陽炎
「戻ってきた兄が双眼鏡を覗くと…。兄の顔に変化が生じた。真っ青になり、冷や汗を流し、ついには双眼鏡を落としてしまう…。弟は豹変した兄に質問をする。『何だったの?』それに対して兄はゆっくりと答える。『わカらナいホうガいイ…。』」
風鈴が鳴る。
彼は、また煙草を吸っている。
口から煙を吐き出す。
白い煙がクネクネと天井へと登っていく。
「その声は、兄の声では無かったらしい。そして、兄はそのままヒタヒタと家に戻っていく。弟は、白い物体の正体を探ろうと落ちた双眼鏡を拾おうとしたのだが、兄の言葉を聞いた為か、見る勇気は無い。しかし気にはなる…。」
何だろう…。私の内に沸き上がる感情があった。
彼は、煙草を吸いながら私を観察している様にも見えた。
「弟は奇妙に感じているモノの恐怖は感じていなかった。どうしても白い物体の正体が知りたくなった弟が双眼鏡を拾おうとすると…。祖父が駆け寄って声を荒らげた。『あの白い物体を見てはならん。見たのか?お前、その双眼鏡で見たのか?』。それに対して弟は『いや…。まだ…。』と答えると。祖父は泣き崩れる。」
その時…。
ガタンと何かが崩れる音がした。
彼が「ごめん…。」と声を発した。
どうやら机の上の灰皿に煙草を押し付けた時にー。
机に重ねていたCDが崩れてしまったようだ。
「あっ。続けて…。」
彼は右の掌を左右に振りながらー。
そう言った。
あぁ。私はー。
そう呟いてから言葉を並べていく。
「弟は理解できていない儘、家へと帰らされる。家に帰ると、皆が泣いていた。兄が狂ったように嗤い、あの白い物体の様にくねくね、くねくねと身体を揺らしている。弟は白い物体よりも、兄の姿に恐怖感を覚えてしまう…。」
チリンとー。
また風鈴が鳴った。でも、風が吹いていた気配はない。
私はー。
続けて言葉を置いていく。
「家に帰る日、祖母はこう言った。『兄は此処に置いといた方が暮らしやすいだろう。あっちだと、狭いし、世間の事を考えたら数日も持たん…うちに置いといて、何年か経ってから、田んぼに放してやるのが一番だ…。』弟はその言葉を聞いて泣き叫ぶ。以前の兄の姿はもう無い。来年会えたとしても、それはもう兄ではない。そう感じてしまう…。」
まただ。
チリン。と風鈴が音を立てる。
いや…。風鈴は音を立てたのか?
風は吹いてはいない。窓の外は炎天だ。
陽炎が揺れている。
アスファルトの上をユラユラと陽炎が振れる。
それは景色をクネクネと歪ませた。
「あれ?続きは?」
彼の声が唐突に鼓膜を刺激した。
我に返り、私はまた、言葉を紡ぐ。
「あぁ。ごめん。弟は祖母の家を離れる事にした。祖父達が手を振る。その中で…。変わり果てた兄が、一瞬だけ手を振っている様に見えた…。遠ざかってゆく中、弟は兄の表情を見ようと双眼鏡を覗く。兄は確かに泣いていたのだそうだ。表情は嗤ってはいたのだが、1度も見せなかったような悲しい笑顔だった…。曲がり角を曲がると兄の姿は見えなくはなったのだが…。弟は感傷に浸り、その儘、双眼鏡を覗き続ける。『いつか、元に戻るよね…。』そう、思いつつ、風景を眺めていた時だ…。弟は、見てはいけないと分かっている物を、間近で見てしまう…。」
ーそんな話だよ。
私は言葉を並び終えるとー。
窓の外に視線を送った。
炎天だ。陽炎がユラユラと揺れていた。