第3話
知立悠梨。
父親は貿易会社の社長、母親は世界的に有名なファッションデザイナー。大富豪とまではいかないが、富豪レベルなら軽く陵駕する知立財閥の一人娘。
慎太郎とはなんの因果か知らないが小中高と十一年間同じクラスだ。
なぜそんなけったいな人物と幼馴染みなどやっているのかというと、慎太郎と悠梨の母親が旧友で親友だという妙な奇縁があるのだ。
悠梨の母には慎太郎の母が他界したときよく世話を焼いてもらった。落ち込んでいると優しく話しかけてくれていたのに、当時の慎太郎はそれをつっぱねて悲劇のヒーローを気取っているという、今の慎太郎が見たら二、三発ぶん殴ってやりたくなるような甘ったれなクソガキだった。
悲しいのは自分だけではないということすらもわからないかったのだから。
そういえばあの頃は悠梨も学校でやたらと話しかけてきて、うっとうしいなとか思っていたが、あれも気を遣わせていたんだろうな。そして今もまた迷惑因子を持ち込もうとしている。六年前となにも変わってないな、俺は。
情けない気持ちで満たされながら、慎太郎は荘厳な作りの格子門の横にあるインターフォンを押した。
そして十秒ほど経過。
「……留守かな」
「家の明かりは点いてますが」とみなみ。
慎太郎がもう一度ボタンを押そうとした一瞬前、ノイズ音の後にスピーカーから声が聞こえてきた。
『はい、知立でございます。すみません、立て込んでいたためお待たせしてしまいました。申し訳ありません』
悠梨ではない。悠梨の両親のどちらかでもない。使用人の人だった。
「ああ、いえいえどうぞお構いなく」
スピーカーの前でお辞儀をする慎太郎。待ったと言っても三十秒くらいだし、すでに夜の帳が降りている。しかもこっちは果てしなく妙ちきりんな用事で訪ねにきたのだ。すみませんと言われてもこっちがすみませんと言いたくなる。
『恐れ入ります。それで、どのようなご用向きなのでしょうか』
威厳のあるテノールの利いた男声。確か執事の宮城さん、だったろうか。
「えっと、俺です、萩本慎太郎。んで、悠梨は……あー、悠梨さんはいらっしゃいますでしょうか?」
『お嬢様ですか。ご在宅でございます。少々お待ちくださいませ』
インターフォンが保留状態となり、慎太郎は肩で大きな嘆息をした。あの人と会話するとなにゆえあんなに疲労するのだろう。
「兄さん、本当に悠梨さんに件の話をするのですか?」
みなみの問いかけに慎太郎は回れ右をして彼女と顔をあわせる。
「まあ、あまり乗り気ではないかな。あいつのことだから、ぶつくさ文句ばっか言っても最終的には、やっぱ協力してくれんだろうなあ……」
「わたしもそう思います。それで、兄さんは悠梨さんのそんなお人好しっぷりを利用するみたいで、ちょっと自己嫌悪になっているのでしょう」
「そうなんだよなぁ……つっても他にアテもないしなぁ」
慎太郎は自分の交遊関係の幅の狭さを呪いながら佇んでると、
『お待たせいたしました』
という機械的な補正を受けた声にまた振り返った。
「ああ、はいはい」
『中に入れろとのことでございます』
宮城が発言すると同時に、両開きの巨大な門扉が自動で開かれた。
『どうぞお入りください。すぐに案内の者に迎車を向かわせますので』
「いやいやいやいや、いいっすよそんなもん。勝手に歩きますんで」
恐縮しまくって安い頭をペコペコ下げる慎太郎。傍からすれば訪問販売に来た営業外回りにしか見えない。
客人にご足労をかけるわけにはいかないと、妥協しない宮城にみなみが話をつけ、今は揃って馬鹿でかい庭園を歩行していた。
右を見れば澄み切った水が波打つ噴水があるし、左を見れば龍だかなんだかの形に刈り込まれた繁茂があるし、前を見れば腰を抜かすほど豪奢な四階建ての建物がある。もはや邸宅どころかお屋敷だ。
長い石畳を渡り終えると、玄関の前に誰か立っていた。カチューシャ、エプロンドレス、フレアスカート。どっからどう見ても純度百パーセントのメイドさんだった。しかもあの人は確かメイド長の人だ。名前は……吉田だったっけか?
「こんばんわ。お待ちしておりました」
体の前で両手を合わせ、完璧な角度で頭を下げ、
「慎太郎さん、みなみさん。どうも、ご無沙汰しております」
「ああ、ども。久しぶりです、吉田さん」
直後、みなみが慎太郎の袖を引っ張った。耳元に口を近付け、
「兄さん、吉田じゃなくて吉川です。吉川茜さんです。吉田はハズレです」
小声でそう教えてくれた。見事に固まる慎太郎。
「……あ…っと……すんません。マジすんません」
平謝りするしかない慎太郎に茜はやんわりと微笑む。
「ふふ。いいですよ、謝らなくても。気になどしていませんわ」
「ああ、すんません」
典型的なことをする慎太郎に茜はまた笑いかけた。こうして見ると慎太郎やみなみと同世代にしか思えないが、確か二十代の半ばくらいだったはずだ。もはや慎太郎の記憶力なんてアテにならないが。
「さあ、どうぞ中にお入りください」
茜は流れるような所作で扉を開け、ドアノブを持ったまま萩本兄妹に出入するように促す。そして知立宅の玄関に足を踏み入れると、よく見知った人物が出迎えてくれた。
「おいーっす。こんな時間になんの用だ?」
そこにいたのは、片手を腰に当てて赤絨毯の上に立つ小柄な少女。二度寝して今起きたばっかみたいなセミロングの髪。幸い髪質が良いのでウエーブをかけているようにも見えるのでそれはまだいいが、服装はタンクトップにホットパンツというラフ過ぎる服装。靴下すらはかずに裸足だ。
一見すれば世間一般で認識されているお嬢様とは程遠いが、間違いなくこの知立家の一人娘、幼馴染みの知立悠梨その人である。
そして慎太郎が何か口にしようとした矢先。
「お嬢様!」
と声高に叫んだのはメイド長の吉川茜。「げ、茜。くそ、来るんじゃなかった」
茜は慎太郎達の前を会釈してから通過して毒づく悠梨に接近した。
「そのようなみっともない格好はお止しください! 前々からそう言っているではないですか!」
さっきまでとは打って変わって、微笑ましい表情など彼方に捨て去り柳眉を逆立てている。それに対し悠梨は能天気な顔で、
「んあー? だって暑いしさー、こっちのほうが動きやすいじゃん」
「そういう問題ではありません! それになんです? その言葉遣いは? もっと旦那様と奥様の娘であることを自覚して、品行方正な言動を心がけてくださいまし!」
「あーもー、うるさいなぁお前いつも」
「うるさいとは何事ですかうるさいとは!わたくしには教育係としてお嬢様をどこに出しても恥ずかしくない淑女にする責務があるのです! それを言うに事欠いてうるさいなどとは……ゲホッ、ゲホッ……!」 むせながら顔を真っ赤にする茜の背中を、悠梨がポンポンと叩く。
「ほら、慣れないのに怒鳴ったりするから」
「……ゲホッ……すみま、せん…………。いえ、そうではありません。いったい誰のために怒鳴ってると思ってるんですか!」
「あーわかったわかった。茜の言うしゅくじょとやらにはそのうちなってやるから、あんまり怒るな」
「……本当ですか? 今まで幾度となくそのセリフを耳にしてきましたけど。お嬢様の言うそのうちとは何日後のことなのです?」
「まあ、目分量」
「意味不明にも程がありますわ」
茜は諦観したように重く息を吐いた。
「わかりました。今日はここまでにします」
靴を脱いで広間の隅でとっくに見物人を決め込んでいた慎太郎とみなみに向けて茜は、
「慎太郎さん、みなみさん。わたくしはこのへんで失礼させていただきます。後程お嬢様のお部屋にお飲み物をお持ちいたしますので、またそのときに」
たおやかに頭を垂れると、髪とスカートを揺らして翻り、厨房に続く廊下へと歩き去っていった。
茜の背筋をピンと張った後ろ姿を見送りながら、慎太郎はようやく悠梨に話しかけた。
「相変わらず忙しないな、あの人は」
悠梨は慎太郎を見上げて、ポリポリと頭を掻きながら言う。
「茜のことか? 忙しないというかやかましいだけだろう。あいつは堅物で頭でっかちだからな。あたしは好きなんだけど、どうにも口うるさいのがたまに傷だ」
「少しは言うこと聞いてやれよ。毎日あんな叫んでたら可哀相だろ」
「可哀相って言ってもなぁ。うんじゃ聞くがお前、ピッカピカのドレスを着てお嬢様言葉を喋りながら口に手を当てて“オホホホホ”なんて笑ってるあたしを見てどう思う?」
「…………すまん、勘弁してくれ」
「だろ? そんなんならあたしよりもみなみのが絵になる」
たしを引き合いに出さないでください」
みなみが口を挟んできた。二人並ぶと年上の悠梨のほうがちっこいのである。
「そんな格好わたしだって似合いません」
「そーか? 結構いい感じになると思うんだけどな」
「なりません」
みなみは言い切ってから眼鏡のブリッジを押さえた。
「それより兄さん。悠梨さんに伝えることがあったのではないのですか、色々と」
「まあ、そうだな」
当然部外者の悠梨は小首を傾げているが、
「なあ悠梨。実はな――」
と言う慎太郎を遮って、
「あー、ちょっと待った」
一拍置いてから、
「なんかよくわからんけど、ややこしい話なんだろ? 立ち話なんてあたしがしたくないし、とりあえずあたしの部屋に行こう。茜がお茶持ってきてくれるし」
そう言うと二人の返事を待たずに、先頭を切って階段を上がっていく。悠梨の自室は三階。
慎太郎とみなみは拒否する理由もないので、先行する悠梨を追って階段を上り始めた。