道に迷ったっス
およそ三日ぶりの睡眠だった。
いくら起きていられるからと言って、しかも実験途中で眠気が邪魔だと薬を自らに打ち込んでいた体は切実に休息を欲していた。
だから、一度休む為に目を閉じたらあっという間に意識は体が不足分を一気に取り戻すまで起きなかった。
カンカンと何かを打つ音でミシェルは目を覚ます。
実験室に敷かれた布団から体を起こした。
長い睡眠から解き放たれた体は、全身がかなり硬直していて顎の駆動部すら錆びたように固い。
感度の悪い首を回して周囲を見る。
実験用道具を使って、イグルが器用に料理をしていた。
幾つかは彼が持ち込んだ物だが、普通の調理器具よりは脆い実験道具で料理を行えてしまうところが彼の器用さを物語っている。
室内に漂う芳ばしい匂いに誘われて、ミシェルは布団を出るとイグルの隣に立つ。
「なに作ってるっスか?」
「おはよう、ミシェル」
「それ、晩ごはん?」
「いや、朝餉だよ」
笑顔で答えたイグルが窓を顎で示す。
日中もずっと黒いカーテンを閉め切った暗室状態なので、平生ミシェルに時間感覚はない。三日寝ていなかったのもあって、仮眠のつもりが爆睡してしまったのかもしれない。
ミシェルは窓の側まで言ってカーテンを開けた。
「っ!」
長く暗室に慣れていた網膜を叱責するような朝日だった。瞳がわずかな痛みを伴って必死に光の世界に適応しようとしている。
久しく見た太陽に、ミシェルは蝋燭の火とは異なる温かみを感じて小さく息を吐く。
ようやく目が慣れてから、ちらと実験台の上を見た。
途中だった実験器具は片付いている。
ベルソートや同伴していたサマレスの姿もない。
「師匠たちは?」
「先に学園で待ってるって」
「学園?まだ論文とかの発表予定は無かったはずだけど」
「何を寝惚けてるんだ?というより、臭うから早く体を洗って着替えてきた方がいいよ」
「…………」
純真な笑顔で毒を吐くイグル。
ある程度は気にしなくはなったが、ミシェルはつくづく失礼な青年の物言いに半目で訴える。本人はどこか胸を弾ませるような浮かれた調子で料理していた。
体を洗うのは基本的に面倒だ。
実際に、魔法の中には生活魔法という類の技術があり、これの中にある『洗浄』さえ学んでおけば、体の汚れは容易に取れる。
水を無駄に消費するより、勝手に回復する『魔力』を消耗するだけであるこちらの方が、水を汲んだりする作業の苦労に比べて効率的だ。
だが、イグルがそれを許したことはない。
この青年は、今は人の姿に化けているだけで本性は魔法使いすら敵わない怪物のくせに人間らしさを追求し、文化的な生活をミシェルにさせようとする。
魔法も充分人類の生活に根を深く張る文化的な技術なのだが……。
ただ抗議する体力も勿体ないので、黙ってイグルの言葉に従う。
実験室に併設された洗い場で水浴みをして、石鹸で軽く体を洗う。
洗い場を出ると、小ぢんまりとした脱衣所の床に服が用意されていた。
だが――。
「は?なんで制服?……あ」
ベルソート達の話を思い出して、ミシェルは嫌嫌服の袖に腕を通す。
やや防御力が低いと思われる膝丈のスカート、薄い朱のブレザーを着てから脱衣所を出た。
実験室に戻れば、すでに料理が用意されている。
実験台に乗せられた、この部屋の風体で取るには似つかわしくない栄養満点の食事。
イグルは配膳を終えると、ミシェルの存在に気づいて微笑んだ。
「や、似合ってるじゃないか」
「バカにしてる?」
「む、いつも着てる小汚いローブよりは断然良いと思うのだが」
「ッ…………はぁ、ホントにコイツは」
呆れて怒りも萎む。
ミシェルは椅子に座って、食事を取り始めた。いかに実験室を出ず、運動もせず、ひたすら実験ばかりの不摂生のミシェル。
彼女が辛うじて生き存えている理由はイグルの献身ありきだ。
研究熱心で最低限の事も疎かにするミシェルに対して、せめて簡単でも良いので食事だけは取るよう納得させるべく常々抗議していた。その努力が功を奏し、面倒臭がりのミシェルはイグルを黙らせるのに要する労力などを鑑みて素直に従うのが消耗も最小限と考えて大人しく従っている。
尤も、本人に任せると樹の実や食事と呼べるかも怪しい軽食ばかりである。
何日かに一度、見かねたイグルが食事を作るのが習慣になっていた。
「これって、高等部の制服?」
「うん」
「えー、まだ論文とか途中なのに。…………あと昼に発注した魔法薬品とか搬入されるから、受け取り作業とか山程ある」
「…………俺がやっておこうか?」
「素人が手を出すのは危険だから」
ミシェルは嘆息する。
その脳内では、自分を魔法学園にぶち込んだ憎き師匠に用事を代わって貰う算段を立てた。
頼みを受ける以上、ミシェルの生活時間を削る責任も発生するので、その追及ぐらいは承知して貰わなくては困る。
「イグルはどうする?」
「それなんだけど、俺は魔法の素養が無いし」
「イグル一人だけ楽させるの嫌なんだけど」
「そうか、君は意地悪だな」
そう言いながらもイグルは嬉しそうだった。
食事中、彼はミシェルの髪を結わえる。
器用に編み込みなどを作っていく速やかな手作業は、さながら本職じみた手練を触れられた髪から感じさせる。
ものの数分で完了してしまった。
「じゃあ、俺も清掃員とか学園内の仮雇用でもしようかな」
「普通にいつもので良いんじゃない?」
「それは皆が驚くだろう」
「校舎内じゃなくて学園の庭とか、物好きが可愛がってくれるかもよ?」
「…………ミシェル、俺無しで大丈夫か?」
心底から心配だ、と語る灰色の瞳。
ミシェルはその視線を煩わしそうに睨み返す。
「あたしを誰だと思ってんの」
「俺からすれば、ただの幼い女の子なんだが」
「その女の子の飼い犬やってるなんて、良い趣味してる」
ミシェルは皮肉で返して、料理を平らげた。
レギューム魔法学園高等部。
年齢を詐称した上に入学試験も受けていない裏口入学ではあるものの、実態を察知されないよう周囲に同じ学生として上手く溶け込みながら事件捜査を行っていくしかない。
いつも通り研究をしたいが、基本的に学生として拘束されるので暫くはお預けとなる。
「ようし!」
「準備はできたかな」
「うん」
椅子から立ち上がって、体を伸ばす。
それから洗濯された黒いローブを羽織り、食器を片付けたイグルの胸をとん、と手で叩く。
「それじゃ、いい子にしてなよ」
イグルはその命令に嬉しそうな顔で頷く。
ミシェルが背を向けると同時に―――音もなく体が霧となって散った。
飼い犬の驚愕の退場にもミシェルは構わず、実験室を出て扉に鍵を閉める。
この通路に出るのも、かれこれ二月振りだ。
基本的な物資の補給などはイグルに任せ、薬品関連のみがミシェル対応であり、それが約二月前だ――以来の室外、外出である。
だが、そこに何の感慨もなくミシェルは校舎の中を歩いていく。
憂鬱な『青春』が待っていることに変わりは無い。
「はー、あたしだけ十二歳でどうやっていけと」
ミシェルは思わず愚痴る。
深刻な事情があったとはいえ、高等部に捩じ込んだベルソートの判断は、やはり迷惑に変わりない。
事件についてもう少し仔細を聞きたいミシェルだが、情報提供者がロクな人間ではない事が心配だった。
「えーと、荷物はイグルが用意したこれとこれと……」
学園に行くに辺りに、荷物は意外と多い。
用意されたのは制服と、教科書、魔法を行使する際に補助道具となる杖だ。
ミシェルも杖は使用しているが、今回は愛用している身の丈以上ある長杖ではない。学生用に支給された前腕ほどの長さしかない短杖である。
「頼りなーい……」
長杖は、一流の魔法使いの証だ。
それを使えば学生たちに違和感を持たれてしまう。仕方なしと自らを納得させて、有事の際にすぐ出せるよう、ミシェルは袖の中に杖を呑んでいる。
袖の中に仕込むのは、襲撃された時に敵から無防備だと思わせ、不意打ちを食らわせる為の装備の仕方だ。
……実は、普通は腰に杖を差すのが学生の中で一般的とされる。
幼年期に荒んだ世界で過ごしただけあり、既に心構えの異質さが滲んでしまっていた事に無自覚なミシェルであった。
学園で一体何をするか、ぼーっと考えながら通路を歩く。
既に授業が始まっているのか、静かな通路には室内から漏れた教員の声と、わずかな物音ばかり。
各教室の扉に作られた小窓から覗くと、教鞭を振るう教師と生徒たちが真剣な眼差しで見合う景色が広がっていた。
学習意欲の高い者たちと、彼らの意思に応えんとする教師の熱量で室内は別世界のように感じさせる。
「うへー……あたし、このノリ無理なんだけど」
ミシェルは小窓から顔を離して、長い通路を見渡す。
「しっかし……迷った。高等部ってここら辺だとか聞いたけど、教室が何個もあるし……というか何処の教室所属か聞き忘れてて分かんない」
せめて、イグルくらいにも尋ねておくべきだった。
いや、気配りのできる彼ならその程度の事はベルソート達から聞いていればミシェルに必ず伝達する筈だ。
つまり、ミシェルの失念ではなく単に伝え忘れたというベルソートが杜撰なだけか。
「おい、君!」
「はい?」
「そこから先は高等部の人間が入る場所だぞ。君のような子供が入るところではない」
背後から呼びかける声にミシェルは振り返る。
同じ制服に身を包んだ少年が、頭上から見下ろしていた。
蜂蜜色の髪を肩に流し、冷ややかな眼差しを送る翡翠の瞳がミシェルの姿を映す。整った鼻梁が放つ警戒の雰囲気は、異様なほど鋭さを帯びていた。
「あたしも高等部っスよ」
「しかし、どう見ても……」
「ちょっとワケ有りな体なので、人より成長が遅れてる体質なんスよ」
「…………体質か。魔力障害で成長が遅れるという事例があるのは耳にした事がある」
お、とミシェルは少年から返ってきた意外な反応に感心する。
てっきり、嘘をつくなと追及されると思っていた。
呼びかけてきた時の声の険難さに反して、存外冷静な人なのかもしれない。
「それで、教室って何処にあるんスかね」
「教室を知らない?」
「実は入学したは良いものの、準備とかに手間取って今日が初登校なんス」
「……そうか。因みに所属クラスは?」
「それも分かんなくて」
何もかも情報が欠落しているミシェルに、少年は短く嘆息した。
「名前は?」
「ミシェル・エンテント」
「ミシェル・エンテント…………ああ、一年六組の」
「あら」
どうやら、ミシェルの所属教室を把握しているようだ。
ミシェルはこれ幸いと合掌して頭を下げる。
「どうか案内して欲しいっス」
「すまない。今は忙しくて、同伴は出来ないけど道順は教えられる」
「いやいや、それだけで助かるっス。……それにしても、何であたしのクラスが分かったんスか?」
「学園に在籍する人物の名は全て把握している……と、そんな事は後で。道順を教えるから、早く教室に向かいなさい」
「はーい」
少年がミシェルへと丁寧に道順を教える。
「……という感じだが、これでも分からなければ最悪は近くの教室に入って、教師に事情を説明するといい」
「了解。親切にどうもっス」
「いやいや。それじゃ、僕も失礼するよ」
去っていく少年を見送り、ミシェルは改めて教えられた道順に従って歩き始めた。
「……あの男の子から魔法の気配がしたんだけど、気の所為か」




