好きだけど好きじゃない
「相変わらず殺風景だよねー。」
夜更けた頃、彼女は彼の部屋にずかずかと上がり込んではあっけらかんと笑っていた。あまり物を置きたくないと言う彼の部屋は彼女の言うとおり酷く簡素なものだった。ベッドに机、あとは本棚くらいか。
「うるせえ。物置きすぎたら片付けられなくなるんだよ。」
「別に良いけど。でもちょっとは生活感ある部屋にしなよ。」
「寝るだけに帰ってる様なもんだから、気にしないなあ。」
彼の日常は殆どが部屋の外だった。昼間は大学、夜はバイト、休日はサークルの友人と外出。彼の言うとおり、寝る為だけにあるような部屋だった。自炊も殆どせず、幼馴染である彼女が作りに来た時しか台所も使われない。唯一彼の部屋で存在感を放っているのは洗濯機と掃除機くらいなものか。
「……んで、相談ってなんだよ。」
「ん……。まあ、先輩から告白されちゃって。」
予想通りだな、と彼は溜息をついた。座椅子に背を預けながら大学で覚えた煙草に手を伸ばした。
「あ、煙草吸うなら換気扇つけてよね。」
「もうついてる。それで、その先輩って何回生の誰さんなのかな。」
まだあまり慣れない煙草。先輩達の真似をして、何時の間にか覚えていた。火の付け方も持ち方もぎこちなくはあるが、煙を肺に入れる事には抵抗がない。我ながら順応性があると彼は煙を燻らせながら思う。彼女の話などあまり真剣に聞く気はなさそうだった。
「……部長。」
「げっ。ごほっ、ごほっ。」
ついにあの人までコイツに魅せられたかと思わず咳き込んだ。サークルの部長と言えば顔は良いし、テニスもサークルで一番上手。それに加えて家は金持ちで、性格もまあ悪くない。彼とは天と地ほどの差があると常々彼女も冗談混じりに彼に説いていたものだった。
「げほげほ……。ああ、そうか。遂に最強のイケメンがお前に手を出そうってか。」
「あはは……。まあ、悪い気はしないけどね。」
彼女のそんな様子を見て、どうやら今回も断るつもりなんだろうと感じる。彼女は今まで誰の告白にも首を縦に振らなかった。それが今回は振る、なんて事はあり得ないだろうと思う。それは無意識に、いや意識的に彼女の好意が誰に向いているか知っている――謂わば、慢心の様な感情。
「いいじゃん。付き合えば良いのに。」
彼は思ってもいない事を口に出す。実際、彼女が部長と付き合うとなったらさぞ落ち込むだろう。だがその未来が来ない事を彼は知っていた。否、知りたくなかった。このままの関係が永遠に続けば良いと。
「…………そうだね。」
彼女の声が少し、低くなった。
「断る理由もないんだ。嫌いかって言われたら、好き。これから時間をかけて、好きになることも出来る。」
彼女の言葉は実に淡々としていた。彼は紫煙を吐きながら、彼女の言葉に目を細める。
「でもさー……やっぱり……。」
「………ははは、さっさと彼氏作らないと貰い手なくなるぞ。」
彼は彼女の言葉を被せるように遮った。
「あのさあ……。」
彼女の声は更に低くなった様に感じた。見れば、下唇を噛み締めていた。キュロットを両の手で握り、憤る様な、哀しむ様な複雑な表情を浮かべて。
「今はさ、お前の部長をどうやって断るかって話じゃないのかよ。」
「………そうだね。」
「おう、話を戻そう。」
いつもの様に雰囲気に呑まれず、彼はいつもの様に話を戻す。これが定位置で、これが正しい関係だと感じている。彼と彼女は仲の良い幼馴染。それが永遠に続くと信じて疑わない。
「それで、どうやって断ればいいかな?」
いつもの様に、とはいかないが気丈に彼女は振舞っていた。先程とは打って変わり、ぎこちないが確かにいつも通りに振る舞おうと笑っていた。
「そんなの簡単。私には好きな人がいるから、貴方とは付き合えませんって言えばいいのさ。」
我ながら酷な事を言ったと思った。彼女の心を弄んでいる様な気がした。だけども彼女も少なからずこの関係性を続けたいと思っていると感じていた。ならばこそ、このくらいの冗談なら通じるとも。彼の言葉に彼女は対して気にもしていない様なので、彼は内心ほっと胸を撫で下ろす。しかし彼女の口から出た言葉は罵倒する様なものだった。
「ふん。やっぱり女も知らない、童貞にこんな話をしても良い解決法は出てこないか。」
「なんだと。馬鹿言え、童貞でもやるときはやるんだぞ。」
馬鹿にされて、腹がたった。彼女が彼の女性経験を弄る事は多々あったが、こんなに露骨に嫌味にされる事は初めてだったように思える。確かに彼は女性経験は皆無だが、この大学生活で少しは鍛えられたと自負していた。
「どうだか。そんなんじゃあんたの好きな先輩と良い雰囲気になった時、大変だ。」
「だから、やるときはやるんだって。」
「信じられないわね。ほら、私を先輩だと思ってシミュレーションしてみ?ほらほら~。」
彼女はすとん、と彼の隣に腰掛ける。彼の肩に頭を預けて、上目遣いに微笑む。どきり、と胸が鳴った気がした。今まで過度なスキンシップというのは避けて来た。それはお互いであり、暗黙の了解だったのだが。
「………ほら、やってみなよ。できないんでしょ、童貞。」
馬鹿にする様な顔を浮かべられる。彼は彼女を怯えさせてやろうと画策する。こんなに馬鹿にされているなら、多少強引な事をしても彼女は怒りはしないだろうと―――煙草を灰皿に置いて。
「………舐めんなよ、ばーか。」
彼女の肩を掴み、床に組み伏せる。彼女は少し声を漏らしながら、仰向けに倒れた。覆いかぶさる様に、彼は彼女の両手首を掴んで顔を近づけた。唇を狙う様にゆるりと―――勿論、脅しなのだが。
「…………ん。」
彼女はゆっくりと目を閉じて、受け入れる様に。彼はぴたり、と硬直する。よくよく考えれば、この体勢は不味い。それにこの雰囲気も不味い。彼女の挑発に乗って、やりすぎたと思い直す。だが目の前の彼女はとても綺麗で、フローリングの床に乱れる彼女の長髪が艶っぽく感じる。
「………おいこら。何眼閉じてるんだよ。」
彼女の眼は開かない。ふるふる、と震える唇は開かない。何か、言ってくれと懇願するように彼は心で呟く。冗談だよ、と罵ってくれても構わないから。長い睫毛が少し、濡れている様に見えた。
「はい、終わり。どうだ、見たかこのやろう。僕だって男なんだ。」
べしっ、と彼女の額に指を弾いて離れる。彼女は「痛い。」と小さく悲鳴をあげて飛び起きた。彼はそれを尻目に座椅子にもたれ掛かりながら、煙草を手に取りまた吸い始める。何度も肺に入れては、吐き出してを繰り返す。
「………あれで終わり?」
「あの先は本当に好きな人にしかできないな。」
不満気に口を尖らす彼女に彼は突きつける様に言ってしまう。思わず口をついて出た言葉。本当に好きなのは先輩だと、お前じゃないんだと突きつけた様なもの。だが二人の関係性をこれ以上進ませない為にはこの言葉で正解だろう、と彼は感じていた。
そうして彼女は一瞬、笑顔になった様に見えた―――が、次の瞬間には涙を浮かべていた。
「あー、もう。やっぱり部長と付きあおうかな。そろそろ彼氏も作らないとね。」
煙草を灰皿に潰して、彼は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。
「僕はさ……。」
このままの関係が良いんだ。そう言いかけた時に彼女はそれを遮る様に言葉を奔らせる。
「男の家に1人で来てるのに、襲ってもこない朴念仁好きになるんじゃなかった。」
「………やめろって。」
「大体さ、誰が好き好んで一緒に上京までするかなあ。誰が家まで言ってご飯も作ってあげるかなあ。あんたって、ほんとに馬鹿よ。こんな可愛い子、他にいないっての……。」
机に突っ伏して、彼女は顔を隠しながら捲し立てる様に話す。その声は涙に濡れていて、いつもの快活な彼女の雰囲気は打ち砕かれていた。
「やめてくれよ。お前が涙とか、似合わないにも程があるって。」
いつもみたいに冗談がましく終わって欲しい。二人の関係性に進退はいらない。このままの状態が楽なんだ。そう、お互いに感じていたじゃないか。彼はそう叫ばずにはいられない。しかし彼の口から出る言葉はいつもの様におちゃらけた様な言葉。彼女が望むこの先を自分には進む勇気がないから、そうやって覆い隠すしか出来ない。
「あんたはさ……私が、部長と付き合っても良いの?」
彼女の問に答えられなかった。言えば彼女を縛り付ける事ができるが、それはいけない気がした。今でも充分に縛り付けているとは思うものの、本当に彼女が部長と付き合いたいと考えるなら止める手立てはない。とはいえ彼女が自分を好きなのを逆手に取った卑怯な沈黙だった。
「答えてもくれないんだ。あーあ、もうなんか……どうでもいいや。」
その言葉を最後に長い沈黙が流れた。数十分後、彼女は何も言わずに彼の家を出た。彼は特に何も彼女に言う事はなく、玄関の鍵を締めて溜息をついた。どうでもいいや。その言葉に誰よりも否定的にならなくてはいけないとは思うが、どうすることも出来ないと感じていた。考えることをやめて、彼はベッドに潜り込む。眠れないのは彼女もきっと同じなんだろうと朝日が来るまで思いながら。