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そらのもり

作者: 葛生雪人

               一、


 夜がやって来ると言うけれど、その暗闇は本当に夜なのだろうか。

 僕の住むところでは空いっぱいに森が広がって一日中の暗闇を連れてくるのだ。




 ぐんぐんと、にょきにょきと。

 枝葉を繁らせ、どこからか森がやってくる。侵蝕してくる。

 空の向こうから。

 ずっとずっと高いところから(成層圏の彼方から?)森が降りてきて、まるで天上から地上に向かって生えるように、逆さまの森が僕の頭上に蔓延るのだ

 やがて僕から見える空はすべて森に覆われて、長い長い「閉ざされた日々」がやってくる。

 それはどこかの遠い国にある「極夜」というものに似て、一年の三分の一くらいのあいだ僕らから陽の光を取り上げてしまうのだけど、だけど僕らはいつもそれほど絶望的ではなかった。




 うっすらと明るいというよりも、うっすら暗がりが薄まると、朝が来た合図。

明るさを感じることなく、「今はいったい何時だろうか」と考えるうちにまた夜を迎えるという毎日だ。

 僕は、今日の暗闇のもとでは何をしたものかと思案して、考えるついでに空を見上げた。

 いや、正しくは「森を見上げた」か。

 僕らに向かってそびえる木々の中には、ときどき僕らに届きそうなほどに枝を伸ばすものがある。

 僕はそんな枝を見つけると、心躍らせて、納屋から僕の身長ほどの脚立を運び出す。

 手を伸ばす。

 トナカイの皮で作ったハンギングチェアを、長く伸びた枝に引っかける。

 この時期は作物も育たないので農作業をすることもないし、たとえば家の中で日用品を作るとかそんな作業をするにしても暗さのせいですぐに眠くなるし、そもそも作業のためには灯りが必要で働けば働くほど蓄えてあるわずかな油が減ってしまい残りの量を気にしながら生活しなければなくなるので、こういうときはあえて「何もしない」ということを選択する。そうすれば著しくお腹が減ることも防げるので、やはり何かと都合がいいのだ。

 だから僕はトナカイの毛皮に身をあずけるようにして、何をするでもなく一日を過ごすのだ。

 やさしい風に揺れながら、今夜は何を食べようかと考えながら目をつむる。

 鼻から口から舞い込んだ緑のにおいは僕の全身を駆け巡って、目を開き向き合っていたときよりも、なおさら空に広がる森の濃さと広さを意識させた。

 ハンギングチェアが、ふうわりと大きめに揺れた。

 僕はとっさに目を開けて、今一度、蔓延る木々と向き合った。

 広葉樹のやわらかそうな葉っぱ。

 ひらりはらりと僕のひざに落ちた。

 僕はそれを拾い上げる。

 一日一枚を拾い、これで何枚になっただろうか。

あと何日か。

もう何日か。

 どちらで数えた方が気が楽なのか、いつか誰かに教わったはずなのだが、その答えを僕はすっかり忘れてしまった。

「お前は、何枚目だろうねえ」

 僕はにんまり口もとを緩ませながら、幾人目かの客人をそっとポケットにしまった。




 日記帳はあるが、日記はつけない。

 代わりに、一ページに一枚葉を挟む。

 物語の残りを確認しながら毎日を送る。

 惜しみなが今日もページをめくり、葉を置き、閉じる。

「惜しい」と強く感じるようになると、僕は葉を挟む行為をやめて、ただ表紙の上に無雑作に重ねていくようになる。

 だけど得も言われぬ焦燥感を味わわせるのは何も一日一枚の葉っぱだけではない。

 瓶いっぱいに詰めてあった豆がどれほど減ったかとか、木箱の中で芋に芽が生え始めたとか、そういったことがらも僕に「あと何日か。もう何日か」と考えさせる。




 あと何日か、もう何日か。

 幾重にも重なる葉っぱを見上げ、その向こうにあるだろう太陽を思った。






               二、


 風の強い日は家の中に避難しなければならない。

 柔らかな葉に混じって、大量の小枝が降ってくるからだ。

 家の中からのぞいていれば、風の音に連れ添ってばきばきと荒々しい音が響いてくる。家の屋根や壁にあたるたび、僕は否応なしに 身を縮ませた。

 何日も何日も強風が続くと僕らは家から出られない。

 だけど僕らは悲観的にはならない。

 数日経って風がやめば、暖炉にくべる薪が拾い放題になる。




 僕らとは言ったが、実はこの森の下に住んでいるのは、まだ声変わりもしていないこの僕と、一羽のおしゃべりなトリと、なにかとカタカタ蓋を鳴らすティーポットだけなのだ。

「君らにとっても暖房は必要不可欠なものなんだから、たまには手伝ってくれればいいのに」

 僕は両手いっぱいに枝を抱えて同居人たちに訴えた。

 ティーポットはからだを振るわせ何か言いたげで、おしゃべりなトリは地に落ちた枝よりも、いまだ木にしがみついている真っ赤な実にご執心なようで、張りのあるまあるい実に頭部をうずめるようにしてその味を味わっていた。そもそも僕の声が届いているかどうかも不確かだった。

 まあいつものことか、と僕は枝を拾う。

 頭上の森がまたどこかに去って行くまで、僕らはそんな日常を何度も何度も繰り返すのだ。






               三、


 さて、そんな僕らのもとにある日迷い子がやってきた。

 いつものように赤い実にかぶりついてたおしゃべりなトリが、珍しくほかの何かに気をとられていた。

 逆さまの森の逆さまの木の枝に、器用に逆さまに留まりながらしばらくの間遠くの方を眺めていた。

 その視線が捉えるものは、間もなくして僕からも見える距離にやってきた。

「お客さんだよ」

 僕からも見えているというのに、おしゃべりなトリはわざわざ伝えて、また赤い実に顔をうずめた。

 客というのは、一人の女の子だった。

 背丈は僕とそうかわらない。

 いや、少しだけ彼女の方が大きいか。

 旅用の外套の下に見える衣裳は、木綿のブラウスに袖なしの胴衣、エプロンつきのスカートというこの辺一帯どこでも見られるものだったが、二本のお下げ髪をそれぞれ結わえている髪留めに特徴があった。

 サイコロのような小さな木彫りの飾りがついている。細工の様子を見るに、近くのある村で好んで使うもののようだ。

 それを確認して、僕は思わず驚きの声を上げてしまった。

 近いとはいえ、少女がひとりで歩いてくるには少々距離がある。彼女のまわりや後方をのぞいてみても、他の人間の気配はなく、馬車や何かの乗り物がある風でもなかった。

 少女はひとりで、その足でここまで歩いて来たのだ。

 空を森に覆われた、なんとも寂しいだけのこの場所を目指してやって来たのだ。




「私は木こりさんを探しにきたの」

 ぐっと握りこぶしを作って、自身を鼓舞するようにして言った。それでも弱々しい声は弱々しいままだった。

 彼女の言葉に、僕はおしゃべりなトリとティーポットの反応をうかがった。

 トリはこういうときに限って無口になるし、ティーポットはやっぱりカタカタ蓋を鳴らすだけ。

「どうして木こりを探しているの」

 僕の声も彼女の声も、どちらかといえば高い方で、鈴の音が響き合うように、まるで僕の声に共鳴するかのように彼女は間髪を入れずに声を発した。

「木こりさんを見つけられないと、村がなくなってしまうの」

「落ち着いて、落ち着いて。何があったの?」

 僕はそう言いながらすでに彼女の答えにある程度の予想が立っていた。予想というより、きっと答えに近かっただろう。思い浮かべたことがら以外にはあり得ないのだから。

 彼女は僕の言葉に応えるようにすうっと息を吸い、吐き出し、もう一度吸い込んでから、今にも泣き出しそうな眉の角度で僕の袖を強く握った。

 そして彼女は言ったのだ。

「私の住む村にも、ついにあの森が迫ってきたの」と。

 






               四、

 

 通年でないとはいえ僕らから太陽の恵みを奪ったあの森は、年ごとにその面積を広げていた。

 僕の家のまわりには小さい集落はおろか家の一軒すら建っていないのでしばらくは誰にも影響は出ないだろうと楽観視していたのだが、いつのまにかそれほどに森の勢力は拡大していて、いつのまにか他の人に被害の及ぶほどになっていたということか。

 家にまねき温かい飲み物を差し出すと少女は少し落ち着いたようで、ひとつひとつ言葉を選びながら自身のことを話してくれた。

 名前はザート。

 僕の見立て通り木彫り細工で有名な村の住民だった。

 彼女の村は小さいながらもそれは美しい村で、肥沃な土地のおかげで作物も良く育ち、仲の良い住民たちが何不自由なく暮らしていたのだという。

「それが、あの空に広がる不気味な森が私たちの村からも見えるようになってから、みんなの笑顔が少なくなっていったの」

 村の外れの辺りから徐々に植物は枯れていき、放牧していた山羊や羊も元気がなくなった。乳の出が悪くなれば子どもたちも育たず、いつかまったくいなくなってしまうのではと村人たちは不安がった。

 その不安を追い立てるように、次の年には畑にも影響が及び、一年の収穫は目に見えて少なくなった。

「生きて行くにはなんとか足りるけど、不安を振り払うには少ない収穫量、というところかな?」

 僕の言葉にザートは神妙な面持ちで頷いた。

「そうなると、村を捨てるものもでてくるだろうね」

 さらに言葉を重ねると、ザートは何度も何度も頷いてみせる。

「それで村を救うために木こりを探していると」

 またしても無言で頷いた少女に、僕は短いため息をこぼした。

「ただ単なる木こり?」

 これには首を横に振った。

「探しているのは『人食い森』の木こりさんよ!」

「ずいぶんと古い話を知ってるね」

「父さまから教えてもらったの。父さまは木彫り細工の職人だから木や森のお話しをたくさん知っていて、その中に『人食い森』のお話しがあったの」

 言葉を重ねるごとに彼女の手に力が入っていくのがわかった。それほどに彼女は、その昔話の登場人物である「木こりさん」に希望を抱いているのだろう。




 少し、昔の話をしよう。

 ずっとずっと昔の話を。




 少女が住む村がまだ村でなかったころ。

 ぽつぽつと人々が住み始めたころ。

 それくらい遠い昔の話。

 そこからだいぶ離れたところに豊かな街があった。村と呼んだ方がふさわしいような小さな街ではあったが、食べ物にも着るものにも住むところにも誰も困ったりしない、争いとも天災とも縁遠い夢のような街だった。

 ただその街に住むものにはひとつだけ気がかりなことがあった。

 街の東にあった大きな森のことだ。

 うっそうとした森は傍から見ているだけでも薄気味悪いものだったが、それだけならば困りはしない。

 住民を悩ませたのはそれが「人食い森」と呼ばれる森であったからだ。

 誰が名付けたか、いつからそう呼ばれているかは知らない。

 しかしその名の通り、森に入ったものは二度と街には戻らず、幾日か後に無惨な姿で森の姿に吐き出される。人が入らなくても、迷い込んだ家畜や野犬の類いがやはり酷い目に遭い、森のまわりには生き物の残骸が絶えることはなかった。そのせいで、ぬるくゆったりとした風が吹く日には街の方まで屍臭が漂うことも少なくなかった。

「楽園には似つかわしくない森だ」

 ある日誰かがそう言った。

 街の人々はそうだそうだと口をそろえ、西の森の木こりに頼ることにした。ひとり森に住むような変わり者だったが、その腕は確かで、彼が斧を振るえば巨木も妖木も切り倒せぬものはないと言われる青年だった。

 はじめは渋った木こりだが、人々が「なんとか」と深々と頭を下げ懇願するものだからついに根負けし、幾人かの手伝いを連れて森に入った。

 木こりと「人食い森」の手に汗握る戦い。

 ……この辺のくだりは、子ども向けの絵物語を読んだ方がいいだろう。大人たちが酒を飲みながら語る場合、このあたりは「なんやかんやと困難はあったが、無事森の主である大きな妖木を切り倒したんだとさ」で終わってしまうのだ。

 今回はその例に倣うとしよう。

 なんやかんやで「人食い森」はことごとく切り倒され、積み上げられた丸太を囲み人々は歓喜した。

 細かく切ってもなおまだ動き出しそうだった妖木だけは、木くずも残らぬようにとすべて燃やされたという。

 そして木こりは西の森へと戻った。






               五、


「それで、君はその木こりに会ってどうしようっていうんだい。もしかして――」

「あの森の木をすべて切り倒してもらうの!」

 予想通りの返答に、僕はすっかり呆れてしまった。

「もうおとぎ話を信じていい年でないことはわかってる。だけど、木こりさんがいないと私の村は……村の人たちは」

 すでに何軒かの家族が村を去ったという。

「この辺に西の森があったと聞いたの」

「それで、あったかい?」

 僕の言いぶりにザートはキッと眼光を鋭くした。意地悪なことを言う人間だと思っただろう。イヤな奴だと思っただろう。僕は嫌われついでに彼女が決して欲してはいないだろう言葉で続けた。

「たぶん村を去った人たちの方が正解だ」

 彼女の表情は険しくなる一方だった。

「あなたは村を捨てろと言うの?」

「人が移ればそこが新たな村になる。それでいいじゃないか」

 彼女はもう、僕に殴りかかりそうな剣幕だった。

「私は今の村が、みんなが大好きなの!」

 村の素晴らしさを、美しさを、彼女がそれらを捨てられない理由を羅列する。同じことを繰り返したり、時々涙で声を詰まらせたりと感情のままに吐き出される彼女の話を、僕は相づちを打つこともなく聞いていた。ただただ彼女を真っ直ぐに見つめて聞いていた。

 僕より少しだけ背の高い少女。

 おとぎ話を信じるにはちょっとお姉さんな年ごろの少女。

 小さな手。細い足。

 その身体でここまでたどり着くという大人顔負けのことをしておきながら、村について話す顔はあどけなくて、子どもそのもので、彼女の必死な願いはひしひしと伝わってきた。

 だけど僕は―― 

 一通り心の内を吐露してから、ザートは目尻に残った涙の粒を人差し指の背で拭った。

 それが話の終わりの合図だと僕は勝手にくみ取って、そして彼女の純真さをへし折った。

「つまり、君の幸せのためにあの森に死ねと言うんだね」

 その言葉に少女がどんな顔をするのか、僕はしっかり見届けた。




 彼女の変化は著しかった。

 直後は反射的な怒り。

 返す言葉がすぐには出てこなくて、その間に僕の言葉を反芻したようで、瞬く間に青ざめた。おとぎ話の登場人物を頼ってしまうような子だ。豊かな感受性で自分の残酷さを必要以上に悟ってしまったのだろう。

 しかし村を思えば引き下がれないようで、少女は何度も「でも、」を繰り返した。

「森から離れればいい。それだけのことだよ」

 僕はもう一度だけ言った。それで彼女が納得しないことは重々承知している。

 だけど、僕はそれが一番シンプルな解決方法だと信じているのだから他に言いようがない。

 しかし僕はザートの視線に堪えかねて、ひとつのある提案をした。

「君が殺そうとしているものをその目で見てみればいいんじゃないかな」

 わざと意地悪な言い方をして彼女の返事を待った。

 少女は口を真一文字に結んだまま、僕を睨みつけるだけだった。






               六、


 人間とは現金なものだ。

 あれほど複雑に怒ったり憎しみをぶつけたりしていた少女は、今、花咲くような笑顔で僕の数歩うしろを歩いている。




 僕らはあの空を覆う森の中にいた。

 枝にぶら下げたハンギングチェアを足がかりにして、枝をよじ登り、縄ばしごを垂らして少女を森の中へと招く。

 宙ぶらりんにぶら下がる縄ばしごというものは登るのに意外とコツがいるもので、慣れていない人間だとしがみついたまま一歩も動けなくなる。少女もご多分にもれず、縄に絡まりそうになりながら悪戦苦闘していたが、不格好ながらなんとかよじ登り逆さまの木の幹にしがみついた。

「根が上で枝が下なんて、なんだか気味の悪い木登りね。……あ、こういう場合も『登る』でいいのかしら」

 珍しい体験による興奮のおかげで、彼女の表情は少しだけど和らいでいた。

「なんでもいいよ。とにかく落ちないように気をつけて」

 僕は言いながら森の中に道を作る。

 比較的枝葉の空いているところに、背負ってきた木の板を置き付近の枝にしっかりと結びつける。それを一歩、また一歩と繰り返して急拵えで木道を敷いた。

「慣れてるね」

「まあね」

「それにこの森の中を歩くのは初めてじゃないみたい」

「まあね。はじめに。一回だけ歩いたことがある」

「ふうん」

 ザートはそれ以上聞いてこなかった。

 もっといろいろ、根掘り葉掘り聞きたかったのだろう。うずうずしている様子も伝わってくる。しかし僕が休むことなく木道整備をしていたことで遠慮したようだ。

 僕らは木道を敷き、どうしても進めない時は「ごめん」と謝りながら枝を打ちしながら森の奥へと進んだ。

 僕と彼女と、紐をくくりつけ肩からぶら下げたティーポットと、やっぱり赤い実にご執心のおしゃべりなトリ。

 僕らは進む。

 奥へ。そして上へ。

 葉の重なりが薄くなり、無数に別れていた枝は集約されていく。

 それはつまり、厚い雲のように空を覆っている繁みの上に出るということで。

 次第に明るくなっていくと、お互いの顔もよく見えるようになっていって、彼女は一段登るごとに僕の様子を盗み見ていた。

「不思議な人ね」

 ザートは不意打ちのように言った。

「そうかな」

「ええ。そうよ。私より背が低いのに、私よりずっとずっと大人みたい」

「背は関係ないんじゃないかな」

「そうかしら」

「そうだと思うよ」

「ねえ、どうして森を見たほうがいいなんて言うの?」

「そう思ったからさ」

「何があるの?」

「なんだろうね」

「……村を捨ててもいいと思える何か?」

「そうだといいね」

 森もまた、それを願ったのだろうか。

 僕らの目に強烈な光が差し込んだ。

 目をつむり、手のひらで光を遮った。

 僕はそこに広がっているはずの景色を知っていたので、慌てず、光に慣れるのを待ってゆっくりと目を開いた。

 彼女はそうしなかったのだろう。好奇心に従ったのだろう。僕が目を開くよりも前に短い悲鳴が聞こえた。そして間髪を入れずに、彼女の声ははじけた。

「……きれい」

 静かに言った。

 だけどたしかに声ははじけていた。

 一足遅れて僕もまぶたを開けた。

 久しぶりに、ギラギラとした太陽の光が瞳に差し込んで、慣れるのを待ったはずなのに、やっぱり眩しさに負けてしまい目を細める。

 ティーポットはカタカタ鳴って、おしゃべりなトリは珍しく鳥らしい鳴き声を響かせた。それは、早く目を開けと僕をまくしたてているようだった。

「きれいね」

 彼女が二度目を呟いてから、ようやく僕はそこに広がる景色を眺めた。

 初めて頭上に森が現れたあの日。僕は森に侵入した。そのとき目撃した風景と寸分違わぬものが、僕らの前に広がっていた。

 逆さまの森。

 森はどこまでも豊かだった。

 どこから生えているのかわからないほどに幹はたくましくどこまでもそびえ、その間を差し込む光に導かれるように鳥がさえずり、リスや猿やなんかの小さな動物たちが枝から枝へと渡り、空に貼りついてこぼれない泉まである。その水に舌をのばすトカゲ。それを狙わんとする猛禽類の笛のような鳴き声がきこえる。おしゃべりな鳥の好物の赤い実ももちろんある。たんまりある。こんな景色の中では幹を登る蟻の列すら尊くて愛おしいもののように見えてくる。

 生き物たちの歩く音。かける音。襲う音。逃げる音。

 葉の匂い。花のにおい。木の匂い。赤い実はかぐわしく、青々とした匂いの中にときおり獣の体臭が混じる。

 匂いが、音が満ちている。

 そして何より、みずみずしく力強い唯一無二の光が、すべてのものをいっそう気高く昇華させるのだ。

僕ら以外すべてが逆さまで、だけど、逆さまというだけで今まで見てきたどんな森よりも豊かで賑やかで、そして命にあふれていた。

 ザートはこの景色を見て、心から喜びを感じていた。

 しかし一方で、鋭く突き刺さった刃に表情を歪めてもいた。

 僕の言葉は痛いほどに彼女に届いている。

「わかったかい?」

 僕の言葉に、ザートは苦しそうに首を縦に振った。しかしすぐに横にも振る。どちらの仕草もあまりに自信のない様子だった。

「わかったけど、わからない」

「それはつまり、僕の言っていることは理解したけどやっぱり納得できない、ということかい?」

「そうだけど、そうじゃない」

「これはまた、妙なことを言う」

 僕は言いながら、鼻先で飛び交う蝶々に止まり木を差し出すようにそっと指を伸ばした。

 彼らは互いに自分の存在をアピールするのに必死で、僕のことなんて目に入っていないようだった。

「この森を無くしてしまうのはちがう」

「それなら――」

「でも、村がなくなってしまうのもやっぱりちがう」

「だから――」

「わかる、わかるよ! 私、ひどいこと言った。みんなといたくて、村がなくなるのがイヤで、こんな森なくなっちゃえばいいと思ったの! だけどちがった。……ちがったけど、じゃあどうすればいいの?」

「どちらもなんて、都合の良い話だ」

「どちらも消えてほしくないって、そんなにいけない願いなの?」

 やはり子どもだ。

 答えはわかっているはずなのに、それでもあきらめきれないのだ。割り切れないのだ。「仕方ないね」という言葉はまだ少女には擦り込まれていない。

「大人になるんだ、ザート」

「どういうこと? なにを言っているか、よくわからないわ」

「大人になるっていうのはね、選択することなんだ。何かを捨てる決断をすることなんだ。そして後悔することなんだ。それを繰り返して大人になるんだよ」

 ああ。同じ言葉を、誰かの声で聞いた記憶がある。誰が言ったかなんて思い出せないけれど、どんな声色で、どんな調子で言ったかを鮮明に覚えている。

「木こりはね、人食いの森でひとつの選択をしたんだ」

 僕はそう言って、蝶々たちが逃げてしまった空間に両腕を差し出した。手のひらを開き空に向ける。

「魔の森を根絶やしにするか、」

 言葉が形にでもなったように赤く燃える斧が現れた。僕はそれを右手で握る。

「守りの森を育てるか」

 開いたままの左の手のひらに、小さな小さな緑の苗が着地した。




 同じようなことがあったんだ。




 木こりは「人食いの森」の中で、少女と同じように、命が育まれる豊かな森の姿を見たのだ。

 その姿を見て、少女と同じように戸惑ったのだ。

 しかし彼は少女とは立場が違った。

 彼は街に住む人間の一員ではなかったし、自身で願ってこの場所にきたわけではなかった。

 どうして「森から逃げればいいじゃないか」と言えなかったのか。

 それが言えなかった木こりに与えられたのは二つの選択肢だった。

 妖木が見せたのか。それともすべてを悟った何かが木こりを試したのか。

 目の前に現れた斧と苗。

 この斧で今すぐ森を跡形もなく消し去るか。しかしそれには多くの命の犠牲がともなう。

 それとも邪の侵入を許さない聖なる森を育て人々を守るか。しかしそれには多大な労力と忍耐が必要になる。

 どちらにもためらいがあるのなら、楽な選択肢を作ってそれを選べば良かったのだ。

「森から逃げればいいじゃないか」

 だけど木こりはその一言を言えなかった。

 言う前に選択を迫られたのだ。

「大人になりなよ」と。

「痛みを受け入れるんだ」と。

 街の人たちは彼に選択を迫った。

 自分たちの中ですでに決まっていた答えを押しつけるようにして、彼に選択を迫った。



 少女とは立場が違った。



 そうして僕は選んだのだ。

 正しいことじゃなくて、自分にとって楽な方を。

 自分にとって一番楽な「街の人たちに従う」という第三の選択肢を作りそれを選んだ。

 多くの命を見ないフリした。

 街の人たちが願うのだから仕方ない、と。

 その結果がこれだ。

 森が豊かだったということは、少なからず、そして知らぬうちにそばに住む街の人間たちも何かしらの恩恵を受けていたはずだ。

 それを、街の人間は妖木を倒すだけでは飽き足らず、森ごと消した。自分たちの安心のためだけに、あらためて森を見ることもなく。結果、大地は荒れ街にも影響が出て結局人の住めない場所となった。

 住民たちの言葉に従うだけだった僕にも天罰は下った。

 木を切れぬようにと非力な少年の姿に変えられ、その姿から抜け出せなくなった。そして生活の場も奪われた。西の森はある朝ごっそり取り上げられ、それに代わるように、毎年、まるで季節のうちのひとつのようにそらを森が覆う日々が訪れるようになった。




「でも、」

 と彼女は言った。

 いろんなことを聞いて、選択を迫られ、人生の中で一番混乱しているかもしれないのに、なんとか平静を保とうとしながら、彼女は言った。

 僕の話を聞いて彼女は三つの選択肢を持った。

 命を無視してそらの森を切るか。

 そらの森に怯えながら、人々が去って行くのに怯えながら聖なる森を育て続けるか。

 そして、どちらも選ばずに村を捨て、新しい場所で村人と幸せに暮らすか。

 僕ならば三つ目を選ぶ。今ならそれを伝えることもできる。

 だけど彼女は言った。

「でも、やっぱり私はどれも捨てられないわ」

 そう言って彼女は手を伸ばす。

「なにを……」

 彼女は僕が持っていた斧も苗も取り上げて、両腕に抱え込んだ。

「本当に困ったら『ごめんなさい』って言いながら必要なだけ切って、村の人たちが去って行かないように説得しながら、それで守りの森を育てるっていうのはダメかなあ」

 少女はいとも簡単に、僕が選べなかった答えを出した。

「すべてを手に入れるには、それだけの苦労があるんだよ」

「苦労なんてへっちゃらよ」

「わかっていないよ。本当に大変なんだよ? 人生を棒に振るかもしれない。そんなことをするくらいなら……」

「大丈夫! 村のために、この森に住むみんなのために、私なんだってするわ!」

新たな目標を手に入れて使命感に燃える彼女にはもう何を言っても意味がない。そして極めつけは――

「それに、あなたとだったらできそうな気がするし」

 彼女があまりにあっけらかんと言ったので、僕はしばらく反応することができなかった。

「ちょっと待って。僕は手伝うなんて」

「だーめ。もう決めたの。よろしくね、木こりさん」

 そう言って、少女ははじめて笑顔を見せた。

 とっても無邪気な顔だった。




「本当に、君は欲張りでわがままだ」

「あら。いけないこと?」

「悪いこととは言わないけれど、もっと大人になってほしいとは思う」

「まだまだ子どもよ? あ、思い出したわ! そういえば、わがままは子どものトッケンなんですって!」

「誰がそんなことを言ったのさ」

「父さまよ」

 彼女の嬉しそうな顔を見たら、どんな風に育てられてきたかがよくわかる。

「でも、それは優しく見守ってくれる大人がいるからこそなんだって。だから見守ってくれる人たちに感謝するんだよって言ってたわ」

 そう言ってザートは僕の手をとった。

「ありがとう。木こりさん」

 イヤな予感がする。

「そして、あらためて、末永くよろしくね」




               七、


 そうして僕は彼女の笑顔に完敗して、あの日選ばなかった「森をつくる」という選択を今さらながらに実行することになった。

 彼女は森についてはまったくの素人だった。僕も「森づくり」に関しては専門家というわけではないけれど、元木こりとしての知識はそれなりに役に立った。

 もちろんのことだけど、森はそう簡単には育たなかった。少女が女性となり、家族を持ち、それでも、木はまばらに育てども森と呼ぶにはまだまだ長い年月が必要だった。

 なかなか結果が出ないことでたくさんの人が離れていった。今からでもそらの森を切りに行こうと言い出すものもいた。

 だけど彼女は投げ出さなかった。大人になったのに、わがままを貫いた。誰よりも大人になってもわがままと欲張りとをやめなかった。だけどそれらはいつだって子どものまま純粋で、大人の持つ強欲とは違っていた。



「みんなが幸せになるなら、私はなんだってする! ぜーんぶするわ!」



 だからこそ、彼女の姿を見て村に戻ってくるものもたくさんあった。

 少女の子どもがまた新たな家族を連れてきた。

 かつては去って行った人もあったが、村はかつてよりも賑やかで、活気と希望に満ちていた。




 それから、どれくらいの月日が流れただろう。

 人々が「人食い森」の話をもう忘れようとしていたころ。

 賑やかな街の近くはどこも同じで、当然のように大きな森が広がっていた。森は命を育み、人々に糧を与え、そして厄災を遠ざけてくれる守り神のような存在になっていた。

「ここの森も立派なものですねえ。そうよねなんたって始まりの森ですものね」

 この森の木から分けられた特別な苗が世界各地に広がったのは、もうずいぶんと昔の話。 

その苗から生まれた森があるところには、そらの森が近寄らない。だけどひっそりと、適度な距離感で人々を見守ってくれるという。

 その森には一人の少女の物語があった。

 みんなのためにわがままを貫いた、一人の女の子の物語。




一方、僕はというと。

相も変わらず空を覆う森の下で生きている。

最近では聖女の伝説のおかげで、まるで仙人のように扱われ、そらの森に閉ざされる季節には、遠路はるばるやってきて、わざわざお供え物置いていく人間もある。

僕は相も変わらず空を覆う森の下にいる。だけど、本当は少しだけ変わったことがある。

僕の日々には目的ができた。

何ができると言うわけでもないけれど、見守り続けることにしたのだ。

彼女のようにすべての子どもがわがままを言える世界であるかどうかを。



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