Prologue
穏やかな日差しが降り注ぐ、明るい森の中。
清楚な白、華やかな赤とオレンジ、鮮やかな青に薄紫、可憐なピンクに黄色―――…。彩りも鮮やかな花々が、一面の、瑞々しい緑に世にも美しいアクセントをつけている。
その一角。
木々の間からほんの一部分だけ顔を出している巨大な石造の建築物の、高い二本の柱に囲まれた森への入り口に、青年が一人立っていた。
黒い髪、青い瞳。
地球人特有の顔立ち、体格はその中でも小柄な部類に入る若者は、ゆっくりと、暗い内部から明るい外に目を転じた。
視線の先には、緑の若葉に囲まれて、一人の若い女性が佇んでいた。
新緑の、若葉色より薄く、淡い、神秘的なエメラルドグリーンの髪。けぶるような同じ色の瞳。
「───」
気づいて、その人は微笑んだ。
その笑みは、心に染みいるように美しく、しかし、視線を移した次の瞬間、ふと思い出せなくなってしまうくらい儚げな………。
「そうしていると───」
若々しい、誠実な口調で言いかけて、青年は止めた。
ここはリウ星系、第三惑星リウ・アラーム。
主星リウを中心とした三つの惑星のうち、唯一αレベル知的生命体が生存可能である惑星―――別名、常春の国。
ただ一つの大陸、『ルレリアム』には季節の区別がなく、一年中温暖な気候が続いている。
住民は単一民族で、個人差はあれ、地球人とほとんど変わらぬ顔の造作と体型、緑色から黄緑色までの髪と瞳、薄い黄色の肌をしている。
しかし今、一目で宇宙の人間と分かる黒髪・碧眼の青年の前に立つ女性………というよりも、少女に近い華奢な人影………は、生粋のリウ・アラーム人であるにも関わらず、外から見える全てにおいて色素が薄く、白い肌、ほとんど色がついていないような………本当に、淡い微かなエメラルドグリーンの瞳と髪をしていた。
それが少女の存在感を、他とはかけ離れたものにしていた。
こんな人間は、この惑星にはほかにはいない。
顔立ちはごく平凡………整っているとも、ひどく不調和が目立つわけでもない。まずその瞳の色に………次にその存在感、あるいは雰囲気に心を奪われて、その他の印象が薄れてしまう───そんな感覚をもたらす存在だった。
「―――そんなに興味がありますか?」
少女は不意に口を開いた。
子どものように高いトーンと落ち着いた口調がアンバランスな印象。
「え?………ええ」
問われて青年は戸惑い、それから真面目な口調で答えた。
「―――あなたに」
「あなた………?」
少女は流暢に宇宙標準語を繰り返してみせた。
「ええ、あなたに」
青年はその短い応答にこめられた意味に気づいても、凡庸に肯定してみせただけだった。
彼の目の前に立つこのリウ・アラームの少女には二つの名がある。
ソシュと、ファラ・リュード。
それぞれはこめられた意味が違い、そして一人の人物を差していた。
人―――と彼女を表して許されるならば。
少女は大人びた口調で、
「あなたが興味を引かれたのは、『ファラ・リュード』に対してですね?」
問うと、
「僕がもう一つの名前に興味を持っちゃ、やっぱりマズくないですか?」
青年は素早く言葉を継ぎ、おどけて両手を広げてみせた。
「なぜ?」
「えー」
青年は一瞬、少女が真面目に尋ねているのか、それとも彼のジョークにつき合っているのか、見極めるように見返した。
「―――だって、一応は妙齢の男女じゃないですか、ってこんなこと、リウ・アラームの人にでも聞かれたら即刻死刑かな」
「この国に死刑制度はありませんよ」
相変わらず少女の口調からは気持ちを読み取れなかった。
しかし、
「あ、これは失礼………冗談が過ぎました」
青年は即座に率直に謝った。
「いえ………」
少女は口元に浅い笑みを浮かべ、彼の謝罪に気にしてないことを示した。
「―――冗談はともかく」
少女の一挙一動を見守りながら青年は続けた。
「『ファラ・リュード』………あなたの力にだけ興味があるわけではないんですが」
「はっきりお言いになる」
「失礼。そうじゃなくって―――」
「神の領分と、人の領分に跨る存在に興味を引かれるのでしょう」
少女はサラリと告げた。
「………さすが現人神」
青年は目を見開いた。
「分かりますか?」
それに対して、女神―――ファラ・リュードは微かに笑っただけだった。
第一級辺境星域に指定されるリウ・アラームは、K-1レベル(恒星間飛行可能段階)到達以前の文明との接触を禁じる、いわゆるラリス法制定以前に銀河連合との条約が結ばれた、きわめて珍しい惑星だった。
そのため、この星の歴史はかなり特殊な過程を経てきていた。
形骸化している宇宙港に象徴されるように、この星に近代化が進まない主な理由は地理的条件だけでなく、極度に閉鎖的な単一民族構成が挙げられる。
しかし、それは同時にこの国固有の文化を依然として連合接触以前のままに保てている理由でもあった。
電力発電すらない、原始的で、自然が豊かで気候の穏やかなこの国は、千年もの時の流れの間、ほとんど変化をきたしていないといってよかった。
「言うなればこの星自体が童話めいた国ですから………」
「常春の国………」
青年は、若葉に溶け込む少女ごと、森の風景に目を細めた。
「パステルグリーンの瞳と髪と、白い肌の人々は、永遠に変わらぬ、穏やかで平和な生活を享受してるんですね。しかもこの星には生ける神………可憐な女性の形の守護神がいらっしゃる」
青年はポーカーフェイスを装って言葉を紡いだ。
「変な方………」
少女はクスクスと笑い出した。
「まるで羨んでいるように聞こえますよ」
いっときの異邦人───宇宙を股にかける人に向かって。
「羨んでるんですよ」
彼は気軽な口調で返した。
「この国の人たちは幸せだなぁって。………いや、この時代の、とつけ加えるべきでしょうか?」
「………」
彼の言葉に対して、少女は笑みを消しはしなかったが青年にはその変化が分かった。
「僥倖、なのでしょう? あなた―――ファラ・リュードがいらっしゃる時代とは………」
淡い、透明色に近い緑色の瞳が穏やかに見つめ返す。
青年はうっとりと、その瞳を見つめることができる僥倖を楽しんだ。
この星の支配層は複雑で、平民の上に貴族がいて、その上に王族がいる。そして王族とは別に───王族と同等であるが、別の次元に皇族というものが存在する。
少女―――『ファラ・リュード』は皇族の女性のことをいい、いうなれば一人の人間の名ではなかった。
では何人もの『ファラ・リュード』が存在するかといえばそうではなく、皇族にはメランシーナが生まれること自体稀であり、つまり通常、皇族イコール男性で、王族のメランシーナと婚姻を結ぶことが慣例となっていた。
「あなた―――がお生まれになったのはここ二百年、初めてのことだとお聞きしましたが」
「それで十分でしょう………。いかに時間の止まったこの国といえど、緩やかな変化には逆らわずにいるのですから」
「それはいずれ………この国の現人神信仰が薄まっていくということですか?」
青年は少し驚いて、しかし正確に少女の言わんとするところを読み取った。
科学という名の神に支配され、合理主義の波にさらわれていった総ての星々がかつてそう辿ったように、この星もまた───と。
「しかし………まるで変わらぬように思えますが。この星の人々の、………あなた―――ファラ・リュードへの想いは………」
何千年という時を経ようと。
「………ええ………」
幾万ものリウ・アラーム人の、その正に信仰の対象である小柄な少女の形は、小さく呟いただけだった。
その表情は余人に窺い知れるものではなく………―――青年はそれ以上の質問を諦めた。
人々の前には滅多にその姿を現さぬはずの『ファラ・リュード』がこんな風に自分とじかに会ってくれたのはいくつものチャンスが重なった偶然の賜物にすぎない。
青年は口を噤んで、まるで彼女の姿を瞼に刻みつけるように、そして許される限りずっとそうしていようと、相手を見つめた。
森の中の少女は、常緑の風景に溶け込んでいる一人の人間にしか見えない。
少女は彼の視線に気づいて、「なにか?」と問い返す代わりにフワリと微笑んだ。
その美しさに───造形の整った、目に見える華やかさ、ではなく、心に染み透っていくような、馥郁たる恵みの深さに───目を奪われたまま、旅人はらしくなく口ごもった。
「………いえ………。ふと思ったんですけど………きっと二百年前にもこうして………佇む人がいらっしゃり―――もしかしたら、その姿を拝することが出来た、そんな僥倖を得られた人間もいたんじゃないかって………」
変わらぬ、それは永遠の風景………。
「………ここはパムール―――神殿の奥。滅多に人は近づきますまいが………。だけどこの森も神殿もなに一つ変わっていないことは確か………」
少女は視線を上げて、今青年が立っている、明るい森の中とは対照的に、荘厳な雰囲気が漂う暗い神殿の裏の入り口の一つを見上げた。
最小限の飾りしかない質素で巨大な建物は(ここからはほんの一部しか窺えないが)、数百年の時だけが風化という足跡を威厳と共に残していた。
森は成長し、木々は一年ごとに葉を変えていくのに、人の目には数百年、この風景が変わったようには見えない。
明るい日差しの中、『ファラ・リュード』は数百年前も確かにここにいたのだ。
その力は宇宙に浮かぶ一つの大地、惑星そのものに起源するといわれる『ファラ・リュード』―――リウ・アラームの守り神。
惑星上に発生した全ての生命を導き、見守り、いつか終焉を迎えるこの星と運命をともにするといわれている。
惑星全体を覆う力と可憐な少女の姿。
そのあまりにも非現実的な取り合わせに、青年は思わず、「今、なにを考えているのですか?」といった平凡な問いを投げかけそうになっては止め、他に言葉を見つけようとしたが、結局は何も思い浮かばなかった。
神に人の心を期待してはいけないと知りつつも、やはりそのたおやかで大人しげな少女の形から想起する親しみやすさのせいか、青年の胸から友好的な感覚を完全に取り除くことはできなかった。
まるでそれすら少女―――『ファラ・リュード』は読み取り、理解しているかのようで………。
「………ああ………」
ふと横を向いた彼女が何かに気づいたように嘆息し、青年は思わずその方向を見やった。
その瞬間、風がやさしく二人の顔をなぶった。
「………誰かが話しているわ………」
風に髪を委せたあと、少女はゆっくりと顔を戻した。
「偶然………ここはファラ・リュードにとって、誰かと言葉を交わす貴重な“場”だったようね………」
一体何を言っているのか、青年は考えるより先に呟いていた。
「………誰が………?」
「さあ………」
少女は銀色の睫を微かに伏せた。
「―――風が覚えているだけだから………」