが、相手はなんと怜美さんでした。

「まあ、ご無沙汰!お元気?」

「ええ、なんとかやってます。撮影のほうも少し目処が立ちましたので」

「そう、よかったわ。わざわざありがとう」

「それで奥様。以前にも話したと思うんですが、ゆっくりとお話させていただきたくて…」

 覚えていてくれたんですね。涙が出るくらい嬉しくなりました。

「いいわよ。いつでもお相手してあげられるから」

 私は居ても立ってもいられない気持ちになってしまいました。

「本当ですか?」

「ええ」

「それでは今からうかがいます。ご自宅のすぐ近くまで来てるんです」

「ええっ?」

 びっくりしました。まさか怜美さんが家まで来てくれるなんて…。

 それから数分後には玄関で迎えることになりました。本当に近くまで来てくれていたようです。

「急に押しかけてしまって申し訳ありません」

「ううん、いいのよ。こんな何にもないようなところでよければ、いつだって大歓迎よ。それより撮影の方、お疲れ様ね」

 リビングルームのソファーに座ってもらいながら、私は彼女の忙しい身を労いました。

 今日の彼女のいでたちも、初めて出会った時と同じように亜莉栖をイメージさせるダークな色合いのスタイルでしたが、これは怜美さん自身の雰囲気にもマッチしているように思えました。

 それからしばらく、撮影の苦労話や裏話などを話してくれました。まだまだ「駆け出し女優」であるため、人知れぬ苦労や悩みも多いそうで、

「もっと勉強しておけばよかった、って思いました」

 少しだけつらそうにそう言いました。

「何言ってるの、まだ若いんだから…。これからがんばらなきゃ、ね」

「…」

 私の言葉に、彼女は答えに詰まった様子を見せました。

 あら、いつだったかこんなこと、なかったかしら…。

「それでですね、奥様。今日はうかがいたいこともあってお邪魔したのですが…」

「え、何?」

 私は考える猶予もなく、怜美さんが質問してきました。

「あらためて、奥様のお名前をうかがってもいいですか?」

「え?」

 なんだろうと思いました。今さら私の名前?

 からかってるのか、それともゲームや占いか何かなのか…。

 でも、彼女の目は真剣というか、深刻でした。決してふざけているのではないと思いました。

「わたしは…紀藤(きとう)、だけど」

「お名前なんです。下のお名前、教えてください。み?」

「え、美佐よ。紀藤美佐…」

 私はなんだかわからないまま、名前を言いました。

 何か、重大なことが起きているのかと思えるような、そんな重苦しい雰囲気で、二人の間にそれまでとは違う空気が流れ込んできたようです。

「そうでしたか、やっぱり…」

 触れば切れそうなくらい、怜美さんの目は冷静でした。

「ねえ、どうしたの?私の名前がどうかしたの?」

 私は怖くなりました。聞いてしまってよかったのかどうか、不安な気持ちで体中が覆いつくされたようになりました。

 でも怜美さんの次の言葉は、そういった気持ちを通り越して、もっと得体のしれない思いにとらわれるものでした。

「奥様、たぶん亜莉栖シリーズの小説は、全部で『十一巻』です」

 きっぱりと、彼女は言い切りました。

 いきなりのその言葉は、私を思い切り打ちのめすのに十分なインパクトがありました。

「え?どういうこと?」

 そして目の前にいる、娘のように思えていた怜美さんが、急に遠い存在になってしまったかのようです。

「十一巻って…」

 怜美さん、本当に「名探偵亜莉栖」なの?

 急にわけもわからないことを言われて、私は混乱するだけでした。

「ちょっと待ってくれる。亜莉栖シリーズがもう一冊あるっていうの?」

「はい。私の考えが間違っていなければ…」

「え、それって何か私の名前に関係があるのかしら?」

 混乱した私は、救いを求めるように怜美さんにすがりつきました。それはまるで、物語の中で亜莉栖に回答を言わせようとする犯人か、もしくはちょっと頼りない司法関係の人のようでもありました。

 すると、亜莉栖は…いえ怜美さんは、柔らかな笑みを、その美しい顔に浮かべると、

「今は何も言わないほうがいいのかもしれません」

 と、肩透かしを食わせるような一言で、私の追求をかわしてしまいました。

 そしてさらに、

「申し訳ありませんでした。自分で話しておきながら勝手ですが、聞かなかったことにしてください」

「だめよ、そんなこと。気になっちゃうわよ」

 どちらが大人だかわからなくなっていました。

「何か大変なことでもあるの?」

 十巻だと思っていた亜莉栖シリーズが、実は十一巻だったというだけでも十分に大変なことに違いありません。でも、それ以上に何か「重大な秘密」があるというのでしょうか…。

「本当に、本当にもう一冊あるっていうの?」

「亜莉栖なら、こう言いますね。推理は、正しくなければ…」

「ただの邪推…」

 亜莉栖シリーズの「決め台詞」を使って怜美さんは答え、途中から私が引き継ぎました。

 怜美さんの口から出てくると、とても見事に聞こえますが、今の状況では、なんとなくはぐらかされているように思えていました。

 現に、怜美さんの顔には小さな笑みが浮かんでいました。

「それじゃあいったい、残りの一巻はどこにあるの?」

 私は立ち上がりながら、性急に回答を求めました。私が知らない「本」が、果たしてどこにあるというのでしょうか。

 すると怜美さんは、とても寂しそうな顔をしました。

「ごめんなさい、奥様…」

 たったの一言、精一杯といった様子でつぶやくと、下を向いてしまいました。

 その、少し打ちひしがれたような怜美さんを見てしまうと、私はもう何も聞けません。

「わかった…もういいわ。貴女が言いたくないのなら、それでいいわ」

 私はゆっくりと腰をおろしました。

「もう何も聞かない。貴女の気持ちが私にとって一番大切だもの。それに、主人は急に死んでしまったから、もう一巻ぐらい読ませてもらっていない続きがあっても不思議はないわよ」

 彼女の真意を図りかねながらも、自分自身を納得させると、それ以上の追求はしませんでした。

 その代わり、と言いますか…。

「ひとつ、訊いてもいいかしら?」

 今度は一瞬、身体がびくっとするような様子が見受けられました。私からの問いにちょっとナーバスになっているのか、いえそれ以前に、彼女は自身のことを尋ねられるのを拒んでいるのかもしれません。

 そこまで亜莉栖でいてほしくはないのですが…。

「怜美さんは、どうして亜莉栖の役をやろうって思ったの?」

「どうしてって、大きなチャンスだと思ったから…」

「誰かに、その、私も知ってるどなたかに勧められて、あの日は来たのよね?」

 今まで知りたくても、知ることができないでいたことでした。そして、それは最初から気になっていたことでした。

 なぜかわからないのですが、聞いてはいけないことにように思えていました。

 でも私は、今日のこの流れの中で思い切って確かめよう、そう思い決意しました。

「先生…」

「え?」

 一言、簡単な単語が私の耳に届きました。

 彼女の口から発せられたその言葉に、私は「学校の先生」を思い浮かべました。高校の先生とか、きっとそんな人に勧められたのだろうと。

 しかし…。

「…紀藤先生」

「え?」

 私は二度とも同じような対応をしていました。しかし、二度目はすっかり気をそがれてしまうようなものでした。

 しかし、あっけにとられている私に、怜美さんは子供がいたずらを見つかったような笑みを浮かべ、そして肩をすくめました。

 その様子は、私が初めて見る、怜美さんの「無邪気な表情」だったように思えます。でも、それがひどく「冷たいもの」にも見えてなりませんでした。

「怜美さん…」

 ふと、私は彼女が、あっと言う間に遠い所へ行ってしまったような、それがとても恐ろしいことのような、そんな気持ちにとらわれてしまいました。

 そう、私も女であることを忘れていません。

 愛した主人に、少し疑念を覚えました。

 怜美さんは、もしかして主人と何かあったのでは…。

 そう想像した私でしたが、あまりにも疑いすぎであることに気が付きました。

 主人が死んで七年になります。生きていたころは、まだ怜美さんは十二、三歳ぐらい。小学生か、せいぜい中学生です。もちろん、主人の全てを知り尽くしていたわけでもありませんし、知らないことも当然あったとは思います。もしかすると「そういう趣味」があったのかもしれませんし、反対に今の怜美さんを見ていれば、当時はかなり大人びた子供だったとも思われます。

 ですが、どちらにしても考えすぎと思えてなりません。

 それよりも、もっと現実的な「結論」がありました。

 隠し子…。

 そう考えたほうが自然です。

 主人は書いた「亜莉栖シリーズ」の小説を、自分の隠し子、いえ愛人にも私同様に渡していた。しかも、私には渡さなかった「十一巻」を、彼女には渡していた…。

「奥様、何か変なことを考えていませんか?」

 私の顔を覗き込み、怜美さんが怪訝そうな表情を見せました。

「あ、ごめんなさい。なんでもないわ、ほんとに…」

 慌てて私は居住まいを正すと、あらためて彼女の目を見据えました。

 真っ直ぐに私を見つめる視線、その澄んだ瞳には決してあやしいものは見受けられません。

「いい加減な判断」は「早急な決断」で却下するべきでしょう。

「貴女がびっくりするようなことを言うから、ちょっと慌てちゃったのよ」

「そうですか…そうですよね。確かに紀藤先生からのお誘いなんて、失礼な答えでした」

「いいのよ、貴女にもそんな可愛い一面があるのを知って、嬉しいわ」

 私は微笑んで場を取り繕いました。二人の時間を壊したくなかったから。

「だけど、本当に『十一巻』ある、って…。どうして、そう…」

 と、言いかけたところで、私の携帯電話が着信を知らせました。相手を見ると、どうやら稲村監督さんのようです。

「あら?何かしら、今ごろ」

 私は少しだけ不安な気持ちで応対しました。

「あ、紀藤様ですか?稲村です。突然にすみませんが、怜美の居場所をご存じありませんか?」

 どうやら怜美さんを探しているようです。

「急に撮り直しをしなければならないカットが出てきてしまったんですが、怜美とは連絡が取れないので…」

 私は怜美さんに目配せしながら、

「稲村さんよ。連絡取れないって」

「ああ、いけない!」

 バッグの中を探る怜美さん。どうやら携帯電話の電源を切ったままにしていたか、忘れてしまっていたようです。

 私は自分の携帯電話を彼女に渡しました。

 電話に向かって頭を下げながら謝る怜美さん。短い会話を終わらせると、

「奥様、申し訳ありません。急いで現場に行かなければならなくなりました」

 恐縮して携帯電話を返してきました。

 初めて慌てる怜美さんの姿を見て、彼女にもそんな一面があるのを知って、なぜか安心してしまいます。

「いいのよ、お疲れ様。がんばってね」

 なんとなく「娘を思いやる母親の心持ち」で私は、急いで出かけようとする彼女を見送りました。

「タクシー呼ぼうか?」

「いえ、平気です。電車で行ったほうが早いみたい」

 外まで送ろうとする私をやんわり抑えると、

「今日はいろいろありがとうございました。なんかお邪魔しておきながらバタバタしてしまって申し訳ありません」

「いいのよ、本当に楽しかったわ。なんにもお構いできなくて悪かったけど、よかったらまたいらっしゃい」

「こちらこそ。またうかがわせていただきます」

 そう言って大きくお辞儀をして行きました。

 最後は、冷静沈着な亜莉栖とは正反対の、もしかすると怜美さんの本当の姿に近いかもしれない、今日一番の元気いっぱいでの去り際でした。

 聞きたかったことや、聞きそびれたことなど多くありましたが、それ以上に一緒にいた時間の素敵だったことを思い、また会いたくなっていました。

「そういえば…」

 ふと私は、彼女が住んでいる所さえ知らないことに思い当りました。

 物語の中でも、亜莉栖がどこから来て、どこへ帰っていくのか、何も描写されることなく話は進んでいきます。

「どこまで亜莉栖なのかしら…」

 私は心の中に小さく「しこり」のように残った疑問さえ、どこか微笑ましく感じてしまうのでした。


 それからしばらくの間、怜美さんが「『十一巻』ある」と話してくれたことについては、なんとなく忘れていたし、もう一度くらい会ってみたいと考えてみても、そういえば「連絡先」さえ知らなかったことに思い至ると「私って、そそっかしい」と自虐的になるばかりで…。

 私の家に電話をかけて訪問してきてくれたのだから、彼女には連絡先を教えていたのだろうに。

 思い出してみると、よく主人にも

「君は慎重な性格なのに、時々なんだか抜けてるところがあるなぁ」

 と、からかい半分に言われたものでした。

 もちろん、怜美さんへの連絡なら松本さんか麻衣さんでも通してお願いすればいいことなのでしょうが、まだまだ忙しいであろう彼女のことを考えれば、少しでも落ち着いてから「お疲れ様」を言ってあげたいと思うのです。


 そして、連続ドラマの撮影が佳境を迎えている秋本番、いよいよ先陣を切って二時間ドラマの放映日を迎えました。

 前もって出版社で松本さんから見せていただいていたのですが、やはりテレビの放送で見るのは違う気分です。朝から、いえ二、三日前ぐらいから気持ちが落ち着かないでいました。

「娘の晴れ舞台を見守る母親」の心境でしょうか。

 そして、いよいよ放送開始時刻の午後九時を迎えました。私はリビングのテレビの前で、居住まいを正して相対しました。

 神妙な面持ち、とも言えました。

 試写会では無かったコマーシャルがまず流れ、続いて本編が始まります。あの日に見たものと同じはずなのに、全く別の作品を、初めて見る感覚でした。

 やがて「名探偵亜莉栖の事件簿」のタイトルが画面いっぱいに映し出され、そして亜莉栖の怜美さん、登場です。

「怜美さん、がんばって」

 私は思わず、声をかけてしまいました。

 テレビなのに、一度は見ているのに…。

 それでも、どうしてもそうせざるを得ない、それが私の純粋な気持ちなのです。

 こうして彼女を見ている人が日本中に大勢いて、ファンになってくれる人もいれば、でももしかすると快く思わない人もいるのかもしれない。そういう「舞台」に立っていることを思うと、息も苦しくなるくらいの緊張だったのです。

 仲間内で見ていた試写会とは違う、いわば「真剣勝負」と言えるでしょう。だから少しでもサポートしてあげたい、そういう気持ちなのです。

 もちろん、そんな声援など何の足しにもならないことはわかっていますが…。

「二時間、もつかしら…」

 時間とともにやたらと緊張感を覚え、私は喉が渇いてきて、そして心臓の鼓動さえも速くなってくるのがわかりました。

 私は、ビデオに録画しているという「安心感」もあり、半分も見ないうちにテレビを消し、ソファーに横になってしまいました。

「怜美さんに悪いことしたかしら…」

 彼女の、いわば「初陣」を見届けられないことを、少しだけ後悔しましたが、

「でも、試写を見たし、ビデオだって録ってるし…」

 自分を納得させました。

 そうしているうちに、いつの間にか眠気を覚え、気が付くとそのままソファーでしばらく眠ってしまいました。

 なんだか体力がなくなってきた感じがします。

「もう歳かしら…」

 なんとなく自嘲してみて、でもそれがなぜか、今の気分にぴったりなようです。

 起き上がり、もう一度テレビをつけてみましたが、肝心のドラマはすでに終わっていて、お笑い芸人がよくわからないおしゃべりをして、自分たちだけで笑っているような番組が始まるところでした。

 つまらなかったし、すぐに消してしまい、それから何気なく携帯電話に目を向けました。

「あら、珍しいこと」

 そこには、めったに入ることのないメールが何通か来ていました。

 あまり「筆まめ」ではない私は、こちらから送ることなどしないし、それにおよそアドレス交換自体もあまりしていないため、メールもほとんど来ないのですが。

 送り主は「亜莉栖関係」ばかりでした。

 松本さんに麻衣さん、それに仲村さん。みんな今夜のドラマのことでの連絡です。

「ついに放送まで来ました」「おめでとうございます」「いい出来栄えでした」等々。

 夜も遅いこともあって皆さん、電話でなくメールにしてくれたのでしょう。途中から眠ってしまった身としては、気を使ってもらえて良かったです。

 返信するのは、どうにも億劫だったので「明日にしよう」と決め、もう寝ようと思いました。

 すると、予期せず電話が鳴りました。携帯電話ではなく、固定電話の方に。

「もしもし…」

「あ、奥様ですか。久しぶりです、岡野です」

 電話は誰あろう、たった今までテレビで主役を勤めていた怜美さんでした。

 そういえば、以前の怜美さんからの電話も携帯電話ではなく、こちらの固定電話でした。

「ああ怜美さん、お久しぶりねぇ。見てたわよ(少し嘘です)」

「ありがとうございます。なんだか自分でも興奮しちゃいまして、失礼かと思ったんですが、遅い時間に電話、かけちゃいました」

「あら嬉しいわ。貴女なら何時でも大歓迎よ」

 何気なく電話してくれたことが、私にはとても心地よく感じました。

「これでいよいよスターの仲間入りね」

「とんでもないです。まだまだ、です」

 いつかも、同じようなことを言ってあげたことがありました。でもその時は、なんだか気のない表情で流されてしまいましたが、今日はどことなく自信が出てきたようにも思えました。

「時間ができたら、またいらしてね…え、今日は近くまで来てること、ないわよね?」

 以前は突然に現れて、少しだけ驚いたのですが、さすがにこんな夜遅くに来ることもないだろうと思っていました。

 ところが…。

「もしよろしければうかがいます」

「え?」

「近くに…は、いませんから時間がかかりますけど」

「もう、悪いひと!驚かさないで」

 怜美さんからの茶目っ気たっぷりの冗談は私を和ませてくれました。

 でも、本当は久しぶりに会いたかったけれど、こんな夜遅くに若い女性を呼び出すわけにもいきません。

「ごめんなさい。でも必ずまた、うかがわせていただきますので」

「きっとよ。約束よ。この前、聞きそびれたこと、教えてね」

 そう、亜莉栖シリーズが「全十一巻」だと主張していることの「根拠」を聞いていないのです。そして、その「第十一巻」が一体全体どこにあるというのかもわかりません。

 そのせいか、どこか体がはっきりしないようにも感じてしまいます。

「ハイ、わかりました」

 私の「聞きそびれたこと」に気が付いてくれたのか、怜美さんははっきりと返事をしてくれました。


 初めての亜莉栖シリーズ、その二時間ドラマの視聴率が発表されたようです。

「奥様、これはかなりの高視聴率ですよ」

 電話越しに聞こえる松本さんの声が、とても弾んでいるのが手に取るようにわかりました。

「二時間ドラマで二十%もいきましたから、もう大成功です」

 私には、その数字がどれだけ高い価値があるのか、よくはわかりません。そもそも「視聴率」というものの重要性について、考えもしませんでした。

 ただ、これだけ松本さんが喜んでらっしゃるところをみると、とてもいいことであるのは理解できました。

「おめでとうございます。これも松本さんはじめ、スタッフの皆様ががんばっていらっしゃった賜物ですわね」

「奥様にそう言っていただくと感激の至りです。僕など何も…。それよりこれも全て、亜莉栖シリーズのドラマ化を許可してくださったおかげです」

「あとは怜美さんが見事に亜莉栖を演じてくれたことも良かったのかしら…」

「そうですよ、それがやはり一番の要因ですよ。本当にありがとうございました」

「そうすると、来年から始まる連続ドラマも楽しみですわね」

「ますます怜美にはがんばってもらわないとなりません」

 私は、これからどんどん人気が出てくるはずの怜美さんを思いました。

 以前に何度かそんなことを話した時、あまり深い興味を感じていなかったような様子だった怜美さん。もしかすると本当に興味がないのでしょうか。

 少なくとも「女優」としてドラマに出演することを望み、そしてその希望がかなって「亜莉栖シリーズ」の主役を演じている以上、人気上昇を喜ばないはずもないのですが…。

 もしかすると、高い志を持っていて簡単には納得できないのかもしれません。私などが簡単に言っている「人気者」などというものではない、別の次元に目が向いているのかもしれません。

 でも、娘のように思える怜美さんです。私は、もっともっと人気が出て多くのファンに愛される女優さんであってほしいと願っています。

 あれから一日に何度も、録画しておいた放送を見返しました。出版社のほうで見た試写会を含めると、すでに十回近く、怜美さんの素敵な演技を堪能したことになります。

 私は怜美さんの出演しているドラマを見るのは、まだこの亜莉栖シリーズだけですが、でもこれを見ただけで、素人目にも「スター性」とでも言うのでしょうか、彼女の持つ「きらめき」を感じずにはいられません。

「間違いなくトップスターになれる」

 そう信じるのが、そしてそれを実現させるのが、私にとっての喜び。

 いつの日か…。


 放送後、ドラマの出来栄えが良かったからなのか、それ以上に亜莉栖役が光ったからなのか、予想した通りに怜美さんの評判は高まっていきました。そしてそれは、ひとりの「無名の女優」が、一気にスターダムにのし上がっていきつつあるということにほかありません。

 マスコミはこぞって特集を組み、グラビアを飾る週刊誌も増えていきました。放送前より格段に露出度が高くなっていくのがわかり、それに伴って知名度も上がっていくのが感じられます。

 私は、テレビで怜美さんを取り上げている番組は忘れずに録画をし、雑誌や新聞で記事になっていれば切り抜いてスクラップブックに貼るようにしました。

 でもそんなことをしながら、ふと思いました。今は連続ドラマが大詰めに差し掛かり、毎日のように撮影続きで、忙しい日々を送っているはずなのに、こんなにたくさんのことに関わっていて大丈夫なのかと。本当に心配になってきます。

 そして「人気が上がる」「売れっ子になる」というのは、実はとてもハードで辛い一面もあるのかもしれないと、怜美さんを見ていて感じました。

 夫が「人気作家」となって、精力的に仕事をこなしていたけれど、すぐ近くにいた私が、その本質的な苦しみを感じてあげられなかっただけなのかもしれないと、もう意味のない後悔までしています。

 今さら労ってあげることのできない夫の代わりに、できるだけ怜美さんを労わってあげたいと思いました。

 でも、なかなか怜美さんに会うこともできず、淋しさも感じてしまいます。

 もし私に娘がいて、仕事ばかりでろくに帰宅もせず、顔も見せなくなってしまったとしたら、きっとこんな気持ちで一日を過ごしたのでしょうか。

「それでも…」

 怜美さんのような娘が欲しかった…。

 夫を亡くし、独りになってしまった今、それは強く感じずにはいられません。

 でも…。

「仕方ない、わよね…」

 淋しさは胸の奥から…いいえ、もっと足先の方から体中を巡って忍び寄ってくる、そんな感じがします。

 それは、悲しんでも嘆いても、もう癒すことのできない淋しさなのです…。

 わかってるはずなのに…。


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