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ミシェル、ただの魔法使い……さっ!




 北大陸北部の大国リューデンベルクで、とある街が魔獣によって襲われていた。

 魔獣とは人だけを狙って襲う怪物で、四千年前に英雄の手で倒された魔神の遺骨から発生した奇妙な洞窟――『胎窟(たいくつ)』から生まれる。

 この胎窟は世界全土に幾つも点在し、この街の付近にも一つ確認されていた。

 ただ排出される魔獣の数は少なく、魔獣被害もほとんど無い穏やかな土地のはずだった。


 しかし、それを瓦解させるようなある不幸が襲う。


 起きたのは魔獣の大量発生。

 数年、あるいは数十年に一度の頻度でしか起きない。

 その稀にある大惨事が今、街を襲う災厄の原因だった。


「逃げろ、早く!」


 町人たちが一斉に街を出ていく。

 その後ろを、異形の生物が猛追していた。

 長く生え揃った牙を有する巨大な雄山羊の怪物の群れは、目の前で逃げ惑うご馳走めがけて我先にと仲間と競争する。

 後ろから迫る死に町人は走りながら、一人また一人と脱落して後ろで命を落としていく。


「ぎゃあっっ!!」

「いぎっ!?」

「だ、誰かぁああがっ!!」


 雄山羊は人間を蹄で踏み押さえて、ゆっくりと味わうように食む。

 その間も、別の雄山羊たちは羨ましいから次は自分もと足を加速させた。


「くそ!冒険者でも何でもいい!誰か助けてくれ!」


 町人の一人が叫んだが、それも虚しく雄山羊の怪物に捕まった。

 魔獣退治には多大な労力を要する。

 たとえ一匹であっても、腕利きの戦士が数名がかりで立ち向かわなくてはならない。なお、この魔獣に至っては『闇山羊(やみやぎ)』と呼ばれる種族であり、まず分隊を率いて対処すべき個体だ。

 体はおよそ大人二人分に相当する体格で、その足は馬よりも速い。

 それが十数匹、徒党を組んでいる。

 突然の来襲に、まともな部隊の編成などできない。

 無防備な街は、呆気なく魔獣に侵略されていく。


「あうっ!」

「メル!」


 逃げていた人々の最後尾で少女が転倒する。

 少女の姉が慌てて踵を返し、彼女へと駆け寄った。

 少女は痛みで走ることができない。

 転倒の際に足を捻ってしまったようだった。

 姉は急いで抱え上げようとするが、ふたりともまだ幼く、非力なので互いを抱えて走るなどできない。

 それでも諦めず、少女を支えようと頑張る姉の背後では、非情にも追いついた魔獣たちが舌なめずりしていた。


「お姉ちゃん、早く逃げて!」

「あんたを置いていけるわけないじゃない!」

「でも……あ」


 吹いた温い風が魔獣の吐息と理解し、青褪めながら二人で後ろを振り返る。

 そこに大きな口があった。

 あの中で、これから自分たちは殺される。

 あと数秒で到来する残酷な未来に、少女たちは絶望して固まっていた。

 既に何人かを殺めたのか、たっぷりと血に濡れた牙が目の前に突きつけられた。二人に覆いかぶさるように、魔獣の一頭が口を開けている。

 …………終わった。

 諦観に、少女と姉は互いに抱きしめ合う。

 せめて最後まで一緒に、死の恐怖に堪えるために目を瞑って、



「おや、お腹が空いてる? それなら良い物があるっスよ」




 突然頭上から降ってきた声に驚いて目を開ける。

 ぴたり、と魔獣の口が止まった。

 街中の魔獣たちが、二人や逃げる町人から視線を外して空を振り仰いだ。

 横倒しの長い杖に座る小さな影が太陽を背にして空に浮いていた。

 よく目を凝らせば、少女と同じ年の頃にすら見える幼い顔立ちと小柄な体、不格好なほど大きなローブを身にまとっている女の子だ。

 昼の陽光を浴びて艶を帯びる金髪に、海のように深みのある青い目。

 ローブの女の子は魔獣たちを微笑みながら眺めていた。

 余裕綽々と自身らを見下ろす小さな存在に、魔獣たちが吠える。


 ――見下ろしていないで降りてこい、食ってやる!


 そんな言葉すら聞こえそうなほど荒れた魔獣たちの様子も、ローブの彼女は気にも留めず欠伸をした。


「お腹が空くと人も魔獣も機嫌が悪いっスよね」


 そんな間の抜けた台詞を言い放ち、ローブの女の子はゆっくりと地上に降りて来る。

 一軒の家屋の屋根上に立って、魔獣たちの足下でうずくまる少女たちに手を振った。


「ちょっと我慢してるんスよ?」


 ぱちん、と女の子は指を鳴らす。

 何気ないただの指の音が、どこか不思議な重みを宿して街中に響いていく。

 吠えていた雄山羊たちも、その自身らの声よりも断然小さくて細やかな音を耳にして、口を閉ざした。

 魔獣たちの意識が、一つ残らず女の子へと集中していく。

 そして注目を浴びる最中、女の子の口から小さく囁かれた。


「『あなたの隣に、あなたたちの大好物があります。さあ早い者勝ち、美味しく食べちゃいましょう』」


 女の子の声を聞く。

 魔獣たちはしばらく固まっていたが、やがて隣りにいる仲間を見て、よだれを垂らした。

 まるでそこに血の滴る大好物を置かれた野犬のように、興奮に熱くなった荒い息を漏らす。

 そして。


「ひっ」


 誰かが小さな悲鳴を上げる。

 それもそのはず、何せ突然その眼前で雄山羊たちが互いを攻撃し始めたからである。仲間の足に、首に、腹に爪を立てて、牙を剥く。

 肉を引き裂き、溢れる血もろとも骨を舐る。

 あまりの不快感に嘔吐する者すらいる中、ローブの女の子はその光景を淡々と見ていた。


「なんなんだ、あの少女は」

「魔法使い…………にしては、幼すぎる」


 誰もが屋根上に佇む女の子に戸惑っていた。

 魔獣たちをたった一声で混乱させた張本人は、そんな芸当を披露したとは思えないほどの威厳も感じられない幼さの目立つ外見の持ち主。


「お、出たっスね。 君が頭目(リーダー)っスか」


 魔獣のみならず町人たちの注目も束ねた女の子は、喰らい合う魔獣たちの中でただ一匹だけ自分の指の音や声に反応しなかった個体に目を向ける。

 他とは違い、体格がその数倍はある。本来なら届かない家屋の上にいる女の子と目線の高さが同じだった。

 頭目としての誇りか、群れの指揮権を横取りした女の子に途轍もない敵意を燃やしていた。

 瞳は爛々と輝いて、視線だけで相手を殺さんばかりに眼光は鋭い。

 それでも女の子は笑っていた。


「さすがに頭目になれば、こんな簡単な『催眠(まじない)』は効かないっスね」


 女の子が長い杖を振る。

 目の前の虚空に何かを描くように動かした。



「『あなたに不安はない、ここはあなたの故郷、安らぎの地。あなたに敵はいないのだから立たなくていい、爪も牙も要らない、目を開けなくていい、起きていなくていい』」



 再び、魔的な響きを帯びた声が響く。



「『ゆっくり、ゆっくり。力は要らない、呼吸も要らない、ここはあなたの巣、あなたは満たされている、幸福な夢に浸って――――さあ、おやすみなさい』」



 女の子の言葉に、巨大な山羊の頭が舟を漕ぐ。

 ゆっくりと街路に横たわって、地面の上で寝息を立てる。少しずつ、少しずつ吐く息は小さくなって……遂には、呼吸が止まった。

 安眠と偽った死へと雄山羊の頭目を誘った女の子は、その死体の上に羽のように舞い降りる。

 それから、まだ後から街へと雪崩込んでくる魔獣たちを一瞥した。既に街中で仲間割れをさせた群れは全滅している。

 しかし、遠目に見ても、まだ魔獣の列は終わらない。

 幾らやっても(きり)がない。


「魔法使い様、お助けを!」

「お願い、魔法使い様!」


 女の子の背中に向かって、町人たちの声が降り注ぐ。

 助けられた少女と姉も、無心で魔法使いの女の子に叫んでいた。

 それらを聞き届けて、女の子は嬉しそうに頷く。


「久しぶりに人に崇められる感じ、悪くないね。まー、調子に乗ると師匠にまた叱られるんで早めに終わらせるっスよ」


 女の子が長杖の石突で足下を叩く。

 すると、街全体の地面から湧くように霧が発生する。景色を飲み込んでいく濃霧は、女の子の後ろだけを覆い隠すように流れた。


『呼んだかい?』


 霧の一部が渦巻いて、巨大な狼の頭を象る。

 ミシェルの背後の霧中に無数の瞳が浮かび上がった。


「久しぶりの歯応えある飯、堪能してきなよ」


 女の子の声に、霧の獣が笑う。

 ざあっ、と風に流されたように霧が魔獣の群れへと向かい、街へと侵入した個体だけに留まらず、その後列に控える塊もことごとく飲み込んでいく。

 まるで雲が地表まで降りたように町を呑み込んでいく最中、不吉な音と魔獣の悲鳴が空に響いた。


『ばり、ばり。むしゃ、むしゃ』


 遠くに聞く者も、自分の体の内側で響いているのではないかと錯覚する奇妙な咀嚼音だった。

 噛み砕かれた魔獣たちの悲鳴だけが遠い。

 女の子の指示に従い、獣は歯応えも味も堪能しているようだった。






   ×    ×    ×




 霧の猛威が彼らを飲み込んで半時が経過する。

 血に染まった街路と、わずかに死骸を残して大量の魔獣は消え去った。

 惨劇を終わらせた霧が消えて、ローブの女の子だけが取り残される。

 しばらく呆然としていたが、魔獣の脅威が去ったと知って町人たちが歓喜の声を上げた。


「おお、魔法使い様!」

「ありがとうございます、ありがとうございます!」

「なんてことだ。あれは神の使いか?」


 絶望的な状況を変えたローブ姿の女の子が神々しく見えた彼らの口からは賛辞が絶えない。本来なら国の軍を動かして倒すべき規模の被害を、たった一人で平らげてしまった女の子の偉業に彼らが感謝するのは当然だった。

 国に救いを求めても間に合わなかっただろう。

 だから、この場に現れた女の子を奇跡そのもののように感じているのだ。

 そんな反応に、町人たちの声に耳をすましてうんうんといい気になっている女の子。

 その傍に、少女と姉が駆け寄った。


「魔法使い様、助けてくれてありがとう!」

「いえいえ、仕事…………こほん、人助けをするのは当然っスから」

「妹を守れってくれてホントにありがとう」

「ふふふ」


 感謝する姉妹たちに慈愛に満ちた微笑みを向けて、女の子は杖にまたがると空へと上昇した。


「あっ、何処に行くんですか!?」

「忙しくて、早く次のところに行かないといけないんスよ。街の人にも、まだ魔獣がいる可能性も捨てきれないから警戒を怠らないように、って伝えて欲しいっス」

「ま、待って、せめて名前を教えて!」


 姉妹に背を向けて飛び去ろうとする女の子は、その声に振り返った。


「――ミシェル・エンテント、ただの魔法使いっスよ」







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