表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

1話


 春先の優しい風が窓を抜ける。

 仄かに木の芽と新緑の香り。

 日曜の昼過ぎ。ソファーに腰掛けた私は、窓際の椅子に座り、虚空を見つめ、動く事もなく(たたず)んでいるエルフにゆっくりと話しかけた。


「今日はとても良い天気で、散歩日和だね、ヴィー。この間喧嘩していたご近所の夫婦が、今日はすっかり仲直りしていたよ。ギスギスしている空気が無くなっていつも通りだ。喧嘩の原因は一体なんだったんだろうね」


 サァァと、風がぬけて木が揺れる。ヴィーと呼ばれたエルフ、エヴィの長い髪が風に(なび)いた。


「ヴィー。君は、草木が近くにあると、何処となく嬉しそうな顔をするね」


 飛んで来た木の葉が、エヴィの髪の上に留まる。

 そっと木の葉を取り除く。座っている隣人は相変わらず表情を変えない。


「今日も綺麗だね。ヴィー」


 エヴィは今日も話さない。









 時は少し(さかのぼ)る。


「先生、今日の午後からの授業、西塔の三階の魔術用実験室でしたよね?」

「ええ、そうですよ」

「そこの教室、午前中私が授業で使ったんですが、実験の時間が伸びちゃって、ごめんなさい!」

「いえいえ、構いませんよ。教育熱心ですね」


 優しく微笑むブロンドの長髪の男性と、新人の教師が会話している。

 ブロンドの男性は、もう随分と長く教師をしており、穏和な性格で、分かりやすく丁寧な授業をする為、生徒からとても人気のある先生だ。

 その彼の柔らかい雰囲気は、教師陣からも好評で。その中には少なからず、彼を狙う女性も混ざっていた。


「やぁねぇ、あの先生、普段あんな事で絶対謝らないじゃない。猛アタックよね、猛アタック!」

「お熱よねぇ。でも、あの先生って確か、ご結婚なさってるんじゃ」

「そうそう。でも、あの先生の奥さんって―――」





 ブロンドの男性が家に帰る。

 そっとドアを開けると、彼の頬に生卵が投げつけられた。


「この悪魔! 人殺し!! あっちいけ! あっちいけ!!」


 林檎、花瓶、近くにあったカゴ、様々な物が彼に投げつけられる。

 包丁を手に取り、振りかぶった彼女の腕を、彼が掴んだ。


「落ち着いて、マリー。僕だよ、君の旦那だ」

「そんな人知らない!! あっちいけ! あっちいけ!!」

「大丈夫、大丈夫。マリー、また薬を飲み忘れてしまったのかい?」


 金切り声を上げる、もう随分前から精神を病んでしまった彼の妻、マリーをそっと抱きしめる。そうして背中を撫で、少しして落ち着いたマリーが正気を取り戻した。


「あ、あなた……?」

「そうだよ。ほら、もう大丈夫だ」

「わ、私。もう……もう、ダメかもしれなぃ……」

「そんな事ない。僕がついてるからね」


 そんなやりとりが、彼の家庭では日常茶飯事だった。


 彼の家は今はマリーと彼の二人暮らしであるが、元々彼とマリー、彼の娘の三人暮らしだった。

 彼の娘は、働ける様になって逃げる様に家を出た。家の中で母と娘がどんな関係だったのか、彼には想像できなかったが、母と娘で頻繁に怒鳴りあっていたのを彼は知っていた。娘の話を聞いてやりたかったが、彼は自分の妻を(なだ)めるので精一杯で、多くの事を娘にしてやる事が出来ず、それを悔やんでいた。彼は、彼の娘が家を出て行く際には、決してそれを引き留めなかった。娘が家る際には「すまない」と謝る事しか彼には出来なかった。娘は「お父さんが謝る事じゃないよ」と、そう一言残して家を出た。それ以来長い間、彼とマリーはこの家で二人暮らをしている。


 彼にとって、こういった事は慣れっ子だった。物忘れが酷く、被害妄想が強く、時々幻覚を見ている彼女の奇行はこれに留まらず、彼は度々(たびたび)マリーを(なぐさ)め、マリーのした事の後始末をし、世話を焼いていた。

 辛くなる日もあった。

 それでも彼は、マリーを愛していた。

 それでも彼は、マリーがいつか元に戻る事を信じていた。

 昔の様に。出会った頃の様に。愛し合った時の様に。

 快活で明るく、頭の良いあの頃のマリーと、もう一度、共に人生を歩み直せる事を、彼は祈っていた。





 次の日の朝の事だった。

 「ドンッ!!」という強烈な音で目を覚ました。

 外から女性の悲鳴。

 「人が倒れているぞ!」という声に、嫌な予感を覚えた彼は、直ぐにマリー寝室へと駆け込んだ。


「マリー!」


 寝室にマリーの姿はない。

 彼は慌てて外に出る。

 悲鳴の響き渡る方へ走る。

 野次馬を掻き分けて人々の注目の集まる方へと進んだ。


「マリー……?」


 道の真ん中に、人だった物が横たえられていた。グチャグチャになってしまった顔は、もう誰の物かは分からない。ただ、胸元に掛けられているネックレスは、確かに彼が、マリーへ送った物だった。


 彼はマリーだった物へと歩み寄る。

 ほろほろと流れる涙。

 冷たくなったそれを抱き上げる。

 もう元の暖かみはそこにはない。

 喉から漏れ出る嗚咽。

 彼は、グチャグチャになってしまったそれを抱きしめた。

 彼は、もう戻らない不完全な妻を、心から愛していた。





 彼は暫く放心状態となった。

 事故を重く見た学校は、彼に3ヶ月の休みをくれた。

 マリーの葬儀の為に娘を探したが、家を出て行った娘に連絡は付かなかった。

 マリーの葬儀は筒がなく終わった。


 彼は家に居たくなかった。

 マリーと一緒に過ごした家に。

 もう誰も居ない家に。

 彼はふらふらと外に出た。


 そうして外を彷徨(さまよ)い、気が付くと、彼は見覚えのない裏路地に居た。

 そこは普段は絶対に入ることのない場所、スラム街だった。


 露出の多い服を着た女性に、顔に無数の傷のある男、目つきの鋭い子供とすれ違う。スリも横行しているだろうが、幸いな事に財布は()られていなかった。


 彼がふらふらと出口を求めて進むと、不意に、道端に(たたず)むエルフの女性に目が留まった。

 ガリガリに痩せたその女性は、穴の開いた布切れを纏って虚空(こくう)を見つめている。

 彼は、そのまま、その女性から目が離せなくなった。


「お目が高いねぇ、旦那」


 逆三角形の真っ赤な眼帯をした顔に『Look at me !』という大きな刺青のある男が、彼に話し掛ける。

 そうして初めて、彼はその女性が売り物である事に気付いた。


「まあ、大した金なんて持ってねぇんだろうけど、どうだ? 痩せてはいるがなかなか別嬪だろ」

「どうして、金がないって……」

「どうしてって。だってあんた、今、もの凄い顔してるぜ。まるでこの世の終わりでも見たみてぇだ」


 彼は自分の顔を触った。

 その時になって、やっと自分がそんなに酷い顔をしているのだと悟った。


「借りるなら、3000ダーツだ。1時間な」

「借りるって、何をするんだ」

「んな野暮な事は聞くなよ。ま、反応が無さ過ぎて若干(じゃっかん)不評なのが玉に傷だがな」

「買うなら幾らだ」

「あぁん?」

「幾らで売っている」


 奴隷売買はこの世界では違法である。

 もし彼がここでこの男に大金を払って、この女性を買ってしえば、それを資金源にまた奴隷が狩られる。そんな事が起こってはならない。

 だが彼は、放っておいたら何処かへ消えてしまいそうな彼女を、どうしてもそのままにしておくことが出来なかった。


「30万ダーツだ」

「15万なら払える」

「あぁん? 半値じゃねぇか」

「これで手持ちは全部だ」


 彼が財布の中身を見せる。

 (すご)んでいた商人は、それを見ると大きなため息を吐いた。


「……はぁ、14万にまけといてやるよ。持ってけ」

「いいのか?」

「そんな顔してる奴の有り金全部巻き上げて、後で襲われちゃたまんねぇからな。というか、そいつは世話が本当に大変なんだよ。放っておくと本当に何にもしねぇ。飯すら食わねぇ」

 

 ボロを着て、ガリガリにやつれた彼女の細い手を握る。彼女はずっと同じ方向を眺めており、こちらを見る事はない。


「返品不可だかんな。そこんとこよろしく!」

「返品はしない」

「ありがとうよ。また新しく女が抱きたくなったら、うちの店をご贔屓に~」


 彼は彼女の手を引くと、スラム街を出た。





 彼女を家に連れて帰った彼は、奴隷商人を通報した。自分で女性を買っておいてなんだが、一緒に売られていた女性達の表情が彼はどうにも気になって仕方がなかった。


 彼は今日一つ罪を犯した。

 誰にも知られてはならない秘密を持った。

 彼はエルフの女性を奴隷商人から買った。


 だがそれ以上に、彼は大きな穴が空いてしまった自分の心を見つめていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ