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スペリオルシリーズ

彩桜学園物語~お見合いの日のその前に~

作者: ルーラー

 ――『今日中には必ず帰ります』。


 その書き置きをリビングに残して。

 わたしは広すぎる自宅をあとにしました。



 そう、自分の人生にとって最後となる、『わたしの物語』を満喫するために――。





「……っ! ふざけんな! 自分の結婚相手は自分で決める!」


 そう親父に怒鳴り返して、俺は夜の街へ飛びだした。


 発端は、一枚の見合い写真。

 そこに写っていたのは、カラスの濡れ羽色と称するのがもっとも適切な髪色をした、少しだけ硬さの残る微笑を浮かべる清楚な少女の姿だった。

 いや、『少女』と呼ぶにはもう不適切な年齢なのだろうか。

 なにせ彼女はもう、俺と同い年の二十二歳なのだから。


 けれど、写真越しにでも伝わってくるくらい、彼女からは無垢むくな雰囲気が溢れていた。

 世間擦せけんずれしていない、とでもいうのだろうか。

 世の中には善人しか存在しないのだと、そう信じて疑わないかのような瞳。

 そんなものを、持っていた。

 そして、それが彼女を実年齢よりも幼く見せる――俺に『女性』ではなく『少女』と感じさせた要因のひとつなのだろう。


 その写真の中の彼女に、まったく見とれなかったといえば嘘になる。

 会ってみたいという気持ちが芽生えたことも、否定はできない。

 けれど、その写真が見合い相手のもので、そいつと明日見合いをしろと言われてしまえば、話は別だ。


 笹山財閥ささやまざいばつのご令嬢だ、なんて言われても知ったことじゃない。

 きっとお前に釣り合う相手だから、なんて言われても、冗談はやめてくれとしか思えない。

 こっちにも向こうにも互いに事情があるんだ、なんて言われても、大人の都合を押しつけるなと反発することしかできない。

 大体、事情ってなんだ。政略結婚とかの類か? だとしたら、時代錯誤じだいさくごはなはだしいし、相手にだって失礼だろう。


 十二月も終わりに差しかかった寒空の下を、部屋着にコートを一枚羽織ったままの格好で、走って、走って、走って……。

 身体が休息を求め始め、苦笑をひとつこぼしながら、俺はようやく足を止めた。

 こぼれた笑みは、自嘲によるもの。

 なにガキっぽいことやってんだよ、という。


 まったく、なにもかもが腹立たしい。

 唐突に見合い写真を突きつけてきた親父のことも。

 その親父が神埼かんざきグループの会長っていう、国内では五指ごしに入る資産家であることも。

 俺が、その親父のひとり息子であることも。

 その俺が、こんなガキっぽい行動に出ることでしか、親父に反発できないという事実も。


 だって、これじゃなんの解決にもなってない。

 手持ちの現金は決して多くないし、持たされているクレジットカードを使えば容易に居場所を特定されるだろうし、友人の家にかくまってもらうにしたって限度はあるし……。

 考えを巡らせば巡らせるだけ、現状にイライラが募ってしまう。

 結局、俺の衝動的なこの行動は、ほんの小さな反発で終わってしまって、自分の意思なんて最終的には無視されてしまうんだ、と。


 それでも、なぜだろう。

 笹山財閥の令嬢だという彼女。

 俺の見合い相手だという少女にだけは、どうしてか悪感情が湧いてこなかった。

 そんなことを考えているうちに、乱れていた息が整い、それに伴って少しは物事を落ちついて考えられるようになってきた。


 ――見合いには、とりあえず出てやればいい。

 相手には悪いかもしれないが、向こうからしたって彼女は笹山財閥の大事な娘であるはず。

 俺がちょっとアレなところのひとつでも見せれば、無理に縁談をまとめてこようとはしないだろう。


 そう、ほんのちょっとだけ、妥協してしまえばいい。

 表面上は大人しくして機をうかがい、ここぞという場面で暴れるなりなんなりすれば、この話はなかったことに、と絶対になるはず。

 決して、自分の意に沿わないことにはイエスなんて言ってやらない。

 そういう、いつもどおりの俺でいればいい。

 それで、すべて上手くいくはずだ。

 ……あの少女に会ってみたいって思ってるのだって、事実なんだし。


 そう思考をまとめ終え。

 ふと視界に映ったCDショップへと俺は足を踏み入れた。

 ……いくら『妥協する』って決めても。やっぱり、いますぐ戻ろうって気にはなれなかったから。





 店内をやや大股で歩いていく。

 色々な音楽が混ざり合い、それがこの店のBGMになっていて。

 なぜだろう、それがとても心地よく感じられた。

 渾然一体こんぜんいったいというのだろうか。いや、よくは知らないけど。


 そんな中を、特に目的もなく歩いていって。

 自然と、足がピアノ曲のコーナーへと向かっていた。

 いやあ、習慣ってのは怖いもんだな。

 買う気なんて微塵もないのに、そのコーナーへと足が勝手に進んでしまうんだから。

 おまけに、なにかいいものはないかと、腰をかがめてじっくりと見入ってしまう始末。

 端から見れば、それはまさに夢中の一言だっただろう。

 そんなだったから、


「あの、すみません。そこ、ちょっとよろしいでしょうか?」


 声をかけられるまで、俺は後ろに人がいることにも気づかず。


「あ、ああ。悪い。いま退く。別に探してるものがあるってわけじゃ――」


 だから当然、それが誰であるかも、


「――なかった、んだ……」


 気づけなかったんだ……。


「すみません。では、失礼致しまして」


 俺の退いた空間に、後ろに立っていた彼女が入ってくる。

 そう、『彼女』だ。男性ではなく、女性。

 いや、女性というよりも、少女。

 長い黒髪――カラスの濡れ羽色と称したほうがしっくりくる髪色の持ち主が。


「――笹山、美奈子みなこ……」


 そんな呟きが、思わず口から漏れてしまった。

 当然、彼女は「はい?」と怪訝そうな表情をこっちに向けてくる。


「あの、わたしたち、以前にどこかでお会い致しましたでしょうか?」


 可愛らしく小首を傾げながら訊いてくる笹山。

 それに俺は違和感を覚える。

 だって、おかしいだろう。彼女が俺の見合い相手である以上、こいつだって俺のことを親から聞かされて、写真だって見てるはずだ。

 なのに、その反応はまるで、俺の顔を初めて見たかのような――


「あ、もしかして同じ彩桜さいおう学園、大学部の音楽学部の生徒さん、とか?」


 俺の思考を遮って。

 そう口にした笹山は、ポンと両の掌を合わせる。

 浮かんだ疑問はとりあえず棚上げすることにし、俺は「えっとな……」と頬をかいた。


「同じ彩桜の生徒では、ある。でも俺は音楽学部じゃない。経営学部だ」


 その言葉に続けて、嘘を少々つけ足すことに。


「でも、学園でお前の姿を見かけたことは、何度かある」


 実際は、見かけたことなんて一度もないわけだが。

 笹山は疑うことなど知らないかのような、その無垢な瞳で俺の顔を覗き込んできて。


「でしたら、わたしの名前を知っていてもおかしくないですね。それで、貴方あなたは――」


「あ、ああ! 俺は神崎光太こうた! 彩桜学園の大学部、経営学部の生徒だ!」


 上擦うわずった声で返す俺。

 しかも返した内容がすごく間抜けだ。もう彼女が知ってることをもう一度言ってしまった。

 でも、笹山の綺麗に整った顔がいきなり近づいてきたんだから、動揺するのは当たり前っていうか、なんていうか……!


 二重の意味で気恥ずかしくなり、思わず赤面してしていると、顔を離した彼女の「くすくす」という上品な笑い声が聞こえてきた。

 両手は口許に添えており、まさに『ご令嬢』って感じだ。

 それはともかく。


「な、なにもそんなに笑うことないだろお!?」


 またしても声のトーンが微妙におかしくなってしまい、それがツボに入ったのか、笹山はさらに笑う。


「も、申し訳ありません。つい……」


「うぅ……。いやまあ、いいけどさ、別に……」


 実際、大声を出して怖がられるよりはずっといいわけだし。

 見た目からして、精神的にタフにはできてなさそうだしな、笹山は。

 ようやく笑いを引っこめ、彼女は訂正の言葉を口にする。


「本当に申し訳ありません。ただ、わたしは『貴方はなぜここに?』と訊こうとしただけでしたので。経営学部の方がピアノ曲のコーナーにいらっしゃるのは珍しいな、と」


 言われてみれば確かにそうだ。

 そもそも彼女の性格からして、初対面の、それも異性に名前を尋ねようなんて思うだろうか?

 仮に思ったとしても、果たして実行に移せるものだろうか?

 ああ、もしかして、マンガやライトノベルの読みすぎなのかな、俺……。

 ともあれ、俺は彼女の疑問にこう答える。


「俺、音研おんけん――音楽研究会に入ってるから」


 それを聞き、彼女の顔に笑顔が広がる。

 いや、もちろんさっきからずっと笑顔ではあったのだけど、もう一段階明るい笑顔、とでもいうか。


「そうだったのですか。わたしはピアノ同好会に入っているのですが、あなたも……。同好どうこうだったのですね」


「らしいな。……じゃなかった、おう! そうだとも!」


 『らしいな』は、笹山のことを以前から知ってた人間の返しとしては冷たいか? と思い、胸を張って言い直す俺。

 それがまた面白かったのか、彼女はまた上品に笑みをこぼした。

 不意に、その笑顔が妙に眩しく感じられ、俺は彼女から視線を逸らす。

 けれど視界の端に笹山の姿を捜すように、何度も彼女のほうを盗み見てしまい……。

 ……い、一体どうしたんだ? 俺?


 明後日のほうを向いたまま、けれど笹山のことを盗み見ることはやめられないままに、俺は話題を逸らしにかかる。


「そ、そういえば笹山。お前のほうはなんでここに? もう七時を過ぎてるんだ。大学生とはいえ、女の子がひとりで出歩いていていい時間じゃないんじゃないのか?」


 もちろん、普通の女の子なら全然問題ないのだろうけど、彼女の場合は笹山財閥のご令嬢だ。

 おまけに、明日には見合いを控えている身。

 そう考えると、今日、こんな時間にひとりで出歩いているのは、問題だとしか思えなかった。

 果たして、俺の問いかけに笹山は瞳に憂いの色を帯びさせて。


「今日は……わたしが『わたし』でいられる、最後の日ですから。……だから、いいんです」


 うつむき気味になって発せられた、ささやきとすらとれる小さな声。

 けれど、そこには確かな決意が宿っていて。

 その言葉が持つ意味も、なんとなくではあったけれど、理解できてしまったから。

 だから、俺はほとんど反射的にこう返してしまっていた。


「そっか。……でもやっぱり、女の子がひとりで出歩くのは物騒だろ。俺でよかったら、笹山が行きたいところにつきあうけど、どうだ?」


「…………」


 返ってきたのは、沈黙。

 そ、そりゃそうか。

 俺の場合は、明日、見合いの席で会う相手だから、という事情がこの気安さに繋がっているわけだけど、笹山のほうにはそういうのがないわけだもんな……。

 これは最悪、ナンパの類だと思われるかもしれない。


 ……ナンパか。俺にするつもりはないけど、彼女の容姿からして、ナンパにあう確率は高そうだ。

 念のため、ナンパされたときには即座に助けに入れるよう、尾行とかするべきか?


 いや待て。そもそも、どうしてそこまで笹山のことを気にかけてるんだ? 俺は。

 相手はもう二十歳を過ぎた大人なんだ。別に放っておいたって問題はないはずだ。

 ああ、でも心配なものは心配で……。

 と、そんなふうに思考がループしそうになりかけたときだった。


「その……音楽が好きな方に悪い方はいらっしゃらない、とわたしは思っています。ですので……」


 ぺこり、と彼女は俺に頭を下げてきて、


「ふ、不束者ふつつかものですが、よろしくお願いします……」


 そう、か細い声で口にしたのだった。

 ……ふう、よかった。

 ああ、よかったさ。よかったにはよかった……んだが、しかし。


「笹山、その言葉は……ちょっと違う」


 思わず、突っ込んでしまう俺だった。

 いや、微妙に合ってはいるか? それとも、全然違わないのか?

 もしかしたら彼女、知らないフリをしているだけで、明日の見合いの相手は俺だって知ってるんじゃないのか?

 だから『不束者』なんて言葉を、敢えて使ったんじゃ……?


「あ、も、申し訳ありません……。そういう意味ではなくっ……」


 赤面しつつ、訂正の言葉を探しているあたり、やっぱりそんなことはない、か……。

 慌てる彼女のその可愛らしい姿に、俺は思わず笑みを漏らしてしまうのだった。





 恥ずかしくも情けないことに、俺は彼女と会ってからいままで、どうやらずっとテンパっていたらしい。

 というのも、笹山の希望でペットショップに入ったところで初めて、彼女の着ているものに意識がいったからだ。

 笹山が身につけているのは、厚手の白いワンピースに、決して安くはないであろうネックレス。

 外を歩いているときはフードつきの茶色いダッフルコートを着ていたが、CDショップでもそうであったように、店内に入ると彼女はすぐダッフルコートを脱いでいた。


 そんな笹山は現在、白い猫が入っているケージの前に膝立ちになり、その猫に夢中になっている。


「光太さん、光太さん! 猫さんが鳴きましたよ!」


「そりゃ、鳴くだろ」


「光太さん、光太さん! 猫さんがあくびしましたよ! なぁ~ごって!!」


「まあ、あくびくらいするだろうな……」


「光太さん、光太さん! 猫さんが歩きましたよ!」


「そりゃ歩くさ。……というか笹山、なんかものすごくテンション高くなったな」


 悪いことじゃないけどさ、と呆れ混じりのため息を漏らしてしまう。

 そしてあまりにも自然に『光太さん』なんて呼び始めるものだから、違和感を覚える暇もなかったじゃないか。

 そんな俺の心境なんて知るよしもなく、笹山はこちらに顔を向けてくる。


「好きなんです、猫」


「それは、まあ、見てればわかる」


「ちょっとだけ、見ていて切なくもなりますけどね……」


 そうこぼし、笹山の表情が不意にかげった。

 それは、俺が今日見る、二度目の憂いの篭もった眼差し。


「切なく……?」


 ちょっと意味するところがわからず、オウム返しに訊き返してしまう。


「はい。自分の意思とは関係ないところで住む場所を決められてしまうところとか、わたしと似すぎていて、切なくなります」


「関係ないところでって……」


 いくらなんでも大げさな……。

 そう思ったところで笹山が立ちあがり、寂しげな表情を向けてきた。


「わたし、明日、お見合いするんですよ」


 すでに知っているうえに、その見合い相手であるところの俺としては、正直、なにを口にしていいものか、反応に困った。

 とりあえず、無難に「そうか……」とだけ返しておく。


「光太さんには関係のないことなのに、唐突にこんなことを言って、すみません。でも、どうしても聞いてほしくなってしまって……」


「それは、別に迷惑だなんて思わないから、いいけどさ……」


 思いっきり、俺に関係のあることなのだし。


「ありがとうございます。……驚かれるかもしれませんが、わたしは笹山財閥という新興しんこう財閥を設立した者のひとり娘でして」


「ああ」


 これといった相づちが思い浮かばず、ともすれば無愛想にも聞こえかねない言葉に逃げてしまう俺。

 しかし、本当にやりにくいんだから仕方ない。

 驚くのが正解なのか、知っていると返すのが正解なのかも判断がつかないのだから。

 そんなことを考えている間にも、彼女の話は続く。


「まだまだ発展途上と申しますか、なにぶん新興財閥ですので、色々と経営が危なっかしいそうなんです。……あ、お恥ずかしい限りですが、このあたりの事情は昨日さくじつに父から聞いたことでして、わたし自身は現状なんてなにひとつ把握できていなかったのですけれど……」


 普段から娘に経営状況を話してばかりいる父親というのも、それはそれで問題だろう。だから、そのことで彼女に『お嬢様ってのはこれだから……』みたいな感想を抱くことはなかった。


「それでもなんとかやってきて、でも、どうにもならなくなってしまって……。そこで、とあるグループに資金援助を頼めないか、という話になったそうなんです」


 その『とあるグループ』ってのは、神崎グループのことだろう、おそらく。


「最初は渋られてしまっていたそうなのですが、そのグループの会長さまにはわたしと同じ歳の息子さんがいらっしゃるらしくて……」


 ああ、それは俺のことだな。

 間違いなく俺のことだな。


「その息子さんとお見合いをするなら、資金援助をしてくださる、と」


 いや、それはどうだろう。

 お見合いして、ごめんなさいして、それで資金援助なんかするもんだろうか? 大人の世界の事情的に考えて。

 ……あ、でも笹山のことだから、それが通るって思ってる可能性も――


「もちろん、お見合いが破談になれば資金援助は見込めません。だから明日のお見合いは、わたしには『断る』なんて選択肢、ないんです。頑張って、相手の方に気に入られるようにしなければ。

 ……あ、実を申しますと、父からそう言われるまでは、お見合いには行くだけ行って、断ってしまえばいいんだって、そんなふうに思っていましたのですけれど……」


 やっぱり思ってたのか……。

 しかし、なんだか大事おおごとになってきてしまった感じがするぞ。

 当然、俺のほうには断るって選択肢があるわけだが、それをやると笹山の家が――ひいては笹山個人が困ることになる。

 彼女が俺の嫌いなタイプの人間であれば、困ろうがどうなろうが、別にかまいはしないんだが……。


「笹山は、それでいいのか? 納得したのか?」


「いいも悪いもないです。相手がどんな方であっても……わたしは、我慢しなきゃ……」


 まあ、そうだろうな、と俺は無言で天井を仰ぐ。

 なんてこった、だ。

 これはつまり、明日、俺が見合いをぶち壊すために横暴な人間のフリをしたとしても、笹山は――笹山財閥のほうは、それを受け入れようとしてくるってことになるじゃないか。

 どうやっても、向こうから『なかったことにしてくれ』なんて言葉は引き出せそうにないぞ。


 いや、問題はそれだけじゃなくて、と笹山のほうに視線を戻す。

 彼女の目尻に浮かんでいるのは、涙の粒。

 そう、問題は俺のほうにだけあるんじゃないんだ。


 仮に。

 もし仮に、俺が笹山のことを気に入ったとしても。

 笹山が我慢するようじゃ、彼女はただ不幸になるだけじゃないか。

 お互いが両想いにでもなれれば、あるいは話は違ってくるのかもしれないけど、いまの状況じゃ、笹山の幸せは……。





 気がつかないうちに、とんでもない深みに足を踏み入れてしまったようだった。

 いや、そうと気づいていなかっただけで、本当はずっと前から深みにいたのだろう。


 最初は、俺が演技のひとつでもすれば勝手に破談になってくれると思っていた。

 でも、現実はそうじゃないようだ。


 もちろん、俺には拒否権がある。

 頑なに拒めば、彼女と無理に結婚させられることはないだろう。

 しかし、その場合、笹山は……。

 笹山財閥は……。


 ……なんにせよ、これは俺ひとりが考え方を改めてどうにかなる問題じゃない。

 彼女個人の幸せを尊重するなら、笹山にも、嫌なことは嫌だとはっきり言ってもらわないといけないんだ。

 でも、それはつまり、笹山は相手が俺じゃ嫌だってことであって……。


 ……って、いやいや! 笹山が嫌なのは、拒否権のない見合い話――もとい、結婚話であって、俺個人じゃないはずだ!

 そもそも、なんでそんなことを考えて、グッサリきてるんだ、俺は!


 そんなふうに悶々とした気持ちを抱えながら、俺は笹山と夜の街を歩いていた。

 俺がそうであるのと同じく、彼女もまた、なにを口にすればいいのかわからないのだろう。

 ふたり、ただ黙って歩を進めていく。


 ――と、


「平日半額のサービスは、絶品マグロハンバーガーと並ぶ、キャットバーガー最大のウリだよね!」


 唐突に、そんな明るい声が俺の耳に飛び込んできた。

 声がしたほうを見れば、高校生くらいの少女の姿が。黒い髪を肩の少し上くらいで切り揃えており、いかにも活発そうだ。

 隣には同い年くらいと思われる少年がおり、


「ああ、確かにそうだな」


 と気のない返事を口にしている。

 もしかしたら恋人同士なのだろうか。

 そう思わせる『自然さ』を、その二人からは感じられた。


 向かう方向は、俺たちとはまったく逆。

 だから目が合うこともなかったし、それほど注意深く見ることもしなかったけれど。

 その二人に、羨ましいという感情は芽生えてしまった。

 子供は悩みなんてまったくなさそうで羨ましいな、と。


 あるいは同じように思ったのだろうか、あの二人が遥か後ろに消えてから、隣を歩く笹山がぽつりと呟いた。


「羨ましいです。異性と、なんの思惑も絡まない会話ができるなんて。きっと、それはなんでもないことなのでしょうけど、いまのわたしからしてみれば、とても……」


「CDショップで会ったときやペットショップにいたときは、俺たちだってそんな関係だったじゃないか」


 こんな言葉がなんの慰めになるのだろう。

 口にしてからそんなことを思って、つい、うつむいてしまう俺。

 だから、


「そういえば、そうでしたね」


 どこか笑みを含んだ彼女の口調に、驚いて顔を向けてしまった。

 笹山は少し寂しそうな笑顔のまま、言葉を続ける。


「楽しかったです。本当に。最後の日にふさわしい、わたしの最高の日になりました」


 それに、俺はつい言ってしまう。詮無せんなきことと頭では理解していながら。


「いいのか? 今日を笹山の最後の日にして。嫌なことを『嫌だ』って言わないままで終わって」


 ふっ、と。

 なにを思ったのだろう、彼女はとても柔らかな微笑みを浮かべ、俺に問い返してきた。


「光太さんだったら言うんですか? 言えるんですか? わたしと同じ立場であっても」


「――言う。絶対に、だ。自分が好きになった奴以外とは結婚なんかしないって。『自分の意に沿わないことにはイエスなんて言わない』。俺はずっと、そうやって生きてきたから」


 それはたとえば、初めて親からクレジットカードを渡された日。

 結局は妥協したけど、友人たちが受け取っている小遣いと同じくらいの額しか、実際に使うことはしなかった。

 金目当てで集まってくる友人なんて、俺は絶対にほしくなかったから。


「そうですか。強い意志をお持ちなんですね、光太さんは」


 ……強い、意志?

 なぜかその表現に違和感を感じ、俺は目を見開いた。

 そんな俺に気づいているのかいないのか、笹山はマイペースに言葉を紡いでいく。


「わたしには、嫌だなんて言えません。長いものには巻かれろ、とでもいうのでしょうか。昔から、そうでしたから……」


 彼女の口許に浮かんだ微笑は自嘲のそれだったけれど、なぜだろう、俺にはそれがとても美しいものに感じられて。


「それに、そもそも……っ」


 そこで一度、笹山は唇をかんでうつむいた。

 泣いて、いるのだろうか……?

 だとしたら、どう言葉をかけたらいいのだろう。

 いや、そもそも言葉をかけていいのだろうか。

 俺が口にした言葉のせいで、ずっと抑えていた自分の気持ちが溢れ出てきてしまったのだとしたら、それは俺が慰めていいものなのか?


 逡巡の時間は、短いようで長く、長いようで短かった。

 顔を上げた彼女の瞳には、しかし、涙はなく。

 なのに、悲しみの色は確かに浮かんでいて。

 どんな気持ちでいるのか、俺には形容できない表情で、彼女はその心のうちを吐露とろし始めた。


「嫌です……。嫌ですよ……。わたしだって、ちゃんと自分の意思で人を好きになって……。普通の、お付き合いをして……。そういう、普通の恋愛がしたいんです。お見合いなんて……本当は、嫌なんです……」


 ぽつり、ぽつりと。

 涙なんて一滴も流すことなく。

 けれど、悲しみに表情をゆがめて。

 とても、とても綺麗に、顔を……歪めて。


「家のために……なんて、嫌です。本当は、わたしが愛した人と……結婚したい。わたしを愛してくれる人と、結婚したい……。『物』として扱われるのは……嫌、なんです……」


「笹山……」


 堪えきれず、けれど、なにを口にすればいいのかもわからずに。

 俺はただ、それだけを漏らしていた。


 わずかたりとも濡れてなんていない、彼女の目元。

 そこを、笹山は指先で拭う仕草をして。


「……なんて」


 たかぶった自分の心を落ちつけるように、細く、長く息を吐き。


「素直にそう言えば、ワガママを口にすれば、すべては上手くいくんでしょうか? わたしには、むしろ悪化するようにしか思えません。そもそも、お見合いのお話自体はとてもありがたいことなのですから、わたしが被害者ぶるほうが間違っているのです」


 そう、にっこりと俺に笑顔を向けてきた。

 いびつさなんて微塵も感じさせない、綺麗な微笑を。


 ああ、なるほど。

 さっき抱いた違和感の正体に、俺はやっと気づいた。

 俺は強い意志なんか持っていない。

 俺はただ、ガキなだけだ。


 それに比べて、笹山は大人だ。

 ちゃんと親を――周囲の人間を思いやる心を持っている。

 少しばかり自己犠牲の精神が過ぎるとも思うけれど、それでも、俺よりもずっとずっと人間ができている。


「あのさ……」


 たまらなくなって、自然と口から言葉が出てしまった。

 しかし、続かない。

 なにを言いたいのかが、まったく定まっていなかったから。


 気を遣ってくれたのだろうか。

 俺の言葉をぐようにして、彼女が口を開いた。


「きっと、わたしには貴方のような方が合っているのでしょうね。わたし自身がためらっていても、かまわず引っ張っていってくれるような、あるいは背中を押してくれるような、そんな人が」


 その言葉に、鼓動が早くなるのを感じた。

 いや待て、落ちつけ。早とちりするな。

 別に笹山は俺のことを好きだと言っているわけじゃ――


「明日、お見合いの席でお会いする方が、貴方のような方だったら……いいえ、貴方であればよかったのに……」


「……っ!」


 それは、さすがに流せない。

 俺の自意識過剰だろう、なんてふうには流せない。

 気のせいだろうか、俺を見つめる笹山の瞳が、どこか潤んでいるような……。


 バクバクと鳴る、心臓の音。

 暗くてよくはわからないだろうけど、顔だって真っ赤になっているに違いない。

 それを悟られないよう、なんとか平静を装って声をだす。


「笹山は、さ。相手の顔とか名前とか、全然知らない……んだよな?」


 果たして、効果はあったのか、笹山は俺から顔を逸らして地面へと視線を向けた。


「……はい。写真は渡されたのですが、怖くて見れていないんです。もし、怖そうな人だったらどうしようって……。なんというグループの息子さんとお見合いするのかも、その息子さんのお名前も……敢えて、お父さまには言わないようにしていただいて……。この期に及んで、臆病者ですよね、わたし……」


 そんなことはない、と言いたかったが、彼女が見合い写真をちゃんと見ていれば俺のことをちゃんと知っていたわけで。

 そう考えると、まあ、臆病っちゃあ臆病かなあ、なんて思ったりもしてしまった。


 それからは、お互い、しばらく無言で歩いた。

 笹山はどうか知らないが、俺は隣を歩く彼女を過剰に意識しながら。

 親父には『ふざけんな』って言って家を飛びだしておきながら、いざ彼女と話してみればこれかよ、と自分でも呆れてしまいそうになるけれど、意識してしまうものは意識してしまうのだから仕方ない。

 なにしろ、直接ではないとはいえ、告白めいたことを言われたのだから。

 これは意識するなってほうが無理だろう。


 やがて道路がいくつにも枝分かれしてきたところで、笹山が足を止め、ぺこりと頭を下げてきた。


「あの、今日は本当にありがとうございました。先ほども申しあげたとは思いますが、おかげさまで最高に楽しい一日を過ごすことができました。……最高に楽しい、最後の日を」


「あ、ああ……」


 なんでも笹山の家はこのすぐ近くにあるのだとか。

 俺としても、さすがに彼女の両親と顔を合わせる気はなかった。……明日、嫌でも合わせることになるのだし。


 明日の見合いの相手は俺だ、と言って笹山を安心させてやりたい気持ちはあった。

 けれど、それをいま明かしたら、きっとお互い気恥ずかしい思いをするに違いないから黙っておくことにした。なんせ、さきほど彼女が言っていたことがことだし。

 まあ、明日の見合いの席で、彼女がどんな反応をするのかが楽しみっていうのが、正体を明かさずに別れることにした一番の理由だったりするのだけれど。……うん、やっぱりガキだ、俺は。

 彼女が、俺みたいな人が自分には合っている、と言ってくれたように、どうやら俺には彼女の大人な部分が必要みたいだった。


「あの、光太さん。もしよろしければ、ときどき、こうして会っていただけはしないでしょうか? その、同好の士のよしみで……」


 別れ際、笹山はすがるように俺にそう言ってきた。

 彼女からしてみれば、きっと精一杯の勇気を振り絞っての言葉だったのだろう。けれど、


「それは……ちょっと、な。明日の見合い相手……笹山の結婚相手に失礼になるだろ」


 そっぽを向きながら、俺はそう拒否を示した。

 明後日のほうを向いたのは、もちろんニヤけているであろう顔を見せないためだ。

 というか、言った本人からして『なにをいけしゃあしゃあと』って思ってるんだから。


 しかし、当然ながら笹山はそうとれずに、沈んだ声で、


「あ、そうですよね……。不倫に、なってしまいますものね……」


 あ、そうか。笹山からすれば不倫ってことになるのか。

 いや、なるのか? 異性の友人、じゃ通らないのか?

 まあ、どちらにせよ、俺からすれば同一人物なわけだけど……。


 笹山が「では……」と頭をもう一度下げ、なにかを振りきるように背中を向ける。

 その後ろ姿に俺は近所迷惑にならないよう、少しだけ声を絞って声をかけた。


「……またな、美奈子みなこ


 明日からはそれが当たり前になるだろうに、彼女のことを名前で呼んだという、それだけのことがとても気恥ずかしくて。

 俺は美奈子が振り返る気配を後ろに感じながら、彼女に背を向けて走りだしていた。

 それは、家を飛びだしたときと同じように。

 けれど、とても前向きな、幸せな気持ちで。


 ああ、そうか。これが恋愛感情。

 人を好きになるってことなのか――。





 見合い写真を見せられたとき、親父は言った。

 相手は笹山財閥のご令嬢だ、と。

 そんなの、知ったことじゃない。

 俺は『笹山財閥のご令嬢』のことを好きになったんじゃない。

 『笹山美奈子』というひとりの女の子のことを好きになったんだ。



 見合い写真を見せられたとき、親父は言った。

 きっとお前に釣り合う相手だから、と。

 『きっと』だって? 冗談はやめてくれ。

 『きっと』じゃない。『間違いなく』だ。

 むしろ俺のほうが彼女に釣り合っているかどうか、そっちのほうが怪しいぞ。


 

 見合い写真を見せられたとき、親父は言った。

 こっちにも向こうにも互いに事情があるんだ、と。

 大人の都合の押しつけはよしてくれ。

 俺は俺の都合で美奈子を好きになったんだ。

 子供にだって、相応そうおうに事情ってものはあるんだよ。



 ――そんなふうに、理論武装を固めながら家に向かって走ってる俺は、やっぱりまだまだガキなんだろうな。



 俺が走る夜の街は、ちっとも眠りにつこうとしない。

 そんな街には呆れを覚えることしかなかったけれど。

 今日ばかりは、そんな街も変わってみえる。

 今日ばかりは、そんな街でもいいかもしれない。


 だって、明日は俺と美奈子の見合いの日。

 眠りを知らないこの街のように。

 きっと、俺も美奈子も眠れない。


 でも、そんな夜があってもいいのだろう。

 眠れぬままに迎えた朝でも。

 新しい一日が始まることに変わりはない。

 希望に満ちた一日が始まることに変わりはない。




 俺が走るのは夜の街。

 暗い道が伸びる夜の街。

 いまは暗いこの道だけど。

 きっと希望の未来あすに続いてる――。





 ……一睡いっすいもできないままに、が明けました。

 うっすらとではありますが、したこともない化粧をして、新年を迎えるとき以外は着ることなどまずない着物にそでを通し。

 わたしはいま、車の後部座席にして料亭りょうていに向かっています。

 そう、本日のお見合いがとり行われる料亭へと。


 相手の方に気に入っていただけるよう、頑張らなければ。

 本当ならば、そのことだけに心を砕かねばならないのに、わたしの頭にはどうしてもあの方の姿がよぎってしまいます。

 考えても詮無きこと、と目を閉じて追いだしても、幾度いくどとなく思いだされてしまうのです。


 くしで整えることはしていないのか、少しだけ跳ねていた黒く短い髪。

 端正な顔にときおり浮かぶ、無邪気な微笑み。

 ぶっきらぼうではありながらも、確かに『わたし』に向けられていた優しい瞳。

 そして最後の別れ際、わたしのことを名前で呼んでくださったあの方の、大きな背中。

 それらが、昨夜から現在いまに至るまで、何度も、何度も……。


 いけません。今日からのわたしは、わたしの人生は、今日、お見合いの席でお会いする方のもの。

 『わたしの物語』は昨日で終わりを告げ、今日からはその方の物語に登場する『脇役』として生きていかねばならないのですから。

 『わたし』は、自分の人生においても『主役』であってはいけないのですから。


 そう、わたしは『脇役』。

 今日、会うことになる方の人生を盛りあげ、ときに引き立て、その方の影に徹する。

 それが、これからのわたしの生き方なのだと、決まったのですから。


 ああ、だというのに。

 昨日にはそれがすでに決まっていたというのに。

 なぜわたしは、彼に――光太さんに、あのような『本音』を漏らしてしまったのでしょう。


 その理由は、きっと簡単。

 短い時間ではあったけれど、昨日、光太さんと一緒に過ごして。

 わたしは彼に恋心を抱いてしまったから。

 叶うことのない、ゆるされることのない、恋心を抱いてしまったから。


 一夜限りの恋愛感情。

 わたしはそれを一生胸に抱いたまま、見知らぬ誰かのもととついでいく。

 それが褒められた行為だとは、わたしだって思っていません。

 でも、表に出すことさえしなければ、それは、あるいは赦されることではあるのでは、と。

 そんなふうに思ってもしまうのです。



 ――明日、お見合いの席でお会いする方が、貴方であればよかったのに……。



 昨日、思わず口をついて出てしまっていた一言。

 それは、決して言ってはならなかった言葉。

 わたしの望んだ、現実には起こりえない夢物語。


 けれど、もし。

 そのような絵空事が現実となるのなら。

 これから光太さんの影となり、彼を支えて生きていくことになるのなら。

 それは、どんなに幸福なことでしょう。


 『脇役』でありながら、『主役』でもいられる。

 相手の方が光太さんであれば、そうも思えてしまうのですから。

 しかし、そんな夢想むそうをしてみたところで、それはあまりに詮無きこと。

 無意味な現実逃避でしかありません。


 現実とは無情にして残酷、そして強固なもの。

 小娘ひとりの意思ごときで変えられるようなものではありません。

 それを理解せざるをえなかったから、わたしはこの縁談を唯々諾々いいだくだくと受け入れたのです。


 ああ、でも。

 わたしはあの方の温かさを知ってしまいました。

 恋心とはどういうものなのかを知ってしまいました。

 知らなければ、あるいはめた心のままでお見合いにのぞめたかもしれないのに。


 いまのわたしは、まるで火の温かさを知ってしまった獣のよう。

 いえ、温もりがなければ死んでしまうウサギのよう、とたとえたほうが適切でしょうか。

 そう、ウサギは寂しいと死んでしまう。

 『自分の人生』というものがありながら、その舞台でも『主役』になれないわたし。

 それは、本当に『生きている』といえるのでしょうか。

 死んでいるも同然なのではないでしょうか。


 そんならちもないことを考えるでもなく思い浮かべているうちに、大きな料亭の前で車が止まりました。

 外からドアが開けられ、下駄げたをカラコロと鳴らしながら車から降ります。

 そうしてわたしは、精一杯の上品な足運びで料亭の中へと入っていきました。


 下駄を脱いで通路を進んでいくと、見合いの席となる一室が視界に映りました。

 なぜでしょう、その部屋が一瞬、わたしにはろうおりかのように見えてしまいます。

 けれど、『なぜなのか』などと思考を巡らすまでもなく、理由なんてすぐに理解できてしまい……。


 憂鬱なため息が漏れそうになるのを意識して押しとどめ、控えめに開いていたふすまから身を滑らせるようにして室内へと入ります。

 失礼とは思いましたが、視線は床にやってしまいました。

 どうしても、相手の方の顔を見ることができないのです。

 それではいけないと、頭ではちゃんと理解できているというのに。

 ……と、そのときでした。


「よっ。やっぱり、逃げださずにちゃんと来るんだな、美奈子は」


 ……え?


 かけられたその声に。

 聞き覚えのあるその声に。

 わたしは一瞬、硬直し、


「でも、ちょっと顔色悪いか? 昨夜、眠れなかったとかか? まあ、それは俺もお互いさまなんだが」


 恥ずかしながら、勢いよく顔を上げてしまいました。それも、思いっきり目を見開いて。

 でも、それは仕方がないというものでしょう。だって、そこにいたのは黒いスーツを少し着崩した格好の、


「光太、さん……?」


 だったのですから。


「おう」


 彼はニカッという感じの笑みを浮かべていました。

 それはまるで、悪戯いたずらが成功したときの子供のような、快活で邪気のない笑顔。


「あは、あはははは……」


 それに意味のない虚ろな笑いを漏らしながら、わたしはへなへなとその場に座り込んでしまいます。


「お、おいどうした!? まさか美奈子、ショックで壊れたか!?」


「い、いえ。そういうわけでは……。けれど、なぜここに光太さんが……?」


「そりゃ、美奈子の見合いの相手が俺だから、だけど?」


「そ、それはそうなのでしょうけど……。……あ、もしかして光太さんはこのこと、昨日のうちからご存知でいらっしゃったん、ですか……?」


「え? あー、ああ、まあな」


 その言葉に、わたしはパクパクと口を金魚のように開けたり閉じたりしてしまいました。


「あ、あんまりです。昨日のうちに仰ってくださっても……」


「や、確かにそのとおりではあるんだがさ。でも、見合い相手の写真をロクに見ていなかった美奈子だって悪いんだぞ?」


「それは、そうですけれどもっ……!」


 ああ、もう。

 そんなことより、この方は気づいていらっしゃるのでしょうか。

 『美奈子』と呼ばれるその度にわたしの顔が、いえ、身体全体が火でもついたかのように熱くなっていることに。


「まあ、このことに関してはお互いさまってことで。とりあえず座れ、美奈子。……いや、もう座ってはいるのか?」


「す、座りますっ……。ちゃんと……!」


 はしたなくも膝立ちで座布団の上へと移動しながら、わたしは心の中で嘆息します。

 ……やっぱり、気づいてはいらっしゃらないのでしょうね、この方は。


「さて、お互い、改めて自己紹介といこう。俺は神崎光太。一応、神埼グループ会長のひとり息子ってことになってる。これからよろしくな」


「あ、はい。えと、改めまして、わたしは笹山美奈子と申します。……わたしも一応、笹山財閥設立者のひとり娘ということになっております。こちらこそ、末永くよろしくお願い致します」


 お互い、頭を下げあって。

 ふたり、小さく吹きだしてしまいます。

 だって、この状況があまりに滑稽こっけいだったんですもの。

 グループだの財閥だの、そんなしがらみはいまの自分には関係ないって、あんにではありますけど、お互いに主張しあって。

 それから、いまのいままでずっと思いつめていたわたしは、一体どこにいったのだろうと、また笑って。


 ああ。この人となら、わたしはこれからも『自分の人生』の『主役』でいられそうです。

 いいえ、それどころか、『自分の人生』の『主役』であると同時に、『彼の物語』においての『重要な登場人物』のひとりでもいられそうです。

 だって、光太さんは『わたしの物語』において、自分自身と同じくらい重要な位置を占めているのですから。

 それなら、光太さんにとってのわたしがそうであっても、おかしくはないでしょう?


 そう考えてみますと、昨日で最後だと思っていた『わたしの物語』は、これからも続いていく……いえ、本当は、まだまだ始まったばかりだったのですね――。

 この作品はいまから三年前にプロットを作り、それに更に変更を加えて完成させたものだったりします。

 初期段階のプロットは、美奈子が最初から最後まで語り部で、読み手からしてみても、お見合いの相手が光太だと判明するのは一番最後のところで、となっていました。


 しかし、このオチはよく使われているものなのですよね(苦笑)。

 それに加えて、美奈子の『ですます調』ですべての地の文を書くのは大変そうということもあり、この作品はいままでずっと、プロットのみの存在としてお蔵入り……というか、ボツ作品となっていました。


 ところが最近、長編を書くエネルギーがどうにも湧かないという事情もあり、なにか短編をと思い、過去にボツにした作品を引っ張り出してくることになりました。

 もちろん候補は他にもあったのですが(そしてもうひとつ、短編を書こうとも思っているわけですが)、いまの自分の好みにもっとも合っているのはこれ、という理由と、美奈子の一人称が大変なら光太の一人称で書けばいいじゃない、と思いついたのもあって、この作品を執筆することに。

 いやあ、発想の転換ってやつですね(笑)。


 もちろん、光太の一人称にするということは、『お見合いの相手は誰なのか』が冒頭で判明してしまうため、起承転結の『転』がものすごく弱くなってしまうのでは、という懸念はありました。

 しかし前述したように、このテのネタはとにかく展開もオチも予想しやすく、初期段階のプロットどおりにやっても『転』は充分に弱いはず。

 光太と美奈子の立ち居地を逆にしようかと考えもしましたが、それでもやっぱり『転』は弱いままなわけで。……まあ、単純に『美奈子には、なにも知らないお嬢さまな癒し系キャラでいてほしい』という僕の願望が、二人の立ち居地を逆にするのを拒んだ、というのもあるわけですが(笑)。


 ともあれ、だったら『転』のインパクトよりも、情報が充分にあることで得られる『安心感』を重視しよう、とプロットをねりねり。

 実際、このほうが光太と美奈子の心の動きを素直に追ってもらいやすいのではないでしょうか?

 それに、語り部が状況を完全に把握しているというのは、割と珍しい構成であるはず。普通は逆ですからね。


 そんなわけで、色々と語ってきましたが、三年のときを経て、こんな形に落ちつきました。『お見合いの日のその前に』。

 ちなみに、前作の短編『そんな二人の恋愛事情』とはちょっとだけリンクがあります。本当にちょっとだけ、ですけどね。


 さて、こんな長いあとがきまで読んでくださり、感謝の言葉もありません。

 この作品を読んで楽しい気持ちに、あるいは切ない気持ちに、はたまた優しい気持ちになっていただけたのなら、これを書いた甲斐があるというものです。

 それでは、また別の作品で出会えることを祈りつつ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最後まで、ドキドキして読むことが出来ました‼素敵な恋愛小説で、登場するキャラクター二人にも好感持てました。 自分が見合いすることになったら、どうするのだろう…。自分だったら、写真だけで…
[良い点] なろうでハーレクイン読めるとおもわんかった。
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