音楽家、あるいは言の葉の踊り子
13000文字ほどあります。
1
私たちの仕事は、過去のそれと比較すると重要性は凋落したと言える。人間が信奉する対象は、宗教から人間自身、そしてアルゴリズムへと遷移してきた。それでも私たちが生き残っているのは、天使のみに許された秘術を拠り所にした差別化戦略のおかげだろう。とは言え、大昔の偉い方々が今の我々を見たら、さぞショックを受けるだろう。天使と言えば聞こえはいいが、そう呼んでいるのは今や私たちだけなのだ。実情は便利屋と呼ぶのが相応しい。今の私たちが地上の人間を連れて帰ることなんて滅多にない。大抵は「お客さま」の要望に対してすっ飛んで行き、用が終わったらそれでおしまいである。
そういうわけで、私は思い切って博物館を設立することにした。このアイデアは、私の趣味である「人形集め」からヒントを得た。便利屋の仕事帰りに地上からよく盗んできていたのだ。親友であるミーシャはこの話に乗ってくれたので、とりあえず彼女には建設と事務全般を任せ、私は企画や運営を担当することにした。あとで協力してくれた理由を尋ねてみると、彼女は「面白そうだから」と悪戯っぽく答えた。それを見た私は、彼女の勤勉さと飽きっぽさが同居した笑顔に賭けてみたくなった。しばらく月日が経つとミーシャから連絡が来た。私は賭けに勝った。
博物館は巨大な円形ドーム状のシンプルな形をしており、外壁は暗色のコンクリート壁で、カラフル色をしたガラスが所々填められている。展示はドームの外壁に沿った回廊で展開されており、入口から出口まで時計回りで進行していく。貴重なコレクションを収納するショーケースは、常に鑑賞者の左手に存在するため、展示を見るために首を振り回さなくて済む。回廊の途中には、大きな柱をいくつか設けている箇所もあるが、これはドームを支える構造上の問題から生じたものらしい。贅沢に敷き詰められた大理石は、綿密な照明計画によって完成された光の束を煌びやかに反射させている。また、人間が展示を見る際は、常に天使と同伴することをルールとして設けている。そのため、鑑賞者が勝手に奥に入ってしまうことがないように、回廊の入口に入場ゲートを備え付け、その脇には「チョット待ってて! 今お迎えに行きます!」と書かれた木製の注意看板を添えてある。
ミーシャが仕事を果たしてくれた一方で、私は未だ「どうやってここに人間を連れてくるか」という問題を抱えていた。これまで何度も人間に呼び出されることはあっても、天使が人間を呼び出すことはなかった。我々と人間を繋ぐものは、なにか崇高なものでなければならないが、信仰とか聖遺物とか、そんな過去の遺産しか思いつかない。人攫いをすることも考えたが、天界法第五十三条に抵触する可能性があるため、すぐにこの案はボツになった。同僚に相談すると、打ち手を考えるよりも、人間の思慮の浅さについて意見を交わすことで盛り上がってしまう。「人間は神秘体験と呼ぶそうだよ。人間は神秘を求め、神秘体験をすることで個人的問題を解決しようとするなんて!」と。
ある朝、自室でコーヒーを飲みながら天界新聞「ユアゴッド」の一面を眺めていた。私は博物館の宣伝用ビラを作り、それを地上で撒いてやろうと考えていた。普段読みもしない新聞を広げているのは、ビラに載せる上質な謳い文句の参考にするためだ。新聞に次々とマーカーを引いていると、部屋のインターフォンが鳴った。ミーシャが来たのだ。
「ミーシャ、どうしたんです」私はマグを片手に持ち、もう片方の手で部屋の扉を支え、彼女を迎えた。
「博物館にお客さんが来ているみたいなんだ。きっともう待ちぼうけだよ」ミーシャは私が預けた入場ゲートの感知器を目の前に突きつけて言った。
人間が来たのだ!
「なんでまた? どうやって?」
「誰かが連れて来て、途中で落っことしてしまったんじゃないかな。地上から連れて帰るなんて今時珍しいことだけど。まあよかったじゃないか。麦の穂一つ道端にってやつさ。さあ、水をやりにいって」
私はいくつか彼女に問い詰めたかったが、それもマグのコーヒーと一緒に飲み込んで、部屋を飛び出した。博物館へ向かう途中、お昼から物置の偶像や壁画の整理をするはずだった予定を思い出し、私は心の中で神に許しを請うた。
2
僕が本当に知っていることを語るとすれば、それは演奏中に体験する感覚、音楽の表面を撫でるような感覚についてだ。身体の内を走る微弱な振動は音楽と身体を分かつ界面となり、二つは決して混ざり合わないが触れ合うことはできる。もちろん、撫でると言ってもそこに空間を占めているわけではなく、むしろ一切の空間を淘汰している。この感覚はただ時間の流れに漂って体験される、一つの僕の模倣なのだ。
僕が知っている真実はこれだけだ。それ以外のことや常識なんかは、すべて本当に知らないか、もしくは知っているふりでしかない。だからこそ、今僕がチケットを握りしめてここへやって来たのは、そうする必要があったからに他ならない。
記憶にある限りでは、二十五週間ほど前、演劇が音楽を中心とした諸芸術のもてなしであるということを証明したいと思い、僕は演劇の脚本を書こうと決意した。しかし、様々な戯曲を読んでも、何を言っているのかさっぱりわからず、もちろん、一体全体どうやって書くべきか見当もつかなかった。インスピレーションを得るために薬まで使ったが、アイデアだけが一人歩きしているみたいで、目隠しをされたままであることに変わりはなかった。それらの足音を悪戯に辿っていくことで得られたものは、酒と煙草に代わる時間の潰し方だけだ。馬鹿馬鹿しいことに、僕はこのお遊戯に五ヶ月を費やした。
証明において特に厄介な点は、この街には劇場がないということだった。つい先月、僕は心機一転を兼ね、有り金を叩いて今の街に引っ越した。すると不思議なことが起こった。僕が引っ越した途端、この街の劇場全部が経営難で潰れてしまったのだ! 遠出する金も気力もない僕はただ机に齧り付き、精気を擦り減らす他なかった。
コンクールへの応募締め切りが一歩一歩正確に近づいてくるなか、僕の部屋のポストに「マザーズ劇場」の招待チケットが届いた。この劇場は最近オープンしたらしく、チケットに描かれている地図を見たところ場所も近かった。何より特別だったことは、この劇場には案内役が付いており、観客に対しマンツーマンで演劇の解説をしてくれるという待遇だ。こんなことをしていては、きっとこの劇場も悲しい運命を辿ることは必至だが、僕にとっては二度とやっては来ない僥倖だった。僕は藁にも縋る思いでチケットを握りしめると、マザーズ劇場の勇敢な試みを讃えるために部屋を出たのだ。
館内に入館してしばらく経っても、案内人は現れなかった。ゲートの前でポツンと立っている僕の方が不自然な気がした。これだけ閑散としているのだ。仮に人がやって来ても、そいつは銃を僕の頭に突きつけて、このまま死ぬか、この寂れた劇場のオーナーになるかどちらか選べと問うてくるかもしれない。どちらが合理的な選択かについて考えていると、背後からコツコツという音が鳴った。瞬時に体を硬直させ、耳を澄まして音を捕まえてみると、弾くような尖った音が次第に大きくなり、やがて丸みを帯びてどんどん近づいて来るのがわかった。僕はタイミングよく振り返ると、目の前には予想していたよりも背が高く、スマートな顔つきをしただるまさんの手が、今まさに僕の背中に触れようとする寸前だった。
「お待たせしてすみませんね。えっと、お身体は動きますか? 私の喋ってることわかりますか?」だるまさんは言った。
見たところによると、彼は銃を手にしていないのでホッとした。やり場のなくなった彼の手は、次に握手を求めてきた。
「ええ。身体も動きますし、質問の意味もわかります。あなたは?」僕は握手に応じながら、出来るだけ失礼がないように応答した。
「そりゃよかった。私たちの博物館へようこそ! 案内役のシュプリームと言います。シュープとお呼びください」
「博物館? 僕は演劇を学びにここへ来たはずだが」
ポケットに突っ込んだチケットを開き、向きを揃えて彼に見せた。彼は初めて見たと言わんばかりに驚くと、まるで自分に言い聞かせるようにしながら僕へ切り返した。
「ええ、把握しておりますよ。私のコレクションはまさに劇場を飾る役者たち。役者を知らずして、彼らを踊らせることなどできましょうか?」
たしかに、彼の言う通りだと思った。僕は一度だけ習作を書いてみたことがあったが、整列されたテクストはどこか野蛮で歪な肉付きをしている。僕はテクストが痙攣しては動かなくなるという一連の活動を見届けた後、彼らを机の引き出しの中へ押し込み、獄中生活を強いている。今は墓場になっているかもしれない。この残虐非道な行為が、音楽体験という透明な膜に覆われた、小さな祖国の民としての過ちであるならば、僕の責務は自分の目隠しを取り外し、彼らを解放することではないだろうか。クレームは僕自身が彼の言葉を飲み込むことで片付いた。彼に渡したチケットは、無傷のまま彼の胸ポケットへ消えていった。
「さあ、ミスタートモキ、こちらですよ」
彼は僕の右に立ち、ゲートの先にある回廊を示した。名を呼ばれた僕は「はい」と返事をすると、彼に続いてゲートに足を踏み入れた。側から見たらまるで先生と生徒みたいだろう。それならば、僕は彼の前では優等生でありたいと思った。乾いた喉は彼の言葉を渇望し、瞳は眼前の秩序を写生するために素早くシャッターを切った。
最初に紹介されたコレクションは「温度計」という品であった。温度計は小さなショーケースの中で無造作に吊るされていた。ケース内の照明は自らの役割を熟知しているようで、明暗のバランスを静かに作り上げながら主役を引き立てていた。透明な管を通る赤い液体は天辺を目指して伸びており、眩しい向上心を僕に見せつけている。一方で、競争に敗れた一部の液体は底に溜まって集合体となり、色濃い赤となって沈黙を主張していた。僕にとっては、こっちの方がお似合いだと思った。
「これは温度計と言いまして、周囲の空間がどれだけ暖かいかを測定する道具とされています」シュープはコレクションの説明を始めた。
彼は得意げだったがそれ以上を言わず、僕が温度計をじっくり観察する時間を与えてくれた。僕は綺麗な赤の細い液体をじっくり見てみた。見つめながら、先ほどの彼の説明を頭の中でゆっくり咀嚼した。文章をいくつかの言葉になるように区切ってみて、バラバラになった単語をまた繋ぎ合わせ、復元したものをゆっくり飲み込んだ。落ち着いて解釈すると、僕は質問した。
「では、今はどのぐらい暖かいのだ?」
「メモリの数字を見てください。赤い線が二十五を指しています」
「つまりそれだけ暖かいということ?」
「その通りですよ、トモキさん」
シュープが僕の疑問に答えると、この一連の会話が演劇のなかの一つのシーンみたいだと思った。
僕は賢くなった気がして、今度はコレクションに出来る限り近づき、体を屈めながら様々な角度で温度計を観察した。僅か数十秒の研究を経て、僕は次のコレクションへ行こうと上体を起こした。温度計にこれ以上の興味を示すことができなかったからだ。シュープの姿を確認するために後ろを振り返ると、彼は温度計の底に溜まった黒い赤を凝視しているようだった。僕の直感が、彼の澄んだ瞳が徐々に侵食されていくことを伝えると、その蛮行を許せなく思えた。僕は「あの部分の液体は怠惰であるので、決して恐れるべき対象にはなり得ない」と自分に言い聞かせ、再び温度計と対峙し、彼と同じものを見つめた。すると、沈殿する黒い赤たちは僕のおまじないをすっかり見透かして、ガラスの表面で僕の顔を染めあげてしまった。それからの黒い赤たちは、まるでピラニアだった。それらは僕の動揺を嗅ぎつけて寄って集まり、僕の開いた瞳孔を歪めて渦を作りはじめている。渦は肥大していき、僕の体をそのまま吸い込むつもりなのだ。もうすぐ喰われてしまうというところで、背後からコツコツと音が聞こえた。それは波紋となって渦を揺さぶった。
「次の品へ行きましょう。次のやつはもっとすごいですよ」シュープは言った。
僕は彼の方を向くことで、渦からの脱出に成功した。彼の瞳の色は、初めて会ったときと同じで翠のままだった。僕は少々のタイムラグを置いて彼の提案に賛成すると、小魚がちまちまと泳ぎ回るみたく、彼の後ろを付いてまわった。
展示の鑑賞は滞りなく進展した。この博物館の回廊はいつになっても、そしてどこを歩いても単調な景色を作り続けていた。それと全く同様に、僕たちの会話もパターン化された一種のゲームであった。パターンとはつまりこうだ。僕たちがコレクションの前に立ち、彼が説明を加える。彼の説明が終わると、次は僕の番がやってきて、僕は距離や角度を変えてコレクションを眺める。ただその場で呆然と眺めていることもあるが、実のところ――少なくとも僕にとっては――これら鑑賞方法の違いに差異はない。そうやってしばらくすると、僕は彼とアイコンタクトを取り、次のコレクションへ向かって二人で歩き始める。この一連のパターンに何か不満を感じることなく、僕たちはウロボロスの中でウロボロスしている。
しかし、大蛇にもそれを特徴付ける頭と尾があるように、この博物館にも、僕にとって極めて特異な経験が、少なくとも二つは存在するのではないだろうか。その内の一つが「温度計」であった。シュープの温度計の説明に対して僕は質問を投げたし、渦の心象から圧倒される体験もした。回廊を歩く途中、シュープにそれとなくこの体験のことを話してみたが、これは僕だけの問題であったみたいだ。この現象学的なインタラクションは、明らかに全体のパターンからは逸脱した初期値であることは疑いなかった。そして、もう一つはきっと大蛇の尾にあたる部分だろう。回廊を歩き続けるなかで、演劇の脚本を書くという当初の目的を忘れたことはない。ただ、僕はこの仮説も同じぐらい大事に持ち歩いたし、いつからか仮説が検証されることと、終劇を書き上げることを同一視するようになった。
僕たちは「狐の仮面」で無意識にパターンを実践した後、次のコレクションが待つ広間へ足を運んでいた。僕は彼の後ろを歩きながら、今までの彼の説明を頭の中で諳んじていると、彼がこちらを向いて「次の品で最後となります」と言った。僕は切り替えて心の準備をした。大蛇の尾を捉えることができると思った。フィナーレは両端にそびえる大きな石柱で飾られ、この回廊には珍しく厳かな雰囲気を醸していた。特別な意味があるのかは定かではないが、シュープはこの空間を「ヴァイオリンの間」と呼んでいた。僕たちは奥に進み、ショーケースの正面に立った。
「これはヴァイオリン。楽器の種類の一つです。ただ、実はこの品はめちゃくちゃに壊れてしまって、バラバラになっています。汚れも目立ちますね。我々も、ここまでしか復元することはできませんでした」彼は心底残念そうに言った。
僕はいつも通り彼の説明をゆっくり飲み込むと、パターンから逸脱するために、彼にヴァイオリンの原型について尋ねてみた。ヴァイオリンは木製で、破壊の原因は高所から投げ出されたことによるらしい。彼は手振りを交えて説明してくれたが、それ以外の詳細な形状については、正しく理解できている自信はない。しかし、この場において重要なことは手続きであり、彼はその手続きに則してくれたに過ぎない。
僕はショーケースから一歩引き、破壊されたヴァイオリンの全貌を見下ろした。不均一な形をした木片の一つ一つは、付着した汚れを厚化粧として利用しているみたいだった。彼らが纏う衣裳の外見は全体的に褐色に近いが、一方で、ある木片と隣り合う木片は、幾分似た模様をしているといった法則性も見出せなくはない。ヴァイオリンは、今までのコレクションよりもやや強めのスポットライトを浴び、まるで民族大移動の変遷を映し出す帝国の地図だった。
「復元なんてとんでもない。僕はこんな感じの劇があるのを聞いたことがあるよ。主人公が苦難に苛まれて、精神が分裂してしまうっていう話だったっけ」
「そういう終わり方もあるかもしれません。ところで、そのお話は売れましたか?」
僕は答えることが出来ず、黙ってしまった。というのも、本当はそんなお話を僕は知らなかったからだ。ただ如何にもありそうだというだけで、何となく口にしただけだった。もしかしたら、彼に見透かされたかもしれない。
「もっと近くで見てはいかがですか」彼は言った。
促されて、散らばった木片の一つにピントを合わせてみた。うっすら刻まれている木目は美しいと思う。それは誰かが通った跡のように、どこか別の場所へ通じているみたいだった。木目の跡を辿っていくうちに、僕の視線は瓦礫のように積まれた木片の間を軽やかにジャンプした。すると、木片たちは辱めを受けていると感じたのか、痺れを切らして小刻みに震え始めた。一つが震えだすと、全体が共鳴した。やがて彼女らは、僕の視線など気に留めることなく、彼女ら自身が自らを形作るパーツを探し求めて蠢いた。彼女たちはきっと、いつまでもそうしていることだろう。彼女たちの協力的なダンスは方法を失い、至るところをぐるぐる回って、時々仲間に会釈しながら、やがて全部が踊り狂っていたのだ。僕が一度目を瞑り、再び目を開けたときには、木片たちの演舞は以前とは全く異なる様子が繰り広げられていた。
ヴァイオリンを十分堪能すると、シュープは締めの挨拶を進めた。
「さて、いかがでしたでしょうか。トモキさんのお役に立てたのであれば幸いです」
「面白かったですよ。また来たいですね」
僕はこれ以上ない月並みな感想を散らして彼に礼を述べた。しかし、これは嘘ではない。実際、僕はこの長い回廊を歩くうちに、舞台を生きる沢山の役者を見た。彼らの生存戦略を知り、彼らが持つ言葉を学んだ。温度計とは温度を測る道具。額縁は絵を飾り付け、室内に彩りと思想を与える道具。ヴァイオリンは、たしか……。頭の中を引っくり返していると、僕が最初から知っていた真実まで思い起こされた。シュープへの恩返しに今度話してやろうと思った。
シュープによると、僕は自由にこの博物館に来ることができるそうだ。一通りの帰り支度を済ませると、彼は胸の内ポケットからカードを取り出し、僕の手に握らせた。
「このカードを常にお持ちください。それがあればいつでも入館できます。その時はまた私がご案内させていただきます」彼は言った。
カードの中心は「MOTHERS」という文字列が占めており、その下に小さく「SEED VALUE 111」と印字されていた。会員カードとそのナンバーだろうか。裏面には、いくつかあるマス目の内、一マスだけスタンプが押されている。カードをポケットにしまうと、ヴァイオリンの間に併置されている出口まで彼が案内してくれた。
「それではさようなら。あなたに導きと幸福を」
ドアを引くと、彼の言葉を肩越しに聞いた。帰宅後すぐに執筆に取り掛かろうと考えたが、プール帰りのときのような疲労感と脱力感を感じたので、一眠りすることに決めた。
実際、僕は週に一度のペースでシュープの博物館を訪れた。初めて足を運んだときと同じように、最初のうちは膨大な数のコレクションの形や色を覚えることで精一杯であった。そのため、彼の説明に散りばめられた言葉は、僕の記憶を保持するための火薬としてしか捉えることができなかった。彼もそれを十分承知であるかのように、時々僕が上の空であっても咎めることもなく、僕がコレクションに飽きて立ち去るまで、彼はずっと僕の後ろで見守ってくれていた。
四回目になって気づいたことは、彼の解説で用いられる言葉が毎回微妙に異なるということだった。この頃の僕は、数を重ねたおかげでほぼ全てのコレクションを見分けることが出来た。僕の次の興味は、物質的なコレクションが落とす非物質的な影、つまり彼の言葉そのものへと移ったのだ。彼が解説で用いる言葉の微妙な差異についてより正確に言うと、彼が紡ぐ言葉の約一割は僕にとって未知の言葉で構成されていた。残りの言葉は僕に合わせた特注品のもので、それは彼の優しさだ。僕は彼が遠慮を伴わない、彼自身の言葉に惹かれていった。聞き慣れない言葉を聞くと、僕はすぐに頭の中で論理空間を築き、言葉の振る舞いを観察した。これはシュープが教えてくれた、「博物館におけるお話の聞き方」に倣った方法だ。例えば、「額縁を飾る」という彼の説明に対し、「額縁を飾らない」を想定したり、額縁という名詞の代わりに、僕が知っている名詞(例えば温度計)を当てはめてみて、それぞれの文が成立するかどうかを観察する。成否の判定については僕が望む限り、彼が手助けしてくれた。
こうして僕は、運動する言葉を論理空間という世界で静的に捉えることができた。納得いく言葉を見つけるために回廊を徘徊したり、彼の解説からヒントとなる言葉と法則を掴んでいく。獲得した言葉を静かな世界へ落とし込み、あれやこれやと突いたり叩いたりしながら使役する。虫取カゴの中にいっぱい虫を入れて、じっと眺める子供みたいに。
しかし、程なくしてこの学習は上手に機能しないことがわかった。音と音楽では、インタラクションの様子が違う。このアナロジーから、静的に捉えた言葉が指し示す対象と、現実で運動し動的に振る舞う言葉が指し示すそれに齟齬が生じる可能性に気づいたのだ。とはいえ、この学習は僕が生み出した静かな世界の根底にあるプレートを僅かに動かした。大地の揺れと同時に感じるマグマのような情動は、博物館に展示されているどんな物質的な事実とは一線を画して、尤もらしく真実であると確信できた。僕の第一原理とも言うべき、あの音楽の表面を撫でる感覚と同じほどに。
それからの僕は、専らこの世界の拡大に勤しんだ。七回目の訪問以降、僕はより活発な鑑賞をすることになった。具体的には、シュープの解説に未知の言葉が出現すると、僕はすぐにその言葉を用いて質問をしたのだ。彼の世界から生み出された言葉を、僕の歪な世界で踊らせてみるのだ。歪な世界を僕と彼が外から眺めるなかで、その言葉が上手に踊ることが出来ればそれでよし。ステップを踏み外し世界の外へ放り出されてしまうと、彼はその言葉を巧みに掬ってやって、また彼自身の世界でステップの練習をするのだ。
この実験は大成功した。種々雑多な言葉が千姿万態なステップを生み出し、足元から火花を散らせながら世界を敷衍していく、まさにその瞬間が僕にとっての快楽だった。彼らの果てしない旅の痕跡は、飛行機雲よりまっすぐで、前頭葉を走る脳回よりも複雑で、スケートリンクを見下ろしたときのエッジ跡よりも美しかった。
結局、僕の原稿は住処が机の引出しから机上へ移っただけで、目標としていた「第二十回 ビルドローム新人戯曲賞」の応募締切日をいつの間にか過ぎてしまった。これでまた一年待たされることになる。劇場がないこの街で刺激を求めるには、シュープの博物館しか拠り所がなかった。
僕はシュープに会員カードを渡してスタンプを押してもらうと、彼の横に並んでゲートをくぐった。予想していた通り、僕たちを最初に待ち構えるコレクションは温度計だ。スマートなガラスのフォルムも、照明に露わにされた赤黒い水銀も、温度計が指し示す数字すら変わらない。彼も少しは趣向を凝らせばよいのだが、彼に言わせれば温度計の順番を変えることはできないという。
「私の仕事は因果のなかの美学にあります」
僕たちは淡々とコレクションを眺めるだけの時間を累積した。温度計を鑑賞した後、僕は何か聞きたいことがあれば聞くからと言って、シュープには解説を控えてもらった。僕はコレクションに飽きてしまっていた。今や彼らが持つ言葉は、舞台の法と演目という最終命題に従い、システマティックできめ細かいステップを踏んでいる。言葉同士の掛け合いは、もはや洗練された八百長でしかなく、イノベーションは生み出されそうにない。いつから法が制定され、いつから演目が名辞されたのだろうか。きっと、この法やら演目やらが、僕の帝国主義的領土の拡大を妨害しているのだ。いや、もしかしたら、言葉は世界の果てへ向けて勝手に放浪しているかもしれないし、僕が見えない所で寝そべっているだけかもしれない。しかし、いくら想像を重ねても、拡大された祖国がどこまで膨張し続けているのか、もはや観察不可能だった。法の外へ、演目の外へ向けて走れど走れど、僕では――この博物館の中では、また元の場所に戻ってくるだけなのだ。
そうやって、支配下にある民の様子を観察するだけで、ヴァイオリンの間まで到達してしまった。僕は壊れたヴァイオリンのショーケースの前に立つと、今まで温存していた音楽の表面を撫でる感覚について話したくなった。最初は独り言のつもりで、ガラス越しのヴァイオリンに向けて語っていたが、脇目でシュープが頷く様子が見えた。僕が一通り話し終えると、彼もまた打ち明けるように言った。
「大変興味深い話をありがとうございます。ですが、そろそろ私も教えることがなくなってきましたよ」
「そんなことはないはずだよ。僕は君から多くを学んできた実績があるのだから」
彼は丁寧に礼を述べると、照れ隠しの代わりに、僕が今に至るまでの成長の過程を褒め称えた。
「ここへ来てからもうしばらく経ちますね」彼は言った。
カードのスタンプを数えてみると、たしかに僕は一五回もこの博物館を訪れたことになる。彼は続けた。
「実は私の友人が劇場を作ったみたいなんです。どうでしょう、これを機に行ってみるというのは」
「この街に劇場だって? 君の友人なら質は信用できるのだが……。ところで、今度は本当に劇場なんだろうね?」
「もちろんです。きっとあなたの興味に沿えるはずです」
彼がそう言うのであれば、ぜひ行ってみたい。来年のビルドローム新人戯曲賞までたっぷり時間はあるし、何より実際に作品が上演される場をこの目で見ることができる。そして、その劇場はいつ潰れるかわかったものではない。総合的に考えて、これは僕にとって願ってもないチャンスだった。僕はすぐに返事をすると、彼は友人と連絡を取り始め、手配を進めた。
「それでは最後にこの博物館についてのアンケートをお願いできますか。忌憚のないご意見を」
彼はそう言うと、どこからともなく現れたプラスチックボードを僕に預けた。ボードにはアンケート調査と名打ったペーパーが挟まっており、いくつかの質問事項が書かれている。質問群は大きく三つで構成され、最も印象的だったコレクション、最も印象的だった解説、わからなかったことについての自由記述であった。僕は時々活用したメモを見返しながら空欄を埋めていった。
最後の質問は難しかった。僕はこの博物館の模範生と自負できるほど、わからないことは全てシュープに質問をして解消していた。強いて挙げるのであれば、このヴァイオリンの間にたどり着くまでに空想した、僕の世界はどこまで広がるのかという取り留めもないことだろうか。しかし、この手の話は彼に限って好まない。と言うのも、彼が話す言葉は多くが「解説」であったし、それは常に物質的な形式を持った事物から生じた話だ。実際、先ほど僕が音楽の話をしたときも、彼はあまり興味を示さなかったではないか。そんな彼に教えを受けた僕は、せめて彼の前では彼の道理から外れたくはない。僕は書きかけたナンセンスな質問に上から横線を引いて取り消した。線を引いたときに一瞬、ペーパーの一番下にある文言に目が移った。
ありがとうございました。あなたに導きと幸福を。
それはちょうどこのヴァイオリンの間で、彼が僕を送り届ける際にいつも投げ掛ける言葉だ。前半のメッセージは異なるが、後半のそれは違わない。僕はすぐ閃いて、この言葉をペーパーに書き写した。
全ての質問項目に回答を済ませて彼に提出した。僕は対話の質というものは、常に質問の良し悪しで決まることを体感していたから、このアンケートにも彼を満足させるだけの自信があった。
「導きとは何か、幸福とは何か、ですか」
「はい。先生はいつも仰っていましたね。僕はこれを見たことがないし、今まで先生に聞いてみる機会もなかったのでね」
僕は初めてこの博物館へ来たときみたいに、教えを乞う生徒役を演じた。
「この二つの言葉は、私たちの業界ではほぼ同じ意味で用いられます。より正確には導きとは、幸福に至るまでの道のりを指します。私たちが歩いてきたこの回廊のように、とても長い道なのです」
「では、その幸福とはなんでしょう」
彼は顔をしかめてしばらく沈黙した。この言葉はどんなステップを踏むのだろうか。世界が地響きを鳴らす前に、僕は久しぶりに興奮していた。
「それは指し示すことはできません」彼は言った。
「どういうことでしょう。先生は見たことがないのですか?」
「そんなものはないのかもしれないし、あるのかもしれません」
彼がそう言うと、世界は大寒波に襲われ、僕は呆気にとられてすっかり動けなくなってしまった。その間に得体の知れないナニモノかが、たったヒトリで半球の空を突き破り、僕の領土へ侵入していた。
「私には何も申し上げることができません」彼は諸事実を語るときと同じように、悠揚迫らぬ態度で言った。
要するに、彼の言葉は沈黙のそれと同じだ。コウフクはぱたりと姿を消してはいるものの影だけを残した。影だけ見ていると、はたして踊っているのか、苦痛でのたうち回っているのか区別がつかない。コウフクは領土を一通り掻き乱すと、やがて影は細くなって、次第にどこか果てへ消えてしまった。僕がぽかんとしている間、シュープはずっとショーケースの中のヴァイオリンの木片を見つめていたようだった。
僕たちはさっき来たばかりの回廊を歩いて戻ることにした。普段ならヴァイオリンの間にある出口を通ってお別れなのだが、シュープの「せっかくだから」という理由だけで納得してしまった。いつもと違う順番でコレクションの横を過ぎながら雑談を交わしていると、彼が「ところで」と切り出してきた。
「さっきの話ですが、私はぜひ見てみたい。見つけたら私にも見せてくださいよ」
「どこにも転がっていなさそうじゃないか。今や見る影も無い」
「そりゃ転がってはいませんよ。要請し続けることが重要なのです」
私は善処するとだけ言うと、再びショーケースへ視線を移した。シュープは僕と歩きながら閉館の準備をしているらしく、彼が時々リモコンを操作すると、歩いてきた方向から光が途絶えていくのがわかった。暗闇でコレクションの姿がはっきりと見えなくなると、品の名前を特定するのが難しくなり、意味は何だったか、どのように使用されているのかさえ曖昧になってきた。
僕たちが足を止めた時には、館内はすっかり暗くなっていた。耳だけを頼りにするとコツコツと靴音が響いてきて、彼が近づいてくるのがわかった。
「懐かしいな、その音」
「意外と覚えているものですからね」
「ところで、これはいったい何だ?」僕はぼんやりと見えていたものを指差して言った。
「これは温度計と言いまして……。まあすぐにわかりますよ。これから行く劇場にも置いてあるはずですから」
彼の体には何か秘密があるのか知らないが、彼はこの暗闇でも物がよく見えるらしかった。僕は彼の足音を辿っていくことで、なんとか入場ゲートの前までたどり着くことができた。
「それでは演劇を楽しんできてください。それから演劇の脚本、自信作が出来たら教えてくださいね」
「ありがとう。書けたら真っ先に君に伝えるよ」
僕は半分冗談で言った。なぜなら、シュープは物知りだから、きっと僕が彼に言葉で伝える前に、駄作も秀作もなにか人間特有の生化学的なアルゴリズムを通じて全部伝わってしまうはずだから。
「あ、お土産とか大丈夫かな」僕は思い出したように言った。
「いったい誰に買っていくのです?」
それもそうだと思った。僕は彼に腕を引っ張られたり、背中を押してもらったりしながらゲートをくぐった。
3
八月の暑天の下、新しい命が誕生した。赤ん坊を抱く女は汗をかき、涙を流しながら罪の告白をしている。赤ん坊は瞼を力一杯閉じながら、受難に先立ち産声をあげた。看護婦は換気のためにと言うと、部屋の窓を開けに行った。窓の横に掛けられている温度計は二十五度を指していた。