4.遁走/反射
目を開けると、薄暗い。俺は椅子に座っている。目を見開いて待っていると、だんだんと暗さに慣れて視界が鮮明になった。
向かいの石積みの壁を背に人が縛られて吊られているのが見えていた。小さなろうそくが数本立っていて、吊られた人間をぼんやりと照らし出している。それはめぐみに見えた。布で目隠しをされてじっと動かない。隣を見ると、もう一つ椅子があり朽ちた死体が座っている。
俺は立ち上がると伸びをして、周囲を見渡した。ここはまだ地下のようだ。吊るされているめぐみ以外に何の気配もない。
祭壇のようだ。
誰がめぐみを吊るした? いや、誰なのか、何なのか。もうわからない。わからないことが起きすぎている。
「めぐみ、生きているか」
声をかけたら返事がない代わりに彼女は首を動かした。このまま置いて行けばいいか。これでもう、俺に危害を加えることはないだろうから。
「助けて……」
か細い声で彼女は言葉をひねり出した。
「助けてよ……」
今にも消え入りそうな声だ。放っておけばこのまま死んでしまいそうな気がした。
もったいない気がして腹を殴った。ここまで苦しい思いをさせてくれた仕返しだ。
目隠しの布が赤く血に染まっていた。それを見るともうたまらなくなって、俺は更に2発殴った。弱々しいうめきが彼女の口から漏れる。
もういい。滅茶苦茶にしてやる。
めぐみを縛るロープをほどこうとして力ずくで引っ張って、駄目だった。諦めてそのままで何度も殴り、爪で引っ掻いた。俺の座っていた木の椅子を力任せに投げつけると、椅子は彼女に当たってばらばらになった。
折れた木の板は丁度よく先端がぎざぎざになっている。拾い上げて彼女の肌のあちこちに突き立てて傷をつけた。
夢中になってめぐみの身体を痛めつけていると、気がつけば彼女の身体は見るも無残な姿になっていた。身体中に傷をつけられた彼女はもう、息も絶え絶えだ。
「しぶとい女だな!」
彼女を蹴りつけて、俺はその場を立ち去ろうと懐中電灯を探した。無くなっている。彼女のも無ければ俺のも無い。ポケットに突っ込んだ後どうしたのか、どうしても思い出せない。携帯電話も見つからない。
「ちくしょう」
明かりなしで進めというのか。
瀕死のめぐみを置いて帰り道を探す。適当に歩いていると、床が少し上向きになっていることに気づいた。これで少しでも地上に近づける。
足音も響かないつまらない道を歩いていて、壁際に腰ほどの高さの石の台を見つけた。台の上に携帯が乗っている。誰かが用意してくれたのだろう。俺の携帯だ。
拾い上げると、電話の着信があった。俺はすぐさま耳に当てる。
「後ろを向いて」
人の声と思えない声が耳に届いた。人の声ではないのに、はっきりと意味が聞き取れた。
言われるがまま振り向く。忘れていた恐怖心が頭をもたげている。その恐怖心は一度気づけば急激に膨らんで俺の思考を圧迫した。
後ろには何も見えなかった。その事実が一層の恐怖を掻き立て、それで俺が逃げ出すのに十分だった。
二度と振り向くつもりもなく必死になって走り、永遠と思えるほどの瞬間を逃げ続けた。
水の流れる音が聞こえる。それは大きくなる。少し大きな部屋に出て、部屋の中央を水路が横切っている。とても一息に渡れる幅じゃないのに俺は慌てて跳び越そうとして、水路に落ちた。
足が底に着いたが、一瞬で水圧に絡めとられ、なす術はなかった。手を伸ばしても何も触れることができず、俺はただ流された。
息をするだけで他にどうする余裕もない。あっと言う間にどれほど流されたのか分からなくなっていた。
ふと気づくと、俺は固い床に横たわっていた。まだ乾かない水滴に混じって涙が顔の横を一筋流れ落ちるのを感じた。
真っ暗な中をゆっくり起き上がる。無性に寒かった。身体の震えは止まらない。
また携帯をなくしてしまったが、あんなものはもう持っていたくない。
手探りで這うように移動する。何かが手に触れた。その感触には覚えがあった。俺が突き落とされた階段の、一番底の壊れた木戸だ。そしてすぐに石段のような感触が手に触れた。はっとしてその感触を確かめる。何度も確かめて――一段一段、石段を上がっていく。
見栄を張って……俺は悲しい男だ。頼れるところを見せようとして、こんなところで惨めな思いをしている。吐き気がする。
石段は長かった。これだけの長さを転げ落ちたのだとすると、よくも無事でいられたと思う。階段の入口に手が掛かった。コンクリートの質感が俺を喜ばせる。
明かりがないせいか、真っ暗闇だ。でも、そんなことはどうだっていい。やっと悪夢のような地下から抜け出すことができたのだから。
壁に手を当ててコンクリートの廃墟から出た。暗くてまだ何も見えない。
こんなに暗かっただろうか。目を何度かこすって暗闇に目が慣れるのを待つ。風が木々の葉を揺らすのが聞こえている。外に出たのは間違いない。
待つ間、後ろの廃墟がどうしても不気味に思えてならなかった。何度か一歩ずつ建物から離れると、しだいに我慢しきれなくなって俺は走り出した。暗闇に目が慣れるのを待っていられない。
何度も木にぶつかり、何度も転んだ。そして地下での痛みを思い出し、立ちすくんだ。きっと悪夢に違いないのに、どうしても怖かった。最後に俺がめぐみにしたことを思い出し、手遅れの罪悪感に襲われた。もう、ここでしゃがんで朝を待とう。その後で帰ろう。……
手近な木の根に腰かけた俺は、いつの間にか眠り込んでいた。
身体を照らす暖かさで目を覚ました。日が昇ったのだと思って瞼を開いたが、何も見えなかった。
俺は光を失っていた。
「そんな……あああ!」
悲しみに暮れていると、両目がいきなり痛み出した。どろっとした血が己の瞼の下からあふれて流れ出す。両手で目を押さえていると、少しして身体中が痛み出した。隅々までが激しく痛い。
苦しい。肌が――破れ始めた。
俺はただ祈る事しかできなかった。いるのかもわからない神に祈る間も俺の身体はぼろぼろになっていった。死を祈った。なのに、救いは訪れない。