一番
数週間が経った。彼女はめっきり彼の家に来ることはなくなってしまった。会話も殆ど交わさないし、たまに視線が合っても直ぐに逸らされた。彼女が部長と突き合ったという話は聞かないし、部長は彼に「フラれちゃったよ。」と飲みの席で落ち込みながら笑って話をした。だから結局、彼と彼女の関係性は変わらないと感じていたのだが。実際は彼女が誰とも付き合わなかっただけで、彼との交遊は激減したのだ。
「最近、あの子と話してないけど喧嘩でもしたの?」
サークルが終わり皆々が帰る中、彼の好意を寄せている先輩は心配そうに声をかけてくれた。彼は「別に。」とだけ言って笑ってみせた。相変わらず良い人で、自分が好きなのは彼女なんだろうと言い聞かせながら。
「喧嘩じゃないんですけどね。まあ、お互い悪ふざけがすぎたなーって感じの。」
「うわー。ちゃんと仲直りしなきゃだよ。」
「まあ、そのうち仲直りしますって。伊達に何年も腐れ縁やってませんから。」
そう、腐れ縁だ。今は少し気まずいがきっと時間の流れがなんとかしてくれる。それよりも今は折角彼女が声をかけてくれているのだから、全力で受け答えしないと。
「君は直ぐに嘘つくからなあ。結構、ヘビーな感じでしょ。」
「げっ。先輩、僕のことそんな風に見てるんですか。やめてくださいよ、泣きますよ。」
あはは、と笑いながら軽く手を振る姿は愛らしい。屈託ない笑みにはいつも癒される。それでいて感の鋭い様な感じもする。流石は年上だ。
「今日はバイトないの?だったらお姉さん、奢っちゃうからご飯でもいかない?」
思わぬお誘いだった。二つ返事で彼は彼女と夕飯に出かける。あの日以来、モヤモヤした感情を先輩で発散したいと思いながら。
彼女に誘われ、連れて来られたのは少しお洒落なイタリアンだった。聞けば彼女のバイト先だという。普段、こんな場所で働いているのかと少し関心する。彼の働く居酒屋とは大違いだった。
「それでなんであの子と喧嘩したのよ。」
「いや、そんな話す様な事じゃないですって。ちょっと、まあ、距離感を測り違えてしまった程度の何かですよ。」
皿の上のカルボナーラをフォークでくるくる巻き取る。あの日の事を思い返すのはあまり良い気分ではない。彼女は二人の間を取り持とうとしてくれているのだろうが、少しお節介すぎると気に障った。第三者に自分たちの関係性にとやかく言われるのは例え彼女であっても良い気はしないものだった。
「あー、不機嫌になった。ごめんなさい。あんまり突っ込んじゃダメかあ。」
「別に不機嫌になってませんよ。ただ……あんまり、考えたくないですね。」
ふーん、と彼女は興味深そうに彼を覗き込みながら微笑む。少しどきっとするが、彼は仏頂面でパスタを口に運ぶ。にこにこ、と彼女に見つめられていてなんだか見透かされている気がする。
「二人はなんで付き合わないの?」
ごふ、とパスタを思わず吐き出しそうになる。なんでこの人はそういう事を聞いてくるのか――恨みがましく、口元を抑えて彼女を見つめる。彼女は自分と同じパスタをくるくると巻き取りながら不思議そうな顔をしていた。
「なんでって。幼馴染だからですよ。今更、そういう関係とかないでしょ。」
「そうかな。君は罪な男だねえ。」
けらけら、と笑いながらパスタを口に運ぶ姿がやけに愛らしい。その分、今の会話は憎らしい。
「じゃあさ、私が付き合ってって言ったら君は私と付き合ってくれるのかな。」
とんだ爆弾発言だ。彼は思わず眼を丸めてしまう。
「………本気で言ってますか?」
彼女の顔を見る。真剣に言っている様には見えなかった。もし、真剣な言葉ならどれほど舞い上がっただろう。彼は疑う様に彼女を見つめる。なんだって、そんな自分を弄ぶ様な言葉を突きつけるのかと。
「んー。半分本気……だけどね?」
小悪魔。そんな言葉が似合う様な微笑みだった。
「君はさ……私の事、どう思ってるの。」
かちゃん、とフォークを置いて彼女は真っ直ぐに彼を見る。彼も煽られる様にフォークを置いて、彼女を真っ直ぐに見つめてしまう。胸の音がけたたましさを加速度的にうるさくなっていく。
「………僕は、先輩のことが。」
好きです、と言いかけて口を噤む。何かが、彼の言葉にブレーキをかけていた。
「知ってるよ。」
彼女は彼の続きの言葉を知っていると言った。その上で、小悪魔じみた笑顔を受かべていた。もし自分がキリスト教信者なら聖水をバケツ一杯引っ掛けてやりたいくらいの煩悩を擽る笑み。
「でも、好きって言えないでしょ。」
「………何が、ですか。」
「だからさ、君は私の事が好きなんだろうなって思う。」
私今凄い自信過剰、なんて屈託なく笑いながら彼女は話を続ける。
「君が色んな人に私の事が好きって言ってるの、やっぱり聞くもんね。凄い嬉しいし、私も実際……君の事、悪くないと思ってる。」
店内に流れるBGMがやけに静かだなと感じる。周りにも客はいるはずだが、彼の目には彼女しか映らなかった。どうしてこんなに店は静かで、彼女の言葉しか聞こえないのか。その理由は分からない。
「でも、私じゃないでしょ。」
彼女の言葉はとても残酷だった。彼の事を好きだと言った様なものだが、その直ぐ後には嫌いと言った様なものではないだろうか。彼は彼女の言葉に思わず目を伏せてしまう。
「君はさ、私の事が好きって……言い聞かせてるだけなんじゃないかなって思う。本当に好きなの、あの子じゃないかな。何があったのか知らないけど、最近の君はずっとあの子見てるよ。」
「そんなことない……です。」
「ふふ、どれに対してそんな事ないのかな。」
困り顔の彼に対して、彼女は実に大胆不敵な顔だった。自分の事を見透かす様に、自分を掌で転がしている様な感覚に囚われて行く。どうあっても勝てやしない、そんな感覚に沈んで行く気がした。
「だからね、早く仲直りしなさい。君の事は気に入ってるけど、私の事だけ見る事が出来ない子とは付き合えないな。」
「………告白してもないのに、僕フラれてますね。」
「あはは、告白する気もない癖に文句言っちゃダメだよ。」
お見通しか、と観念した様に彼も彼女に釣られて笑う。そうだった、いつも幼馴染の彼女を言い訳に先輩にアタックする事はしなかった。好きだという感情に嘘はないが、一番に考えているのは間違いなく幼馴染だった。それを先輩である彼女に見透かされていた事には驚きを隠せない。流石だな、と彼はほくそ笑む。
「訂正があります。僕は先輩のこと、本当に好きですよ。」
「わ。告白されちゃったね。前言撤回する。」
「でも、本当に一番好きなのは……あいつ、なんでしょうね。」
彼女の顔が少し、歪んだ気がした。それでも笑みを崩さず、頷いてくれる。彼女は全てわかっていて、それが何故なのかは知らない。だけど、知らないままで良い気がする。彼女が彼の事を好いているのは事実だろう。それでも彼女は毅然と彼を正そうとしてくれているのだろう。それは大きなお世話だが、幼馴染が好きだと認めた手前もう悪態もつけやしない。
「君は嘘つきで、物事を曖昧にする傾向があるからね。臆病な子は私、嫌いだなあ。」
「先輩って、結構ドSな感じなんですね。思わず惚れ直しました。」
「でも一番は?」
「……幼馴染なんですけどね。」
やぶれかぶれだ、と言わんばかりに冗談も飛ばす。口に出す度に幼馴染の顔が浮かんでくる。どうやら目の前の悪女にしてやられたのだろう。
「先輩、僕はですね……今までの関係が、楽なんです。あいつとずっと、馬鹿やって笑ってたいんです。」
「でもそれは無理だよね。あの子は君の事が好きって……知ってたんでしょ?」
「ええ、それは充分に。でも僕はいつもはぐらかしてたんです。そうやって誤魔化しておけば、ずっと側にいてくれると思ってたんで。」
「喧嘩の原因もそんな感じなのかな。」
「そうですね。あいつが僕に好意をアピールしてきても、僕は応えてやらなかった。」
彼女はあの時、「好きだ」とは言わなかった。只々、「どうして好きになったんだろう」とだけ言った。そして誰かと付き合ってもいいのかと問うて来た。それに何も答える事はなかった。それが喧嘩の原因であり、彼の傲慢と慢心が引き起こしたものだ。
「はい。じゃあ君が大馬鹿臆病者というのも自覚したところで。君はこれからどうするのかな。」
「……まあ、このままって言う選択肢はダメなんでしょうね。」
「当然。そんな事したらお姉さん、見限っちゃう。」
はは、と苦笑して彼は天井を見上げた。もう、どうにでもなれだ。
「告白しますよ。今まで誤魔化してごめんって。本当は一番、好きなんだって……。」
「それでこそ、私がちょーっと好きになった後輩だね。やるときはやるって所、見せて欲しいな。」
「………全部終わったら、先輩色々と話があります。」
「フラれたら付き合って欲しいって?考えておくね。」
違う、そうじゃない。彼は溜息まじりにそう呟くがその続きを口に出す気にはなれなかった。目の前の女性はなんて良い女なのだろうか。ある意味、誰よりも辛い立場なんじゃないだろうか。それもこれも、自分が不甲斐ないばかりにと彼はもう一度大きく溜息をついた。