第1話
『本日より差し押さえ』
「…………」
学校から帰ってきて、家の門扉にそんなことが書かれた紙が貼ってあったら、どういう反応をするのが自然なのだろうか。
とりあえず笑っとくか?
それとも絶句するか?
皆目見当も付かないので、萩本慎太郎はひとまず沈黙した。そしてその沈黙はいまも続いている。
「…………」
どすん。肩にかけていたスポーツバッグがずり落ちた。そのことに慎太郎は気付かない。気付いたかもしれないが、気にする余裕がないのだ。
思わず慎太郎は今日一日の出来事を振り返った。
朝起きて、朝食を食べて、家を出て、遅刻確定二分前に教室に入って、いつもどおりボケーッと授業を受けて、放課後になって部活に行こうと思ったら今日はグラウンド整備のため中止だったことを思い出して、徒歩十五分の道程を乗り越えて帰宅してみればはいこれですよ。
『本日より差し押さえ』
冗談にしてはえらく笑えない。笑えなくてもいいから冗談だと言ってくれ。慎太郎はぼんやりとそう思ったが、どうやら冗談ではない線が濃厚だ。
車庫を見る。車がない。自転車がない。昔遊んでいたキックボードもホッピングも、園芸用のシャベルまでない。
庭を見る。鉢植えがない。プランターがない。植えてあった松の木までもがご丁寧に引っこ抜かれ、いまは平坦な地面をさらしている。
では家の中は?
呆然としながらそんなことを思い付き、門を押し開けようとしたとき、
「すみません」
背後から飛んできた声に足が止まった。
「ああん?」
つい喧嘩腰で振り向くと、そこにいたのは愛想笑いを浮かべたスーツ姿の男。その笑顔が卓越した営業スマイルだと直感し、妙な不快感を覚えていると、男のほうが口を開いた。
「恐れ入りますが、萩本さまのご家族の方でしょうか?」
随分と腰の低い物言いである。下手な態度を取ることに慣れているような感じだ。
「そうだけど……あんたは?」
訝りながら言うと、男は懐から名刺入れをだし、その中の一枚を慎太郎に差し出した。
「申し遅れました。私はこういう者でございます」
手慣れた動作に対し、慎太郎は恭しく名刺を受け取る。
金融会社ジュエリー。下請け業務担当。長谷川昌紀。
紙片をザッと見通すとそう書いてあった。
ん?
金融会社?
「……………………」
慎太郎の背中を滝のような冷や汗が流れまくる。頭の中で“利息”とか“夜逃げ”とか“借金のかた”とかいう言葉が浮かんでは消えていく。
名刺を持ったまま固まる慎太郎に、長谷川とかいうらしい男が饒舌に話し出した。
「この度は私どもの会社、ジュエリーをご利用いただき誠にありがとうございます」
そんなわけわからん会社を利用した覚えはない。思いながらも慎太郎は長谷川の話を聞く。脳裏には最悪の結末がこびりついて離れない。
「本日をもちましてご返済期日となりましたので、契約書に明記していただいたとおり、萩本祐作さまの名義となっている家具、備品、自動車両、建築物のいっさいを回収させていただきました」
萩本祐作。慎太郎の父親の名前が出され、彼の当惑レベルは二倍速となって駆け抜けていく。踊り狂う心臓を止めることができない。
意に介さず長谷川は喋り続ける。
「ですが、遺憾ながらそれでもご返済金額には達しておりません。そこで萩本さまに伺ったところ、残りの借入金は萩本さまのご家族の方からお支払いいただけると申されましたので、本日はご挨拶に赴いた所存でございます」
あくまでにこやかに、でもどこか強い圧力を伴って長谷川は言う。慎太郎はと言えば、茫然自失の三段階くらい強力な感情に襲われて勢い良くパニック中。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
「貸借主変更とのことなので、次の支払い期日は二ヵ月後となっております。それまでは利子は発生いたしませんのでご安心ください」
ちっとも安心できない。借金? 取り立て? どういうことだ? 俺は十分前までいつもどおりの平凡生活にいたはずだぞ。それともこれはやっぱり何かの冗談か? ドッキリか? そうじゃないとしたらいったい何だと言うんだ?
慎太郎はまず自分の耳を疑い頭を疑い、次に長谷川の頭を疑い存在を疑い、事実を疑い現実を疑っていると、
「それではこちらをお受け取りください」
長谷川がまた懐から、名刺入れが入っていたほうとは逆の内ポケットから、二枚の封筒を取り出して慎太郎に渡した。
「……これは……?」
「一枚は残りの返済額と諸々の書類。もう一枚は萩本祐作さまからのものです」
「親父の……?」
しげしげと二つの茶封筒を観察し、乱雑した脳内の情報を整理する前に、長谷川が会釈をして別れを告げた。
「それでは私は失礼させてもらいます。期日は今日から二ヵ月後ですのでお忘れなきようにお願いします」
「……あ、いや、おい、ちょっと待て」
「なにか?」
「なにかじゃねえよなにかじゃ。なんだこれは、どういうことだ、どうなってる? 借金だと? ふざけるな」
切羽詰まった表情をして早口に長谷川に迫る。だが相手のほうは動じず憶せず、慎太郎の神経を逆撫でするような余裕の微笑を見せて、
「と、申されましても、私どもは萩本祐作さまと正式な契約を交わしたうえで事にあたっております。返済を拒否されるのであれば萩本祐作さま自身が代理貸借人の契約を破棄してもらわねばなりません」
「なんだと? なら親父はどこだ、どこにいる。仕事じゃねえのか」
「存じ上げません。それでは失礼いたします」
用は済んだとばかりにくるりと踵を返して、一度も振り返ることなく歩いていく。路肩に停めてあった黒塗りの乗用車に乗り込むと、一つ目の十字路を曲がってあっさりと視界から消えてしまった。残されたのは紙切れ二つを持って佇立する慎太郎のみ。
「………………」
微動だにせずその場に立ち尽くす慎太郎。いまだに現実味が沸かない。どうすればいいのか、何をすればいいのかもわからない。今は手元にあるこの封筒に賭けるしかない。何を賭けるのかは慎太郎本人にだってわかりはしない。
「……手紙か?」
長谷川から受け取った父からの贈り物。中身は手紙だった。ここで実は嘘でしたと言われれば安堵の余り道路にぶっ倒れるだろうが、書いてあったのは、
『すまん。たくましく生きてくれ』
「ふざけんなあぁ!」
慎太郎は父親からのメッセージを握り潰し破り捨て放り投げた。犬の散歩をしていたおばさんが奇異的な目で見てくるがかまうものか。
はぁはぁと呼吸を荒げて肩が大きく上下する。そしてまた沈黙。くだらなすぎて怒りすら沸いてこない。いっそのこと笑いながら近所を走り回りたい気分だ。
「……残りの返済額だと? ざけんなくそ」
悪態を吐きながら、先程発狂した際に落としてしまったもう一枚の封筒を拾い上げる。
家一件を差し押さえたんだ。もうそんなに残っているわけじゃないだろう。慎太郎は自らにそう言い聞かせる。いったいいくらだ。百万か? 二百万か? 高校生の慎太郎からしてみれば天文学的な数字を予想し、覚悟を決めてから封を切る。
「……………………………………あん?」
思わず全思考が停止した。なにやらゼロがやたらと多い。目をこすってみるが、幻覚ではなさそうだ。
慎太郎は視神経にすべての気力を集結させて、¥マークの横の数字を凝視する。一、十、 百、千、万、十万、百万、千万、一億。
?
「……いや待て。まさかな。見間違いだろう」
慎太郎は金額の読み取りに再挑戦した。一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億。
??
「…………………いやいやいや……」
目の錯覚だと信じ、慎太郎は希望を捨てない。三度目の正直だ。
「一。十。百。千。万。十万。百万。千万。いちお…………!!!?」
慎太郎の瞳孔が限界まで開かれた。ペラ紙をもつ両手がプルプルと震える。不意に視界が反転。無重力下。
慎太郎は驚愕の余り道路にぶっ倒れた。