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第2話

 萩本慎太郎は夢を見ていた。

 六年前、まだ母親が生きていて、家族全員、五人で行った最後の遊園地。

 当時十歳だった慎太郎は、浅はかだった。その遊園地で一番の名物、大人でも泣くことがあるという恐怖のアトラクション“ファントムホテル”に挑み、スタートしてから五分。一階の階段を上がる前に泣きながらコースを逆走していった。一緒にいた一コ下の妹、みなみにいたっては大号泣してその場に頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。それに気付いた慎太郎が再び逆走して、しまいにはみなみと共に従業員専用の出口から脱出するという、今思えば他愛ない笑い話だ。

 まさか六年後に、こんな間の抜けた事態に見舞われるなんて、今も昔も考えることはなかったが。

 そして今回は、まったくもって笑えない話なのである。

 何だったっけ? そう、借金だ。確か額は一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億……。

 ははははは。もう笑うしかねえ。やっぱり笑い話か。

「兄さん、変な顔しながら往来のど真ん中で寝ないでください。恥ずかしいです」

 その声で慎太郎は覚醒した。

「…………みなみ」

「おはようございます」

 アスファルトの上で大の字になっている慎太郎の頭の上、妹の萩本みなみがこちらの顔を覗き込むようにして立っていた。

 慎太郎と同じ城星高校のセーラー服、半縁眼鏡の奥に見える切れ長の目、肩のあたりで揃えた長めのショートカット。間違いなく今のみなみだ。髪が長くて眼鏡もかけていなかった六年前のみなみではない。

「こんなところで行き倒れごっこですか?みっともないから早く起きてください」

 容赦のない率直な意見。やはりみなみか。

 昔は明るくてよく笑う子だったが、母親が死んでからは家事全般をやるようになり、その経験からか達観して大人びた性格になった。ストレートな言動と鋭い目付きから、初対面の相手には冷たい人間だと思われがち。だが実際は、他人の気持ちがわかる優しい妹だ。そこは六年前も現在も変わらない。

「……みなみ」

「何ですか」

「パンツ見えるぞ」

 みなみはムッとしながら大きく一歩後退。

「くだらない冗談を言えるくらいだから、体は正常なようですね。どうしてこんなところで惰眠していたのですか」

「どうしてって、なんか借金がどうのこうのって……」

 記憶が一気にフラッシュバック。慎太郎はガバッと起き上がった。

「そうだみなみ一大事だ! 借金は借金で借金が……!」

「これのことですか?」

 慎太郎の眼前にみなみが一枚の紙を見せ付けた。

「兄さんの横に転がっていました。何です? この理解に苦しむ金額は」

「いや、その、あれ? っていうかお前、いつ帰ってきたんだ?」

「二分くらい前です」

「……今何時?」

「五時十一分です」

 みなみが左手の腕時計を見て答えた。慎太郎は自分も腕時計をつけていることを思い出して盤面を見た。

 PM05:11。

 家に着いたのが五時過ぎで、あのアホ男との会話がせいぜい七、八分だろうから、逆算してみると慎太郎の気絶時間はそれほどもない。みなみと長谷川は入れ違ったのはほとんどタッチの差だったわけだ。

「それで、何があったんですか。ひどい顔していましたが」

「そんなに変だったのか? どんな?」

「ひどい顔です。名前を付けるならきっと泣き笑いです。すごく不気味でした」

「ああ、そう」

 慎太郎の中に再度現実味のない緊迫感が染み渡ってきた。そうだ。思い出してきたぞ。長谷川なんたらとか抜かすヤローから出来損ないのギャグ漫画みたいなこと聞かされて、親父の……訂正。クソボケ親父からの手紙に激怒して、そして……、

「なあみなみ。これは夢か?」

「わたしの主観からすればまぎれもなく現実ですが、兄さんが寝ぼけて夢見心地なのかどうかまではわかりません」

「夢がいいな、すごく。うん、夢がいい。むしろ夢にしてくれ」

 低音でボソボソ喋る慎太郎に、みなみが手を伸ばして頬をつねってきた。

「痛いですか?」

「……むっちゃ痛い」

「なら、これは現実です」

 頭一つ分下の目線にいるみなみを見て、慎太郎は深い深い溜め息を吐いた。同時にみなみが指を放す。

「……なあ、みなみ」

「はい」

「万の次の桁って億であってたっけ」

「はい?」

 眉をひそめるみなみに、慎太郎は三点リーダをまじえながらつらつらと先の出来事を伝えた。

 すべてを話し終え、慎太郎がまたもや吐き出した深い溜め息で締めくくった。みなみはと言えば、少し目を見開いて小さな唇をポカンと開けているだけだ。慎太郎は知っている。これでもかなり驚いているのだ。

「……本当ですか? それは。おいそれと信じるのはバカバカしいです」

「俺がこんなウケも望めないくだらないジョークを言うと思うか?」

「思いません。わたしが言ってるのは、その長谷川さんのことです。本当にお父さんがその会社と契約したのですか?」

「わからん。でもかなりマジっぽかったけどな。それに見てのとおり、車庫も庭もがらんどうだ。たぶん家ん中もだろう」

「がらんどう?」

 みなみは目を細めて言い返した。そして我が家の現状を見て、あ、と短い感想を漏らした。まるで今になって初めてこの惨状を思い知った風だ。

「なんだよ、気付いてなかったのか?」

「それどころじゃなかったですから」

「なんだそりゃ?」

「なんでもありません。それより、うちの中も押収済みというのは確かなんですか?」

「さあな。目で見て確認したわけじゃねえが、望み薄だな。とにかく、入ってみるか」

 みなみが同意すると、慎太郎は傍らで放置されていたスポーツバッグを拾い、見てみればみなみが萩本家の塀づたいの曲がり角に落ちていた学生鞄に向かっているところだった。

「……なんであんな場所に置いといたんだ?」

 疑問に思った慎太郎が訊いてみると、

「だから、なんでもありません」

 何がだからなのかイマイチわからなかったが、慎太郎は気にしないことにした。今は、それどころではないのである。

 玄関の鍵穴に合鍵を差し込み、回すと普通に開いた。もしかしたら開かないのではないのかという意味不明な懸念は杞憂に終わり、家屋に入ると、まず下駄箱と傘立てがなかった。もちろん靴などは一足もない。

 さらに前進。手近なリビングのドアを開けてみると、悲しいものだった。新築当時の状態となっている。絨毯にカーテンまで消失していた。

 キッチン、トイレ、風呂場、父親の部屋と、一階は全部見て回ったが、現状の再確認をしただけだった。

 眉間にしわを寄せながら廊下を歩いていると、階段を下りてきたみなみと出くわした。

「どうだった、上のほうは」

 みなみはゆっくりと首を振ると、古ぼけた財布を見せ、

「これだけ」

「なんだそれ」

「クローゼットの裏に隠しておいたわたしのへそくりです」

 慎太郎は感心した。さすが、しっかり者のみなみは自分とは違う。へそくりなんてしていたとは。

「ちなみにいくら?」

「二万五千円です。少なくてごめんなさい」

 ごめんなさいと言われても。慎太郎はへそくりはおろか全財産をかき集めても一万円にすら届かない。むしろそれだけでも生き残らせたみなみを褒めたたえたいくらいだ。冷静に考えれば、今は夜食べる物もどうなるかというぐらいなのだから。

「なあ、これってどうなんだ? 俺達今普通にこの家に上がり込んでるけど、ここで寝泊まりしても怒られないのか?」

「それは賢明とは言い難いです」

 みなみは階段の段差に姿勢よく座った。

「今の状況がタチの悪い冗談でない限り、この家はその金融会社の所有物となっているはずです。そこへわたし達は無断でお邪魔しています。簡単に言えば、不法侵入に該当すると思います。警察沙汰にされたら言い訳の余地はありません。こちらが完全に悪者です」

「……うぅむ」

 慎太郎はみなみの斜め前で壁にもたれて腕を組んだ。

 ぶっちゃけみなみの言い分は七割くらいしかわからないが、なんか無理っぽいことは理解した。理解したうえで、また黙考する。

 結局のところ、俺にどうしろと言うんだ?

 慎太郎はポケットからあの紙を手に取った。領収書のようなみかけだが、内容には天と地ほどの差がある。

 二億三千三百五十万円。

 2,3350,0000円。

 におくさんぜんさんびゃくごじゅうまんえん。

 みなみのへそくりを何倍にすればいいんだ? 二億三千三百五十万わる二万五千だから……えー、二わる二が一で……三わる二が…………ええいうっとうしい。やめだやめ。

「みなみ、なんか名案でも思い浮かばないか?」

「浮かびません」

「…………」

 うぅむ。慎太郎はまた黙考に励んだ。そして一人の少女が念頭に浮上した。

 幼稚園からの腐れ縁。世間で言うところの幼馴染みってやつか? 大金持ちでお嬢様、同級生の知立悠梨。

 まさか代わりに借金返済してくれとは言わないが、相談相手にはなりそうだ。こちとら五桁以上の金を動かした体験などはない。それに寝床も募集中だ。あのだだっ広い屋敷なら十人や二十人増えたって問題はないだろう。最低でもみなみだけでも宿泊できるように説得せねばならない。

「みなみ、悠梨のとこに行ってみないか?」

「悠梨さんの家にですか?」

 みなみは悠梨のことを悠梨さんと呼ぶ。彼女は慎太郎と幼馴染みだが、みなみとも幼馴染みなのだ。三人で遊んだことだってあるし、この提案に気後れはない。

「仮に行ったとして、何と言うつもりなんです? 借金しちゃったぜー今夜泊めてくれー、なんて言ったら、あの人でなくても門前払いですよ」

「ま、そんときゃそんときだ」

「そんときゃそんときって……無茶苦茶です」

 不安そうになおかつ呆れた表情をするみなみに慎太郎は苦笑した。

「今現在ですでに無茶苦茶なんだから、こっから先にちょっとやそっと無茶したってちょうどいいくらいだろ」

「その理屈も無茶苦茶です」

「うんまあ、気にするな、としか言いようがない」

「兄さん、何だか随分と楽天的ですね。二億ですよ? わかってますか? 一万円札が二万枚もあるんですよ? すっごく馬鹿げてます。未知の領域です」

「まあ……それなんだよな。今となって思えば、二億とか言われても親近感なさすぎてパッとこないんだよな。まだ百万円程度のほうがしっくりくる」

「大丈夫なんですか? そんなので」

 みなみが心配そうに見上げてくるが、実は大変大丈夫ではない。二億がどれほどのものなのかくらいはわかっている。だからこそ弱音が吐けない。みなみを不安がらせるわけにはいかない。頭が悪いんだから空元気ぐらい全開にしとかねばなるまい。

「とにかく、行ってみようぜ。善は急げだ。つうかじきに夜だ。暗くなる前に行こう」

 慎太郎は玄関に向かって歩き出し、その後ろをみなみが不得要領な顔付きでついていった。

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