破局した国民的アイドルは、俺を愛し続ける~「ファンが恋人」と噓をつく。虹色の薔薇が、何色にも染まる白い薔薇に戻ったら~
「――別れて欲しいの」
告白してきたのは君からで、別れを告げたのも君だった。
空木常若と七色虹花の間に、理由は必要ない。
常若は最初から虹花のことを好きだったわけではないし、彼女に懇願されてノリで交際を始めただけなのだ。
(俺を好きな虹花が、別れたいって言うなら。それでいいんじゃねぇの)
別れるくらいなら最初から交際したいなんて言わなければよかったのに、とは常若も恨み言の1つや2つ言う権利はあっただろうが、彼はけして恨み言は口にしなかった。彼女が、なぜ大好きな常若と別れを切り出したのか。自らの気持ちを吐露し始めたからだ。
「あのね、やっとオーディション合格したんだよ!これから私、アイドルになるの。アイドルは恋愛禁止だから……」
「……おう」
「でもね!常若くんが嫌いになったわけじゃないの!私は今でも常若くんが大好きだよ!だけど、だけど……。アイドルとして活動するには、彼氏がいたら、ファンのみんなを困らせちゃうから……」
デビューすらしていない人間がまだ見ぬファンの為を思って好きな人に別れを告げる。これが空想の物語であれば、女子が好きそうな話だ。アイドル活動の為に、愛する人と結婚して出産する――女としての幸福を手放し、みんなに幸せを届けるため邁進する。
アイドルの鏡だ。これほど志の高いアイドルは、滅多にいないだろう。常若の見えないところで、存分に輝いてほしい。
彼女は遅かれ早かれ夢を叶えていただろう。彼女だけが悪い訳では無い。彼女がアイドルになると確信めいた感情を抱いていたのに、見て見ぬふりして告白を了承し、交際し続けたのは常若だ。
「常若くんと私が交際していたってことは、誰にも秘密だよ」
「……わかった。俺からは言わねぇ。虹花と俺は、ずっと同級生だった。顔見知りってことで」
「……うん……」
自分で提案したくせに決意が揺らいでいるのか、虹花は目に涙を潤ませ常若を見つめていた。「アイドルになるな」と引き止めたり、「別れるなんて嫌だ」と縋って欲しそうにしているが、あいにくと常若はそれほど虹花に愛情を懐いてはいなかった。
「じゃあな、七色」
「う、ん……。ばい、ばい。空木くん……っ!」
常若色に染まるはずだった白い薔薇が、この別れをきっかけに。
虹花を愛する人々の為。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫ー-七色に変化し、鮮やかに色づく。
何色にも染まれる白い薔薇は、七色に輝く虹色の薔薇に変化する。
このとき、常若が振り返り虹花を抱きしめていたのなら。常若は彼女の本当を知る術はなかったのかもしれない。この別れがなければ、常若は彼女を好きになることはなかったのだから。
――この当時の常若は、別れたくなさそうな虹花の姿を見て、モヤモヤとした思いを抱えたまま。舞い散る桜吹雪の中で、恋人に別れを告げた。
*1
――半年前
「ギャハハ!やべー、常若、マジ七色そっくりじゃん!」
文化祭の出し物で、男装女装カフェを出店することになった常若は、メイクが得意なクラスメイト兼悪友の彼女である女子生徒主導の元、黒髪ロングのウィッグを被せられ、女子生徒に身を包んでいた。
メイクを終えて鏡に映る常若の姿を覗き込んだ悪友が、別クラスのとある少女とそっくりだと大笑いしたことで、何事かとクラスメイト達が代わる代わる鏡を覗き込んでは、全員が似ていると口を揃える。
「ほんとだ。虹花そっくり!」
「生き別れの双子か何か?」
「目つきの悪い七色だよなー」
「まじやべぇって。ほんとに男か?」
(男だよ。勘弁してくれ……)
常若は暇さえあれば机に突っ伏して寝ているような男子生徒だ。クラスメイトに囲まれ、話題の中心人物として騒ぎ立てられることに慣れていない常若は、現実逃避の為椅子に座ったまま鏡の前で船を漕ぐ。ストレスが掛かるとすぐこうだ。何も考えたくなり、眠気が夢へと誘うままに寝てしまう。
「こーら。寝るなって。これから本番だぞ?人前に出るんだからな!」
「パス」
「パスは禁止!」
「常若~。ここまでフル装備決めといて、そりゃねぇだろ。じゃんじゃん稼いで貰うからな!頑張れよー、美少女!」
悪友は早い段階で絶望的に女装が似合わないと、調理担当を任されている。調理担当は骨格の作りからしてどう考えても女子になりきれない男子生徒たちの流刑地だった。女装も似合わず、調理担当の戦力外を言い渡された男子生徒達は部活の出し物に集中したり、買い出しやクラス内の装飾担当を任されている。
常若もそうした戦力外男性になるはずだったのだが、女装担当の男子生徒1名が急病に倒れ、急遽クラスにいた男子生徒全員にメイクを施し、一番マトモな女装男子を生贄に捧げるオーディションが開幕してしまった。
見事オーディションに合格してしまった常若は、女装した状態で逃げられないよう。クラスメイトたちに四方八方を囲まれている。
(トイレにもついてきそうな勢いだな……)
嘘をついて逃げることすら面倒だ。こうなったら、ふて寝するしかない。
無理矢理叩き起こされたとしても、まともに立ち上がれない状態で文化祭の出し物に借り出されることはないだろうと踏んだ常若は、騒がしいクラスメイトたちの声を子守唄に意識を飛ばし――
「ええっ!?ほんとにあの!いっつも寝てる空木くん!?嘘だぁ!」
そして、耳元に木霊する甲高い声によって浅い眠りから叩き起こされた。
常若が薄目を開いて確認すれば、彼の目の前には双子のようにそっくりとクラスメイトに噂されていた張本人。七色虹花がいた。
面白がったクラスメイトの誰かに呼ばれたのだろう。
虹花は、驚きの声を上げながら常若の顔をじっと見つめている。嘘だのなんだの言われても、メイクを施された結果。双子かと見間違うほどそっくりな顔たちになったのは事実だ。本人を目の前にして否定する意味がわからない。寝起きの常若は眉を顰める。
「ほんとにそっくり……!鏡に私が映っているみたい……!」
虹花は眉を顰める常若などお構いなしに顔を近づけて、まじまじとメイクを施した女子生徒に「どの化粧品を使ってどのようにメイクしたのか」を聞き、話し込んでいる。常若には化粧品の商品名が呪文のように聞こえ眠気を誘うのだが、常若が船を漕げば虹花と唇が触れ合いそうなほどの至近距離に彼女はいた。
(警戒心なさすぎだろ……)
常若でなければ、間違いが起きてもおかしくない距離感だ。
虹花は女装後の常若を見て大興奮しており、黒髪のロングウィッグに触れる。彼女は戸惑いなく常若の手を握り、ウィッグへと誘導した。
「空木くん!髪、バサってやって!」
「はぁ……」
「ここにこうやって手を入れてね、勢いよく払う感じで!」
虹花はウィッグの内側に常若の手を誘導すると、手のひらを右上に勢いよく払い髪を退けろと指示してきた。虹花の手が常若の手を離れたので、虹花の期待するような瞳から逃げきれず。常若は言われた通りバサリと音を立て、勢いよく黒髪を払い除けた。
「クールビューティー……!」
「やべぇ、イケるわこれ」
「空木くん!私と双子ユニット組んで芸能活動しようよ!」
「芸能活動……?」
髪を払い除けただけで、女装して芸能活動しないかとスカウトを受けている。話が飛躍していることにただ驚くばかりの常若は、眠気で意識を失いそうになりながら、興奮している虹花の声を話半分に聞いていた。
「私ね、アイドルになりたいの!私1人じゃ自分から売り込んで行ってもアイドルになれる気しないけど、空木くんと一緒なら!クール&キュートな相乗効果で、事務所に所属できるかも!」
「七色だけでも相当インパクトがあるけどさ、2人で肩並べるとマジでやべぇもんな。常若はなんで女に生まれてこなかったんだ?」
「……知らねー。興味ねぇ……」
「こら、寝るな。目を開けろ!」
「お願い、空木くん!事務所に売り出す用の写真撮らせて!!!」
「面倒くせぇ……」
「ワンショが無理ならツーショでもいいから!!」
パチリと瞳を開いた常若は、キラキラとした瞳でこちらを見つめる虹花を見た。綺麗な瞳だ。彼女の瞳はキラキラと、まるで七色の虹のように輝いている。それに比べ、常若の瞳は死んでいた。
(クール&キュート、か……)
2人が正反対であることは間違いないだろう。よく手入れされた茶髪、派手なピンク色のネイル。携帯にはハート型のストラップを付け、ぱっちり二重まぶたの顔たちは、天性のアイドル顔と言ってもいい。
太すぎず細すぎず、標準的な体型ではあるのだが、ある一点が服の上からでもわかるほど盛り上がっている。彼女の身体は男性にとって非常に魅力的だった。アイドルにも、グラビア撮影等はあるだろうが……。顔や歌声、ダンスなどよりもまずその場所に目が行くので、グラビアアイドルを目指すならともかく、歌って踊るアイドルを目指すにはやや、体型の面で問題がある。その件でオーディションに落ちている可能性が充分に考えられるほど、彼女の胸囲は特徴的だった。
胸囲の大きさを抜きにすれば、彼女はどこでだって輝けそうなほど恵まれた容姿を持っている女子高生だ。彼女が芸能人に相応しいかを判断する審査員やスカウトマンは見る目がないのだろう。女装した常若の力などなくとも、虹花ならばいくらでも上を目指せる。
「七色」
「……空木くん!私の名前、覚えていてくれたの!?」
「さっき笹森が呼んでたろ」
「そ、そうだったっけ……?」
常若が人の名前を覚えられないのは有名な話だ。
同級生で名前を覚えているのは悪友の笹森と幼馴染の焔華だけ。どうでもいい人間の名前を「あれ」や「それ」で済ませているので、虹花は名字を呼ばれて涙が出るほど嬉しかったらしい。
(名字呼んだだけで泣くとか……)
常若は虹花を得たいの知れない珍獣を見つめるような目で「繊細すぎる」と感想を抱いたが、泣いている女子の申し出を断れば悪者になるのは常若だろう。
ため息を零すと、虹花へ写真撮影の注意事項を告げた。
「撮影。してもいいけど、誰にも見せるなよ」
「え!?だ、だめなの……?こんなにかわいいんだよ!?沢山の人に見てもらった方が絶対いいのに!」
「……色々問題だろ。俺は男だ。一緒に活動とか無理」
「そんなぁ……」
虹花は残念がっていたが、四六時中女装して人前に立つなど冗談ではない。あの手この手で双子ユニットとしてデビューを目指そうと説得してくる虹花の攻撃を生返事で切り抜けた常若は、虹花の携帯を使い、自撮り撮影することで手を打った。
「空木くん、もっとこっち!くっつかないと収まらないよ!」
「……いいのかよ。肩、当たってるけど」
「だって、このままじゃ空木くんの顔が真っ二つになっちゃう!ほら!」
虹花は試し撮りをした1枚の写真を常若に見せてくる。確かに、常若の顔は右半分だけが画面に表示されている状態で、綺麗に画面の中に収まっているのは虹花だけだった。
女装姿をこの世に残すべきではないと神が告げているのかもしれない。
常若はさり気なく試し撮りをした写真に夢中な虹花から距離を取るため右側にジリジリと移動していくが、常若が移動するたびに虹花も当然のように右側へズレる。
「空木くん!ちゃんとした写真が撮影できるまで、私は離れないからね!」
「…………あー………………」
「くぅ!けしからん!爆発しろ常若!」
「笹森だってリア充じゃん」
「俺はいいんだよ!」
壁際まで追い込まれた常若が逃げ場を失えば虹花は肩を寄せ合い、ぎゅうぎゅうと密着した状態で手を伸ばし携帯の画面をこちら側に向けた。
悪友の笹森が虹花と密着する常若を羨ましがり、虹花の友人と軽口を叩き合う。
(これが青春ってやつか……)
悟りを開いた常若は、遠い目をしながらやや不機嫌そうに、虹花と1枚の写真を撮影した。
*2
文化祭の日以降、空木常若は七色虹花と不思議な縁ができた。
常若と虹花は高1の時クラスメイトだったが、2年のクラス替えで別クラスになった。常若には虹花の印象がほとんど存在しない。
何度か話をしたような記憶はあるが、何を話したかまでは覚えていないくらいの希薄な人間関係は、文化祭で女装を披露した結果。虹花にそっくりな出来上がりであったことから彼女の興味を引き、強い繋がりに変化した。
「空木くん!この後、時間ある?」
「おー…………」
「カラオケ、予約してあるの!一緒に行こう!」
「またかよ…………」
常若は週1ペースで虹花に放課後カラオケに行こうと連れ出されていた。
最初のうちは断っていたが、虹花は常若が了承するまでストーカーのようについてくる。常若の自宅を確認すると、今度は朝一緒に登校しようとするので参ってしまった。
寝起きがよくない常若は毎日のように幼馴染の焔華に叩き起こされ、引き摺られるようにして学校に登校している。
虹花が常若と通学するために自宅を訪れたなら、常若の隣にはすでに焔華がいる為、女同士の戦いが始まるのだ。
どうせ常若は夢と現が曖昧な状態なので、女性陣が火花を散らしていても話の内容は半分も覚えてないのだが……。毎日のように罵り合う2人を従えて登校する姿は近所迷惑なことこの上ない。余計なトラブルを防ぐため、朝は焔華と登校、放課後は虹花と下校が最近の日課となっている。
「今日は何から歌おっかな~」
「ふふふーん、ふん、ふふーん」
虹花はカラオケボックスに入室すると、選曲用の操作パネルを慣れた手付きで操作した。
七色虹花の夢は、アイドルになることらしい。
彼女はカラオケにやってくるといつだって恋の歌を歌った。街中で流れる有名なアイドルグループの曲から、常若には全く馴染みのない地下アイドルの曲まで。虹花はまるで自分の持ち歌だと言わんばかりに堂々と、次々に歌い上げていく。
「好き、好き!愛しているだけなら何度だって言えるのに」
「君には伝わらない……」
気分が乗ってくると、虹花は歌いながら踊り始めた。常若はよくわからないが、虹花が歌っている曲のタイトルを動画サイトで検索し、虹花が歌って踊っている部分を再生すれば、寸分の狂いもなく再現されていることがわかる。
アイドルになりたいと夢を語る虹花は、常若と言うたった1人の観客の前だけでも、アイドルとしてキラキラ輝いていた。
(よくわかんねぇけど、プロと変わらねぇんだよな……)
虹花のパフォーマンスは、本家よりもそれっぽい。見せ方をよくわかっているのだ。虹花がもし追加メンバーの加入オーディションに合格すれば、すでにプロとして活動するアイドルを押しのけて活躍することになるだろう。体型だけの問題ではないとしたら、その辺りが既存のアイドルグループオーディションを何十回も受けて落ちている原因なのかもしれない。
星の数ほど活動しているアイドルグループは、活動方針も様々だ。虹花がオーディションを受けるべきアイドルグループは、絶対的なセンターを求める新規のアイドルグループオーディションなのだろう。圧倒的な実力があれば、同じアイドルグループに所属するアイドル達の刺激となり、ファンを獲得しやすい即戦力となるのだから。
(七色がどこのオーディションを受けようが、俺には関係ねぇか)
虹花がアイドルになろうと、オーディションに落ち続けようが、常若には関係ない。虹花と常若の関係性は、ただの同級生だ。彼女の人生に口出しする権利など、常若にはないだろう。
「好きだ、好きだ、好きだ、好きだ!大好きを伝えたい!」
「私の気持ちに気づいてよ」
今日も虹花は常若に向けて告白ソングを熱唱している。
虹花は胸の前でハートを作ると、下から上、上から下にぐるりと一周動かした。ハートビーム、だろうか。常若が指の流れを追っていると、マイク越しに虹花が叫ぶ。
「空木くん!いつになったら、私の気持ちに気づいてくれるの!?」
「……気づくって……」
「私がなんのために告白ソングを歌い続けていると思う?」
「練習だろ。歌の…………」
「そうだけど、そうじゃないよ!もう、空木くんは鈍感すぎ……っ!」
虹花はマイクの電源を切ると、カラオケボックスの音量を下げてソファに身体を預けて座る常若に抱きついてきた。押し倒すような形で勢いよく虹花に抱きつかれた常若は、現状を把握するまで長い時間を有した。
このまま意識を失ってしまえたのなら、どんなにいいことか。
いつまで経っても常若に眠気は訪れることなく、熱に浮かされた瞳を向ける虹花と目を合わせた常若は、虹花の言葉を測りかねていた。
(……なんだこれ)
まさか自分が漫画のような状況に直面するとは思えず、どう虹花に声をかけていいのかすらもわからない。常若の正解は、何なのだろう。
虹花の意図を考慮し、彼女の望むがままに行動するべきか。わかったふりをして適当に流すか。意識を失い、なかったことにすれば――
「もう。ちゃんと言ったら、私との将来。考えてね」
「お、おう……」
「私は、空木くんのことが好きなの。私のものに――あっ、違った。私と付き合って!」
私のものに?
何やら不穏な単語が聞こえたが、人生何事も経験だ。美少女に告白されて嫌がる男はいない。常若は虹花のことなど何とも思ってはいなかったが、告白を断れば二度と彼女などできないだろうと判断しー-
「まぁ、いいけど、別に」
「……っ、嬉しい!」
人生、何事も妥協が大切だ。
ぎゅうぎゅうと潰れそうなほど常若を抱きしめてくる虹花を抱きしめ返すほど好意を抱いていなかった常若は、こうして成り行きで虹花と交際を開始した。
*3
ー-現在
「とーこーわーかー!常若ー!いい加減、起きなさいよ!遅刻するでしょ!?」
(元カノと別れた直後に、出会いから交際するまでの出来事を夢に見るとか。未練たらたらじゃねぇか)
高校3年の4月。新学期一発目の夢見は最悪だった。
幼馴染の神奈川焔華に布団を剥がされ叩き起こされた常若は、姿形がまったく異なる焔華が虹花に見えてしまい、暫くの間に愕然とした。
(俺に恋愛感情はなかったはずだろ……)
まさか、そんな。
別れてから大切であったことに気づくなどありえない。
交際を初めて別れるまでの約3ヶ月。カップルらしいことと言えば手を繋ぎ、毎日のように下校を共にした程度。今どき小学生のカップルだってキスくらいは済ませるだろうと考えずにはいられない、健全すぎる交際だった。
空木常若が七色虹花に惚れる要素はどこにも存在しない。はずだったのだが……。
「常若?ねえ!いい加減にしてよ!さっさと準備して!遅刻しちゃうでしょ!?」
「……………………おー………………」
「どうせ着替えてる間に寝るんだから!あんたもうパジャマじゃなくて制服で寝なさいよ!」
「……うっせぇな……」
「こうやってあたしがあんたを起こしに来るのだって、いつまで続くかわかんないんだからね!?」
「…………おー…………」
「こら!着替える時は着替えるっていいなさいよ!常若のアホ!」
焔華が怒鳴り散らす声も、常若には半分も聞こえていなかった。
常若は虹花のことで頭が一杯だったからだ。
『常若くん』
虹花が笑顔で呼ぶ声を思い起こした常若は、ダラダラと制服に着替えながらほんのり顔を赤らめる。気づいてしまったのだ。自分の気持ちに。
(俺は、虹花の笑顔が好きだったのか……)
今更気づいた所で、常若ではなくアイドルになることを選び、まだ見ぬファンを愛すると決めた。虹花の隣に常若が立つことなどありえない。もっと早くに気づき、アイドルの夢を諦めてくれと常若が虹花に縋ったのならば。別れることはなかったのだろうか……。
「焔華ちゃん、いつもありがとうね」
「気にしないでください。いつものことなので」
「オーディションの最終審査、今日の夜生放送で全国中継されるって聞いたわ。頑張ってね」
「ありがとうございます」
たらればの話を考えた所で、無駄な時間を消費するだけだ。常若は着替えを終えて学生鞄を片手に持つと、自室から階段を駆け下り、リビングで母親と雑談する焔華と合流した。
「準備できた?行くよ!」
「おー」
冷蔵庫から惣菜パンを取り出し手に持ったまま、常若は焔華と共に自宅を出る。朝は焔華に叩き起こされ、眠い眼を擦りながら着替え家を出て、惣菜パンを齧りながら登校するのが常若の日課だった。虹花と交際していた際は彼女と下校しつつカラオケに流れ込む。今は1人寂しく帰路につくか、月水金は会員制バーのアルバイトに直行する。
常若が四六時中眠そうにしているのは、この会員制バーが原因でもある。夜が苦手な常若はかなり無理をして、18時から22時までアルバイトしていた。
「あたしが朝、起こせなくなったら。あんたもいい加減あのバイト、やめなさいよ」
「は?無理」
「あたしがいないと朝起きられないくせに何言っちゃってんの!?朝1人で起きられるようになってからいいなさいよね!」
「…………頼んでねぇし…………」
「常若!あんたねぇ……!」
焔華はとにかく口うるさい。
場所を問わずバカでかい声で騒ぐので、常若は焔華の前では比較的目を見開いて嫌そうに歩いていることが多かった。啀み合うのは日常茶飯事。勝手に怒って勝手に納得する。それが神奈川焔華という女だ。
(こんなやつでもそこそこ友達はいるんだから、人間ってよくわかんねぇな……)
隣に住んでいる幼馴染でなければ、絶対縁がないタイプの人間だった。
焔華は虹花との交際にもすぐに別れろと口出しするタイプで、常若は鬱陶しくて仕方ない。焔華が朝起こしに来ないのは、常若にとって願っても見ないことだった。どうぞご自由に。常若が言えるのはそれだけだ。
『アイドル発掘オーディション番組、QUEENS!本日はついにデビューメンバーが発表される日です!最終審査に残った15人のメンバーから、一体何人のアイドルが誕生するのでしょうか……!?』
その日の夜、常若はバイト先のテレビで放送されていたある番組を、バーカウンターにいる客と眺めていた。視聴者参加型のオーディション番組だ。
現在放送されている番組内で最終審査に残ったアイドルの卵達が全員で1曲披露し、視聴者投票により選ばれた上位メンバーでアイドルとしてデビューする。上位ボーダーがどこに位置するかは、視聴者投票締切後に発表されるため、視聴者は推しをデビューさせる為かなり派手に投票を呼び掛けていた。
「デビューメンバー、決まっているのにさ。滑稽だよね」
バーカウンターで飲んだくれている男は、このオーディション番組を主催する事務所の従業員であり、このオーディションに合格したアイドルのマネージメントを担当する予定らしい。現在放送中のオーディション番組は生放送だ。現場で待機していなくていいのかとマスターが聞いていたが、その場にいることを拒否したらしい。どうも、事前に聞いた結果に納得できず、酒を飲まなければやってられないほど大荒れの結果が内部で決まっているようなのだ。
「アイドルは偶像ってのが裏テーマらしいけどさ!?プロデューサーのオキニをゴリ押しすんのはナシだろ!アイツをマネージメントするとかマジ無理。マスター、もう一本!」
「情報漏洩でクビになるぞ……」
「名前出してねぇからいいじゃん。ねぇ、君。この中ならさ、誰が受かると思う?ちなみに、合格者は3人ね」
オーディション番組の最終合格者一覧が発表され、次々と登場するアイドルの卵たち。その中に、知り合いの同級生が2人いるなど、夢にも思わない。ただ、アイドルの衣装と思われるキラキラとした衣装に身を包み、スポットライトに照らされて棒立ちしているだけなのに。アイドルをよく知らない常若でさえ、その少女から目が離せなかった。
「……七色虹花だと、思います」
「正解!ま、そりゃそうだよね。最初から最後までずーっと1位独走。正統派アイドルだし。センターはあの子以外考えられない。あと2人は?」
「……さぁ。興味ないっすね……」
「それじゃ意味ねぇじゃん!七色虹花のことめちゃくちゃ睨んでるやついるだろ?あの2人を競わせてボロ儲けしようとしてんの。それは悪くねぇけどさ。問題は最後の1人なんだよ。俺はあいつがほんとに無理で――」
飲んだくれている客が言うには、虹花はずっとオーディション番組で不動の1位を達成。ただ1人を除いて文句なしのセンター候補であるそうだ。
(そりゃそうだよな。七色は誰がどう見たって合格する。問題は……)
全国中継されているというのに、私怨を隠すことなく虹花に火花を散らす少女がいた。彼女もすでに内々でデビューが決定している。その少女と言うのが、常若の幼馴染である神奈川焔華だった。
(あいつ、何やってんだ?)
虹花がアイドルになりたい、なると言っていたのは同級生であれば誰もが知っていることだ。オーディションに落ちるたびに友達へ報告していたのだから。だが、焔華からオーディションに挑戦する話を常若は聞いたことがなかった。
朝、母親と話していた。朝起こせなくなるとはこの件だったのだろう。意味不明な焔華の行動に困惑しながらも、番組を最後まで視聴し続ける。
『ここまで、七色虹花さん、神奈川焔華さん、坂巻桜散さんの3名がデビューメンバーとして合格しています。続いて、第4位――』
『大宮花恋さん。以上4名が本オーディション合格者となり、デビューメンバーとなります』
「はぁ!?」
カウンターに座って勢いよくカクテルを飲み込んだ音が立ち上がり、テレビに向かって怒りを顕にする。事前情報では3人と聞いていたのに、4人目が選出されて驚いているらしい。懐に手を入れた男は携帯を取り出し、誰かに電話を掛け始めた。
「どういうことだよ!4人なんて聞いてねぇぞ!は?スタイルがよかった?馬鹿野郎!オッサン向けのビジュメンとかいらねーんだよ!」
『4名にはこれから、あるアイドルグループのメンバーとして一緒に活動してもらいます。グループ名はImitation Queen。アイドル界に君臨する女王として、輝いて欲しいです』
「ふざけんな!」
常若は、虹花と焔華が有名アイドルオーディションに合格し、これからアイドルとしてデビューすることよりも。視聴者に向けたメッセージを告げたプロデューサーに向かい、テレビ越しに怒鳴りつけた男の姿が色濃く印象に残った。
*4
「七色虹花です!投票ありがとうございました!ファンのみんなが元気になれる王道アイドルになります!みんな、大好きだよ!」
「神奈川焔華。アイドルなんてどうでもいい。あたしが虹花よりも優れた人間だってこと、ステージの上で証明して見せる」
「坂巻散桜でーす。桜のように散らないよう頑張りますね~」
「大宮花恋だよ。売れない子役やってました、お仕事待ってまーす!」
(大丈夫なのか、このメンバーで)
アイドルなど興味のない常若でさえも不安が残るコメントを残したImitation Queenのメンバー達は、オーディション終了後心無い中傷に晒された。
アイドルらしい豊富を述べたのは虹花だけで、あとは応援してくれたファンへの感謝もなければ、アイドルとしての豊富ではなく自分本位な言葉しか伝えてこなかった。それはそうなるだろう。
「なんつーか、ヤバくね?特に神奈川。性格悪いって噂になってっけど」
「興味ねぇ……」
「幼馴染と彼女だろ?いいのか?」
「………………別れた」
「マジで!?あんないい子振るとかありえねーだろ!?」
「声がでけぇ……。振られたんだよ……」
「あー、アイドルになったから?」
「まぁ」
虹花に交際していたのは2人だけの秘密だと念を押されていたが、悪友の笹森は虹花の親友と交際している。恐らく虹花も親友には打ち明けていると思われるので、問題はないだろうと勝手に例外として認定した。
「右に神奈川、左に虹色。神奈川派の奴らはガッツポーズするかに見えたが、2人仲良くアイドルとしてメジャーデビュー……。やべぇな、常若。新しい女見つけねぇと」
「別に……」
「マジで常若には気が利く奥さんか彼女が着いてねぇと駄目だろ!目を離すとすぐ寝るし。ほんと大丈夫か?これからずっと1人だぞ?卒業するまでに新しい介護要因見つけねぇと……」
「……お前、最低だな……」
「いや、なんでだよ!」
「知らない女を介護要因扱いするとか……引くわ……」
「オレは常若の為を思って言ってやってんだぞ!?あー、もう、合コン行くしかねぇな」
笹森は常若の為を思って彼女をあてがおうとしているが、常若は虹花が好きであったことに気づいてしまった。この恋心は誰にも打ち明けることなく、自然に消えていくのを待つしかないのだろう。今すぐに常若は新しい女と交際してどうこういう気にはなれず。
学内で虹花とすれ違っては無視して、事前に彼女を目にしたのならば彼女を避けて移動した。
どう虹花と接すればいいのか分からなかったのだ。虹花にとって常若は元カレ。過去の人だ。常若が今更彼女を好きだとアピールした所で、彼女はアイドル。復縁などありえない。
(この思いに気づかなければ。なんの問題なく、卒業を迎えられた)
高3の1年間は、常若にとってはある意味地獄のような時間だった。
それまでは授業終業のチャイムが鳴ると同時にむくりと起き上がり、ぼんやりと休み時間を過ごすか、笹森と会話をする。虹花と別れてから時間が経つに連れ、常若は与えられた椅子に座り、勉強机き突っ伏す。誰かが背中を揺すって起こさない限り、そのまま下校時間まで寝入るようになってしまった。
「ほんとやべーぞ」
寝ても寝ても、寝足りないわけではない。身体を起こして目を開けていれば、一瞬でも虹花を視界に捉える時間が訪れてしまうことを怖がっているのだ。
家に籠もっていれば、虹花と会う手段がない土日は24時間起きていられる。四六時中寝るようになったのは、虹花と同じ学校に通っているストレス以外には考えられなかった。
常若の虹花への思いは、日を増す。眠っていなければ、偶然瞳を合わせた彼女に抱きついて思いを告げてしまいそうなほど。常若は追い込まれていた。
「自覚は、している……」
「バイト増やしたんだって?元に戻せよ」
「嫌だ」
「週3だってかなり無理してたのに、なんで週5にしたんだよ。飲まず食わずで登校してきたと思ったら下校時間まですっと寝っぱなしは何かの病気を疑うレベルだろ」
「…………バイトが原因じゃ、ねぇし…………」
「他にストレス掛かるようなことあったか?」
笹森の言葉に黙秘をすれば、それが答えだと言っているようなものだ。
常若は虹花が原因だと自分の口から言うわけにも行かず、強烈なストレスにより意識が遠のく。
「いや、それはどうしようもねぇけど、どうにかしねぇと…………社会生活に支障が……。おい、常若!起きてこれ見ろ!」
『七色のこと好きなのか?諦められねぇの?』
笹森はスマートフォンの画面に文字を入力し常若に伝えてきた。虹花は今や大人気アイドルだ。不用意に名前を出せば迷惑が掛かる。
(相手は笹森だ。別に、取り繕う相手でもねぇ……)
常若がストレスで眠気を感じると知っている、家族以外の同性だ。一番信頼している親友だからこそ、虹花と別れたことも告げている。常若はぼんやりとした思考の中で、震える手で笹森が差し出した携帯を受け取り画面に触れると、今の気持ちを文字にした。
『好きだ。愛していることに別れてから気づいた。ストーカーになりそう』
「…………常若、お前さぁ…………」
笹森は色々言いたいことがあるようだが、誰が聞いているかわからない場所で常若を叱りつけるわけにもいかない。素早く常若の入力した文字を消すと、笹森の自宅に場所を移して恋愛相談をすることになった。
「自覚してから何ヶ月経ったんだよ」
「オーディション番組が放送された日の朝。夢を見て気づいた…………」
「早く言えよ!今何月だと思ってんだ!」
「……5月?」
「7月だ!ストーカーになりそうなレベルで拗らせてるなら、相談しろよ!」
「……何にも変わんねぇだろ」
「そうやって諦めた結果の睡眠学習かよ…………。あのな、義務教育じゃねぇんだよ高校は。内申最悪でどこにいくつもりだ?」
「……大学とか、興味ねぇし……。テストの点数さえ良ければ卒業できる」
「小テスト寝てたくせによく言うぜ。常若が起きてさえいれば頭いいのはオレもよく知ってるけどさ、別れたくらいで生活立ち行かなくなるって相当だろ」
「……そうだな……」
常若が笹森の立場であれば、「馬鹿だろ」の一言で済ませるような愚行を2か月間続けているのが今の常若だ。相手の気持ちがある以上、ストレスを軽減するのは簡単なことではない。
虹花は別れを告げて想いを断ち切ったのに、交際中は一切興味を示していなかったはずの常若が突然覚醒し虹花を好きだと言い始めたと知れば、彼女だって驚くだろう。
驚くだけならまだいいが、最悪の場合は気持ち悪いと蔑まれ、今よりもっと酷い精神状態になる。
「マジで一切の交流断った感じなんだよな?」
「……ああ」
「連絡先は?」
「消した」
「避けてんのは?めちゃくちゃ好きなら一瞬でもみたいとか思わねぇの?」
「……手を伸ばせば届くような場所にいたら、抑えられる自信がねぇんだよ……」
「交際中に気づけばなんの問題もなかったろ……」
笹森には交際中の彼女がいるので、常若の気持ちは痛いほどよくわかるのだろう。事情を聞けば聞くほど、顔色の悪い常若と共に頭を抱えている。
「……アイドルイミテーション、聞いたか?」
「聞いてねぇ」
「聞けよ。愛してる女の子が歌ってる曲だぞ」
「耳元で歌声なんて聞いたら……死ぬ」
「お前どうやって生きてんの?町中ですげー掛かってんぞ」
「ヘッドホンつけねぇと町中は歩けねぇな」
「あー、わかった。とりあえずこれ見ろ」
「聞かねぇぞ」
「拷問だろそんなん。歌詞だよ。七色が書いたらしい」
アイドルイミテーションとは、Imitation Queenのデビュー曲となる。虹花がメインボーカル、センターを務める同名のシングルで、カップリング曲も虹花がメインボーカルを務めていた。
デビュー曲、不動の1位、4人の中で一番まともなアイドルと称された虹花のシングルは発売から2か月経ってもアイドル界の伝説に残るシングルとして、シングルランキングTOP10入りを果たし続けている。
Imitation Queenは七色虹花がセンターであるべきだと、4か月連続リリース中の後続シングルは不買運動が起こり、それほど売れていない。そんな話はアイドルに詳しくない常若にも聞こえて来ていたが、彼女たちの活動を追えば必ず虹花が視界に飛び込んでくる為、常若はあえて自分から活動についての情報収集をすることはなかった。
「なんの意味があるんだよ」
「2番のCメロ。いつかアイドルをやめる その時まで 輝き続ける」
「いいか?告白は七色から。つまり七色は本気で常若が好きだったわけだ。けど、常若は興味なさそうにしてくるし、アイドルになれるチャンスが転がり込んできたから、七色はアイドルになることを優先したわけだよ」
「この歌詞、ファンの間でも話題になってんだ。七色虹花は長い間アイドルやる気がねぇなら、今のうちに推しとかねぇとって大騒ぎしてんの。その結果が半年間シングルチャートTOP10入り継続中だな」
「なんでそんなに詳しいんだよ……」
「私の親友がすごいってドヤ顔で語ってくんだ。オレが調べたわけじゃねぇからな?常若は調べなすぎ」
「仕方ねぇだろ。存在自体がストレスなんだって……」
常若は笹森の言葉を聞いて自惚れるわけにはいかなかった。一度期待して、上げて落とされる時が怖い。常若が交際中に虹花への気持ちに気づけば良かっただけの話である以上、これ以上後悔したくなかったのだ。
(俺は自分のことしか考えてねぇ。最低の人間だ)
常若と虹花は、お互い本当の自分を見せることなく別れた。交際期間はわずか3ヶ月だったのだから無理もない。常若は醜い自分の心を見せたら虹花に嫌われてしまうのではないかと恐ろしくて堪らなかった。
勝手に不安になり、身動きが取れなくなっている。
これ以上自分で不必要な鎖を巻き付けて雁字搦めになる必要はないと自覚している常若は、虹花が作ったとされる歌詞にも安心することなく、ただぼんやりと笹森から預かった携帯の画面を見つめていた。
「七色もさ、常若のこと好きな気持ち。蹴りつけたわけじゃねぇよ」
「お互いに好き同士って……両片想い?オレは常若が七色への気持ちを捨て去る方向じゃなくて、共存していく方向でサポートしていく!」
「………………今と変わんねぇな」
「いや、変わる!地の神に任せろ!」
笹森の本名は笹森神地。神の地と書くので、幼い頃笹森は自分のことを地の神と称し同い年の子どもたちに距離を置かれていた。
強いストレスを感じると場所を問わず眠ってしまい、人の輪に入れなかった常若とはみ出しもの同士仲良くなったが、常若は笹森のことを下の名前で呼ぶことはない。周りに馬鹿にされていた笹森のことを思い出して、眠くなってしまうからだ。
常若の親友を名乗り、下の名前で呼ぶ笹森を頑なに名字で呼ぶ常若は、笹森のことを親友と認識しているか怪しいなど言われることも多いのだが……。常若が一番信頼している同性の親友は、笹森以外には存在しない。
「……頼りにして、いいか」
「おう!」
常若の気持ちと共に携帯を受け取った笹森は、数日後。思ったよりも早く常若の想像もつかない提案をした。
「常若ー。誕生日おめでとさん!携帯、見たかー?」
「……見てねぇ」
「ちゃんと見ろよ!」
7月2日。常若の誕生日に顔を合わせた笹森は、携帯を見るように言った。渋々携帯を取り出し通知を確認すれば、メッセージアプリに何件かメッセージが来ていた。0時と共に笹森、幼馴染の焔華から誕生日を祝うメッセージが送られていることを確認した常若は、最後の一通を確認して意識を飛ばしそうになる。
『笹森くんから聞きました。誕生日おめでとう。素敵な一年になりますように』
開いた口が塞がらないとはこのことか。大人気アイドル七色虹花が常若に誕生日を祝うメッセージを送ってくるなど、ありえないことだ。その真横で同じアイドルグループに所属する焔華がメッセージを送ってきているが、焔華などどうでもいい。虹花を騙る人物が送ってきているとしても、常若は小躍りするくらい嬉しかった。
「……今日は一日。真面目に授業受けるわ……」
「現金なヤツ」
笹森も笑いながら、まさか常若が宣言通り一度も寝ることなく真面目に授業を受ける日が来るとは思っていなかったのだろう。休み時間のたびに、何度も虹花から送信されたメッセージを見つめては眠い眼を擦りながらも真面目に授業を受ける常若の姿を誰もが驚いていた。
そうして誰かの驚く顔を見るたびに常若のストレスゲージがどんどんと蓄積されていくのだが、虹花にメッセージを見れば、そのストレスは軽減される。まるで魔法のように。常若の中で虹花の存在は、切っても切り離せないほど大きくなってしまった。
「返信、ちゃんとしろよー。無視したらまた、興味ねぇのかって好感度下がるからな」
「おー……」
常若は虹花にどう返事をしていいのか分からなかった為、まずは焔華に連絡を取る。当たり障りなく、簡単に一言礼を送信。返信はすぐに返ってきたが、どうでもいいので既読を付けて再度の返信はしない。問題は、虹花への返信だ。
――ありがとう。元気にしているか?
私は元気だよと返ってきたとしても話を続けるスキルが常若には存在しない。
――ありがとう。七色の誕生日はいつだ?
誕生日などお互いの親友経由で聞けばいい。わざわざ本人に聞く必要はないだろう。過ぎていたら悲しい。却下。
『ありがとう。アイドル活動、頑張れ』
現役アイドルに男の影と騒がれるようなメッセージは避けるべきだ。精一杯気を使った常若は、結局当たり刺さりのない、ファンがアイドルに送るメッセージのような短文を送信した。
『見守ってくれると嬉しいな。目指せ赤白!どんなに興味なくても、赤白に出たら、見てくれるよね?』
『多分』
『多分かー。絶対見るって言って欲しかったな。嬉しい報告ができるように頑張る!』
ひと目見て男とメッセージアプリで連絡を取り合っていると思われないようにする為、随分とそっけないものになってしまった。虹花は気にした様子もなくアイドル活動を継続していくと常若に伝える。虹花は今、テレビでは見かけない日はないと言うほどに。焔華と共にアイドル活動に明け暮れていた。
常若が虹花の為にできることがあるとしたら、この気持ちを隠し通すことだけだろう。常若の気持ちは、アイドル活動の邪魔にしかならないのだから。
*5
Imitation Queenセンター、七色虹花の評判は様々だ。
CDを購入することで参加できる特典会は1人1回完全予約制。毎日特典会を開催しても捌ききれる数ではないほど彼女と握手したい、一秒でも会話をしたいファンがいる。一度特典会に参加したファンが二度目の特典会に参加することなど一生ないのではないかと危惧されている為、原則ライブ等の観覧券は一度特典会に参加したことのある人間にしか抽選の権利すら与えられない状態だった。
絶対的な人気を誇る虹花と同じ空気を空いたい、遠くからでも生の声が聞きたいと、制限のない他メンバーの特典会も好評だ。虹花のように抽選へ参加する必要もないことから気軽に訪れるファンや何十回と訪れるファン達により、Imitation Queenの特典会はどこで開催しても盛り上がりを見せている。
常若は、一度だけ特典会の日にSNSで虹花の評判を調べたことがある。
『虹花ちゃん、リクに答えてくれた!』
『ファンサ神』
『なんで一回だけしか会えないの……?』
『下ネタ以外全リクOKとか心広すぎ』
『朗報 七色虹花 オタクでも自分を好きになってくれた人ならイケる』
七色虹花はファンと顔を合わせた瞬間に『どんな私が好きですか?』と言うのは有名な話らしい。虹花と言葉を交わせるのはたったの20秒。貴重な時間を定型文で削られるよりは、と特典会に参加したファンから注意喚起を目にしたファン達は、問われる前に自ら答えるか、スケッチボードを首からぶら下げてどんなキャラで接して欲しいかリクエストする。
前提として虹花の特典会に訪れるファンは虹花のことを大なり小なり好きな人間だ。「ファンのみんなが恋人」を公言する虹花は、下ネタ以外なら、たとえ普段の虹花にリクエストされた要素がなくとも、そのリクエスト通りのキャラ設定で、20秒と言う短い時間を眼の前にいるファン1人1人の恋人として接してくれるのだ。
虹花は七色の虹みたいにファンとしっかり目を合わせ、向き合ってくれると評判だ。名前と文字って『七色の薔薇』と二つ名で呼ばれるようになった。
レインボーローズの花言葉は無限の可能性、奇跡。
虹花は七色にころころと色を変え、ファンたちを楽しませる無限の可能性がある。アイドルとしてこの世に生まれた奇跡を、ファン達が祝福しているのだ。今では、虹花がテレビ番組に出演する際必ずと言っていいほどそのキャッチコピーに使われているそうだ。本人も七色の薔薇と呼ばれることには喜んでいるらしく、デビュー曲のアイドルイミテーションでも虹色の衣装を纏い、全員が虹薔薇の髪留めをつけてたことなどを話していた。
「常若。ちょっと、いい?」
「……特典会はどうしたんだよ」
「体調不良で欠席」
「仮病か……」
虹花の評判を検索していると、常若の自室に本来であれば特典会に参加しているはずの焔華が訪ねて来た。SNSを観覧していた常若は、公式SNSに神奈川焔華体調不良の為欠席の文字と目の前にいる焔華の姿を見比べて仮病と判断する。焔華から反論がないあたり、どうやら本気で仮病を使って常若へ会いに来たらしい。
「現役アイドルが特定の男に会うとか、ありえないだろ。仮病使って仕事休むだけでも相当やべぇのに」
「キモいオタクと接触イベなんて、やりたいやつにやらせとけばいいのよ」
「ファンが泣くぞ」
「あたしのファンはドMしかいないから。接触イベで踏んでくれとか蔑んでくれとか言われるこっちの身にもなってよね。ほんと気持ち悪い……」
「だったらそういうキャラやめろよ」
「は?あたしはあいつみたいにキャラ作ってないし。これが素だから。ありのまま、あたしを受け入れる気のないファンとかいらないわ」
焔華の言動には棘があった。
ファンが望む通りのキャラクターになりきり、ガチ恋営業で好きだと言ってくれたファンのハートをガッチリと掴む虹花への批判を遠回しにしている。
神奈川焔華がアイドルになった理由は、ファンの間でも度々議論になる。
焔華はオーディション合格時に七色虹花に勝つためだと公言したが、焔華は常若と同じく虹花と出会うまでは一切アイドルなど興味を示さなかった。虹花と出会い、常若の家で顔を合わせてから。焔華はニコニコと笑顔の虹花に喧嘩を売っては言い負かされ。気づけば同じアイドルグループで活動するアイドルになっていた。
「焔華がアイドルになった理由も、本心なのかよ」
「当たり前でしょ?あの女……八方美人のいい子ちゃんなだけなのに……。どいつもこいつも裏の顔を知らないから、ころっと騙されるのよ。あいつは天使なんかじゃない。悪魔よ。常若だって!あんな女に興味なんかないでしょ!?」
「……七色を悪く言う必要はねぇだろ」
「あたしよりもあの女の肩を持つの!?」
「焔華よりもって、なんだよ」
「幼馴染のあたしよりも大事な存在だって言うの!?」
「当たり前だろ」
常若がどんな気持ちで今まで過ごしていたか知らないくせに。幼馴染の焔華を大切にして当然だと主張する彼女と同意見だとは言えなかった。
常若が虹花を愛していることは、誰にも秘密。
常若には例外にカテゴライズされる人間が2人いる。1人は悪友であり親友の笹森。彼のことは信頼しているし、彼に隠し事をするなどありえない。そして、もうひとりの例外が――焔華だった。
幼馴染である焔華には、先に言っておかないと後々口うるさく面倒なことになるから。幼馴染だからと言う理由だけで墓場まで持っていくべき気持ちを打ち明けられた焔華は、常若の意に反して怒り狂った。
「な、なんで……?なんで当たり前なのよ!幼馴染のあたしが大事じゃないの!?」
「……何怒ってんだ」
「答えて!なんで幼馴染のあたしよりも七色虹花が大切なのよ!」
「――1つしか、ねぇだろ」
(言わなくたってわかるだろ。幼馴染なら)
常若は笹森の前では虹花への気持ちを正直に吐露したが、同じアイドルグループに所属する焔華へ、自分の正直な気持ちを伝えることはできなかった。アイドルと一般人。現役アイドルと、元カレの虹花と常若は、もう一度恋人として関係を修復するためには。数々の試練や困難を乗り越えなければならないからだ。
笹森によると、虹花と常若は両片想いらしいがー-常若が虹花に自分の気持ちを伝えない限り、常若が勝手に虹花を好きになっただけ。ずっと常若の成長を隣で見守ってきた焔華が、常若の気持ちに気づけば。彼女がどんな反応をするか想像もつかないほどに。常若は七色虹花を愛していた。
「……な、んで……。なんでよ……。興味なさそうにしてたじゃない……!別れたんでしょ?オーディションの合格条件には身辺整理も入ってた!交際がバレたら違約金だって!みんな規則を守ってアイドルやってんのよ!?七色虹花だけ特別扱いなんてありえない!」
「……終業式に振られて、別れた」
「だったら!なんで……っ!なんで叶わない恋なんてするの……!?」
「自分でも、わかんねぇよ。そんなもん。恋はするものじゃなくて、落ちるもんだ。この気持ちを……捨て去れたら……ここまで苦労してねぇ」
常若は虹花への気持ちに気づいてから、彼女の存在がストレスだった。学校に登校すると、彼女を視界に捉えたくなくて、登校してから下校するまで、ずっと深い眠りに落ちるほどに。
まともな日常生活を送れるようになったのは、笹森のお陰だ。笹森は常若の気持ちを受け止め、そのまま虹花を好きで居続けてもいいと言ってくれた。
だからこそ、常若はこうして彼女を加害することなく、ぼんやりと生きている。彼女の気持ちを捨て去るよう強要されたのなら、深い眠りに落ちるか、登校拒否をして引きこもりになり、社会復帰が難しいほどに精神が落ち込んでいたことだろう。最悪の場合は、抑えきれない気持ちが爆発し、傷害事件を起こしていたかもしれない。
それはあくまで常若側の事情であり、焔華側の事情はまた異なるのだろう。激昂した焔華は、常若の胸ぐらを強引に掴むと、力の限り怒鳴りつけた。
「あたしのこと、好きになればいいしゃない!あの女に勝って、今度こそ!常若があたしのものになるって、信じてたのに……っ!」
「焔華の、もの?」
「そうよ!あんたはあたしのもんでしょ!?ずっとあたしはあんたの傍で面倒を見てやった!このままあんたの隣で、結婚して、子ども産んで、幸せな家庭を持つ築くんだって信じてたのに!あの女が誘惑した……!」
「おい、待て」
「常若とあの女が付き合うようになって、あんたは興味なさそうにしてから!すぐに別れるんだって安心してた!別れたら、あたしの気持ちを伝えて、今度こそ、あの女にも……っ。誰にも奪われないように鎖で縛り付けてやろうとしてたのに……!」
「あの女が好きなんて、そんなの!常若から告白してくれるのを信じて待ってたあたしが馬鹿みたいじゃない!」
(俺から告白してくれるのを待っていた?)
常若には寝耳に水の話で、胸ぐらを掴まれたまま眉を顰めることしかできない。常若が焔華を好きになったことなど一度もなければ、好意を見せたこともないはずだ。常若にとって焔華は幼馴染であり、恋愛対象ではない。生まれた瞬間から家が隣同士で、親同士仲がいい。
一緒にいるのが当たり前の、幼馴染以外の感情を抱くとしたら……姉が一番しっくり来るだろうか。ストレスを感じるといつでもどこでも眠ってしまう常若の面倒を見ては怒鳴り散らす。同い年の姉だと公言していれば、焔華が常若を好きになることはなかったのだろうか……。
「俺のこと……好きなのか……」
常若が焔華に向けて紡いだ言葉は、疑問形ですらない。確認であり、自分を納得させるような声音だった。
焔華は常若に返答を返すことなく、叶わない想いを打ち明けて涙を流す。その姿を見た常若は、焔華が冗談で行っているのではなく本気で常若のことが好きであることに気づいた。
人が人を好きになる気持ちは止められない。
恋は好きになるのではなく、落ちるものだ。
常若が焔華を姉と慕っても、この結末を変えることはできなかっただろう。
ならば、考えるよりも焔華が常若へ向ける恋心を昇華できるように、働きかけなければ。
「……俺は焔華を好きになることはねぇよ」
「振られたくせに!」
「そうだな」
「あの女は常若じゃなくてファンを取ったのよ!?なんであんな女を好きなの……っ。あたしだったら、不特定多数のファンなんか捨てて、常若だけを愛するのに……!」
「……焔華。七色を悪く言うな。あいつには、あいつの考えがある。俺と交際するのが全てじゃない」
「……っ、なんで!あんたもあの女も!自分のことを犠牲にすんの!?自分のことしか考えてないあたしが、悪者みたいじゃない……!」
「あたしの方が、先に常若を好きになったのに!なんであたしのこと好きになってくれなかったのよ!なんでっ、なんで、なんで!あんな女が、好きなんて……。あたしは絶対あんな女には、なれないのに……」
焔華は常若の両頬を2回に分けて平手打ちした。左右に1発ずつ叩かれた常若の口内には血の味が広がる。
(これが焔華の痛みなら。黙って受け止めるしかねぇな)
常若は抵抗することなく、錯乱する焔華を冷静に眺めていた。
その態度が焔華を惨めな気持ちにさせるのだと気づかずに。
「……あんたなんて、大嫌い!」
何を言っても常若が焔華を好きになることはないと納得したらしい焔華は、常若の胸ぐらを掴む手を勢いよく離して常若の背中を強く壁へ打ち付けると、涙を拭いながら去って行った。
(焔華が隣の家に住んでるなんてのは有名な話だ。こんだけ大騒ぎしてたら、誰かしらが週刊誌に売ったっておかしくねぇだろ……)
常若が顔写真付きで週刊誌に取り上げられる日も近い。勘弁してくれ、と顔を覆った常若は、強いストレスを感じたことにより深い眠りについたのだった。
*6
幼馴染である神奈川焔華に告白された常若は、焔華を姉のような存在として受け入れ、隣にいるのが当たり前と認識していたが、恋愛感情を抱けなかった。
常若を好きな焔華は、自分が常若に向ける分だけの愛を返してほしい。返してくれるはずだと信じていたらしいが……常若が虹花を好きだと遠回しに打ち明ければ、悪態を付いて去って行った。
常若の部屋は防音設備など一切存在しない、一般家庭の部屋だ。あれだけ大騒ぎしていれば近隣住民に会話は筒抜け。神奈川焔華が現役アイドルだと知る近所の住民が、男と白昼堂々言い争っていたなど週刊誌に密告、記事になるのではと警戒していたのだが――
「空木常若さんでよろしいですか」
「……常若?知り合いかよ」
「……知らねぇ」
「はじめまして。週刊文冬の斎藤と申します。七色虹花さんの件でお話。よろしいでしょうか」
笹森と下校していた常若の元へ、週刊誌の記者がやってきた。記者は焔華ではなく虹花のことで話を聞きたいらしい。虹花のことならば、交際していた件だろうか。笹森と顔を見合わせた常若は、硬い声と表情で応対しようとたのだが、笹森の笑い声により、面食らってしまった。
「ギャハハ!マジかよ!常若有名人じゃん!」
「……うっせぇ……」
「週刊誌の突撃取材ってアイドルに来るもんじゃねぇの?一般人にわざわざアポ無しで突撃してくるとか!ヤバくね?」
「この写真は七色虹花さんがパスケースの中に仕舞い、ステージ前に眺めては、アイドルとして活動するための元気を貰っているとブログにアップロードされた写真です。ブログにはモザイクが掛かっていましたが――この写真に映る女性が、あなたの女装した姿であることは事実でしょうか」
笹森の大声に一瞬怯んだ週刊誌記者は、何事かとこちらを見つめる下校途中の生徒が大騒ぎする前に突撃取材を終える為、短期決戦を挑んできた。懐から取り出した写真のコピーは、常若が1年前の文化祭で女装し、虹花と撮影したツーショット写真だ。
週刊誌記者は常若に、虹花がパスケースの中に入れている写真だと説明した。文化祭で常若が女装していたことを知らなければ、双子かと見間違うほどそっくりな少女たちが撮影された写真だ。誰かが故意にリークをして、写真に映る女が男であると添えなれば、わかるはずもない。それほど常若の女装姿は完璧な仕上がりだった。虹花も安心して隠し通せると思っていたからこそ、その写真を持ち歩いていたのかもしれないが……。アイドルになりたかった虹化が、不用心なことをするのだろうか?
(まさか……)
常若は焔華と色恋沙汰で揉めていた。
虹花が好きだと知った焔華は、虹花により強力な憎悪を抱いている。同じ高校に通い、常若の女装姿を目にしている焔華ならば。いつでも週刊誌にリークできるだろう。
「俺の口からは何も言えません」
「肯定も否定もされないと受け取ってよろしいですか!」
「行くぞ、笹森」
「おー。んじゃ、そういうことで」
「もう少し詳しくお話を――」
「あんまりしつこくすると警察呼ぶぞー」
笹森が警察に通報すると言えば、記者は悔しそうな顔で去っていった。
笹森は突撃取材を受けた常若を心配そうに見守っていたが、こうして週刊誌記者が常若の前に姿を見せたのならば、黙っているわけには行かない。
『確認したら消去してくれ。下校途中に週刊文冬を名乗る記者が来た』
『……教えてくれてありがとう。迷惑かけてごめんね』
『気にするな。何も話してない』
『ありがとう。もう、迷惑掛けないようにするから』
常若はまず、メッセージアプリで虹花に事情を説明した。即日とはいかないものの、引っ掛かりを感じる一文が数日後に返ってくる。そのメッセージを受け取った常若は、嫌な予感を感じながら、母親から焔華が実家に顔を出したと聞き、彼女の自宅に訪れる。
「週刊誌の記者が俺を訪ねて来た」
「ふーん。それが何?あんた、あたしの悪口でも言ったわけ?」
「お前だろ。リークしたの」
「具体的に言ってくれる?あたしも暇じゃないんだけど」
「七色が持ってた俺とのツーショット写真。週刊誌に売ったろ」
「あたしがそんなことして何になるのよ」
「焔華」
「虹花、虹花って……。なんであんな女を庇うのよ。好きだから?そんな言葉聞きたくない!常若も、すぐにわかるわ。あの女は天使なんかじゃない。都合のいいことばかり言って、信じた人間を不幸のどん底に突き落とす悪魔だってこと……!」
焔華は自分の言葉を信じてくれない常若に何を言っても無駄だと悟ったのか、週刊誌に情報を売った件に関しては否定も肯定もしなかった。焔華はよほどのことがない限り、嘘などつかない。はぐらかしたならば、リークしたのは焔華で間違いないだろう。
「焔華、お前……」
常若は文句の1つくらい言ってやろうと口を開くが、けたたましく鳴る携帯の着信音に邪魔をされて、二の句を紡げない。電話に出るようを促され、常若は相手を見ることなく携帯を手に取り通話ボタンを押す。電話越しに聞こえてきた声は、常若が想像もしない人物だった。
『今、テレビ……。ニュース番組、見ていたりする?』
「……テレビ?見てねぇけど」
『……生放送で見ていないとしても。目にする機会は多いだろうから。どうしても、伝えておきたかったの。会見が始まる前に』
電話越しに、静かな虹花の声が響く。
いつも元気で明るい声が特徴的な虹花は、緊張しているのか。どことなく声が固い。一体何の会見なのだと聞きたかったが、目の前には不貞腐れた顔で常若を睨みつける焔華がいる。相手が虹花だと知れば怒るだろう。虹花の側にだって、誰がいるかもわからない状態だ。お互いの名を呼び合うことなど許されなかった。
『テレビの中にいる私は、私じゃないの』
『本当の私は、あなたが見てきた私だよ』
「……おう」
『私は、大好きな人と結婚したいから、長い間アイドルとして活動を続けるつもりはないの』
「私がアイドルを卒業する、その日まで。待っていてくれる?」
どうやら、虹花の気持ちは常若に告白をしてきた時から変化していないようだ。常若に別れを告げたのは、あくまでアイドルとしての夢を叶えるため。アイドルを卒業したら、常若と復縁する気があるなど。初めて知ったが――
(もう二度と、あいつの側にいる権利が得られねぇかもって。悩んでたのが嘘みてぇだな……)
最愛の彼女から待っていてほしいと言われて、待てないと返事するようならば。常若は本気で虹花を好きになったわけではないのだろう。常若は虹花を、今もなお狂おしいほど愛している。彼女が待っていて欲しいと願うならば。いくらでも待ってみせると決意した常若は、しっかりと頷き。虹花に向けて返事を返した。
「……待ってる。お前が、俺のことを忘れたとしても」
『忘れないよ。私は、絶対にあなたの元へ戻るから』
『……大好き。テレビの中にいる私を見て、泣かないでね』
その言葉を最後に、虹花は電話を切った。ツー、ツー、と。常若の携帯からは通話終了後の音声が流れ続けている。状況を、うまく把握できていなかった。
常若と虹花は現在、付き合っているわけではない。関係性で言えば元彼と元彼女だ。虹花がアイドルとして夢を叶えるのと引き換えに、2人は別れたはずなのだが……。虹花は常若と結婚したい、待っていてほしいと告げた。常若は、それを了承。男女交際をしていないにも関わらず、結婚の約束をしてしまったのだ。
「……今の電話、誰?」
「なぁ、七色は、今日。何の会見をするんだ」
「――実際、自分の目で見て確認すれば」
不思議な状況を受け止めきれないながら、このままぼーっとしているわけにはいかないと感じたのだろう。焔華へ問われた常若は我に返り、言われた通りテレビの電源をつけた。
『もうまもなく、Imitation Queenのデビューシングルセンター、七色虹花さんの謝罪会見が行われる模様です!』
『七色虹花さんは、今週発売の週刊文冬に記事が掲載される件で謝罪を行いたいと急遽報道各所に申し入れたそうですが……』
『正直、記事を拝見させて頂きましたが、謝罪会見を開くような内容ではないんですよね。裏付けも取れていませんし、憶測で語られた記事の謝罪会見を開くのは、返ってマイナスイメージを広げかねません』
『一体どのようなお話をされるのか。世間が注目して――あ!七色虹花さんが出てきました!』
夕方のニュース番組は、どこもかしこも大騒ぎになっている。今週発売の週刊文冬に掲載された記事の件で、急遽虹花が謝罪会見を開くと通達があったからだ。虹花は今や国民的アイドル。生放送で行われる謝罪会見の開始を、待ち望んでいるようだった。
『急にお集まり頂きまして、誠にありがとうございます。また、お騒がせしてしまい大変申し訳ございません。Imitation Queenの七色虹花です』
『本日は、週刊文冬に掲載される記事の件に関連し、私の口からファンの方に、お伝えしなければならないことがありこの会見を開きました。関係者の皆様に関しましては、質問等は一切受け付けておりません。私が一方的にファンの皆様へご報告することをご承知おきください』
『週刊文冬に掲載された記事の内容は事実です。私には、オーディション結果発表前、交際している彼氏がいました』
報道関係者から受ける山のようなフラッシュにも負けず。いつもの笑顔は封印し、やや緊張した面持ちの七色虹花は、常若との交際をカメラに向かってはっきりと肯定した。
もちろん、常若の名前は出していない。出せるわけがないだろう。常若は一般人なのだから。同じ高校の人間ならば、虹花が常若と交際していたことや、焔華と幼馴染であることは容易に調べられる。国民的アイドルと交際していた人間が誰なのか――誰か1人でも匿名掲示板やSNSに常若の名前や顔写真を晒せば、一発で有名人だ。迷惑はかけないと事前にメッセージは貰ったが、こればかりは虹花の感情だけではどうしようもできないだろう。犯人探しのようなことが始まらないことを祈るしかない。
「……謝罪会見なんてさせて。満足かよ」
「あたしがあいつにやれって言ったわけじゃないのに。満足なんてするわけ無いでしょ」
「今日、会見やることは知ってたんだろ」
「だったら?」
「……俺は、七色を信じる」
「はっ!信じたところで、裏切られるのに。どうして常若は、自分から苦しむような道を選ぶのよ。いつもみたいにストレス感じて眠りにつけば、傷つかずに済むのに……」
常若を鼻で笑う焔華は、後悔しているのだろうか。悔しそうに拳を握りしめ、じっとテレビ画面に映る虹花を睨みつけていた。
会場こそフラッシュの点滅と音が響く静かな空間ではあるが、SNSは阿鼻叫喚。地獄の中で凛と咲く一輪の花は、まっすぐにカメラを見つめて、常若への気持ちを吐露した。
『彼は、私がアイドルになりたいと言う思いを叶えたいと願う気持ちと同じくらい、大好きで、大切な存在でした。けれど……。アイドルは恋愛禁止です。交際している人など、存在してはいけません』
『容姿端麗、アイドルに必要な歌やダンスと言ったスキル。普通の女の子が男の人を好きになって、幸せになる権利を捨てる。それらすべてをクリアすることで、初めてアイドルになれるんです』
『私は、アイドルになるために。大好きな人とお別れしてきました』
『私の恋人は、私のことが大好きだと言ってくれるファンのみんなです。私がアイドル七色虹花である限り、私のことを好きだと言ってくださるファンの皆さんに、同じだけの愛を返したいです』
胸にチクリと、鈍い痛みが走るのは気の所為ではないだろう。
虹花に信じるなと言われた。この関係が常若ではなくファンに向けられたメッセージであるとわかっているのに。強烈なストレスを感じた常若は眠気と必死に戦っていた。
『アイドルになる前の七色虹花が、一人の男性を大好きだった過去は、変えられません。過去は変えられないけど、未来を変えることはできます。アイドル七色虹花の恋人は、私を好きだと言ってくださるファンのみなさんです。ですから、記事を読んだ上で、私の大好きだった方を詮索するのは、控えて頂きたい』
『みなさんが私のことを好きだと言ってくださる分だけ、私はみなさんに愛と夢、そして希望をお届けできるように。これからも精進して参ります。この度は大変申し訳ございませんでした。そして、七色虹花とImitation Queenの応援をよろしくお願い致します。以上です』
会見が終わるまでは。焔華の家から出るまで、意識を保たなければ。会見が終わった瞬間、よろよろと壁伝に焔華の家を出ようとした常若を、彼女が支える。その表情は先程まで不貞腐れていたとは思えぬほどに固い。
「だから言ったでしょ」
「……別に、ショックなんて受けてねぇし」
「今にも意識失いそうなくせによく言うわ。肩くらいは貸してあげる」
「失恋したわけじゃねぇから」
「今の会見見て、よく負け惜しみなんて言えるわね……」
焔華は呆れていたが、幼馴染のよしみで肩を貸すことくらいはしてくれるらしい。先日常若のことが好きだと告白してきた焔華のことだ。何か行動を起こすのではないかと身構えていたが、特に何も起こることはなく。常若を玄関まで送り届けると焔華は自宅に戻って行った。
(俺は七色を信じる)
靴を脱ぐのも面倒で、玄関先に座り込んだ常若は決意する。虹花が直接常若に伝えてきた言葉を信じようと。虹花がアイドルを卒業する、その日まで。常若は、虹花を待ち続けると――
*7
――それから4年後。
常若は高校を卒業し、大学には進学せずアルバイト先に就職した。
笹森は大学、焔華は芸能活動に寛容な大学へ進学し、虹花は大学には通わずImitation Queenのアイドルとして未だに活動を続けている。
週刊文冬に記事が掲載された後。ファンの反応は虹花を心配するばかりで、批判されることはほとんどなかった。むしろ、デビュー前の男女交際についてすっぱ抜き、虹花に謝罪会見を開かせる事態を引き起こし、あわや引退騒動に発展しかねない状況を生み出した週刊文冬に批判が集中。常若も本名や顔写真を晒されることなく、一般人として生活している。
この4年間、虹花が所属するアイドルグループには様々なことがあった。毎年平均3人、新メンバーを追加して成長し続けるImitation Queenは、七色虹花、神奈川焔華、坂巻桜散、大宮花恋の一期生4人。それから3期生までは3名ずつ新規メンバーが増え、現在は9人グループとして活動している。
虹花の週刊文冬に掲載されたスキャンダルを皮切りに、このアイドルグループは何かとお騒がせアイドルグループとして有名になった。
常若は詳しく炎上したアイドルの話題を読み漁る気にもならなかったが――1期生の1人が恋愛リアリティーショー出演し、現役アイドルなのに出演者とカップル成立。キスシーンを披露したことで大炎上。2期生のホストクラブ遊び、共演者と交際疑惑、ファンと繋がり行為と接待が発覚。スキャンダルをすっぱ抜かれていないアイドルは1期の焔華と桜散、そして入ったばかりの3期生だった。地獄以外の何者でもない。
所属するアイドルグループがスキャンダルに塗れどうしようもない状態でも、アイドル七色虹花の人気は落ちることなく鰻登り。特典会でのキャラリクエストは未だ継続中で、どんなファンの要望にも答える神対応とテレビで特集されたことから、現在はドラマの主演をこなす女優としても活躍している。虹花は歌やダンス、優れた容姿だけでやなく演技力もピカ一だったようだ。恐れ入る。
テレビ番組、雑誌、映画、ラジオ――七色虹花を見ない日はないほど仕事に明け暮れている彼女と常若は、あの謝罪会見以来一度も連絡を取り合っていなかった。何度か酔った勢いで連絡を取ってみようかと悩んだこともあるが、タガが外れ学生時代のように彼女と接すれば、仕事に支障が出るだろう。七色虹花はすでに、世界の七色虹花だ。アイドルを卒業するまで、常若は虹花と連絡を取り合うべきではない。
「ドラマの打ち上げ、ですか」
高校卒業当初は従業員として働いていた店を譲り受けた常若は、現在この店のマスターである。従業員の大学生1人を雇い、2人で店が回せる程度の客入りではあるが、前マスターの常連が芸能関係者であったこともあり、マスターが常若に代替わりしても、一般客よりも名の知れた芸能関係者がふらっと立ち寄る秘密の隠れ家として利用されていた。
『急に二次会やることになっちゃってさー!今から、8人!貸し切れる?』
「まぁ、別に。いいですけど……。食事は簡単なものしか出せませんよ」
『なんでもいい!酒さえあればなんでも!さんきゅー!じゃ、これから向かう!』
ふらっと店に顔を出す筆頭、Imitation Queenのマネージャーから連絡を受けた常若は、閉店時間を終えてさあ帰ろうと準備していたバイトに帰宅を促し、客を迎え入れる準備を始めた。
現在の時刻は23時30分。大抵終電ぎりぎりの時間に帰宅する常若は、客の要望により店で寝泊まりすることもあれば、閉店時間になっても朝まで店を開け続ける。今日は者のパターンになりそうだ。朝まで店を開け続ける――つまり、徹夜だ。
(めんどくせぇ……)
Imitation Queenのマネージャーである男が来店すれば大なり小なり虹花の話を聞けるので悪くはない。めんどくさがりながらも来店準備を済ませた常若は、彼が連れてきた客を招き入れた。
「私、ずっと来てみたかったんです!知る人ぞ知る会員制のバー!」
「……っ!?」
客の中に七色虹花の姿を捉えた常若は、緊張でどうにかなりそうだった。客と従業員。虹花を見捉えただけで倒れでもしたら、大きな騒ぎになる。残業に付き合わせるわけにはいかないとアルバイトを帰宅させたのが裏目に出た。
「若、とりあえずビールと烏龍茶!」
「若?」
「マスター、2代目なんだ。で、常若って名前だから。若いのと名前を掛けて若」
「なるほど……」
虹花はマネージャーの言葉に感心しているが、常若に声を掛けてくることはなかった。完全に初対面の反応だ。周りに芸能関係者がいるし、一緒にテーブルを囲む客がいくら気心の触れた関係でも常若に話しかけてくるわけないだろう。
(……気を張ってねぇと、ぶっ倒れる)
常若はかなり早い段階で無理だと悟った。夜遅くまで同年代の男性と隣り合わせに座り、楽しそうな虹花の姿を眺め続けるなど。今すぐ虹花の隣は俺のものだと叫んで、肩を抱き寄せたい。
一瞬でも気を緩めれば、実際行動してしまいそうな極限状態の中。常若は最低限の料理とドリンクを運ぶとカウンター裏にしゃがみ込み、膝を抱えてしゃがみ込む。
(目の前に七色が居んのに……触れられないとか、拷問だろ……)
高校時代に戻ったかのような。虹花に対する執着心と狂おしいほどの愛情に焦がれる常若は、ストレスに耐えきれず意識を手放した。
「もしもーし。大丈夫、ですか?」
「……!?」
至近距離で虹花の声が聞こえる。パチリと目を覚ました常若は、虹花に起こされた。
カウンター裏でしゃがみ込んで居眠りしていたことを思い出し、慌てて腰を浮かせて虹花と距離を取ろうとするが、虹花は素早い動きで中腰になった常若の胸ぐらを掴み、自らの元へ引き寄せる。
「な、」
「私、もうすぐ卒業するの。メッセージ、まだ。連絡先。消してないよね?」
「お、う……」
「よかった。連絡するから、絶対見てね」
「会計、お願いします」
虹花はとびきりの笑顔を見せると、胸ぐらを掴む手を離し従業員と客の関係に戻った。虹花は演技が上手い。取り繕うことなどお手の物だろうが、常若は緊張でどうにかなりそうだった。
(やべぇ、倒れそ……)
先程まで寝ていた人間が考えるようなことではない。常若は必死に意識を保ちながら、無事に会計を済ませて虹花と別れた。
*8
『昼間って会える?』
虹花からのメッセージは単刀直入。挨拶もなく、出会い系のような誘い文句が送られてきた。
常若は本当にメッセージが送信されてきたことに驚きながらもすぐさま返事をする。
『店の営業時間外なら、いつでも』
『徹夜になっちゃうよね』
『気にすんな』
『じゃあ……』
虹花が指定した日付は店の定休日だった。予約が入れば休みなど関係なく店を開ける常若も、この日だけは絶対に休みを取ると決め、当日を迎える。
「空木くん、いらっしゃい。さっそくだけど、始めるね」
常若は当日、虹花と合流する前に笹森邸へやってきた。虹花の親友であり、笹森の彼女だった女性と結婚した笹森は現在ひとつ屋根の下で暮らしている。平日の真っ昼間、笹森は仕事で不在だが、不倫をしに来た訳では無い。4年前の文化祭で常若のメイクを担当したのが笹森の妻であったから会いに来たのだ。
現役アイドルが男と二人きりで会うのはマズイ。常若の女装姿は週刊誌報道によりマスコミにバレているので、女装したところで大したカモフラージュにならないが……。男として会うより、女装した方がファンにSNSで盗撮されて晒された時などに虹花へ迷惑を掛けずに済むだろう。
「はい。要望通り、ちょっと目つきの悪いギャル風にしてみたよ」
「……やべぇな……」
流石はプロのメイクアップアーティストだ。4年前より更に腕を上げている。茶髪のウィッグ、明るい色のアイシャドウ、つけまつげを重ね貼りし、デコレーションされたど派手なつけ付をつけられた常若は、誰がどう見てもややガタイのいいギャルだった。
つけまつげが重ね貼りされているせいで、瞼が重い。
メイクの落とし方などよく知らない常若は、虹花と別れた後再び笹森邸にやってくる約束をし、笹森の妻が用意した服に着替えて待ち合わせ場所へ向かった。
「え、すごーい!久しぶり!」
虹花は帽子を深く被り、これから近所のコンビニに買い物へ行きますと言わんばかりのTシャツとスラックス姿で現れ、常若の姿を見て感嘆の声を上げた。
デートだと期待した常若も悪いかもしれないが、もっとまともな服を着て欲しい。事前にアイドルを卒業するまで待っていてほしいと伝えられていなければ、脈なしと判断して他の女に目を向けるレベルだ。気合を入れた服を着ると、すぐに芸能人とバレてしまうオーラがある虹花には、難しいのかもしれないが……。
「私の為に、気合い入れてくれたの!?」
「まぁな」
「嬉しい!これで堂々と、腕が組めるね」
「あ、おい……」
「だって女の子同士だもーん」
常若は成人男性の平均身長に比べると、背があまり伸びなかった。男性にとって背が低いことはコンプレックスになるものだが、常若は気にしていない。むしろ中性的な顔たちで生まれてきたことを神や両親に感謝していた。
常若が無理なく女装できる見た目であるからこそ、現役アイドルとこうして腕を絡め、仲良く並んで歩けるのだから。
「さっすがさららん!現役メイクアップアーティストの腕は侮れないね!」
「お、おう……」
「カラオケでいい?」
「……いいのかよ」
「へ?大丈夫!いつも通ってたカラオケ屋さん、実は知り合いが経営しているお店なんだ。私が使う部屋は防犯カメラを切ってるし、秘密のお話にはもってこい!」
それはそれで問題があるだろう。
常若の隣を歩く女性が七色虹花であると気づいたファンが乗り込んできたら。防犯カメラの電源が切られていれば店側は異常を感知できない。常若が虹花を守りながら戦う羽目になる。ストレスを感じると強い眠気を感じる常若には荷が重すぎる。トラブルらしいトラブルが起きませんようにと願いながら、交際中毎週のように通ったカラオケに向かった。
*9
「もう、びっくりしたよ!うちのマネージャーと交流があるなんて聞いてなかったから!」
カラオケボックスに入室した虹花は、数日前常若の店で再会した際の話を切り出した。常若だって虹花が店にやってくることを想定していなかったのだ。虹花が驚くのも無理はない。
「同じグループのメンバーは代わる代わる愚痴言いに来るけど」
「焔華ちゃんとか?」
「あいつはあんまり来ねぇよ。ファンに疑われるようなことはしねぇだろ」
「焔華ちゃん、真面目だから」
「坂巻と大宮……だったか……?あいつらは毎週のように顔出してる」
「さっちーとレンちゃん……。あの二人も案外仲いいからなぁ……」
「あいつら、いつも別々に来るぞ」
「……常若くん、まだアイドルに全然興味ない?」
「ねぇな」
「そっか……変わってないね」
常若はあの2人が同期であることは知っているが、普段2人がアイドルとしてどのようなアイドル活動をしているかなど覚える気にもならない。虹花の問いかけに対してバッサリと吐き捨てれば、彼女は感慨深そうな顔で黙りこくる。
(俺だって、女装なんかせずにありのままの自分で七色に会いたかった……)
中身に変化がないことを指摘された常若は、姿もあまり変化がないことを虹花に知ってほしかったが、流石に二度目のスキャンダルを虹花も警戒しているのだろう。常若になぜ女装してきたのか聞くことはなく、返って申し訳無さそうにしていた。
「……なんか、ごめんね。私のせいで、したくないことさせちゃって……」
「すっぱ抜かれて顔写真付きで住所晒されるよりマシだろ。店潰されたら食って行けねぇし」
「そう、だよね……。常若くんは今、バーの店長さんだもん。週刊文冬なんかに掲載されたら、お店を荒らされちゃうよ」
「この女装だって完璧じゃねぇ。お前と別れた後に着けられてたら、俺が男だってバレる」
「……着いてきてる記者さん、いるかなぁ?」
「週刊誌記者ってスクープ取るためならなんでもやるんだろ。空のゴミ箱に潜んだりとか」
「そ、それはちょっと……よくわかんないかな……?ふふ。常若くん、面白いね」
常若は虹花に別れを切り出された時、けじめをつける為に名字で呼ぶようになった。虹花もそうだったはずなのだが、気づけば名前呼びに戻っている。常若がいつまでも待つと虹花に告げたからだろうか。虹花にとって常若は、結婚を約束した相手だと……自惚れてもいいのか判断に困れば、ひとしきり笑った虹花は緊張が解れたのだろう。常若に会いたいと願った理由について話し出した。
「……常若くんのお店で言ったこと。覚えてる?」
「……おう」
「よかった。あのね、もうすぐ発表になる予定だけど……。アイドル、卒業するの」
「やりきったのかよ」
「うん。もう、いいかなって。最近目が回るほど忙しくて。一生遊んで暮らせるくらい稼げたし、最近はもう、仕事入れないでくれってプロデューサーさんにお願いしちゃった」
「ドラマの主演引き受けたのがターニングポイントだったかも。あれを引き受けてなければ、もっと早くにやめられたけど……。お金に目が眩んじゃった。待たせてごめんね」
「……いや。別に……。七色の人生だろ。好きにすればいい」
「冷たいなぁ。もう、私には興味なくなった?」
興味などなければ、女装をしてまでこの場に姿を見せてなどいない。適当な理由をつけて断ればいいだけだ。そっけない態度を見せるのは、秘めていた感情を表に出せば歯止めが掛からなくなることを恐れてのことだった。
「……アホか」
「ねぇ、聞かせて。常若くん。4年間、ずっと……。私のこと、変わらず思ってくれてた?」
「……当たり前だろ。考えなかった日なんざねぇよ」
「本当!?嬉しい。大好きな人に、24時間365日ずっと私のことを考えたって告白されるのってこんなに嬉しいんだ……」
「……言われ慣れてるくせに」
「んん?常若くん、ごめんね。聞こえなかった。なぁに?教えて!」
虹花は何度でも聞きたいと子犬のように常若を見つめては繰り返し強請っていたが、常若の意思は硬かった。適当にはぐらかしながら、矛盾している虹花の言動について疑問を口にする。
「……いいのかよ。浮気なんかして」
「あ。根に持ってるでしょ?私のこと。信じてって言ったのに」
「根に持ってはねぇよ」
「絶対嘘だ。ふふ。だからね、今はまだ、私からは言えないの。卒業公演の後――私の気持ち、聞いてほしい」
「……おう」
常若が返事を返せば、虹花はまるで花が綻ぶような。自愛に満ちた笑顔を向けた。その、アイドル七色虹花としては絶対に浮かべることのない笑顔が、常若は好きだ。その笑顔を自分のものだけにしたいと、いつだって常若は。その欲望が表に出てこないよう抑え込んでいるのだから。
(七色がアイドルを卒業すれば……俺だけの、ものになる。最高かよ)
常若は内心ガッツポーズしていた。
この欲望は、虹花と復縁すれば抑える必要などなく。全面に押し出せる。好きで好きでたまらない常若の愛を表に出せば、虹花が引いてしまうのではと考えるほど。常若は虹花を愛しているのだから。きっと、常若のことが好きな虹花も、「こんなに愛されていた」のだと喜んでくれるだろう。
「今度は、真正面から堂々と会いたいな。ありのままの常若くんに、ギュって抱きしめて貰いたい」
「……おう」
「俺もしたいって、言わなくていいの?」
「言わねぇよ。一線引いてる意味ねぇだろ」
「常若くん、真面目だね」
「この程度の欲望抑えきれねぇとか、どんだけ不真面目なんだよ……」
常若は狂おしいほど触れたくて堪らなかったが、本人へ口にするのは憚れて平気なふりをした。そうやって見栄を張るから、笹森にアホ呼ばわりされるのだろう。
「……今日、わざわざリスク犯してまで会う必要なかったろ」
「だって。4年も会っていなかったから……。久しぶりに常若くんの顔見たら、もっとお話したくなったんだもん……」
「耐え相のねぇやつ」
「――――だなぁ……」
常若がニカリと笑えば、虹花はポツリと呟いた。その言葉は両隣の音漏れが酷く、常若にはうまく聞き取れない。
「……悪ぃ、聞き取れなかった」
「うんん、何でもない」
「ほんとかよ……」
「ほんとだってば!カラオケ、せっかくだから何か歌う?」
「俺はいい。歌ったら音漏れでバレるだろ」
「あ、そっか。常若くん本当に女の子みたいだから……つい……」
「嬉しくねぇ。持ち曲入れてやったから、歌えよ」
「ええ?それこそバレちゃう」
「両隣の音痴に七色の美声、聞かせてやれ」
「ふふ、美声だって。大好きな人に褒められたら、虹花ちゃんも本気を出さずにはいられないかなぁ」
虹花は宣言通り、常若が選択した曲を歌い出す。デビュー曲のイミテーションフラワーは一発で虹花だとバレるので、あえて地上波では一切披露されることのないアルバム曲を入れたのだが、やはりわかる人にはすぐにわかるのだろう。一曲終わる頃には隣の音漏れが止まっており、廊下の様子を覗き見れる窓には人が集まっていた。
曲の終わりと同時に廊下で音漏れを聞いていた観客が拍手したので、虹花はペコリとお辞儀をする。虹花が連続して歌う様子もない為、ドリンクバーを取りに来たであろう観客たちは大きな声で虹花の歌について感想を言い合いながら去って行った。
「虹花ちゃんに声そっくりだったね!」
「本人だったらヤバすぎ!地元このあたりだって言ってたもん。ワンチャンあるかもよ!」
「ええ……?そんなわけないよ。そっくりさんだよ。カラオケ番組のものまね出場者さんの練習とか……」
「さすが、有名人だな」
「部屋の中まで飛び込んできたらどうしようかと思っちゃった」
「流石にそれはねぇだろ」
「落ち着いたら帰ろう」
男性ファンであれば見境なく、もあり得るが。女子高生の2人組が数組ならばわーきゃーと騒ぎ立てるだけで実力行使はしないだろう。常若と虹花は頷き合い、廊下に誰もいなくなったことを確認してからカラオケボックスを後にした。
*10
店の開店準備に明け暮れていた常若は、開店前ということもあり音を出したままのテレビから聞き覚えのあるアイドルグループの名前が流れてきてテレビを凝視した。
Imitation Queenのアイドル、とニュース速報が入る。
その単語を聞く度に、常若は虹花のことではないかと身構えては、他のメンバーであると知ってホッとしていた。今回もホッとする話題ではあったのだが、常若は虹花にも関係する重要なスキャンダルが露呈するのではないかと警戒していた。近々卒業する件と、常若と2人きりでカラオケに行った件がバレたのか。
後者であれば、人気アイドルグループのメンバーが一般女性と密会していただけで全国ニュースになるなど世も末だと笑い飛ばせるのだが……。常若は内容が語られるまで、じっと速報を解説するニュース番組のコメンテーターを眺めずにはいられなかった。
『Imitation Queenのメンバー、坂巻桜散さんが、同アイドルグループのプロデューサーと熱愛発覚。プロデューサーは妻子持ち。所属事務所は事実を否認しているようですが……』
『ビジネスホテルとは言え、二人きりで宿泊したのなら言い訳は利かないでしょうね』
『メンバーはご存知なのでしょうか?』
『知っていて隠していたのならばファンに対する裏切り以外の何者でもありませんが……。メンバーの1人、1期生の神奈川焔華さんは竹を割ったような性格です。報道前から知っていれば、スキャンダルになるようなことをやめろと騒ぎになるはずですよね』
『たしかに。メンバーの1人、神奈川焔華さんは2期生がホストクラブに通っていると発覚した際、怒鳴りつけていたと週刊誌で報道されていますから……』
常若の心配は取越苦労であったらしい。ニュース速報で報道されたのは虹花と同じ初期メンバー。1期生の坂巻桜散だった。この報道を一緒に見ていたバイトの大学生は、「惚れた腫れたをニュース速報で伝える意味がどこにあるのか」と疑問を抱いていたが、常若も同意見だ。アイドルが不倫していようがどうでもいい。
ただ、今回の件はグループをプロデュースしているプロデューサーと所属アイドルの不倫報道だ。アイドルが卒業するにしろ、プロデューサーがプロデューサーをやめるにしろ。解散問題に発展しかねない重大なスキャンダルだ。
SNSでは早くも虹花と、最近加入が発表されたばかりの3期生2人を心配する声が相次いだ。その他のメンバーはほぼ全員スキャンダルにまみれたアイドルであるため、虹花や3期生に比べれば圧倒的に心配の声は少ない。焔華に関しては純粋にファンが少ないのか、この騒動に関してはほぼ黙秘を貫いている。良く言えば焔華のファンは団結力が強いのだろう。
大事になれば、本当に解散してもおかしくない。だからこそ反応せず生還をしているのかもしれないが――Imitation Queenのファンはその7割が虹花のファンだ。ライブや特典会に訪れたことのないファンたちまで数珠つなぎのように大騒ぎするので、1時間も経たぬうちに大騒動となってしまった。
『大丈夫か』
『心配ありがとう。私は大丈夫。ただ、焔華ちゃんが怒り狂っていて……。そっちに行くかも』
『わかった』
連絡を取るべきではないとわかっているのに。常若は自発的に虹花へ連絡を取った。大丈夫だと返事が来て安心したが、焔華が来るとは。どんな状況だと常若が身構えたのは数時間前。
「やってやれっかアイドルなんざ!!ふざけんなこの○○○○野郎!」
焔華はプロデューサーへの怒りを抑えきれないようで、口汚く罵りながら常若の店に虹花を伴ってやってきた。虹花と焔華が二人揃って仲良く常若の店に顔を出すなど、スキャンダルがなければ絶対にありえない。
カウンターに腰を下ろした焔華は常若にビールをジョッキで注文し、ごくごくと勢いよく一気飲みし始めた。焔華の姿を販売会社が見ていれば、間違いなくCMのイメージキャラクターとして採用するほど、いい飲みっぷりだった。
「もう1杯!」
「その量一気に2杯は……死ぬぞ」
「うっさい!客が寄越しなさいって言ってんの!さっさと出しなさいよ!」
「クレーマー……」
「なんか言った!?」
「……七色。いい飲みっぷりだったから。撮影して販売元へ送りつけるようマネージャーに言ってやれ」
「うん。わかった!じゃあ、焔華ちゃんのいい飲みっぷりがうまく撮影できるように頑張るね!」
「撮影なんかできるわけ?」
「もちろん。何やらせてもそつなくこなすのが七色虹花だよ!さぁ、ぐいっと一発!どーぞ!」
虹花が口を挟んできたからだろう。
促されると虹花の思い通りにビールを飲み干したくないのか、先程の怒りは何処へやら。落ち着きを取り戻した焔華はカウンターテーブルの上でカツカツと苛立たしげに爪を弾きながら愚痴を溢した。
「担当プロデューサーとメンバーの1人が不倫してるなんて報道されたら、あたし達は終わりよ。これから自分たちをどうやって売り込んでいけばいいのかすらよくわかんない状態で放り出されるとかマジ意味わかんない。あたしの5年間返せ!」
「焔華ちゃん落ち着いて。プロデューサーなんていなくても、マネージャーがいるし……」
「役立たずが残ったって意味ないのよ!まだマネージャーと不倫してた方がマシだったのに……!」
焔華の中でよく店に訪れるマネージャーは無能の烙印を押されているようだ。マネージャーが常若に愚痴っている話を聞く限りでは、アイドル達にいい印象を抱いてないため、お互い様なのかもしれない。
プロデューサーとメンバーが不倫した件については今日発表されたばかりで、後日改めて今後の方針を話し合うことになっているようだ。焔華はオールする気満々で、虹花が飲みすぎないようにと声をかけている。
「ふん。あんたはいいわよね。何もしなくたって勝手に仕事が転がり込んでくるんだから」
「そんなことないよ。私だってプロデューサーがいなくなったら、困ることはある。卒業公演の準備とか……」
「は?」
虹花から笑顔が消え、焔華はカツカツとテーブルを爪で叩かなくなった。常若には卒業の件を打ち明けているが、どうやら焔華には話していないようだ。焔華が怒り狂う前に、常若からも気を逸らすような話をするべきだろう。
「焔華……」
「あんた、辞めんの?」
焔華は虹花に怒鳴りつけることはなかった。本気で驚いているらしく、静かな声で虹花に問いかける。焔華から問い返された虹花は、照れくさそうに肯定した。
「……うん。ごめんね、焔華ちゃん。私、常若くんのことが好きだから――アイドル、卒業するんだ」
「……結婚、するわけ」
「私はそのつもりだよ」
「何言ってんの?あんたみたいな……嘘で塗り固められた悪魔女が……。常若と一緒になれるわけないじゃない」
「私と焔華ちゃん。どっちが現実。見れていないんだろうね」
「は?喧嘩売ってんの?」
「焔華ちゃんはまだ、常若くんのこと、好き?」
虹花は一滴もアルコールを接種していないはずだが、突然カウンターに身を乗り出して常若に抱きつき自分のものだと見せつける。常若は修羅場の予感に眉を潜めていた。
(何が目的だ……?)
俺のいない所でやってくれと言わずにはいられない、眉を潜める常若。ニコニコと笑顔で焔華を煽る虹花、彼女を睨みつける焔華。長い沈黙の後、焔華は2杯目のビールを一気飲みすると鼻で笑い飛ばした。
「は……っ!振られても好きで居続けるほど、女々しくないわ」
「……そっか。よかった。常若くんの隣は、私と焔華ちゃんしかありえないから――焔華ちゃんが降りてくれて嬉しい」
「……性悪女が……。常若の前で話すようなもんじゃないでしょ」
「同じ話2回もするのは二度手間だよね。一緒に聞いて貰った方がいいと思って。駄目だった?」
「……常若。あんたまだ、話してないの?」
強いストレスを感じると眠気に襲われることを伝えたか焔華に確認された常若は、うつらうつらと何度か意識を飛ばしそうになりながらも、小さく頷く。修羅場の峠は越したようで、常若の眠気もそのうちどこかに消えていくだろう。焔華がヒートアップせず、虹花が大人しくしていてくれたらの話だが。
「……結婚する気ならいつまでもだんまり決め込むわけにはいかないでしょーが。ちゃんと話しなさいよ。この女は歩く地雷原。いつあんたのストレスを引き出すかわかんないんだから」
「私、常若くんにストレスを与える言動なんてしないよ?」
「今まさに、ストレス与えて常若が眠そうにしてんの。見てわかんないから性悪だって言ってんのよ。自分だけいい子ちゃんに見せるような言動すんのやめてくれる?ほんとうざい」
「……常若くん、ストレスを感じるとお眠になるの……?」
「お眠って」
言った傍からいい顔するなと焔華が2杯目の空になったグラスを見せびらかし、3杯目を強請る。虹花の腕から抜け出た常若は、眠い目を擦りながら焔華が空にしたビールジョッキを眠気と共に洗い流すと、烏龍茶を注いで焔華の前にビールジョッキを置いた。
「病気ではねぇけど。体質みたいなもんだ。あんま大っぴらに話すようなことじゃねぇから、黙ってた」
「あ、うん。誰にだって、秘密はあるよね……。話してくれて、ありがとう」
「礼を言うような話じゃねぇだろ」
「ぶっ。ちょ、これ。ビールじゃないでしょ!?」
虹花は出会ってからずっと隠し事をしていたことについて常若を責めなかった。焔華と虹花が逆の立場ならば、今頃五体満足で居られなかったかもしれない。虹花の優しさに、胸が暖かくなる。焔華がビールを寄越せと騒いでいる声を無視しながら、常若は虹花と頷き合う。
「常若くん。卒業公演、見に来てくれる?」
「笹森嫁の都合がつけばな」
「そしたらチケット、3枚用意するよ!最後だもん。絶対、常若くんに見てほしい!」
「ちょっと常若!聞いてんの!?」
常若は週刊誌に突撃取材を受けた影響で、週刊誌記者に顔が割れている。常若がのこのこと素のままで卒業公演を見ようものなら、週刊誌が即刻常若が来ていたことを報道しかねない。いくら引退するとはいえ、虹花がファンにとって伝説のアイドルであることは生涯変わることのない事実だ。分はわきまえるべきだろう。
「おう……。日程決まったら笹森夫妻に聞いとく」
「うん!」
「とーこーわーか!仕事しろ!!!」
客の要望に答えずイチャつくなと叫ぶ焔華の声をBGMに。虹花と常若は一時の幸せを噛み締めたのだった。
*11
『大切なお知らせ』
数日後、Imitation Queenの公式サイトとSNSで大切なお知らせと題される文章を発表すると、ものの数分で公式ホームページはダウン。SNSも接続しづらくなり、速報でニュース番組がインターネットに接続できないファンに向けて文章の内容を公表するほどの大騒ぎになった。
『Imitation Queenプロデューサー退任・坂巻桜散脱退・七色虹花、大宮花恋卒業・神奈川焔華プロデューサー兼任・メンバー欠員のため4期生緊急募集のお知らせ』
信じられないほどタイトルが長く情報量の多い文章を目にしたファンと報道関係者は絶句していた。
盆と正月が一緒に来たような情報量の多さに、常若も部外者ながらに酷い公表の仕方だと眉を顰める。
前者の2人がクビになるのは覚悟の上だったが、焔華以外の1期生全員が同時に卒業するなど夢にも思わなかったのだろう。Imitation Queenの1番人気は虹花であり、その他メンバーはパッとしない。
下が成長していない状況で上が卒業すればどうなるかなど火を見るよりも明らかな状態で1期生が焔華を残して卒業するなど無責任だ。この状況で穴埋めの4期生をオーディションで選出するなどありえないとファンは怒り狂っていた。
『日頃よりImitation Queenを応援頂きありがとうございます。先日の週刊誌報道により、重大な規則違反が判明した為、本日付で担当プロデューサー退任・坂巻桜散の脱退をお知らせ致します』
『本人の強い希望により、後任のプロデューサーにはメンバーの神奈川焔華がアイドルと兼任しながら勤めて参ります。ご声援頂けましたら幸いです。また、七色虹花・大宮花恋は結成5周年を迎える来年4月5日に卒業致します』
『これに伴い、メンバー欠員の穴埋めとして4期生を募集致します。応募は本日より1ヶ月。卒業公演終了後2ヶ月以内に合格者を発表、新メンバーを迎え、メンバー全員による新生Imitation Queenのお披露目公演を行います。これからもImitation Queenアイドル一同の応援をよろしくお願い致しまず』
公表された文章も酷かった。
盆と正月が一緒に来たようなタイトルのままずらずらと長文を書き記している。脱退組の謝罪がなく、卒業メンバーのコメントすら掲載されているいない件に対しても相当突っ込まれていたが、何よりもタイトル通りの順番になっていない。
わかりやすいようにそれぞれの発表を区切って文章をまとめた報道関係者やファンの発信がなければ、理解するにも時間が掛かるよう文章であった。
発表内容と発表方法の双方で叩かれることにより、日本中が一時的にImitation Queenの話題一色で染まってしまうほど。紙切れ2枚の文章は恐ろしいほどの破壊力を秘めていた。
(すげぇ、阿鼻叫喚……)
大宮花恋の卒業に関しては、恋愛リアリティーショーの炎上が絡んでいるため、ファンの間でも覚悟はできていたらしい。虹花のファンはコア層からライトな層まで掃いて捨てるほど存在しているため、「ついにこの時が来たか」と怨嗟の声がうず高く積まれ、大変なことになっていた。
『いつかは引退すると思っていたけど今だとは聞いてない』
『虹ちゃんならソロで行けるよ』
『七色虹花世界デビューってマ?』
『卒業早すぎるよ……一回も会えてないのに……!』
『ライブチケットとか無理だろこれ』
ファンの恋人を公言する虹花が会いたがっているファンを見捨てて卒業するなどありえない。毎日特典会をやっても希望者全員に会うは難しいほど、手を挙げるファンは多いのだ。500万人規模のファンクラブ加入者が約10万人収容可能なアリーナのチケットを求めるのだから、希望者全員が卒業公演を肉眼で焼き付けるのは難しい。
卒業公演を観覧するファンは、宝くじに当選するようなものだろう。
「うわぁあ……。ううぅうう……!」
「飲み過ぎですよ」
「サーバーが炎上してる…………抽選だから慌てるなって一文が見えねぇ盲目のファンが事務所にクレームの電話をおおおお……!」
「俺に愚痴ったってどうしようもなんねぇ奴じゃないですか」
Imitation Queenの衝撃発表から約1ヶ月後。マネージャーが常若の店にやってきた。1ヶ月経っても混乱は収まっていない所か悪化しているので、マネージャーは泣きが入っている。
「虹花以外のメンバー売り込み……マネジメント……業界人への挨拶回りにファンからのクレーム対応……4期生選定……!俺が5人いても回らねぇー!」
「なんつーか……事務員とかマネージャー、雇った方がいいですよ……」
回らないならこんな所で飲んだくれている場合でないはずだが。仕事が落ち着いたからこそこうして飲みに来てるのだろう。
公式ファンクラブにアクセスが集中し、サーバーダウン。抽選期間は1ヶ月あるものの、抽選参加できないと焦るファンから受けるクレーム対応などは本来彼の仕事ではない。
「ファンクラブ加入者は全員参加を望むんじゃないですか。応募ページなんて作らず勝手に会員登録時のメールアドレス宛に当落を送り付ければいいだけの話ですよね」
「会員登録時の情報が変更されてる奴らの対応に困るだろ!?」
「期日までに変更手続きをしてもらうように誘導すれば、サーバーダウンするようなことはないと思いますけど」
「……はっ!」
ガツン、とカウンターを両手で叩いたマネージャーが立ち上がり胸ポケットから携帯を取り出す。言われるまで気づかなかったのならば、激務で相当頭が回っていないのだろう。常若のアドバイスにより、応募ページからの抽選は撤回され、ファンクラブ加入者全員に対する抽選に当選したものだけが卒業公演に参加できるよう変更された。
*12
七色虹花卒業公演のチケットはファンクラブ会員限定の抽選販売のみとなり、即日完売した――はずだったのだが。金に目が眩んだファンがチケット売買をはじめた為、大きな騒ぎとなってしまった。販売希望価格は定価9800円のチケットに対して1枚150万。公式は生放送で配信すること、転売価格では購入しないで欲しいと促したが、その150万のチケットはどうも売買成立してしまったらしい。それからは数百万単位の出品が乱立。無法地帯となる。
大金を叩いて購入したのに偽物のチケットが送られてきた、そもそもチケットが送られてこないと所属事務所にクレームが来たようで、当日顔写真付きの身分証明証のチェックをクリアしなければ入場不可になると公式で案内された。
「おい、常若。ガチで本確やってるらしいぜ」
「ホンカク……?」
「あー、お前ライブ行かねぇから馴染みねぇか。本人確認の略だよ。SNSでファンが拡散希望してる。じっくり顔見て、ちょっとでも顔が違うといろいろ突っ込まれるらしいぜ」
「……身バレ防止の為に女装する必要ないなら、私はタダで卒業公演のチケット手に入れたことになるんだけどー……いいのかなぁ?」
卒業公演当日。ギリギリまで会場には行かないようにしようと決めていた常若は、笹森邸で笹森夫妻とだらだら雑談をしていた。当初の予定では笹森の妻にメイクを施して貰い、女装をしてから現地に向かうはずだったが。虹花と焔華から事前に連絡を貰っている為、常若はすでに覚悟を決めていた。
『今回は変装禁止。転売対策でかなり厳しい本人確認をするみたい。関係者チケットを取得する時、皆の名前と住所を伝えてあるから』
『あんた、卒業公演来るんだって?余計な小細工しないでいいから素の状態で顔出しなさい。フリじゃないわよ!』
笹森の妻は常若にメイクを施すためだけに呼ばれ、その報酬として関係者席を用意して貰う約束だったらしい。恐縮しているが、今手元にチケットがあるのだから、空席にしてはもったいないだろう。笹森が遠慮する妻をその気にさせ、常若を伴って会場を目指す。
「なんつーかさ……。その格好、逆に浮くぞ」
「くどい……」
「七色の卒業公演だってのにグッズの1つも持ってねぇファンとか睨まれるって!」
「でも、関係者席だよー?普通は親御さんとかCDの制作会社さん、スポンサーさんとかが見に来るから……。そんなにガッツリファンって格好はしていないよね……?」
「関係者席舐めんなよ。ガッツリ装備して来なかったこと後悔しても知らねーかんな!」
笹森夫妻は事前物販で購入した記念Tシャツに身を包み、ライブで使用するらしい14色に光るペンライトを手にしていた。ライブに来ること自体が初めての常若は着の身着のままでライブに訪れている。ライブのマナー等は、通い慣れている笹森夫妻に任せればいいスタンスだ。特別なことなどする気はなかった。
「空木くん、ほんとに何も持ってなかったからー……。予備のペンライト買っておいてよかったねぇー」
「言ったろ。めんどくさがりな常若が事前物販なんざ利用するわけねぇって。安心しろよ、常若。ちゃんとオレが常若の分も買っておいてやったからな!」
「おー……」
どうやら笹森は気を使って笹森の分までペンライトを購入していたらしい。常若は状況が飲み込めないまま礼をいい、卒業公演が行われるライブ会場に降り立った。
「人混みやべぇ……」
「10万人規模のライブだかんな。チケット持ってなくても、音漏れ狙いのファンが山程いる」
「あの辺りに待機してるのが音漏れ組だよね~。私もよくやる~。左側が一般入場列、後ろが物販列。関係者入場口は……裏口の方?」
「人気のない所であるのは確かだな。常若、耳栓持ってきたか?」
「おー……」
「あればいいや。流石に開演30分前だと何も残ってねぇな。ランダムグッズだけでこの人数並んでるとか、やっぱやべぇわ」
「並び直し可だし、メモリアルグッズだからね~。事前物販はライブに必要なグッズばっかだったし~。コンプ勢ならさっさと中身確認してトレードしたいもん。ライブに参加できない組はそりゃ躍起になるでしょ~」
「まーな。普通のファンならそーだよな。全く興味を示さねぇ常若が異常なだけだ」
常若は笹森に貶されて眉を潜めるが、虹花のファンにしてみれば常若の反応が異常なのは間違いない。
ファンクラブ加入者全員を対象とした抽選では、虹花の推し以外の人間に当たり転売が横行するかもしれないと指摘があったからか、会員情報欄に設定される推しメンに虹花を設定したファンの中から抽選をしたようだ。賛否が上がったものの、当落の結果が覆ることなくこの日を迎えている。この場に集まっているファンはほぼ全員が虹花の卒業を惜しんでいる、Imitation Queenのファンだった。
グッズに興味を示さず、アイドル七色虹花にすらも興味がないと知られたら、彼女を大好きなファンに席を譲れと怒鳴られそうだ。
「身分確認証のご提示頂きまして誠にありがとうございます。どうぞ、お進みください」
「やべー、日本最大規模のホールが満席だぜ!?」
「さすがわたしの親友。すごいねぇ~」
「……眠い……」
山のような人間の頭を見た常若は目を擦りながらうとうとし始める。笹森にはアリーナのど真ん中だぞと叱咤されたが、どれほどアリーナのど真ん中が素晴らしいのかピンと来ていない常若は卒業公演が始まるまで興奮する笹森夫妻の会話をぼんやりと見つめていた。
「常若、起きろー!そろそろ始まんぞ!ほら、ペンライト持て!ここがスイッチ。左右のボタンで色変え!」
「虹花ちゃんのイメージカラーは虹色だよ。あとは曲に合わせて周りと同じ色に振ればいいから~」
ガヤガヤとうるさい会場の音を少しでも最小限に留めるため、耳栓を装着。笹森から渡されたペンライトを右手に持ち、電源を入れると左右のボタンを押してポチポチと色を変更していく。
ボタンを押すごとに様々な色に変化するペンライトを物珍しそうに眺めていた常若が、虹色にペンライトを点灯させた瞬間。ドーム会場の照明が落とされ、必要最低限の明かりだけがステージを照らす。
(……いよいよ、始まるのか)
声無しのBGMに合わせて、演者を急かすようにファンが手拍子を始める。観客を照らす七色のレーザーライトが目まぐるしく様々な方向に光を照射していれば、ステージ上部の巨大モニターに映像が映し出された。
「1期生、いくぞー!おー!虹のように七色虹花!焔のように神奈川焔華!恋するように大宮花恋!おー、おー、おおーおー!」
笹森夫妻も当然のように手拍子を始め、会場に訪れたファンと全く同じようにメンバーのフルネームを叫び始める。常若にはよくわからなかったが、野球のヒッティングマーチみたいだなとなんとなく考えては、ファンが名前を叫ぶと同時。巨大モニターへメンバーの顔写真とローマ字で名前が表示される一体感に関心を示していた。
1期生から3期生のコールが終わり、巨大モニターには坂巻桜散を除いたImitation Queenメンバー全員が映し出され――ステージの中央にパッとライトが照らされると、ファンの大歓声と共にメンバー全員がマイクを持って歌い始めた。
『みんなー!元気なコールありがとうー!センターで踊る私から、目を逸らさないでね!』
『まずは私達のデビュー曲、アイドルイミテーション!』
Imitation Queenは結成当初4人組のアイドルユニットとしてデビュー。年々アイドルが増えていき、フォーメーションも様々移り変わる。現在はデビュー当初より倍の人数――8人でパフォーマンスが行われ、4人での歌割りをきっちり半分に割り、8人全員が歌う環境を作り出しているようだ。
基本フォーメーションは前後2列の格子柄で、時折シンメトリーで視覚に訴えながらパフォーマンスする姿を見るだけで、周りのファンは涙を浮かべているようだった。
(すげぇな)
歌い出しから最初の発言まで30秒となかったはずだが、虹花が歌い踊り出せば、誰もが彼女から目を離せなくなっている。圧倒的なカリスマ性。アイドルになるべくしてなった七色虹花は、複雑なステップを踏みながらライトに照らされ――名前の通り虹色に輝いていた。
同級生でなければ。同じ高校でなければ。女装をしなければ。
常若には絶対手が届かなかった。
常若は初めてステージでアイドルとして輝く七色虹花を肉眼で見たことにより――思っていた以上に七色虹花が素晴らしいアイドルであると気づいてしまう。
とてもじゃないが、釣り合わない。
日本全国、七色虹花と結婚したいほど好きなファンは山程いるだろう。彼らの想いを背負って虹花の隣に立つ資格など、常若には存在しなかった。今すぐ席を立って逃げ出したい。夢の中に逃げ込みたくなった常若が呆然と虹花を見つめていることに気づいたのだろう。ステージ上のアイドルたちを応援しながらも常若を気にしていた笹森が背中を叩いた。
「ちゃんと見ろよ。夢の中に逃げたら、後悔すんぞ」
笹森はいつも常若が、不安で押しつぶされそうになった時背中を押してくれる。彼がいなければ、常若は虹花を思い続けることなどできなかっただろう。
ペンライトを握りしめた常若は眠気に目を背け、じっとステージ上で輝く虹花だけを目線で負い続けた。
「君を撃ち抜く」
「ハート乱舞で」
(……焔華が気づいたな)
虹花と焔華が背中合わせになり、中央で交互にパフォーマンスをする。
焔華は常若と視線を重ね合わせ親指と人差指で銃を模して引き金を引き。虹花は胸の前、両手でハートを作って観客に向けて飛ばした。虹花は常若が見に見ていることに気づきはにかんでいたようだ。周りのファンたちが自分たちに向けられたファンサだと知って悲鳴を上げる。
耳栓をしていなければとてもじゃないが耐えられない。地鳴りのような歓声は何度聞いても慣れなかった。笹森夫妻は耳栓をしてないが、よく耐えられるなと思いながら、卒業公演は着々と進んでいく。
「えーっと……。なんか今日は……。いつもがすごくないわけじゃないけど……。気合の入りようが違うよね……」
「あんたの卒業公演なんだから当然でしょ。生中継の同時接続数、見た?とんでもない数よ」
「えっ!?まだ見てない!どこ?どこに書いてある??」
「そんなぐるりと見渡さなくてそこにカンペが見えるでしょーが……」
「えへへ。皆の顔が見たくてつい……」
虹花と焔華はいがみ合う。
犬猿の仲だと思っていたが、今日で最後だからだろうか。焔華は普通に虹花と話をしていた。これにはファンも驚いているようで、2人が和やかに話を進めるたびにどよめきが起こる。
「今日の同時接続数は約800万人……」
「えっ、すごい!ファンクラブに加入していない人も見てくれているんだ!嬉しいなぁ~。カメラさーん!あ、あった!みんなありがと~。生配信見てくれてるみんなも大好きだよ~!」
「ちょっと、あたしが話すといちいちザワつくのやめてくれる!?あたしだって虹花が神経逆撫でしてこなければ冷静に話くらいできるけど!?」
「あ。先輩、虹花先輩のこと名前で……」
「焔華ちゃんがデレたー!」
「うるさっ、うっさい!あたしはいいから!いいって言ってるでしょ!?離れろ!離れなさい!時間押したらせっかくの儲けが……!はーなーれーろー!」
虹花はよほど嬉しかったのだろう。焔華にぎゅうぎゅうと抱きつき、観客たちは「尊い……」と胸の前で手を合わせ拝んでいる。常若にはまったく理解できない感情だ。
ドサクサに紛れて儲けがどうこうとせっかくの盛り上がりに水を指すようなことを言っても、ファンたちは気にせず卒業公演は進行していく。よく訓練されたファンたちは、終演するまでの2時間、とにかくずっと叫び続けていた。よく叫び踊り、手を振り続ける元気があるものだ。常若は立っているのすらもうんざりしてきて、終盤は座って観覧していたほどだというのに。
「それじゃー、みなさん!今日は、ありがとうございました!皆の熱い想いを、ありったけ全部、私に届けてね!」
最後の曲が終わると、虹花がおちゃめにウインクをしてメンバーと共にステージを後にする。
公演は終了したはずなのにライトが点灯せず薄暗いままであることに驚いていると、一瞬静まり返った観客席から、一際大きな声が響く。
「七色虹花ー!愛してるー!」
何ごとかと思った。
突然ファンの一人が野太い声で虹花への愛を叫び始めたからだ。肩を震え上がらせるほど驚いた常若は、次々に虹花への愛を伝えるファンたちの声を聞きながら面食らっている。
「虹花ちゃーん!結婚してー!」
「デートしよー!」
「引退したら添い寝してくれー!」
「好きだー!虹花ぁ!」
「引退しても虹花は俺たちの彼女だー!」
「空木くん、知らない?Imitation Queenのアンコールは特殊なんだよー」
「アンコール……」
常若は笹森の妻に言われて初めて気づく。ライブには、客がもっと見たいと演者を呼べば、時間が許す限り何曲か追加でパフォーマンスしてくれると言うことを。
ライブによって異なるが、特別な日はダブル、トリプル、と。1度舞台袖に捌けて、数分後に準備ができ次第再び姿を表すことがあると言う。
「特に七色のセンター公演は、ほら。ファンが恋人だって明言してたろ?それで、ファンの告白大会が名物化してるっつーか……。SNSで終演後印象に残った告白が晒されたりしてるよな」
「うんうんー。1番面白い告白したファンが優勝みたいな所あるから、見てると面白いよねぇー」
「常若的には嫉妬する場面だけどな。大丈夫か?常若。気分悪くねぇ?」
「おー……」
誰も彼もが虹花の名前を呼び、大声で思いの丈をぶつけている。男性だけの声ならば今頃意識を失っていただろうが、女性の声も混ざっていたのでかろうじて意識を保ち続けることができた。
「もういっそ、ドサクサに紛れて叫んじまえば?」
「……やべーだろ……また週刊誌にすっぱ抜かれんぞ……」
「大丈夫だよ。だってみんな叫んでいるんだから!ちょっとくらいなら、大丈夫!さー、どんどんいこー!」
「眠気を吹き飛ばすくらいでけぇ声でな!」
「せぇの!」
笹森夫妻に促された常若は、勢いよく息を吸ってステージに向かって叫ぶ。
それほど大きくはない。一番声の大きなファンは、スタンド席から虹花への想いをステージに向かって叫んでいた。
「虹花、愛してる……!」
静かな声ではあったが笹森によくやったと褒められた瞬間。ぱたぱたと小走りで虹花が動きづらそうなドレスを着てやってきた。
「虹花!走んな!」
「あっ、ああ……っ!ご、ごめんね、焔華ちゃん。あ、ええと。アンコール。ありがとうございます。皆の思い、受け取ったよ!」
「今日は卒業公演と言うことで……。アンコールは私1人で歌唱するね」
虹花は七色に輝くドレスを身にまとっていた。スカートの部分に花びらのような7枚の花弁に見立てた楕円状の布が縫い付けられているようデザインだ。それらは一色ずつ色が異なり、さらにその花弁1枚1枚には細かく鱗のような花びらが取り付けられている。
少しスカートを揺らすだけでも細かな花びらがひらひらとステージ上に落ちていくからだろう。舞台袖からマイクを通さない焔華の叫び声が聞こえた虹花は足元を見てその状態を確認すると、照れくさそうに微笑み焔華へ謝罪した。
「みんなへ最後のメッセージは、曲を歌い終えてからにしようかな」
「この曲は、前任のプロデューサーが私に残してくれた、私のために作られた曲です」
「デビュー曲、アイドルイミテーションの対になるよう作られた曲――アンサーソングって奴なのかな?」
「今日が、アイドル七色虹花として、最後の公演だから。いつも以上に想いを載せて歌うね」
「聞いてください。イミテーションローズ」
巨大モニターに映し出されたのは七色の薔薇。くるくると周り、左右のモニターに虹花が歌う様子が映し出された。照明も七色で、虹花はほぼ棒立ちのままバラードをしっとりと歌い上げる。
「虹色の薔薇は、白い薔薇を染め上げて」
「嘘で塗り固められた アイドルだから」
「私は戻る 普通の恋する女の子に……」
1番を歌い終えた虹花は、前方に向けて歩き出す。スカートに手を伸ばすと、花弁に見立てた装飾をぺりぺり音を立てて剥がす。手に持った花弁を最前列に向かってパタパタと振り始めた。
赤い花びらが観客席に降り注ぐ。
鱗のように所狭しと貼り付けられた花びらがすべてなくなったことを確認した虹花は、歌いながらその花弁を勢いよく観客に投げつけた。きゃーきゃー悲鳴を上げながら観客たちはそれらを奪い合うが、直前まで身につけていたスカートの一部を投げつけるなど斬新すぎるだろう。観客に投げつけるものと言えば、ギターピックなどが定番だろうに。
常若が困惑していると、中央のモニターでくるくると回る薔薇のイラストから、赤色の花弁が散っていく。七色の虹花を照らすレーザーライトも赤色だけが消え、6色だけになる。どうやら、演出と連動しているらしい。
続けて虹花は舞台端に用意されていたトロッコに乗り込むと、観客席をぐるりと一周回り始めた。
残りの6色――橙・黄・緑・青・藍・紫の順にスカートの花弁をペリペリと剥がしてはパタパタと花びらを観客に向けて落とし続けた虹花は、トロッコが一周する頃には随分と動きやすい服装になっていた。Cメロ後の間奏時、トロッコの上でくるくると回りながら虹の花弁を巻き付けていた土台をバリバリと剥ぎ取れば、下に重ね着していた純白のお姫様のようなミニドレスが姿を表した。踝まで隠すほど長い虹色のスカートから、膝丈ほどのスカート丈へ変化した純白の衣装を身に纏った虹花は、虹色のベストを脱ぐとトロッコへ投げ捨てる。
身軽になった虹花はとたとたと走り、トロッコを降りてステージの中央に戻ってきた。
中央のモニターに咲いていた7色の薔薇が色を失い、純白の薔薇が咲く。
照明が白のライト一色になったことを見捉えたファンたちが自主的にライトを白に変更したことで、会場内が白の光で埋め尽くされる。
虹色の薔薇が散る演出を見せられて、虹色を点灯し続ける察しの悪いファンはこの場所にはいない。このときばかりは常若も、虹色に光らせ続けていたペンライトの光を自主的に白へ変更した。
「虹色の薔薇は散る 白い薔薇に戻る為」
「準備ができたの あなた色に染まる」
「今度こそ私が 迎えに行くから」
「待たせてごめんね 今までありがとう」
「私はあなた達を忘れない これから私は純白の薔薇 あなた色に染まる 白い薔薇……」
「いつまでもずっと 忘れないから……」
ペンライトの白い光が曲に合わせて揺れている。
虹花が観客に背を向けると、曲が止まり――ファンからの声援が響く。声援を受け取った虹花はぽろぽろと涙を流すと、ファンに向けて自分の想いを伝え始めた。
「……私は、今日。この場を持ってImitation Queenを卒業します」
「ファンの笑顔は活動の源でした。皆の顔を見られなくなると……思ったら……泣かないって決めたのに。泣いてしまいました。ごめんなさい……」
「私は、ファンのみんな全員が……。私を好きになってくれる人全員を、私の恋人だと思って接して来ました」
「七色の虹みたいにキラキラしていて、見る人によって別人みたいと言われたこと、すごく嬉しかったです。私はみんなの恋人になれて、すごく幸せでした」
「これからは……。私を好きになってくれるファンのみんなとはお別れして、私が1番大好きな人の色に、染まろうと思います」
「その色が、どんな色なのかわからないから、白い薔薇を選びました。白は、何色にも染まれる色だから。ファンのみんなが、私を虹色に染めてくれたことは、感謝しているけれど……」
「……ごめんなさい……。うまくまとまらないや……。ええと、私のことは忘れて、Imitation Queenのメンバーとか、身近な人を好きになって、みんなが幸せになってくれることを祈ってます!」
「今日は本当に、ありがとうございました……!」
トップアイドルとしては最低で最悪なコメントであったにもかかわらず、どうやら会場に訪れたファンたちは感激しているようだ。ズビズビと涙を流し、失恋の悲しみに暮れている。
「虹花ちゃん!ありがとう!」
終了のアナウンスが流れ、退場を促されてもファンたちはとても動き出せる元気がなかったようだ。
ただ、ある1人のファンがステージに向かって感謝を述べると退場口に向かったのを確認して、誰も彼もステージに向かって感謝の言葉を述べてから退場するようになる。日本人の右へ倣え精神は恐ろしい。
まるで洗脳されているかのように同じ行動をするものだから、常若は背筋が凍る思いをしながらも、卒業公演の感想を話し合う笹森夫妻に連れられてステージを後にした。
『常若くん。明日、会えないかな』
終演後。常若は帰りの電車で虹花から送られてきたメッセージを確認すると、すぐさま返事を返す。
『打ち上げとかねぇの』
『しようとは言ってくれたけど、どうでもいいから帰るつもり』
(どうでもいい?)
常若は違和感を感じた。
Imitation Queenとしてずっと一緒にやってきたメンバーからの誘いを断り、帰宅しようとするなど。虹花らしくない。普段の虹花であれば、二つ返事で了承し、仲間が主催してくれた卒業記念パーティーに参加して笑っているイメージしかない常若は、虹花にその違和感を打ち明けようとして――やめた。
常若と虹花の関係は元彼と元彼女だ。ステージが終わったばかりで疲れて打ち間違えたのだろう。きっとそうに違いないと自分を納得させると、常若は虹花からの問いかけに答える。
『昼間なら動ける』
『よかった。行きたいところがあるの。ご実家まで迎えに行くね』
昨日まで――まだ今日は終わっていないが――トップアイドルだった女性が元彼を訪ねてやってくる。現役アイドルの恋愛はご法度だが、卒業したその瞬間から即解禁していいとは誰も言っていないだろう。
その変わり身の速さが露呈すれば、批判され傷つくのは虹花だ。その異常な行動を了承していいのかと困惑しながらも、この場で遠慮したら虹花が二度と自分と会ってくれないのではないかと不安に駆られ――了承してしまったのだった。
*13
「全部、嘘なの」
桜の花びらが風に吹かれて舞い散る丘は、街の景色を一望できる絶好のお花見スポットである。
この場所は1ヶ月前桜の下に死体が埋まっていたと報道されるや否や、「この場所で花見をするのは罰当たりだ」と、SNSで騒ぎになったことで、誰も近づくことはなくなってしまった。
警察による規制線が解除されたのも数日前のことで、虹花に誘われるまで常若もこの場所に一般人が出入りできるようになったことを知らなかったのだ。
虹花はどこでこの場所に訪れる人物がいないことを知ったのだろう。
虹花が常若に別れを切り出したこの場所で。卒業公演の翌日、虹花の信じがたい告白を聞くことになるとは思いもしなかった。
「常若くんに対する気持ちだけは本当だけど、その他は全部嘘。アイドルになりたいと言ったのは、幼少期に伝説のアイドルを見て憧れたからじゃないの。トップアイドルになれば大金が転がり込んでくるから」
「……金……?」
「私の両親、お金遣いが荒くてね。借金で首が回らなくなってたの。だから私も、高校の学費は奨学金を借りて、生活費を支援してくれると申し出てくれた優しいおじさんに借りたの。常若くんと交際してた時は、元金が500万くらいかな?」
「借金総額が8000万くらいあって、月々の家賃なんて支払えるわけもないから、ずっと廃墟で暮らしていたんだ。持ち主が誰かもよくわからない廃墟。有名な心霊スポットみたいでね、優しいおじさんにお金を借りるまで、肝試しにやってきた人に幽霊と間違えられる度、驚かせてお金を置いていけって脅してたりしてたなぁ」
虹花の声色は恐ろしいと感じるほど明るかった。話している内容は、私有地への不法占拠に窃盗だ。明るい声で打ち明けるようなことではない。
感慨深そうにニコニコと笑顔で自身の体験を語る虹花は冒頭、「全部嘘だ」と常若に打ち明けた。この話も嘘なのではと疑って掛かりながらも、じっと黙って虹花の言葉を待つ。
「私は両親の人質みたいな扱いを受けていたんだけど、全然働かないから。娘の私がアイドルになって借金を返済することになったの」
「……だけど、闇金からお金を借りてると、どんなに素材が良くても悪い印象を与えるみたいで。門前払い食らっちゃった」
カラオケボックスでアイドルになりきる虹花は、アイドルに興味がない常若からみても、完成された歌声とルックスを持つ、キラキラと輝くアイドルの原石だった。
虹花が反社会的組織に所属しているわけではないとしても。オーディション主催者はクリーンな応募者を合格させる。どんなに実力があったとしても、大きな爆弾を抱えた虹花がアイドルになることなど、できるわけがなかったのだ。
「私がオーディションを受けたのはコネなの」
「内部的に合格してるのを知らなくて……不安で一杯な時、女装した常若くんを見た」
「嫌そうに眉を顰める表情。鏡に映る私とそっくりで、びっくりしたのを覚えてる」
「……七色は、嫌そうな顔なんてしたことねぇだろ」
「学校ではね。本当の自分は見せないようにしているの。みんな私のこと、嫌いになっちゃうから」
……確かに、常若の仏頂面は評判が悪い。
睡眠を邪魔されて苛立っているだけなのに、繊細な女子生徒がその姿を見れば泣くほどの恐ろしい目つきをしている。
常若は、ただそこにいるだけでクラスメイトの反感を買った。
虹花は高校在学中、いつもニコニコ明るい笑顔で、常に笹森の妻と仲良さげに話をしているイメージしか存在しなかった。虹花本人が考えているイメージと、常若が見捉えている彼女には乖離があるらしい。
「私、女装姿の常若くんと同じような表情もするよ。自分を見てるみたいで辛かったなぁ。常若くんにも、ニコニコ笑顔になって欲しくて、私は常若くんをカラオケに連れ出したりしたんだよ。常若くんは私なんかには欠片も興味持ってくれなくて、辛かったなぁ」
「オーディションを受けた時、なにかやましいことはないですかって聞かれたから、正直に話したんだ。交際している彼氏がいること。最終審査の時までに関係を精算してきたら、合格内定だって事前に説明があって、このまま付き合い続けても迷惑掛けちゃうと思ったから……別れを切り出したの」
「私が殺された後、常若くんに借金を肩代わりしろって悪い人が押し寄せてきたら、私が死んだ意味なんてない。私の気持ちは、常若くんとお話してから、ずっと変わってないのにね」
「常若くんは……私がいなくなってから、私のことが大切だって気づいてくれたの?」
虹花は硬い表情の常若を見つめ続けるのに飽きてしまったのか、その場にしゃがみ込む。草の上に積み重なった桜の花びらを手のひらに集めては、不思議そうに常若へ問いかけた。
卒業公演を終えた虹花は、元アイドルだ。現役アイドルではなく、本人の言葉を信じるのであれば。芸能界に戻る気はないと言う。常若はもう、虹花の為を思って気持ちを隠す必要はない。
卒業公演で周りの雰囲気に飲まれフライングしてしまったが――これからはいつでも、気持ちを伝えることができるのだ。慌てる必要はないと。虹花の言葉を肯定した常若は、虹花から視線を逸しながらぼんやりと答えた。
「……おう。交際している時に気づけば……こんなにも長い時間、悶々とする必要はなかったのにな……」
「うーん。あの時告白を受けたとしても、私の借金問題はどうやったって解決できなかったよ。今みたいに穏便な交渉はできなかった」
「アイドルになることが、1番穏便な方法だったのかよ」
「そうだよ。私、謝罪会見が始まる前に言ったよね。テレビの中にいる私は、私じゃないって」
「ああ」
「常若くんへの言葉は嘘じゃないよ。あの日謝罪会見で告げた言葉は、嘘だけど」
虹花の謝罪会見と言えば、「アイドルになるために大好きな人とお別れしてきました」という、常若を過去のものとして葬り去る……。胸にチクリと鈍い痛みを感じる発言しか印象に残っていない。虹花はあの会見を常若に思い出させて、何を嘘だと言いたいのだろう。
「……いいのかよ。俺に打ち明けて」
「大好きな人には、私の全部を知って、受け入れて欲しいと願うのは当然のことだよ」
好きな人だからこそ、全部を知って受け入れて貰いたい。
その言葉を受けた常若は、虹花が高校時代告白してきた時のまま。好意を抱いているのは間違いないと実感して嬉しくなった。ずっと、焦がれていた相手が、自分を好きだと言ってくれる。
それだけで常若は、にわかには信じがたい話をされて身構えることがあっても、彼女を嫌いになるようなことはありえないと確信した。
「常若くんよりファンのみんなが好きって言わなきゃいけないの、苦しかったなぁ。そうやって言わなきゃ活動休止か卒業しなきゃ行けなかったから、仕方ないけど」
「老若男女問わず、ファンのみんなが一番大好き、なんて。そんなことないのにね。小さな子どもは可愛いし、大好きで憧れだって言ってくれる女の子とお話するのは好きだけど……。私もみんなと一緒だよ。好きでもない男の人に恋愛感情を抱かれたら気持ち悪いし、勘弁してって思う。顔に出したら稼げないから、その辺りはちゃんと隠すけどね」
「誰が聞いているかわかんない楽屋でファンの愚痴言える、他のメンバーが羨ましかったなぁ。生活費、稼がなきゃいけなかったから。ただでさえ一度炎上しているのに。二度目はないなぁって気を使っていたんだよ?」
虹花は笑顔のまま、ファンが聞いたら金を返せと暴動になりそうな嘘偽りのない本心を常若に打ち明け続ける。
常若はImitation Queenのセンターであり大人気アイドルの七色虹花を好きになったわけではない。それほどダメージを受けることはないが、アイドルとして輝く虹花を心から応援し、汗水垂らして稼いだお金を注ぎ込んでいたのならば。心の底から彼女を愛し続けることなどできなかっただろう。卒業公演に当選し、彼女へ愛を囁いていたファンに同情しそうだ。
常若の表情が変化しないのをいいことに、虹花はファンの期待を裏切るような話を常若に打ち明け続ける。
「それなのに、みんなやりたい放題するんだもん。Imitation Queenは国民的アイドルから、炎上お騒がせアイドルに様変わり」
「ファンのみんなは会うたびに今すぐ辞めたほうがいい、ソロとして活動してほしいって泣くし。プロデューサーと不倫の件で解散になると思ってたのに、3期生を入れたばっかりだから、焔華ちゃんがプロデューサーを兼任するって言ったの、本当に驚いちゃった」
「1度ついたイメージを払拭するのは難しい。私も大きな爆弾を抱えているし、いつまでもアイドルやってたら婚期逃しちゃう」
「常若くんのお店には、きれいな女の子たちがたくさん来店するでしょ?早く私のものだって証明しなきゃ、誰かに常若くんを取られちゃう。焔華ちゃんは仕方ないけど、どこの馬の骨か分からない女になんて、常若くんは渡さないんだから」
常若は現在、会員制バーの雇われマスターとして働いている。その会員制バーは元々大っぴらに飲み食いができない芸能人や有名人が集まる憩いの場であり、出会いの場である。当然常若も酒に酔った芸能人や有名人から声をかけられることがあった。
さり気なく来店していた客に押し付けたり、しつこい女性にははっきりきっぱり断ったりと、虹花が危惧するような状況になったことは一度もなかった。
『私を好きになってくれたファンが恋人』
そう4年前の謝罪会見でファンに宣言した虹花はずっと、ファンと世間を欺いてきたのだ。虹花は最初からファンのことは金蔓としか思っておらず、心は常に常若のものだった。
数千万人単位のファンに嘘をついてまで、常若を愛し続けた虹花は、アイドルの七色虹花ではなく、元アイドルの七色虹花として常若の前に存在している。いつでも触れられる距離に虹花が存在するだけでも嬉しいのに、虹花から常若を自分のものにしたいと言われた常若は、いつ自分を抑えきれなくなるか不安で仕方がなかった。
恋は落ちるものだ。感情をコントロールできるのならば、それは本当の愛ではない。
「アイドルイミテーションは表向き私達自身が作詞したことになっているけど、半分本当で半分嘘だよ」
「私達は自分がどんなアイドルになりたいか、インタビューに答えただけ。そのインタビューを元に、プロの作詞家さんがいい感じに仕上げてくれたの。ゴーストライターって奴かな。焔華ちゃんだけは自分で一から歌詞を作り上げてたけどね」
「焔華が?」
「焔華ちゃんだけは、後ろ暗い秘密もなくて、真面目だったから。あ。今、焔華ちゃんのこと気にしたでしょ」
「別に……。突然名前が出てきたから驚いただけだ」
「怪しいなぁ。女の子の前で、他の奴女を気にする素振りは見せちゃだめだよ。嫉妬しちゃうから」
ぷっくりと頬を膨らませた虹花は、手のひらに集めた桜の花びらを常若に向けて投げた。ひらひらと身体に降り注ぐ桜の花びらが、全身に纏わりつく。
常若が桜の花びらを落とそうとしている間に、虹花は立ち上がり常若へ背を向けた。
虹花の表情は、見えない。
「焔華ちゃん、私のこと悪魔だって言ってたでしょ?」
「……覚えてねぇ」
「あ。その反応は焔華ちゃんが私のことを悪魔だって言ってたのを聞いてたのに誤魔化したな?いいよ。事実だから」
「事実なわけねぇだろ。あいつは口が悪ぃからな……」
「焔華ちゃん、口は悪いけど人を見る目はあるよ。私の本当。どんなに嘘で塗り固めても。焔華ちゃんにだけは、すぐにバレちゃった」
虹花は足で土の上に落ちた花びらを踏みつけては、茶目っ気満載の声で常若に語った。声だけ聞けば機嫌は悪くなさそうではあるが、常若から背を向けたのならば、焔華について語る表情を見られたくないのかもしれない。
「アイドルの私は天使だってよく言われてたけど、私の本当は、天使なんかじゃない。悪魔のように、ずる賢くて、自分のことしか考えてない。嘘つきで、悪魔のような女なの」
「アイドルイミテーションのインタビューでは、ありのまま私をプロデューサーに伝えたつもりだよ。借金があること。私が普段どんなことを考えて、どうやって生きてきたか。今、常若くんに話したことをざっくり要約した話を」
「インタビューを聞いたプロデューサーは、私に言ったんだ。私は、白い薔薇だねって。白い薔薇の花言葉、知ってる?」
「……純粋」
「正解。それから、あなた色に染まるって意味があるの。私はあの卒業公演で、白い薔薇へ戻ったけど――」
「みんな、アイドルイミテーションでは頭に虹の薔薇を付けてたから。そう呼ぶようになったけどね。それだけが理由じゃないの」
「……卒業公演も、虹色の薔薇が散って――白い薔薇に変わる演出だったよな」
「そうだよ!覚えててくれてうれしい!」
アイドルに興味がないと公言していた常若が、卒業公演の演出を覚えていたことに虹花は感動しているらしい。相変わらず背を向けたままで表情は見えなかったが、明るい声が聞こえてきた。
虹色の薔薇が、1枚1枚散っていき――白い薔薇へと変化する。その幻想的な光景はアイドルに興味がない常若にだって強く印象に残るほど素晴らしい演出であったし、伝説のステージとしてかなり長い間テレビのワイドショーでも取り上げられていた。
覚えていない人間など、探す方が難しいだろう。
「虹色の薔薇は、存在しないんだよ。白い薔薇へ人工的に1枚1枚手作業で色付けするの。こう、スプレーで、1色ごとにシュシューって!」
「真っ白な薔薇はあっと言う間に染まるの。虹色の薔薇に!本当の私はね、何もないんだぁ。空っぽなの。常若くんが大好きな、普通の女の子」
「だけど、カラースプレーで装飾すれば、キラキラ輝いてファンのみんなを魅了するトップアイドルになれるんだよ!すごいよね!」
「私がファンの望む姿になろうって決めたのは、手っ取り早くお金が稼げるからって理由もあるけど、虹色の薔薇みたいに、一輪の花であることは変わりないのに、見る角度によって印象が変わる人になりたかったからなんだぁ」
白い薔薇は、何色にも染まれる。
真正面から見れば七色に輝く薔薇の花も、花弁の1枚だけ見れば、それは一色に色づく薔薇の花だ。
アイドル七色虹色を見たファンは、元々白い薔薇であったことなど気づくこともなく、虹色の薔薇として――虹花を受け入れる。
それは虹色にとって、手放しに喜べる状況ではなかったのだろう。当然だ。ファンは虹色に輝く薔薇となった虹花が好きで、白い薔薇の虹花など見向きもしない……か、どうかはわからない。虹花が白い薔薇としてファンの前に姿を見せたのは、卒業公演のアンコールだけだからだ。空っぽだと言うのはあくまで本人が勝手にそう思い込んでいるだけ。常若からしてみれば、あの卒業公演の熱狂的な態度を見ているとファンには案外受け入れられるような気がしてならなかった。
「本当の自分を隠し続けて活動すんの……辛かったろ」
「うんん。本当の私は、常若くんだけが覚えてくれていたら、それでよかったから。苦しくなかった。つらいことだってなかったよ」
「アイドル七色虹花は偽物なの。無理矢理七色に染めて輝いているように見せた、偶像。イミテーションアイドルって曲名、ほんとぴったりだと思うよ。偽物のアイドル。私は本物になれなかった」
「虹花……」
「別に、本物になりたかったわけじゃないから、いいけどね?ただ、偽物の私を真似する3期生が出てきちゃったのには、ちょっぴり困っているの」
「偽物の偽物って、ただの出来悪い粗悪品だよ。その子は私が本物のアイドルだって信じ込んでいるから……せっかく、自分を持っている子なのに……。かつて第一線で活動していた本物の大人気アイドルをコピーした、集合体の私を劣化コピーするなんてもったいないよね」
同意を求められても、常若には虹花のコピーとして活動するアイドルの存在をよく知らない。言われてみれば最近加入した4期生に、「第二の七色虹花」としてテレビへ出演するアイドルが居たような気はする。卒業公演にも出演者していたはずだが、虹花の圧倒的な輝きに飲まれ全く印象に残っていなかった。
「ふふ。私に話を振られて不思議そうな顔をするの、常若くんらしいね」
振り返った虹花は、先程までの笑顔はどこへ置いてきたのか。どこか緊張した面持ちで、まっすぐ常若を見つめている。
「虹色の薔薇は、散っちゃった。みんなにいい顔して、私のいい所だけを見せるアイドル七色虹花は、もういないの。白い薔薇が虹色の薔薇としてステージの上へ立つには、色々な準備が必要だから」
「私はもう、私の原型を留めないほどにカラースプレーを塗りたくって、理想のアイドルを作り上げた……虹色の薔薇には戻れない」
「好きだよ、常若くん。これからは、私の白い薔薇を――常若くんの色に、染めてほしいの」
常若は、ころころと変化する虹花表情が好きだった。虹花に興味を抱けず、冷たくあしらっていた常若を笑わせようとたくさんの話題を提供しては、ニコニコと笑顔で楽しそうに笑っている。あの笑顔が。
大切で、守りたいと別れた後に気付いたからこそ――常若は、今こうして虹花の前にいる。
その笑顔の裏で、彼女が大変な状況下に置かれていることに気づかずに。
一連の話を聞いた常若は、自分が情けなくて仕方なかった。交際中虹花を好きになる以前の問題だ。常若は、虹花に何もしてやれなかった。3ヶ月の交際期間をただだらだらと過ごしただけ。
虹花がどんな人間であるかを知ろうともせず、別れたあとに大切であることに気づいた。最低な人間だ。
「……俺も、ファンの奴らと変わんねぇな」
「……常若くん……?」
アイドル七色虹花のファンは、自分の大好きな七色虹花像をリクエストし、その要望を答えた七色虹花を好きになった。
本当の七色虹花がどんな人間であろうとも、自分と今この場で接する虹花さえ、自分好みの人間であれば。何をしていようがどうでもいい。
虹花のファンはアイドルの七色虹花以外は全く興味を示さなかった。だから常若との写真が流出しても大事にはならなかったし、虹花が持ち前の演技力で好演した映画は思ったより売れなかったのだ。
虹花と出会い、交際をして別れるまでの半年間を経て、常若は虹花への思いを募らせたが――それは、常若が作り出した七色虹花に惚れていただけなのだろう。彼女のすべてを知った時に抱いた愛ではない。だからこそ、一瞬躊躇してしまった。すぐに返事を返せなかったのは、自分の気持ちが本当なのか見失ってしまったからだ。
「俺は……七色の隣に立つ権利はないのかもしれねぇ」
「どうして……?常若くん、私のすべてを知って、嫌いになった……?」
「……嫌いにはならねぇよ。ならねぇけど……。俺の好きは、七色と同じ好きなのかどうかは、わかんねぇ」
虹花は、常若が自分とよく似ているような気がしたから好きになったのだという。常若が文化祭で女装姿を披露していなければ……虹花が常若を好きになることはなかったのなら、常若と虹花はある意味でお似合いのカップルなのかもしれない。
お互い、上辺だけでしか判断していない。これほどお似合いなカップルはいないだろう。
「俺達、お互いのこと……あんまり知らねぇ状態で交際して別れたろ。その状態で別れた後、好きになった俺は……七色の上辺しか知らねぇ」
「そんなことないよ!私のこと、好きだって気持ちをまだ持っていてくれているのなら。これからたくさん私のことを知って、たくさん私を好きになればいいだけじゃないかな?」
1度目の告白と、別れは虹花からだった。
2度目の告白も虹花から。常若は今、彼女の告白を受けるか、このまま何事もなかったかのように別れるかの2択を迫られている。
(中途半端なことはしたくねぇな)
常若は1度目に別れを切り出された際、虹花に好意を抱けなかった。虹花が描くアイドルとしての夢を叶える為には、男の影などあってはならない。彼女の邪魔になるならばと黙って身を引いた。
その結果、別れて1ヶ月も経たないうちに取り返しのつかないことをしてしまったと、5年前は後悔したわけだが。
この場で虹花の告白を断れば、常若はあの時のように後悔するだろう。
虹花のことを思うだけで胸がいっぱいになり、身動きが取れなくなる。あの時は、笹森が側にいてくれたらこそ耐えられた。
社会人になった今、常若が精神的に参っている時にいち早く気づき、支えてくれる人はいない。いつまでも笹森を頼るわけには行かないのだ。いい加減、自分の足で立たなければ。
虹花の告白を受けた常若は、自分の虹花に向ける恋心が、本当に彼女そのものを愛した結果なのかどうか測りかねている。
七色虹花が作り上げた偶像を狂おしいほど好きになったのだとしたら、巡り巡って彼女が苦しむことになるだけだ。愛する彼女を傷つけるくらいならば、このまま嘘をついてでも身を引くべきではないかと考えていた常若は、虹花の潤んだ瞳を見て。
ぐだぐだと考えている時間すら惜しいと、虹花を抱きしめた。
「お願い。常若くん。私のことが嫌いになったわけじゃないなら……捨てないで」
「……もう2度と、この気持ちは手放したりしねぇよ」
常若は欲望に負けたのだ。
恋はするものではなく、落ちるもの。
愛する人への気持ちをコントロールできるとしたら、それは本当の意味で愛していないことになる。
今、常若が胸に抱く彼女が、常若の好みに合わせて作られた偶像でも――常若のことを好きだと嘯く感情が演技だとしても構わない。
常若が七色虹花を愛している。この気持ちさえ真実であれば。常若と虹花は、長い時間を掛けて、真実の愛にたどり着くだろう。
「……虹花」
「常若くん……」
常若は別れた瞬間から虹花の呼び方を変更した。恋人から元彼女へ関係性を変更した2人は、5年後に復縁し、今から彼氏彼女として関係を結び直す――
常若なりの決意表明でもある。
「……愛してる。別れてからずっと、虹花のことしか考えられなかった……」
虹花を胸に抱いた常若は、絞り出すようなか細い声で、虹花に愛の言葉を囁いたのだった。
*14
「復縁おめでとう!」
「うぇーい!」
復縁した常若と虹花は、真っ先に互いの親友に報告をした。5年ぶりに復縁したこと。結婚を前提に交際すると聞いた笹森とその彼女は、近状報告も兼ねて久しぶりに会おうと提案してきた。
アイドルを辞めた虹花は一般人であるが、外に出れば連日マスコミに追いかけ回されている。虹花の安全とプライバシーを考慮した結果、常若のバーを貸し切って近状報告会を行うことになったのだ。
「長かったね」
「ほんとにな!5年もよく堪えた。七色の気持ちを自覚した当初の常若、四六時中寝てるし、今にも死にそうな顔してたもんな。ビデオに撮っとけばよかったぜ」
「おい、洒落になんねぇこと言うな」
「いいだろ、こんくらい!同棲してんだろ?交際0日で同棲とか!やべーよなぁ。常若、お前七色に迷惑掛けてねぇだろうな?突然寝ちまうとか」
「ストレス感じるようなことは何もねぇよ」
常若と虹花は、復縁後その足で同棲することになった。虹花が元々暮らしていた部屋はセキュリティのしっかりしている高級マンションだったが、虹花の自宅はマスコミにとって公然の秘密だ。プライバシーなどあってないようなもので、四六時中出入り口には記者達が物陰に隠れてカメラを向けてくる。
そんな場所で一分一秒も生活させるわけにはいかないと、常若が自分の部屋に来るよう促し。虹花が常若の部屋に着のみ着のままで転がり込んできた。
「ならいいけどよ……。七色、ほんとに気をつけてな。こいつ、道の真ん中でも堂々と寝っから。口下手でどこにストレス感じたとか言わねぇからさ。眠くなった理由を特定すんの結構大変なんだぜ」
「へー、そうなんだ。流石は常若くんの親友だね!私も常若くんを、笹森くんのようにサポートできるといいなぁ」
常若の秘密は、焔華に促されて打ち明けている。具体的な接し方についてのアドバイスを焔華から受けるようなことはなかったので、虹花は笹森のアドバイスに頷きながら熱心に聞いていた。
「常若が突然寝るようなことがあれば、ストレスを抱え込みすぎてどうしようもない状態だかんな。ひとまず無理に起こさず寝かせてやれ」
「はーい」
虹花に比べれば、常若の秘密など些細なものだ。同棲をはじめて半月ほど経つが、今の所は常若が虹花にストレスを感じるようなこともなく。二人は順調に交際を進めている。
「虹花ちゃん、夜に起きるの苦手だって言ってたよね?大丈夫?空木くんって水商売に近いから、昼夜逆転生活なんじゃ……」
常若の生活は、平日の休日2日を除いてはほぼ昼夜逆転生活だ。5時から仕事場のバーに出勤し、ホール担当のアルバイトとともに22時まで。それから先は気まぐれで店を開ける。終電を逃した客がいる場合は、バーで寝泊まりすることもあったので、ほとんど寝に帰るだけの生活を送っていた。
虹花と同棲を始めたならば、自宅にほぼ寝に帰るだけなどもったいない生活など送れるはずもなく。店の深夜営業をやめようかと考えていれば、虹花がバーの仕事を手伝いたいと言ってきた。
「その話で、相談したいことがあんだけど」
「おう!いいぜ!地の神に任せろ!」
バイトをもう一人雇うか悩んでいた所だったので、願っても見ない話ではあるのだが。元トップアイドルに知る人ぞ知る会員制バーの店員などやらせてもいいのだろうか。
常若が困惑していた所に、舞い込んできたのが笹森との近状報告会だ。常若は笹森に会ったら、虹花がこのバーで働くことについて相談しようと決めていた。
「常若くん、私から言うよ。あのね、私、ずっと常若くんのお家で過ごしているより、常若くんの力になりたいなぁって思っているの。お店でお手伝い、したら変かなぁ?」
「全然変じゃないよー!わたしは賛成!」
「ありがとう。笹森くんは?」
「オレは反対だな」
「神地、どうしてー?夫婦でお店で働くなんて、なかなかできることじゃないよー!応援してあげなきゃー」
「あのな。七色は元超人気アイドルだぞ。常若の店で働いてるなんて噂が立ってみろ。大騒ぎになって通常営業どころじゃねぇよ。店に来る全員が全員、善人ってわけでもねぇ」
「そうかもしれないけどー……。虹花ちゃんは専業主婦って感じじゃないじゃんー」
「……変な噂が経つのはめんどくせぇな……」
「常若くん、だめ?」
常若は虹花のおねだりに弱い。
うるうるとした瞳で見つめられると、ついつい無条件で首を縦に振ってしまいそうになる。見かねた笹森に止められ、無条件で了承することはなかったが……。虹花と笹森の間で板挟みになった常若は、かくり、かくりと船を漕ぎながら目を擦る。
「あ、常若。考えんな。酒!溢れっから!」
「もう、笹森くんがうんって言わないからだよ!」
「オレのせいじゃねぇだろ!?」
「あー……眠ぃ……」
久しぶりに眠気を感じた常若は、必死に眠気を醒まそうと目を擦るが、どんなに目を擦っても眠気は消えない。笹森に取り上げられた酒を煽り、口に含んだ常若は、笹森と虹花。どちらの意見を選び取るかで悩んでストレスを感じるのならば、どちらの意見も考慮しようと決めた。
「常若くん、大丈夫?5分くらい寝る?」
「……いや、時間、勿体ねぇ……。しばらくは、予約客の対応だけ虹花にヘルプ頼んで様子見るわ……」
「常連だけにしとけよー」
「おー……」
一度感じたストレスが身体から抜けるまでの時間、常若は虹花のアイドル活動に興味津々な笹森夫妻と虹花の会話をぼんやりと聞いていた。
「空木くん、授業中いつも寝てたよねー。虹花ちゃんと一緒にいるときは、大丈夫なのー?」
「今の所は大丈夫そうだよ。喧嘩とかもしたことないし。1回だけ始発で帰ってきた常若くんに無言で抱き着かれて、そのまま寝落ちしたことがあったくらいだよ」
「店でなんかあったっぽいな」
「女性関係じゃなきゃいいけど」
当たり前のように笹森がいて、虹花がいる。高校を卒業して5年も経つというのに、まるで高校時代に戻ったようだ。この光景を見た常若はすぐに眠気を押し留め、話題の中に割って入ろうとした。
「あー……あの日は……」
「七色虹花!」
「……あれ?焔華ちゃん?」
「あんたはいっつもいっつも周りの迷惑顧みず問題ばっかり起こして……!」
常若が虹花に抱き着いて寝落ちした日のことを語ろうとすれば、神奈川焔華が姿を現した。焔華は虹花を指名するとニコニコと笑顔で手を振る彼女を睨み、憎悪を向ける。今日店に呼んだのは笹森夫妻だけであり、入り口には貸し切りと書いて施錠していたはずなのだが……。焔華は店の中まで入ってきてしまっていた。
「お前、どうやって入ってきたんだよ」
「店の鍵、おばさんにも渡してあるでしょ。急用だったから借りたの。話が終わったら返すわ」
「お袋さんに鍵渡してんの?」
「倒れて救急車呼ばれたら、実家に連絡行くだろ……」
「……あ、そっか。空木くん、突然寝ちゃうから……。鍵を預けてないといけないんだ……」
「あたしが対応に追われている間、あんたは仲良く飲み会なんていいご身分ね!ふざけんな。こっちは4期生のお披露目が控えてんのよ」
「焔華ちゃん、せっかく来てくれたから……何か飲む?」
「あたしはまだ仕事中よ!車で来てるし。アルコール勧めてこないで!」
「うるせぇ……」
焔華が虹花に食って掛かるのは今に始まったことではない。卒業公演では息のぴったりとあったパフォーマンスを見せ、MC中は虹花を相手にして落ち着いているように見えた焔華も、問題が起きればいつも通り怒りを露わにする。
焔華が虹花に食って掛かる姿を見る限り、元恋敵だから不仲なのではなく、純粋に虹花が嫌いなのだろう。
常若は顔を顰めながら、焔華の騒がしい声を聞いて目の前に広がる霧が晴れたような感覚に陥る。眠気は感じなくなったが、焔華が何に対して怒っているのかを考えることすら面倒だ。このまま寝てしまいたいと膝を抱え、マイペースな虹花と怒り狂う焔華の姿をぼんやり見つめていた。
「神奈川、何しに来たんだ?仕事中なら七色と言い争ってる時間なんざねぇだろ」
「……一般人には見せられないのよ」
「私だって一般人なのに」
「あんたは当事者だからいいのよ!あーもう、常若!あんたと虹花、二人並びなさい!」
焔華は虹花に部外秘の資料を見せたいようだが、何故常若の隣に並べと指示するのだろうか。
常若だって芸能関係者ではなく、一般人だ。笹森夫妻と共に虹花と距離を保たなければならないはずなのだが……。
虹花は焔華の言葉に従い、カウンター席に座る常若の隣に座って膝を抱えて椅子の上に足を載せ、小さくなっている常若に抱きついた。焔華はこれみよがしに仲良しアピールをする虹花に対して舌打ちを返すと、鞄の中からA3の白黒印刷された資料を見せてくる。
「あれまぁ、週刊文冬だ!」
「え、マジ?文冬砲かよ」
「あー……」
「察する前にまず謝罪くらいしたら!?卒業公演の興奮も冷めやらぬうちに2人きりで会ったらすっぱ抜かれるに決まってんでしょーが!ほとぼりが冷めるまで会わなければよかっただけの話じゃない!常若!?聞いてんの!?」
焔華の怒りは虹花ではなく、まずは常若に牙を剥く。
焔華は常若が虹花を好きなことを知っている。マスコミに追われている虹花の背後を確認していれば、こうして記事になるのは防げただろうと言いたいらしい。常若からしてみれば、あの日あの場所で話をしたいと提案してきたのは虹花なので、とばっちりもいい所だ。自分は悪くないと夢の中へ意識を沈めようとしている。
「こら!寝んな!」
「うるせぇ……知らねーよ……」
「こいつが性格最悪な悪魔だってことを変えらんないなら、常若が引きずり倒してでもこいつを止めるしかないでしょーが!」
「焔華ちゃん、常若くんを責めるようなこと言うのはよくないよ。必死に起きていようとしているのに……」
「あたしの存在がストレスだって言いたいの!?そもそもあんたが見境なく常若を誘惑するからいけないんでしょーが!しおらしくしてなさいよ!この悪魔女!」
週刊文冬に虹花の記事が掲載されるのは2度目だ。虹花は悪びれもなく常若を庇うので、反省しろとますます焔華がヒートアップする。
誘惑するも何も、思いを確かめあった2人が交際すると記事になるだけだ。虹花が一方的に常若のことを好きなわけではないので、焔華が拒否反応を示すようなおかしい話ではないのだが……。
「ええー?卒業公演が終わった時点で、私は元アイドル。ケジメはつけたよ?焔華ちゃんだって聞いてたよね。私のこと好きになってくれたファンの恋人であり続けることは今日で卒業しますって」
「ケジメはつけてもほとぼり冷めるまでは元アイドルとして節度を持った生活を心がけろって言ってんの!話聞いてた!?」
「うーん?ちょっとよくわかんないかな」
「理解してるくせにしらばっくれんな!あんたは卒業したかもしれないけど、Imitation Queenが解散したわけじゃない!まだ現役で活動しているアイドルに迷惑が掛かるのよ!」
「えー。私が元Imitation Queenのアイドル七色虹花だって週刊誌に載れば、ユニット名は地上波で流れるよね。何もしなくたって勝手に宣伝してくれるんだよ。炎上商法とか言われても。そのチャンスを現役メンバーが活かせるようなプロデュースをするのが焔華ちゃんの役目じゃないかなぁ」
焔華は現在、メンバーと不倫してプロデュースを辞退した男の代わりに、プロデューサーとアイドル、二足のわらじを履いて仕事に奔走している。評判は上場のようで、これから焔華が選出した4期生が最高2人、加入する予定だ。
全く反省の色が見えない虹花から、まるで真面目に仕事へ取り組んでいないと言わんばかりの嫌味は、焔華の火に油を注ぐ。
(炎を燃え上がらせてどうすんだよ……)
常若は一瞬2人を止めようか迷ったが、口を出すのも面倒で。成り行きを見守ることにした。
「あんたねぇ……!ファンに悪いと思わないの!?」
「え、申し訳ないと思う方がおかしいよ。私はもう二度と芸能界に戻る気はないし……。常若くんとの恋愛スキャンダルがこのまま世に出たら、私のことが大好きで、亡霊のように彷徨っているファンも成仏できる。私は愛する人とこれからラブラブになりますって宣言できて一石二鳥だよ!」
「鬼!悪魔!鬼畜!最低アイドル!」
「斬新なコールだね。そのまま1曲作って歌おうか?」
ニコニコと笑顔の虹花と、血管が切れそうなほど怒鳴り散らす焔華。芸能界に戻る気はないと宣言した以上1曲歌う話は冗談だろうが、あまりの剣幕に笹森夫妻も目を丸くしながら成り行きを見守っている。
(喧嘩慣れしすぎだろ……)
常若はニコニコと笑顔で焔華の怒りを受け流し、神経を逆撫でする虹花の様子が手慣れすぎていることに気づいてしまった。同じユニットを活動して5年。虹花が卒業するまて毎日のように罵り合っていたのだとしたら、意識しなくても焔華の対応がうまくなるのは当然のことだ。驚くようなことでもないだろう。
虹花は常若に、すべてを知ってほしいと告げた。
常若はアイドルとして輝く七色虹花が、白い薔薇をカラースプレーで無理矢理塗装し、キラキラと輝く虹の薔薇に見せかけた偶像であると知っている。ファンに対して心無い発言をする虹花に驚くことなく受け入れられていた。
テレビに出演しているアイドル七色虹花が彼女そのものであると認識している笹森の表情は特に面白い。虹花を凝視し、虹花の親友でもあり笹森の妻に本物か聞いているくらいだ。それだけインパクトのある発言だった。
「地獄に堕ちろ……!」
「いいの?私が地獄に堕ちたら、常若くんも道連れだよ」
「1人で堕ちろ!バーカ!」
焔華は捨て台詞を残してその場を後にした。嵐が去った後、長い沈黙が落ちる。衝撃的なことが起こると人間は口を開く気にもならないらしい。
常若も口を開く気になれず、ぼんやりと沈黙が破られるのを待っていた。
「なぁ、常若。大丈夫なのかよ」
「なるようにしかなんねぇだろ」
「なるようにって……。いいの?神奈川さん、凄く怒っていたけど」
「焔華ちゃんならうまくやってくれるよ。この記事、今週じゃなくて来週発売の週刊文冬に掲載されるみたい。4期生のお披露目を早めて、巻頭グラビア独占インタビューとかで手を打つんじゃないかなぁ」
笹森夫妻の心配をよそに、虹花は全く問題ないと言い切った。この記事が掲載されることはないと確信しているらしい。
ある意味、焔華を信頼しているからこそできる判断だろう。虹花以外の人間は、この記事が実際に掲載されると信じて疑っていなかったのだから――
――1週間後、発売された週刊文冬に虹花の記事は掲載されなかった。
代わりに、応募総数5万652通の中から選出された4期生の合格者がたったの1名であると書かれた速報記事が掲載されている。
「私はもう一般人。一般人のプライバシーを記事にして荒稼ぎしようものなら、色々面倒なことが起こるって週刊誌もよくわかっているの」
「私の記事は、大きな独占スクープを引き出すための餌。焔華ちゃんは4期生の合格人数をリークすることで記事を差し止めたみたいだね。悪くないと思うよ」
「……よくわかんねぇ」
「うん。常若くんは、気にしなくていいよ。あんな汚い泥舟のことなんて、考える必要はないの。ずっと私のことだけ見て。他のアイドルに興味を持ったら、私。常若くんが私しか見られないようにしちゃうかも」
虹花は時折、よくよく考えれば恐ろしい。含みのある言動をするが、深く考えれば考えるだけそれがストレスとなり眠気に変化していく常若は、深く考えることはなかった。
虹花が焔華に悪魔と呼ばれるような人間性の、恐ろしい女性でも。
常若にとっては愛すべきたった一人の女性だ。彼女さえ居れば、他には何もいらない。恋は盲目とはよく言うが……。狂おしいほどの愛は、些細な引っ掛かりすらも気にならないほど、常若の思考を鈍くさせるから。
「……興味なんか持たねぇよ。俺は、虹花だけだ」
「うん!常若くん、大好き!」
常若の胸に飛び込んできた虹花を抱きしめながら。常若は、愛すべき人が側にいる喜びを噛みしめるのだった。
*15
それから、約10年後――
『Imitation Queen1期生、元アイドル七色虹花電撃結婚!』
『お相手は結成当時週刊誌を賑わせた一般男性!』
アイドルとして卒業公演を終えたと同時に、芸能界から忽然と姿を消した虹花の婚姻を何処から聞きつけたのか。婚姻届を提出したその日の夜から、虹花と常若は週刊誌やワイドショーを賑わせた。
虹花は何度も芸能関係者から戻ってきてほしいとオファーを受けるが、けして首を盾には振らない。
「私のことが好きな、ファンの恋人にはもう……なれないかな。自分の気持ちに嘘つくのは、終わりにしたの」
「ガチ恋営業してたアイドルがたとえ一夜限りでも復活したら、ファンのみんなは喜ぶかもしれないけど、常若くんが浮気を疑うかもしれないでしょ?」
「常若くんを泣かせたら、焔華ちゃんに取られちゃう。だから、私はもう戻らないの。ごめんね」
常若は申し訳無さそうに芸能関係者に頭を下げる虹花の姿を何年も隣で見てきた。妊娠し、子どもが生まれ、小学生になっても彼らはけして諦めない。引っ越しても何処からか住所を聞きつけ自宅に押しかけてくるのだから、恐らく虹花が歌って踊れなくなるまで。一生涯続くのだろう。
「すげー!これ、若い頃の母ちゃん?」
「そうだよ」
「めちゃくちゃいっぱい人いるじゃん!デケーステージで歌ってたのに、なんで今は普通の主婦してんの?」
「うーん、お父さんが大好きだからかな」
男児が生まれたなら常若、女児が生まれたなら虹花の名前を一字取って名付けると決めた2人の元に生まれた子どもは男児だった。常若の文字を一字取って若葉と名付けた息子は、卒業公演の映像を再生して大興奮する。
「父ちゃんのこと好きだからこんなデケーステージに立つ権利捨てたのかよ。勿体ねぇ。おれもアイドルやろっかなー。全部女で埋めたらモテモテじゃん!」
「……若葉、好きな子はいねぇの」
「好きなやつ?いるけど」
「アイドルになったら、恋をしちゃだめなんだよ。アイドルは、ファンが恋人なの。大好きな人と幸せになる権利を失う代わりに、大きなステージに立てるんだよ」
「お母さんはね、お金を稼ぐためにファンのことが大好きだって嘘をついてまで、たくさんの金蔓……」
「虹花。教育に悪ぃからやめろよ……」
「あっ。ごめんね、常若くん!お母さんは嘘をついて、たくさんのファンを集めたんだよ」
「へー。母ちゃんマジやべー。嘘つくだけでこんだけでけぇ会場埋められるとかチョロすぎ」
若葉は嘘をつけば、大きなホールをファンで埋め尽くせるならおれもやりたいと乗り気だ。常若は息子がアイドルになろうがならまいがどうでもいいものの、後悔することがないようにしてほしいと思っていた。
「若葉は、たくさんの人に愛されたい?たった1人を愛したい?」
「うーん、わかんねぇや」
「たった1人を愛する幸せを捨てても、アイドルになりたいって願うなら。お母さんが聞いてみるよ」
「虹花……いいのか?」
「うん。私は常若くんしか愛せないから、復帰はできないけど。代わりに息子はどうですかってお話したら、きっと大騒ぎになるね」
若葉は姿こそ常若に似ているが、性格は虹花そっくりだ。目的を達成する為なら平気で嘘を付く、人たらしの甘え上手。若葉がその気になり、虹花がアイドルとしてのいろはを仕込めば、男版虹花として高い評価を受けるだろう。
「大騒ぎの意味が違うことになりそうだな……」
「私よりも大きなスキャンダルで辞めそうだよね」
「虹花よりやべぇって……」
「二股とか不倫かなぁ。それとも、爆弾が爆発して大炎上?」
「洒落になんねぇからやめろよ。どう責任取るんだ。人様の娘さんだぞ」
「常若くん、心配性だなぁ。まだ若葉はデビューすらしていないし、アイドルになるって決めたわけじゃないんだよ?」
虹花は冗談として受け取ったようだが、常若は嫌な予感が止まらなかった。
目的の為なら平気で嘘を付く虹花の性格を受け継いだ若葉なら。表立って反対するようなことがあれば、親の許可なく勝手にオーディションを受け合格した上、大問題を起こして世間に迷惑をかけるだろう。
「母ちゃん、この曲踊って!」
「いいよ」
若葉が虹花にねだったのは、イミテーションローズ。卒業公演の為に書き下ろされた、虹花だけの曲だ。
(よりにもよってこれかよ)
常若は数十年ぶりに虹花が歌って踊る姿を見たが、子持ちの主婦になってもその輝きは衰えることがない。卒業から数十年経っても、芸能界への出戻りを懇願されるだけのことはある。アイドルが虹花にとっての天職であったことは間違いない。たとえそれが、嘘で塗り固められた偶像であったとしても。
「母ちゃんすげー!完コピじゃん!」
「ふふ。本人だから。完コピじゃないとおかしいよ。ね、常若くん。常若くん……?」
常若が虹花を独占したいと願ったから。虹花はたくさんの人たちの前で大輪の花を咲かせる機会を失ったのだ。
美しく輝く虹色の薔薇は、白い薔薇に代わり、今は常若の色に染まった。
時折こうして、常若の色から虹色に輝く瞬間が、常若は苦しくてたまらない。胸が締め付けられそうだ。
常若が好きだと伝えなければ。両片想いであると、虹花に恋を諦める必要がないと伝えなければ。虹花の薔薇は虹色に輝くイミテーションローズのままだった。
「私の幸せは、虹色の薔薇としてステージで花開く時じゃないよ」
「虹花……」
「私はもう、虹色になれる白い薔薇じゃないの。常若くんの色に染まった、青薔薇だよ」
青薔薇は不可能を可能にする。人工的に作られた薔薇だ。白から虹色、白に戻して青色に。
虹花は一度常若に好かれていないと彼への気持ちを諦めてしまったが、常若が虹花への恋心に気づくことで、こうして2人は得られるはずのなかった幸せを掴み取った。それは正しく、不可能を可能にする奇跡に等しい。
「……そうだな」
(次の結婚記念日には、青薔薇を送るか……)
常若は結婚記念日には白い薔薇と虹色の薔薇を虹花に渡していた。今年はその2本に加えて青薔薇を渡そうと決めた。
白い薔薇は若葉、虹花は虹色の薔薇。そして常若が青薔薇になれば、家族3人の象徴と言い換えても無理はない。
「虹花。俺を好きになってくれてありがとな」
「どういたしまして!」
これからも、常若と虹花は、愛の結晶として生まれた若葉と共に。家族3人で幸せな人生を歩んでいくー―