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孤独の国のアリス

作者: 酔狂

あなたは、「立派な大人」になりたいですか?

 

 私は、いわゆる中流家庭に生まれた娘です。父は、とある大企業に長年務めるサラリーマンで、生活には全く困らないだけのお給料を貰っています。何十年と務めた甲斐もあり、今や、それなりの地位にまで出世しました。お陰で私は、17になるこの歳まで、金銭的に一度も苦労らしい苦労をすることなく、生きてきました。


 私たち家族が住む家は、昔、父がローンで買った家です。その敷地には、なかなかの広さの庭があり、一本の木が生えています。所狭しと華やかな花が植えられた中に立つ、ただ一本の無骨な木。しかし父がこの敷地を手に入れた時、このような木は数本生えていました。そんな景観を嫌った父は、次々とそれらを切り倒し、根を引っこ抜き、その跡に綺麗な花を植え付けていきました。そうして最後に残ったのが、このただ一本の木です。



 ある日、私はそんなひとりぼっちの木に登り、軽い身体を太い枝の上に乗せ、ぼんやりと目に見える景色を眺めていました。


 すると、姉が携帯を片手に近づいて来るのが見えました。


 「きゃはは、何それ、おもしろーい」


 どうやら姉は、大学のお友達とおしゃべりをしているようでした。


 大学生の姉が家にいることは、あまり多くありません。たいていは、バイト先からそのまま友達の家に泊まりに行くか、さもなければ、初めから泊まりがけでどこかへと出掛けます。また家にいる時はたいてい、携帯を片手に自室に籠もるか、バラエティやドラマ番組を見て、一人でキャーキャーと興奮しています。要は、学校以外のほとんどの時間を家で過ごし、携帯で友達と連絡を取ることもほとんどなく、テレビにも一切興味のない私とは、似ても似つかない性格、ということです。


 「いやー、マジでウザいよねー、キャロルって。マジあり得ないわー」


 どうやら姉は、電話の話し相手と一緒に、キャロルさんのことを批判しているようです。キャロルさんは、姉の大学の同級生で・・・あれ?そういえば姉さんって、昨日そのキャロルさんと電話で、楽しそうにお喋りしてなかったっけ?


 そんなことを思いながら、なおぼんやり眺めていると、


 「アハハ、おもしろいねー。ほんと、ルイーズってチョーおもしろいわ。さすがウチの親友だね」


 どうやら、姉は「親友」のルイーズさんとお話ししていることが分かりました。それにしても、家で家族といる時、あんな笑い方をしている姉は見たことがありません。よほど、相手の話が面白いのでしょうか?


 その後、何やらゴニョゴニョと会話をしていた姉はやがて、


 「うん・・・うん・・・じゃあ、六時にヤーシブで待ち合わせねー。うん、オッケー、バイバーイ」


 と言って、電話を切りました。そして、相変わらず携帯の画面を覗き込みながら、フラフラと、私がいる木の下まで歩いてきました。私はそんな姉を、黙って見つめていました。


 とうとう姉は、木の真下まで来ました。大学に入ってから染めた、茶色の髪の毛が、すぐ眼下に見えます。ふと、携帯の画面から目を離し、初めて木の存在に気が付いた様子の姉の口から、こんな呟きが聞こえました。


 「ふう、相変わらずルイーズは話が長いんだから・・・少しは聞く方の気持ちも考えろっつーの、ったく・・・」


 そうして舌打ちした姉は、木の上からこちらをぼんやりと見つめる私に、初めて気が付きました。一瞬、ギョッとした様子の姉でしたが、すぐにこちらを小馬鹿にしたような表情をして、言いました。


 「あら、アリスじゃない・・・そんなとこで、なにしてんのよ?」


 「なにって・・・ただ気持ちいい風を受けて、のんびりしているだけ」


 「ふーん・・・たのしーの、それ?」


 「うん、楽しい」


 「ふーん、そう・・・」


 そう言った姉の表情からは、


 ーそんなの、たのしーワケないじゃない。へんな子・・・ー


 という感情が、ありありとうかがえました。


 「あんた、たまには友達とあそんだりしないの?」


 姉はなおも聞きます。


 「まあ、ごくたまに・・・お姉ちゃんは、今日も友達と遊ぶの?」


 「そういうこと。大学の友達と、ヤーシブの町でね」


 そう言った姉の表情からは、何やら勝ち誇ったようなものが漂っていました。


 「あ、いけなーい。そろそろ準備しないと」


 そう言って姉は、スタスタと自室へ引き返して行きました。そんな姉を、私は不思議に思いながら見つめていました。


 姉が家の中へと消えてからも、私は相変わらず、木の上から遠くを眺めていました。しばらく経った時、今度は一匹の黒ウサギが近づいて来るのが見えました。黒ウサギは腕時計を気にしい気にしいしつつ、私のいる木の方向へ、ぴょんぴょん向かってきます。


 近づいて来るにつれ、彼がこう言っているのが聞こえてきました。


 「ああ忙しい忙しい。これからあと十軒も取引先を回って、その後に明日用の書類作成、夜はお得意さんとの飲み会だ。ああ忙しい忙しい」


 ーああ、あんなに忙しそうにして、大変なんだなぁ・・・ー


 はじめは、そう同情する気持ちもあったのですが、やがて私は、あることに気が付きました。どうやら黒ウサギは、木の上から自分を見つめる私の存在を、明らかに意識しているのです。その証拠に、「忙しい忙しい」と言うたびに、こちらをチラチラと見上げているのが分かりました。


 何故なのか、未だに分からないのですが、そんなウサギさんの様子に気が付いた時、彼に対する同情の念はすっかり消えていました。そうして私は、ウサギさんから目を離し、再び遠くの風景をボンヤリと眺め出しました。


 やがて、黒ウサギは木の下まで辿り着きました。そして、手に持ったカバンから携帯を取り出し、誰かに電話をかけました。


 「もしもし、ミラー工業のテニエル部長様でいらっしゃいますか?あ、どうもー、すみません、ワンダー商事のウサギですけども。はーい、すみません、お世話になっております。すみません、今お時間少々、よろしいでしょうか?・・・ああ、よろしいですか、すみませーん・・・」


 私は、黒ウサギがお客さんと何について会話しているのか、全く興味ありませんでした。その証拠に、今ではその具体的な内容を、一ミリも思い出すことが出来ません。しかし、一つだけ思い出せるのは、彼がやたらと


 「すみません、すみません」


 と連呼していたことです。


 ー何をそんなに謝っているのだろう?話していること自体は、全然謝らなきゃいけないようなことじゃないのに・・・ー


 そう思ったことを覚えています。


 ウサギさんは、笑ってみせたり、頭を下げたり、そして合間合間に「すみません」を挟んだりつつ、ひとしきり電話で話をしていました。そして最後に、


 「はい、すみませーん。それでは引き続き、よろしくお願い致しますー。はーい、それでは失礼いたしますー。はーい、すみませーん・・・」


 と言って、電話を切りました。そうして、大きく長い溜息を一つ、


 「はぁぁぁぁ・・・」


 と吐き、おもむろにこちらを見上げました。


 「君はそんなところで何をしている?」


 ウサギさんがそう聞いてきたので、


 「なにって・・・ただ、綺麗な空や遠くに見える町並みを、ぼんやり見つめていただけ」


 「ふん・・・結構なご身分だね。まあ、今のうちに、そうやってのんびりしといた方がいいか。然るべき時が来たら、こうやってスーツを着て、僕みたいに忙しく働かなきゃいけないんだから」


 そう言ってウサギさんは、身に纏った黒いスーツを見せつけるように、胸を張りました。そうです。始めにそのウサギさんの毛色だと思った「黒」色は、実は、彼が身に付けたスーツの色だったのです。


 それはともかく、私は彼にこう反論しました。


 「私は、あなたみたいにスーツを着て働かないわ」


 「ああそうか、君は女の子だもんね。いいなぁ、女性はある程度自由に服が選べて・・・」


 「いや、そうじゃなくて・・・私は、作家になりたいの。あなたみたいなサラリーマンじゃなくて、作家として、生きていきたいの」


 「作家ぁ?」


 ウサギさんは、心底驚いたという表情で、私を見つめました。そして次の瞬間には、こちらを軽蔑しているような、憐れんでいるような、はたまた優しく教え諭そうとしているような、そんな複雑な顔をして、こう言いました。


 「お嬢さん。悪いことは言わない。そんな儚い夢は、諦めた方がいい。君の家の財力なら、大学にも問題なくいけるし、君の努力次第で、留学に行って、自分に箔を付けることだって出来る。そうすれば、超売り手市場の、このご時世だ、就職だって余裕だろう。それなのに、『作家になりたい』だなんて、そんな幻想を追ってはいけない。お父さんが悲しむよ」


 「幻想かどうかなんて、そんなの、やってみなきゃ分からないじゃない。それに、自分の気持ちに逆らってまで無理矢理サラリーマンになったって、そんなの、幸せな人生じゃないわ」


 「ふん、『幸せな人生』か・・・君はまだ、この世のことがよく分かっていないんだね」


 ウサギさんは口を歪めてフッと笑うと、こう言いました。


 「いいかい、『幸せな人生』ってのは、『立派な大人』として生きる人生のことさ。で、この『立派な大人』ってのは、何の天賦の才にも恵まれなかったわれわれ平民にとっては、『立派な大学を出て、立派な企業で働いて、他人が羨むような生活を送る人』のことさ・・・君も、いずれ分かる日が来るよ」


 そしてふと、自分の腕時計を見たウサギさんは、


 「ああいけない!約束の時間に遅れちまう!急がなければ。ああ、忙しい忙しい・・・」


 と言って、どこかへぴょんぴょんと向かって行きました。


 私は、そんなウサギさんの後ろ姿を、悲しい気持ちで見つめていました。悲しい、というのは、自分の夢を否定されたからではありません。そうではなくて、スーツを着たウサギさんの足下から、美しい純白の毛が、ちらりと見えたからです。


 ー「立派な大人」っていうのは、自分本来の、あの美しい毛を、真っ黒なスーツで覆い隠して、それで得意気でいる人のことなのかな・・・ー


 そう思うと、無性に悲しい気持ちになるのでした。


 ー違う・・・自分が「立派」かどうか決めるのは「私自身」だ。他人が羨ましいと思うかどうかなんて、関係ない。私が、それに納得出来るかどうかなんだ。自分が納得出来ないなら、いくら有名な大学を出たって、いくら名の通った企業で働いたって、意味はない。絶対に、そうだ・・・ー


 妙な憤りと共にそう思った時、誰かが私を呼ぶ声が聞こえました。


 ーアリス・・・おい、アリス、いい加減起きなさい・・・!ー


 私が目を覚ますと、木の下に、父が立っていました。いつの間にか、私は木の枝に乗ったまま寝ていたのです。


 「まったくお前は・・・本当に、変わった娘だ・・・」


 そう呆れる父の声が聞こえます。


 「お父さん・・・いったいどうしたの?」


 「『どうした』は、こっちのセリフだ。そんな木の上で、いったい何をしていた?」


 「大したことじゃないわ・・・ただ、気持ちのいい風を受けたり、綺麗な空や風景をぼんやり見つめてたりしてただけ。そしたら、いつの間にか寝ちゃって・・・」


 「はぁ・・・」


 父は溜息を吐いて言いました。


 「そんなおかしなことをやるくらいなら、勉強しなさい。もうすぐ、大学受験生になるんだぞ?」


 「お父さん、私、大学受験はしないって、前から言っているでしょ?それに、風を受けたり綺麗な景色を見るのも、別に『おかしなこと』じゃ・・・」


 「ああ、もう、変なことを言うんじゃない!」


 父は少し声を荒げました。


 「また、『作家になりたい』なんて話か。そんな、絵空事を言っていられるのは、今のうちだぞ・・・父さん、お前の面倒をずっと見ていられるほど、金の余裕は無いからな」


 ー結局は、お金の問題なのね・・・ー


 それを聞いた時の私は、悲しくて、悔しくて、涙さえ出そうでした。色々と理屈をこねてみたって、最後は結局、お金の話になるのか。そう思うと、父に対して、憤りさえ感じました。「偽善者!」と叫びたくなりました。


 そんな私を放ったまま、父は家へ戻ろうとしています。


 「待って、お父さん」


 木の上の枝に座ったままそう呼び止めた私を、振り返った父は怪訝そうに見つめました。


 「お父さんは、姉さんのことをどう思う?」


 「どう思うだって?」


 「つまり・・・姉さんのことを、『立派な大人』だと思う?」


 私は、夢でウサギさんが言っていた言葉を、そのまま使いました。


 「ふむ、そうだな・・・まあ、まだ就職までしていないから、何とも言えんが、少なくとも、ここまでは『立派な大人』になるための階段を、順調に進んでいるだろうな」


 「どうして?」


 「え?」


 父は聞き返しました。


 「どうして、姉さんは順調に『立派な大人』への階段を進んでいると思うの?」


 「そりゃあ、お前・・・」


 父は、「決まってるじゃないか」という顔をして、言いました。


 「あいつはここまで、学校で優秀な成績を残し、難関と言われる大学に進み、そこで留年もすることなく、ここまで順調に来ているじゃないか。近々留学したいとも言っているし、この調子なら、就職にも困ることはないだろう・・・な?『立派な大人』へと過程そのものじゃないか」


 「そう・・・か。うん、分かった」


 私には、もはや反論をする気持ちさえ起こりませんでした。


 「お前も、姉さんを見習うんだぞ。大学の授業料とかは、心配しなくていいからな」


 そんな私の様子から、娘が納得したとでも思ったのか、父は表情を和らげてそう言いました。


 ーもはや、何も言っても無駄だー


 そう思った私は、父の言葉に対してただ


 「うん・・・」


 と返事をしただけでした。


 「・・・あ、それとな」


 父は、思い出したように付け加えました。


 「お前が登っているその木だけどな、明日、切り倒すから」


 「・・・なんで?」


 「なんで、ってお前・・・こうして一本だけ生えていると、周りの花と調和が取れないじゃないか。それに、この辺りに生える木はこの一本だけだし、近所から目立つからな」


 そう言って父は、再び家の中へと戻っていきました。この時は、そんな父の背中を、私は呼び止めませんでした。


 何が何なのか、私には分かりませんでした。


 ある人を「親友」と呼んでおいて、次の瞬間にはその人を貶して、そうして、その人と遊びに行くことを誇らしげに自慢するような人が、『立派な大人』なのか?


 自分の忙しさを見せびらかして、他人の生き方を否定して、美しい自分を覆い隠して他人に「すみませんすみません」と言うのが、『立派な大人』なのか?


 ただ、これだけは私にも分かっていました。いわゆる「世間」というのは、父と同じ意見なのだろう、ということです。彼ら「世間」は、寄ってたかって、自分らしく生きようとする私達をあざ笑い、あるいは眉をひそめ、こう言うに違いないのです。


 ーまあ、変な人・・・常識が無いのね、夢ばかり追って・・・ー


 そう思うと、とうとうこらえてきた涙が、目からこぼれ落ちました。


 ー私は孤独だ。まるで、この、たった一本残された木だー


 しかし、その木も、明日には切り倒されます。そんなひとりぼっちの木を、私は思わず、静かに撫でました。


 木は、とっくに諦めきったかのように、そよ風を受け、静かに揺れていました。

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