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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

箱入り人魚姫

作者: 白狼ルラ

 暗く静かな海の底、どんなにこの場所を嫌っていても、私の家はそこにある。家と言うには忍びない古びた木箱だが、何も無いよりはマシだった。だって、私には何もない。

 もちろん、こんな所に居たくて住んでいる訳ではない。何とか海から出られないかと試してみたが、どれだけ遠くへ泳いでみても、見えない鎖に繋がれているかの様に、気が付くとここに戻って来てしまう。上にも下にも、前にも後ろにも進めず、静けさだけが私を包み込む。

 海の中から見上げる空は果てしなく遠く、太陽の光もここまでは届かない。月明かりのない夜は、辺り一体が深い闇に包まれ、生き物の居ない世界に来た様だ。そんな夜は孤独感をより一層増すのだった。

 家族も友達もいない。ただ、独りぼっち……。寂しさを紛らわそうと魚たちに話しかけるが、虚しくなるだけだった。変わりばえのしない退屈な日々は、永遠に続くかに思えた。


 その日は、空が割れそうな雷鳴が轟き、遥か上空の闇の中を無数の光の帯が暴れ回っていた。もちろん、私には関係ない。ここまであの光が届く事はないのだから。けれど私の知らぬ間に、海の中でも異変は起こっていた。

 少しずつ木箱が海流のうねりに引き込まれ、海峡へと向かっていたのだ。何とか家を護ろうと懸命に押さえ込んだが、自然の力には敵わず、私は家と共に大きな流れに飲み込まれた。

 傷みが目立ち始めていた家に、ついに穴が空いてしまった。ガッカリして肩を落としたが、悪いことばかりでもなかった。今まで居た所から随分と遠くへと流されて来たが、そこは以前よりも浅瀬で明るい場所だった。周りの様子を伺おうと張り切って泳ぎ出したが、やはり家へと引き戻されてしまう。どこまで流れて行こうと、私とこの家は一心同体の様だ。

 いつまでこうして居ればいいのかと溜息を吐き、ふと疑問が頭に浮かんだ。そう言えば、いつからこんな生活をしているのか? いつから、誰もいない海の中で独りぼっちで過ごす様になったのか?

『ダレモイナイ……イツカラ……?』

 何かを思い出しそうな気がしても、目の前を通り過ぎる魚のようにスッと逃げられてしまう。だが、それほど気に病んではいなかった。そのうち思い出せるだろうと高をくくっていたからだ。なぜなら、考える時間だけはあり余るほどあるのだから。


 海の中での生活は時の流れを感じ難く、自分とは何か、何の為に生まれ、何の為にここに居るのか。頭の中を薄っすらとしたイメージが浮かんでは消えていき、記憶は曖昧なままだった。

 けれど、光のある場所に来てから異変が起こり始めていた。


 いつもの様に海の中を漂っていると、どこからか誰かが呼んでる声がする。それは懐かしさや切なさを感じさせる男の声だった。誰なのか思い出せず、もどかしさと不安に胸を締めつけられるが、暗い闇の中に居た時も、この声が微かに聞こえる気がしていた。今ははっきりと自分を呼ぶ声だと解る。

 どうすれば、この声の人に会えるのかは解らなかった。ただ、この自分を呼び続ける悲しい声の人に、どうしようもなく会いたかった。成す術がなく、縋るような気持ちで太陽や月に祈った。


 家は波に揉まれながら行ったり来たりを繰り返し、少しずつ浜辺の方へと近づいていた。

 海岸へ辿り着ければ、声の人を探す事ができる! と期待したが、それと同時に言い表せない不安も募っていった。浜辺へ近づくにつれて、とても幸せな夢と酷く怖い夢を見るようになったからだった。

 何かを思い出しそうなのに、思い出してしまったら全てが崩れてしまいそうな、言いようのない恐怖。懐かしくて、温かくて、とても優しい声。あの声が誰のものなのか、凄く気になるのに知るのが怖い。

 ふと、家に空いた穴から鎖に繋がったリングが見えた。それには文字が刻まれていた。

『Love of the truth is sworn. 』(真実の愛を誓う)


 頭の中でおぼろげだったイメージが色や音を帯びて浮かび上がってきた。

 凄く嬉しくて泣き出してしまった私に、彼は少し困ったように笑いながら、左手の薬指に指輪をはめてくれた。涙を拭いながら指輪を眺める私に彼は優しくキスをした。

 あの時の指輪だ。夢だと思っていたけれど、確かに私はこの指輪を貰った。


 あの彼はどこにいるんだろう? 声の主は彼なのかも知れない。いや、きっと私を捜している彼の声だ。あの人に会って、真実を知りたい。私がどうして独りでここにいるのか……。

「知ってはいけない」突然、木箱から寂しげな声で囁く女の声が聞えた。「傷つく事になる。傷つける事になる」

「どうして……?」木箱に向かって何度も問い詰めるように言ったが、何の返事も無かった。




 その日は、彼女の誕生日だった

 爽やかな日曜の朝に、慌しく仕事へ出掛ける準備をしている彼女に、明らかに不満を持っている事を暗黙のうちに訴えるかの様に目も向けず新聞を読んでいたが、テーブルの上に無造作に置き忘れられている物が視界に入り、思わず声を掛けた。

「おい、指輪」顎でテーブルに置かれた物を指す。

「あっ、本当だ」

「お前はすぐに物を無くすんだから気をつけろよ」

「解ってるって、ゴメンゴメン」口だけで謝りながら、仕事柄、指に着けられない彼女は指輪をチェーンに通して首から下げた。「これで良しっと」と鏡の前で身だしなみを確認している。

 そっぽを向いて不貞腐れていると、大きな溜め息が聞えた。

「もう、いい加減に機嫌をなおしてよ!」呆れたような声で彼女は仁王立ちで頬を膨らませながら、こちらの顔を覗き込んだ。

「見たいって言うから、必死に手に入れたチケットなのに、それを無駄にしてまでする仕事なのか? この間だって、休日に呼び出されて行ったのに、誰かに代わってもらえばいいじゃないか」

「しょうが無いの。みんな忙しい時期なんだから。それに、子供が出来たらお金がかかるんだから、今の内に稼いでおかないと」

「子供を作る暇も無いけどね」

「もう! 時間が無いんだから駄々をこねないでよ」

「はいはい、どうせ大人気ないですよ」

 頭が痛いというジェスチャーをしながら彼女は玄関へと向かった。

「それじゃ、行って来るね」

「別に帰って来なくてもいいぞ」

「また、そんな事を言って」

 悲しいような怒ったような顔をしながら彼女は扉を閉めた。


 どうも後味が悪かった。彼女が出掛けてから、言い過ぎだった気がして一人反省した。

 遅くなるとは聞いていたが、彼女を驚かせようと、腕によりを掛けて普段はあまりしない料理をし、彼女の好きな店で買ったケーキを冷やす。テーブルに花まで飾り、ちょっと大袈裟かも知れないと思いながらも、落ち着かない気分で、本を読んだりテレビを見たりしながら、今か今かと帰りを待っていた。

 けれど、彼女の誕生日の終わりを告げる鐘がなっても、始発電車が動き始めても彼女は帰っては来なかった。

 幾度となくしたメールに返信もなく、電話をしても通じない状況に、さすがに心配になり、彼女の会社へ電話をすると事務員らしき人が出て、昨日は定時に帰ったと告げられた。

 あんな事を言ったから、怒ってどこかに泊まっているのかも知れないと思い、徹夜明けの体に熱めのシャワーを浴びて仕事へ出かけた。

 しかし、何日経っても彼女が帰って来る事はなかった。

 あの悲しいような怒ったような顔を最後に、彼女は忽然と姿を消してしまった。

 警察に任せっきりにする気持ちにはなれず、仕事の合間を縫っては、彼女を探す手掛かりを求めて、何度も彼女の形跡を辿り情報を集めたが、足取りを掴めずにいた。




 波に揺られて幾日が過ぎた頃か、家は波打ち際のテトラポットに打ち上げられた。

 誰かに気付かれる前に海に戻したかったが、力が弱いのか、重すぎるのか、木箱はびくともしなかった。

 そうこうしている間に、人が近づいて来る気配を感じ、慌てて岩場の影に身を潜めた。

「酷い臭いがするってのは、ここら辺だな」年配の男は首に巻いたタオルで汗を拭いながら、白髪交じりの頭を掻いた。

「そうみたいですね」帽子を目深に被った男は、少し視線を上げてざっと辺りを見渡すと、また足元に視線を戻した。

「おい、もっとシャンとしろよ。女房に逃げられたくらいで」

「逃げられたんじゃありません! 先輩でも言っていい冗談と悪い冗談がありますよ」鋭い目で睨まれ、年配の男はばつが悪そうに苦笑した。

 二人が足を進めて行く先には木箱があった。

「先輩、あれじゃないですか?」

「そうだな。ひでぇ臭いだな」年配の男はタオルで口元を押さえながら木箱に近づき、乱暴に木箱を足先で突っついた。「何が入ってるんだ?」

 家を壊されては堪らなかったが、人を見かける事が本当に久しぶりだった為、どうしたら良いのか解らなかった。

「さぁ? 開けてみないと解りませんね」

 二人の会話を聞いていてハッとした。男の声色に聞き覚えがあった。間違いない、彼だ!

 記憶の中の彼と少し違う気もしたが、帽子が邪魔で顔がよく見えなかった。気付かれないようにもっと近づこうとしている間に、男達は蓋を開けようとしていたが、二人がかりでも難しそうだった。

「ダメだなこりゃ」

「車から何か使えそうな物を持って来ます」

「ああ、そうして……」流れ落ちる汗を拭いながらしゃがむと、年配の男は首を傾げた。「あれ? 横っちょに穴が空いてんぞ」

「え? ああ、本当だ」踵を返して戻って来た男は、もう一人の男と一緒になって穴から中を除き込み、見る見るうちに真っ青になった。

「け、けいっ、警察!! 警察に連絡して来る!」年配の男は足を縺れさせ、何度も躓きながらも駆け出した。

 残された男は、地面に蹲り肩を震わせていた。その姿に何故か胸が痛くなった。

 一体、彼らは何を見てそんなに驚いているのかと、近づいてよくよく中を覗いてみた。その瞬間、生々しい映像と苦痛が怒涛の如く流れ込んできた。

「いやああああぁぁぁぁっぁぁぁーーー!!」




 あの日、私はとにかく急いでいた。

 頼み込まれた残業を断り、仕事を早々に切り上げて帰路に着いた。昼頃から降り始めた雨は激しさを増していた。

 ふと朝のやり取りを思い出し、何かお詫びでも買って行こうとお店に立ち寄った。奮発して彼の好きなワインを買うと、ハナウタ交じりに家へと急ぎ、公園の横を通り過ぎようとして足を止めた。暗くて怖いからいつもは通らないが、ここを横切ると近道になる。一瞬、躊躇いはしたが意を決して駆け足気味に進む。薄暗い公園には人影は無く、街灯の電気が所々で切れかけていて、雨が更に寂しい感じにさせていた。身体を縮め、何事も無く出口へと辿り着くと、安殿の溜め息をついた。

 再び意気揚々と足を踏み出そうとした所で、少し離れた場所から男の子の声がした。

「お姉さん、髪にゴミがついてますよ」

「え?」思わず頭に手をやりながら、振り返ると高校生くらい子が立っていた。

「取ってあげますよ」その声はいかにも親切そうな明るい声だった。

 だが、ふと疑問が過ぎった。こんなに暗いのに、あんな所からゴミが見えたのか? と、目の前に迫った男の子は不気味な笑みを浮かべていた。殺気を感じて逃げ出そうとしたが、髪を掴まれ悲鳴を上げる直前、喉元がカーッと熱くなり、口の中に血が溢れた。

「助けて!」と叫んだが声にならず、逃げ出そうにも身体に力が入らない。自分に何が起こったのか解らなかったが、いつの間にか身体が道路に横たわっていた。

 意識を失う瞬間、粉々になったガラスの欠片が目には入った。仲直りのために買ったワインが地面に滲んでいた。




「おいっ! 大丈夫か?」通報を終えたのか、年配の男が戻ってきた。青褪めた顔で道に蹲って震えている彼の肩を揺すった。

「そん……な、そんな、はずは……」彼の口から力なく言葉がこぼれる。

「死体を見るのは初めてだからな。ショックなのは解るが」年配の男は慰めようとしたが、彼は静かに何度も首を振った。

「違う。違うんだ。そんなハズは……そんな……」

「何が違うんだ?」怪訝そうな顔で首を捻るが、彼は何も答えない。

 間もなくサイレンの音が響き渡り、慌しく警察の人間が集まって来た。サイレンの音に反応して、呼びもしない野次馬も次から次へと集まっていた。

「通報されたのはあなた方ですか?」

「はい、そうです」

「そちらの方は、どうされました?」

「ああ、気分が悪い様で」

 その後も警察と男のやり取りは続いたが、彼の耳には入らなかった。青褪めた顔で固まったまま動かず、木箱から目を背けたくても逸らせないようだった。

 木箱を開けるために特殊な工具が用意されたが、長い間海水に浸かり脆くなっていた木箱は、中身の圧力に耐えられなかったのか、音を立てて壊れてしまった。

 中から飛び出した異臭を放つ物体に、誰もが皆たじろいだ。人の形は何とか取りとめていたが、とても見られる様なモノではなかった。

 私は両手を固く握り合わせて(気付いて欲しい……だけど、気付かないで!)と祈っていた。

 検視の為に多く人達が集まり、顔をしかめる。

「酷いな……」「本当、水死体にだけはなりたくない」「箱に入ってただけマシですよ。じゃなかったら、もっと膨張してブヨブヨ」「おい、くっちゃべって無いでさっさと回収しろ!」心無い言葉が飛び交う。

 彼の方を振り向くと、警察の静止を振り切り、何も言わずに腐臭が漂う物体へと向かっていた。

 ずっと、会いたかった。けれど、こんな姿……彼だけには見られたくなかった。

「困りますよ、勝手に近づいちゃ!」そう言って引き離そうとする警察官に「いいんだ」ともう一人の男が訳知り顔で止める。

 私の首に着いているリングを彼は震える手で恐る恐る掴み、ジッと見ていた。それは世界で唯一、私の為だけに作られた指輪だった。

 愛しているなら、気付いて! 愛しているから、傷つかないで……。

 彼はその指輪をギュッと強く握り締め、平伏すように泣き崩れた。

 あぁ……そんなに悲しまないで。あなたを慰めてあげる事が今の私にはできない。あなたをこんなに苦しませるつもりは無かったのに……会いたいと願ってはいけなかった。

 肩を震わせ嗚咽を漏らす彼に「大丈夫か?」と男は優しく声を掛けた。

「間違いありません。妻です……」涙を拭いもせず、搾り出された彼の言葉に一同は騒然とした。

「捜索願が出されていた例の?」「あの奥さん? これが……」口々に驚きの言葉を発していた人々は、いつの間にか波が引くかのように静まり返った。

 ごめんなさい、ごめんなさい……何度も何度も謝るが、彼に私の言葉は届かない。

 絶望と悲しみに震え、深く闇い後悔の波に飲み込まれる。

 あぁ、いっそのこと人魚姫の様に泡になって消えられたら良かったのに……。

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