「シガア地域編」後半を書きました
【第23話「強襲」】
この話は文字通り、創作論Aの「戦い」の回です。
中盤でクアドラプルの隊長とフォクリックの民の総頭が対峙します。2人は十年以上の顔見知りで、実年齢は隊長のほうがずっと上です。しかし外見は、長命のシガアの民に対して短命のフォクリックの民、出会ったときは総頭の外見のほうが若く見えたのですが、このときには追い越して老けて見えるという状態になります。
こうした複雑な関係が会話に表れても良さそうなのですが、ややっこしくなるし、物語の進行上も意味はないので、やめにしました。
そして後半では、アイナがライヴォークに、制限処理を停止して全力でカノンとコタロウを守るよう命じます。それに少し間を置いて、『ヴォン』と応じるライヴォーク。アアヤも、アイナが自分たち夫婦を探すのを諦めてまで仲間を助けようとしたことについて、感慨を示します。
このくだりは本番書きのときも、投稿直前の見直しのときも、かなりの時間を割いて推敲しました。ユートの台詞やライヴォークがついに口を開くまでのやり取りは、実時間上は1分にも満たない。言葉を重ねると緊迫感が薄れてしまうので、夫婦2人の心象を書き表すのが難しかったです。
どの作品でも、書いていて文章力が切実に欲しくなるシーンが出てきます。またそうした機会が訪れるでしょうから、文章表現についても研究しておきたいものです。
【第24~25話「開封」、「独擅場」】
この2話は「第3の発見と決断」の回です。7000文字近くになったので、2つに分けました。短くても、話の盛り上がりの面から分けるのが適切だったと思います。……ところで話は逸れますが、独壇場は独擅場の誤読から生じた言葉だと、この回のタイトル付けを通して知りました。
さて、多くの創作論は「主人公を追い詰めろ、多くの作者は温すぎる」と叱咤激励を飛ばしています。これ、作者も手を抜いているのではないと思います。追い詰めるのは簡単ですが、解決策を考えるのが大変です。創作論はその点について言及しません。ずるい。
私が絶体絶命のピンチの解決策として思いつくのは、ざっと以下の3パターン。――えっと、どれも戦いの場を想定しています。本当はいろいろな形の絶体絶命があるはずですが、そうした作品に数年以上接していないこともあって思いつかず、ここでは除外します。
1つ目は、気合い、もしくは根性、もしくはみんなの力による打開。子ども向け作品では、これがもっとも多いと思います。
2つ目は、ピンチ以前に多くの伏線が仕込まれていて、それらが結実することによる打開。これは読み手に相応の理解力を要求するので、対象年齢は高めになるでしょう。
3つ目は、偶然による打開。但しフィクションでは禁じ手です。「事実は小説より奇なり」というより、「小説は事実より筋を通さなければならない」のです。
そしてアイナは、生まれ持った才能で打開しました。これは「2の皮を被った、1による打開」に相当するでしょうか。この展開をどう思うかは、もちろん読者によってさまざまだと思います。私自身は、キンキイ編で高めた魔術程式の技能を用いずに血筋で打開してしまう点には難があるものの、良い線を行けたと自己評価しています。
そう評価するのは、私が読み手として2系の打開が苦手というのも大きいです。映画でもなければ、たいていの物語は日をまたいで細切れに読んだり、視聴したりします。それも小説、アニメ、ソシャゲ、漫画にと複数の作品を並行して。伏線を張ってもらっても忘れてしまいます。覚えていても、エンタメ作品の鑑賞で頭を使いたくないというのもあります。2系の妙にこみ入った仕掛けで頭を混乱させられてイラッとし、1系の単純明快な展開でいいからと思うこともままあります。
第25話冒頭では、ライヴォークが3段階のパスワードを唱えます。ここは格好いいパスワードを登場させたいところなのですが、詩のセンスもないので、アアヤに突っ込ませてごまかしました。
制限を解放されてからのアイナの様子は、本番書きを一通り終えたあとに問題に気づき、全面的に修正しました。初稿ではライヴォークが父親と知ったアイナに、弾けきった活躍をさせていました。ここで感情を徹底的にポジティブに上げて、エンディングの悲しみとコントラストを付けていました。
しかしアイナのマナ能力であれば、ライヴォークの不調をすぐさま察するはずと気づきます。マナ察知力が上がるという設定を無しにする選択肢もありましたが、それはご都合主義に思えてボツに。結果アイナは、ようやく父に会えたのに、死の瀬戸際であるのを知ります。その心情を想像するのが難しいし、書くこと自体が辛かったです。
フォクリックの民は総頭含めて隷属程式をかけられているという設定ですが、これについても見落としをしていました。隷属程式がいつから民に対して実施されていたのか、という点です。総頭や頭はコタロウよりずっと年上、つまりフォクリックの民がシガア地域で盗掘を始める以前から、施していたことになります。それならゴショ代表を務めていたアアヤの耳に入っていないのは不自然です。かけられているのはコタロウ世代以降のみにするかどうか、迷いました。
結果としては、第19話「知らない魔術程式」に遡って、「一部で実施している部族がいるらしい」とアアヤに語らせ、総頭や頭がその部族出身なのかもとほのめかせるようにしておきました。そのほうがフォクリックの民の事情に深みを持たせられ、結末でのアイナの「道徳的決断」にも繋がると判断しました。
【第26~29話「結界に護られし丘」、「クツキの男とゴショの女」、「最後の変身」、「黄金色の想い」】
これらは「第3の発見と決断」の続きです。1万文字を越えたので3つに分け、さらに投稿直前で「黄金色の想い」を独立させました。
チクブの丘は、琵琶湖の水面が下がって、現在の竹生島が陸続きの丘になっているという設定です。
ライヴォークの昔話は、誰の視点にするかで、少し迷いました。
視点を決めるためにまず考えたのは、時代を遡るか否かという点。遡るなら、アアヤ視点のほかに、ライヴォーク視点、神視点にするという選択も取り得ます。ここまではアアヤが語り部をしているので、もっともスムーズにつながるのはアアヤの視点でしょう。しかしライヴォークと出会う以前の扱いが難しくなります。
結果、時代はそのままにしたのですが、今度はライヴォークに自分の話として語らせるか、他人の話として語らせるかという選択が浮かびます。この点は、娘の前で自分のこととして語るのは照れくさいだろうと考え、他人事のように話をさせました。
ほかにこの場面で難儀だったのは、カノン、ユート、コタロウの3人が話を聞いている様子を挟み込むこと。座って話を聞かせたので何か動作をさせることはできず、ライヴォークの話に反応させるしかありません。話の内容に応じて、なんとか出番を割り振っていきました。
アアヤのマナ器官移植が成功したのは、産まれたばかりのアイナが母の行為の意味も分からずアシストをしたから、と理屈づけしています。ただ、物語に挟む余地を見つけられませんでした。
祖父母の話題が出ます。当初、シガアの最初の村で会った食堂の女性はアイナの祖母だという話にするつもりでした。しかしそうだとすると、食堂の場面でライヴォークやアアヤの心情描写が必要でしょう。話が煩雑になるのでボツにしました。
【第30話「仲間といっしょの旅立ち」】
この最終話では、創作論Aの「自己発見」、「道徳的決断」、「新たな均衡」を扱います。
課題9で作成したあらすじ、最終話に相当する箇所は700文字ほどあるのですが、そこには第30話前半のお節介さんの話や、後半のアワジマに戻る展開はありませんでした。どちらも最終話の本番書きをする段になって、付け足したものです。
もともとあらすじ上でも、ライヴォークが死んだときにアアヤの意識と遭遇する展開までは存在していました。ですがそれは、謂わば抽象的な場面のつもりでした。そこを拡張し、アアヤの意識は実際に漂っていることにして、さらにはそれに、アイナが気づいていたことにしたのです。
となると、たとえ幽霊的な存在であっても、その生態を決めておく必要があります。ライヴォークに移植されたマナ器官を基盤にしてアアヤの意識は残っており、そのマナ器官自体や、そこから出力された魔術の周辺は見聞きできると設定しました。簡単に言えば、マナ器官に未練を残している幽霊みたいなものです。
これは些細な設定変更のつもりでしたが、物語の数カ所に影響が出ました。ユートが川で特訓をしている場面では、ライヴォークにマナ玉を飛ばせないとアイナの様子を見られません。ゴショの工房見学も同様です。逆に第11話「アイナの一日」では、アイナが食堂二階に上がって着替え、一階に戻ってくるまでの描写は、削除しました。この場面ではライヴォークがわざわざアイナにマナ玉を付ける必然性がありません。
過去作でも、こうしたパズルのような話の組み替え作業が発生しています。小説を書いていて苦労することの1つが、こうした論理的整合性を保つことです。
単純な例ですが、「AはBより大きい」、「BはCより大きい」と描写したのなら、「AはCより大きい」としなければなりません。物語のあちこちでこのような関係が生じ、場合によっては設定を変更して関連するところを直していかなければならない。これは機械的にできないし、矛盾しているのに気づけない場合もあるので、苦労するのです。
1月に読んだ書籍以外にもいろいろな創作論を目にしてきましたが、小説のこのような側面に言及しているものは1つしか知りません。日本の、SFものや歴史もので賞を受け、ロボットアニメの原作も書いている作家の手によるものです。言及したとしても解決方法を指南しようもないのでしょうが、小説を書き上げる上で重要かつ難所であると感じています。
設定や物語展開に矛盾のある小説やアニメ、ゲーム、映画は山のようにあります。私自身は、見る側としてはスルーできるのですが、創る側としては気づいたら潰したくなります。これは、作品を完結させてから投稿する、というスタンスを取っているところも大きいのでしょう。
まだコツというものは掴めていませんが、戻り作業を減らすには、クライマックスやエンディングを早めに本番書きすることが重要でしょう。これらの場面に矛盾があって白けさせてしまうと、作品全体が台無しになるからです。過去作の後書きでも似たような反省をしているのですが、今回は詳細なあらすじを書いたので、それでクリアしたと思ってしまいました。しかしどうも、これで最終稿だ、というくらいにまで仕上げないと、罠を除去しきれないようです。
アワジマに戻ることにしたのは、アイナの育ての親、マコットさんの締めくくりが足りないと思ったからです。ライヴォークが死に際に言及していますが、もう少しアイナとの再会を予兆させる結末にしようと考えました。
折しもSNSで、「出来のいい映画の終わりは、始まりの場所に戻って、でも主人公をとりまく状況は変わっているものだ」といった言説が流れてきました。確かにそういう作品はいくつも思い当たります。
冒頭の場所に戻るところで終わる本作の結末は、綺麗に畳めたと自己評価しています。
第30話冒頭から、視点は三人称アイナのものに、文体は短文の連続に切り替わります。
視点の切り替えは、アアヤが昇天して語り部が使えなくなったからです。創作論Aでも語り部の使い方を多数紹介しているのですが、本作の場合は意図してではなく仕方なく行いました。結果としては、効果的に視点の切り替えを使えたと思っています。
冒頭からしばらく、一文を37文字以内に収めました。私のPCだと、「なろう」は標準設定で一行が37文字になるからです。ワープロの書式設定もこれに合わせています。Web小説はリフロー型の媒体ですが、基準が無いと書きづらいのでこう設定しています。
ここでは各文の文字数の増減に気を配り、同じ表現も多用して、アイナの悲しみが寄せては返す波のようにいつまでも消えない様子を書き表してみました。
いわゆるポエム表現ですね。読者は読んでいてイタいでしょうが、書き手としては「ooの朝は早い」と同様にやってみたくなるのです。
さてこの第30話、アイナがここまでより少し、大人びて見えるかもしれません。自身の一人称を「わたし」から「私」に変えています。
これはアイナのことを、アイナ自身は大人だと思っていて、アアヤは子どもだと思っていたからです。中学生って、本人の自己評価と大人からの評価のギャップが、最も大きくなる時期ではないでしょうか。
そうした差異が物語の楽しさにつながると思ったのも、アイナたちを12歳前後に設定した大きな理由です。
以上、長くなりましたが、これで各回の振り返りは終わりです。
次話で最終話になります。
ですが次話は一旦「連載中」として投稿し、時間をおいて「完結済」に変更します。本作は一度「完結済」にしているので、そうしないと「完結済みの連載小説」と「更新された連載小説」の、どちらのリストにも掲載されないかもしれないからです。
小手先を使いますが、少しでも多くの読者さまの目にとめていただきたく、ご了承ください。




