GHOST@graveyard.com
To : GHOST@graveyard.com
Title : GHOST NEVER DIES
親愛なるゴーストへ
はじめまして。私の名前は、リリィ・カーペンターです。
今日は、あなたにお願いがあってメールしました。
あなたに殺してほしい人がいます。
それは、私のパパとママです。
私のパパとママは極悪人です。平気で子供を裏切る、最低の人間です。
死んで当たり前のゴミクズです。
あなたは絶対に失敗しない最高の殺し屋だと聞きました。
お金ならいくらでも払います。だから、お願いします。
パパとママを殺してください。
依頼を受けてくれるなら、返信をください。
では、ごきげんよう。
Lily Carpenter
――送信のアイコンを押す。
書き終えてから一時間以上もにらめっこし続けたメールのウインドウが消えて、わたしは机の上に突っ伏した。
やってやった。
とうとう、やってやった。
送信済みアイテムのフォルダをクリックすると、プレビューウインドウに出てくるのは、確かに今しがた送ったばかりの文。
メールの宛先を「GHOST@graveyard.com」に、タイトルを「GHOST NEVER DIES」に。
それが、謎の殺し屋「ゴースト」への依頼方法だ。
フォルダ内のメールを消そうとして、わたしは興奮で自分の手が震えていることに気付いた。両手でマウスを動かしてどうにか証拠を隠滅する。
パソコンの前にはいられなかった。震える足で椅子を立ち、キングベッドの上に倒れこみ、枕に顔をうずめて誰にも聞こえない快哉を上げた。
ざまあみろ。
ざまあみろ。
パパとママが悪いんだ。
わたしを裏切るから。約束を破るから、こうなるんだ。
何かあったら二言目には仕事、仕事、仕事、仕事。一ヶ月前のハロウィンの時も、二週間前の十三歳の誕生日の時も、パパとママは一緒にいてくれなかった。だから、今度こそはと約束していたのに。
――すまんな、リリィ。仕事が入ったんだ。
――当日はずっと家を空けると思うけど、いい子にしてるのよ。
何がいい子だ。嘘つきの親から生まれた子供が、いい子であるもんか。
「お嬢様、リリィお嬢様」
突然の声に、わたしはベッドの上で跳ね上がった。
ドアがノックされ、アール・ヌーヴォーのノブが細かく揺れていた。
大慌てでベッドから飛び出し、パソコンの電源を切る。机の上の置き鏡をのぞき込んで、変な顔をしてないか確かめ、わたしはようやく声を返した。
「い、いいわよ、入ってらっしゃい」
「しづれいいたします」
野太い声とともに、エプロン姿の大柄な女性が入ってきた。色黒のスノーマンのようなでっぷりとした体。ドイツのソーセージみたいな太い腕に、かごを下げている。中に入っているのは、ブラシやスプレーやリボン、その他いろいろ。
「おはようごぜえますだ、お嬢様。髪のお手入れに参ったっす」
「ん。おはよう、マーゴ」
マーゴは黒人で、ふとっちょで、わたしと同じくらいの年からもう三十年以上、この家で働いているメイドだ。
屋敷の端の部屋に住み込みながら、毎日一人で、二十五の部屋と五つのトイレと二つのバスルームの掃除をして、ご飯を作って、洗濯をして、お庭の手入れをやっている。わたしの髪の毛の手入れも、仕事の一つ。
マーゴはいつものように、わたしを鏡台の前に座らせると、大きな手で櫛を操りながら、わたしの髪をすき始めた。
「お嬢様の髪は、いづ見てもお綺麗だすなぁ。きらきらしてて、ツヤさあって……金色の絹のようだべさ」
南部の方言丸出しでそう言うのが、彼女のこの時の習慣だ。毎回毎回一言一句違わぬ言葉の繰り返し――とは言え、わたしだって綺麗と言われて悪い気はしない。ちょっとすましながら「そう、ありがと」と言う、これもいつもの習慣。
「にしても、クリスマスはえれえ残念でしたべな」
ぴきん。
鏡の中のすまし顔にヒビが入った。が、マーゴはそれに気付かず、言葉を続ける。
「まんだ十二月も始まったばかりだっちゃに、年末まで旦那様と奥様のご予定が詰まってんだがら」
「……」
「ま、しょうがなかんべさ。クリスマスは、おらがいぎなり豪勢な食事こしらえっから、我慢してけねぇべが」
わたしはよく我慢していたと思う。
その時のわたしの気分は、例えるなら、今しがた手当てを終えたばかりの傷をナイフでぐりぐりえぐられるようなものだった。レッドゾーンに突入しそうになるメーターの針を、かろうじて押さえつける。
けど、
「あ」
マーゴの櫛が毛にひっかかった。頭に感じるちくんとした痛みに、一気に針は振り切れた。
「なにすんのよ馬鹿!」
立ち上がって振り向いたわたしに、マーゴが後ずさっておののき、
「も、申し訳ねっす、お嬢様、堪忍してけらっしょ」
「堪忍できるわけないでしょ、この役立たず! クセッ毛になったらどうするのよ! わたしの髪はあんたみたいなチリチリのとは違うんだからね!」
剣幕に押されるように、マーゴはひたすら頭を下げ続けた。大きな体が、半分ほどに縮まって見える。
「申し訳ねっす、申し訳ねっす」
「もういいわ、出てって! 顔も見たくない!」
苛立ち言葉にしてぶつけると、マーゴはもう一度大きく頭を下げて、部屋を出て行った。
力無くドアが閉まるのを見て、わたしはふん、と鼻を鳴らした。
どいつもこいつも腹が立つ奴ばっかり。死んじゃえ。
「ゴーストなんて本当にいるわけないじゃない」
ゴーストの名前を出した途端、エマは即座にそう斬って捨てた。
「あんなのただの噂よ、噂。リリィったら本気で信じてたの?」
「噂なんかじゃないわよ、本当の本当なんだから、ゴーストは絶対いるんだから」
わたしが勢い込んで反論すると、エマはやれやれ、と首を振った。ボブカットの茶色い髪が揺れ、大きな眼鏡がきらりと光った。
スクールの昼休み。
クリスマスまであと十日以上もあるのに、校内はけばけばしい装飾で一杯だ。
天井を見上げればきらきら星が、横を見ればもみの木が、床を見下ろせばサンタの似顔絵がのさばる摩訶不思議世界。
そんな食堂のテーブルをはさみ、わたしとエマは、フォークでお互いを指しながら議論を交わしていた。
「いないったら、い・な・い。ゴーストなんてただの噂、ただの妄想」
「いるったら、い・る・の。みんな言ってるもの。この間、州議会の偉い人が殺されたのも、ゴーストのしわざだって。きっと議会でケンカしてる相手が雇ったのよ」
「もう、何の根拠も無いのに適当な事言って……。大人は誰もそんなこと言ってないわよ。大体、ゴーストの姿なんて誰も見たことないじゃない」
「姿が見えないからゴーストなのよ」
ゴーストとは、ボストンの中高生達の間で噂になっている正体不明のスナイパーだ。
ここ数ヶ月、街では射殺事件が増えている。大体は酔っ払い同士のトラブルとか、麻薬中毒者の暴走だとかだけど、中には犯人が分からないものもある。そういう謎の事件について、誰かが「ゴースト」っていう殺し屋がやったんだ、って言い出したのが全ての始まり。
教室で、街角で、ネットで。噂はまたたく間に広まって、学生の間では凄腕の殺し屋「ゴースト」の存在が当たり前のものになってる。もちろんあたしだって信じている。
いわく、ゴーストは報酬さえもらえれば誰の依頼でも受ける。
いわく、ゴーストは電子メールでだけ依頼を受け付ける。
いわく、ゴーストは決して他人に正体を明かさない。
いわく、ゴーストは決して裏切り者を許さない。
いわく、ゴーストは決して標的を仕損じない。
秘密主義で、冷酷非情で、正確無比。
それが、謎の殺し屋、ゴースト。
「馬っ鹿みたい」
エマの反応は冷ややかだった。
「ねぇ、リリィ、よく考えてみてよ。このボストンだけで年間どれだけの射殺事件が起きて、その内どれだけがお蔵入りになってると思う? それ全部をゴーストのせいにしてるんだから、そりゃ『実績』だって上がるわよ。そりゃ失敗だってしないわよ。ゴーストが事件を起こすんじゃなくて、事件が起こってからゴーストのしわざになるんだもの」
エマはダウンタウンの出身だ。学費の高いこのプライベートスクールに来れるほど裕福ではないけど、バカみたいに頭が良くて、奨学金をもらってここに通っている。
「世の中には幽霊も吸血鬼もいやしないのよ。どこそこの誰それがこう言ったから、絶対ゴーストは存在するんだー、なんて言ってたら、世界中お化けとUFOであふれちゃうわ」
頭でっかちらしく、理屈じみたことを言うエマ。
わたしは負けず、
「それでも、いるもの。ゴーストはいるもの」
エマはあきれたように息をついた。
わたしは次に起こることを予見した。こんなとき、エマは必ずこう言うのだ、『リリィったら、子供ね』と。
「リリィったら、子供ね」
やっぱり。
分かっていても腹が立ち、わたしは食ってかかった。
「何よ、馬鹿にして! タダの噂タダの噂って、なんでそれだけで否定できるのよ! よく言うじゃない、火の無いところに……えと」
「火の無いところに煙は立たない」
「そう、それよ! 実際この数ヶ月で、何人も人が撃たれて殺されてるんだから! みんなゴーストのしわざなのよ、警察だって全然犯人を捕まえられないんだもの!」
「ちょ……リリィってば」
エマの眉をひそめた顔が眼下に見える。気がつけば、わたしはテーブルに手をついて立ち上がっていて、周りの子たちの怪訝そうな視線を一身に集めていた。
わたしは口をつぐみ、椅子に腰を下ろした。
「もう、大きい声であんまり物騒なこと言わないでよ……」
「だってエマが」
「噂で盛り上がってるのは、みんな子供ばっかりじゃない。大体、『graveyard.com』なんてドメイン、聞いたことないわ。墓場(graveyard)の幽霊なんて、いかにも『作り』じゃない」
馬鹿にしているわりには、エマは結構噂の内容に詳しい。
「それは本物よ、だって」
だって実際わたしが今朝メールを出せたもの――と、言いかけて、わたしは再び口をつぐんだ。
「だって、何?」
「なんでもない」
いくらなんでも、今朝方パパとママを殺す依頼を出したところです、なんて言うのはまずい。わたしは誤魔化すように手元のコーヒーをすすった。
「ところで、リリィのパパとママって、デザイナーだっけ」
いきなり話題が飛んだ。しかも嫌な方向に。
「……何、いきなり」
「いや、この前テレビに出てたから。かっこいいわよね、世界中を飛び回る夫婦デザイナーなんて」
「最悪よ」
「? 何か言った?」
「別に」
頬杖をついて顔を背ける。が、エマはなおも続け、
「でも、クリスマスまでお仕事入ってるんじゃ大変よね。確かニューヨークよね、クリスマスコレクションとかいうの。リリィ、その日は家で一人なんでしょ」
地雷原でフラメンコを踊りまくる彼女を横目で見ながら、わたしはいつ足元を吹っ飛ばしてやるべきかを考えた。
と、不意に顔を近づけられ、
「それで。クリスマス、うちに来ない?」
「……は?」
「だから、私の家に。クリスマスに一人ぼっちなんてさびしいでしょ。うちでパーティーやるから、リリィもおいでよ。パパやママもいいって言ってくれてるから」
わたしはエマの顔を見た。
弾むような笑顔。断られるなどとは、微塵も思っていない。
エマは気持ちの切り替えが早い子だ。ついさっきまで言い合いをしていた相手でも、平気で遊びに誘ったりする。だから、これだって嫌味だとか当てつけだとかじゃなく、ただわたしが一人でいるのを可哀想だと思って言っているんだろう。
けど。
「嫌よ」
「へっ」
気の抜けた顔のエマを前に、わたしは席を立った。
「わたしは一人ぼっちじゃないわ。屋敷にメイドがいるもの。貧乏人のあんたとは違うもの」
絶句するエマに背を向けて、食堂を去る。後ろから「何よー」と遠吠えが聞こえてきたけど、知ったことじゃない。
ふざけるな。誰がかわいそうなものか。
わたしは一人ぼっちじゃない。わたしには、ゴーストがいるもの。
待てど暮らせど、ゴーストからの返信は来なかった。
メールを送ったその日は、スクールから帰った後ずっと、パソコンにかじりついていた。夜は、唐辛子をかじりながら、真夜中の二時までねばって起きた。
二日目は、唐辛子が切れたところで力尽き、机で寝た。三日目は椅子からすべり落ちて、床で寝た。
それでもパソコンは、頑固な黙秘を続けた。
寝不足が慢性になり始めたわたしは、物言わぬ電子機器に対して、説得工作に出た。
四日目になだめ、五日目にすかし、六日目に脅して、七日目に泣きすがった。それでも、最新型の十九インチ液晶ディスプレイは、メールソフトの無常な白を吐き出すだけだった。
「……呪われろ、オタンコナス……」
八日目の夜、紛らわしいスパムメールに呪詛の言葉を吐きながら、わたしは机に突っ伏した。
(なんで返事が来ないのよ……)
もしアドレスが間違っていたなら、送信失敗のメールがこっちに来るはずだ。それが無いということは、メールは向こうに届いてる。なのに何も反応もない、っていうのは、やっぱり――。
エマの勝ち誇った顔が、瞼の裏に浮かんだ。ほら見なさい。
わたしは頭を振って忌まわしい映像を打ち払った。違うわ、何か特別な理由があるのよ。ケガしてるとか病気してるとか。
ひょっとしたら、こっちの文面が気に入らなかったのかもしれない。親しみを込めたつもりの「Dear(親愛なる)」が逆効果だったとか。
もちろん、もう一回メールを送ろうかとは思った。何度も思った。
でも、やめた。
人にものを頼むっていうことは、勝ちか負けかで言ったら負けで、上か下かで言ったら下だ。「お願いします」って誰かに言うことは、相手より弱い立場になるっていうことだと思う。
わたしは、そういうの、嫌だ。
確かに、わたしは自分ではパパとママを殺せなくて、だから代わりにゴーストに頼むわけで。それはそうなんだけれども、この場合こっちがお金を払っているわけだから、負けじゃなくてせいぜい引き分けぐらいなわけで。でも、そこでわたしからのお願いを無視してるゴーストに対して、「お願いだから言うこと聞いてよ」って催促するのは、なんだか負けを認めるみたいな感じがして……だからつまり、こっちから二回目のメールは送りたくない。
「はぁ……」
ため息をつき、額を机の上に落としたその時だった。メールの着信を告げる電子音が、パソコンから響いた。
わたしは努めてのっそりと頭を起こした。一週間も空振りを喰らい続けると、自然と対抗する手だては身についてくる。つまり、ただのスパムメールだったときに、余計な失望をしないための。
無駄な期待を抑え込んでディスプレイを見たわたしは、だけど、そうしておけば喜びも万倍になるのだということを知った。
新着メールの差出人欄に、『GHOST』の文字があった。
その瞬間、わたしはボストン・レッドソックスが世界一になったときの、街の熱狂ぶりを思い出した。野球になんか興味ないから、あの時は「馬鹿みたい」とだけ思ったけど、今なら大騒ぎしてた人の気持ちが分かる。
わたしは夜中の部屋で大声を上げる代わりに、机をばんばんと叩いて歓喜を表現した。
震える手でマウスのボタンを押す。メールの本文が開いた。
To : Lily Carpenter
Title : Re: GHOST NEVER DIES
氏名
住所
顔写真
以上
目が点になった。
「……そ、それだけ?」
それだけだった。
空白をドラッグしても、文字サイズを大きくしても、「削除済み」フォルダを引っ掻き回しても、それ以外に何も出てこなかった。
たった四行、というか四単語。無愛想にも程がある。
「なによ、それ……」
わたしは唇をとがらせた。
とは言え、ぼやいていたってはじまらない。ともかく、わたしはそのメールの内容について考えた。
氏名、住所、顔写真。
これって、わたしの氏名とかを送れってことなんだろうか。いや、でもこの前のメールで、わたしの名前は送ったはず。ふんぎりがつかないまま一時間以上も読み返してたんだから、間違いはない。
とすると、やっぱりターゲットの、つまりパパとママの、ということだろう。確かに、前は「パパとママ」としか書いてなかった……うかつ。
迷うことはなかった。わたしはすぐに返信のメールに二人の名前と、家の住所を書いた。
あとは顔写真。たしか、ドキュメントフォルダに、家族で撮った写真があったはずだ。
「あった」
探し出して、フォルダを開く。中にある画像を、
「あ」
マウスの手が止まった。
開いた画像ファイルは、去年の夏、旅行に行ったときの家族写真だった。
楽しそうに笑うパパ、ママ、そしてわたし。今ほどお仕事が忙しくなかったころの、思い出の中の笑顔――。
「……」
次の写真を開く。そこにも、満面の笑みを浮かべたわたし達がいた。その次も、そのまた次も。全ての写真に、輝くような笑顔が溢れていた。
わたしは画像フォルダを閉じ、ブラウザを立ち上げた。ネット上のデザイナー名鑑を開き、パパとママの名前を探す。
出てきたのは、面白くもなんともない、履歴書に貼り付けるような正面からの写真。わたしの嫌いな、デザイナーのパパとママだ。
わたしはそれをパソコンに保存すると、メールに貼り付けて、送信ボタンを押した。
白いウインドウが、パパ達をゴーストのもとへと連れてゆく。
それを見届けて、わたしはまた、ふん、と鼻を鳴らした。
返答は、次の日の朝に来た。
内容を見た途端、わたしは椅子から転げ落ちそうになった。
メールには、相変わらず愛想のカケラもない書き方で、報酬の要求額が記されてあった。
とんでもない額だった。
「うそぉ……」
確かに、お金ならいくらでも払うとは書いたけれども。
今まで、二か月分のお小遣いで世界の全てが買えていたわたしにとって、それは四次元の世界からやってきたような数字だった。貯金をそうざらいして金庫をひっくり返したとしても、とうてい払えやしない。
今一度メールを読み返し、ゼロの数を念入りに数え直した後、わたしは机の上にがっくりとうつ伏せた。
これがいわゆる青春の壁というやつなのだろうか。それにしたって、これじゃエベレストよりも高すぎる。
――どうしよう。
その時だった。思考の袋小路にはまっていたわたしの頭に、突如として一つの疑問が浮かび上がった。
このメールの差出人は、本当にゴーストなのだろうか。ひょっとしてゴーストを騙った、他の悪い人なんじゃないだろうか。
十分に考えられる。ゴーストの噂は結構有名だし、誰かが『graveyard』のドメインを取って悪用しようとしてもおかしくない。
そもともこれがゴースト本人だったとしても、信用できるのだろうか。
今まで噂を信じきって冷静に考えていなかったけれども、大金を吹っかけられて目が覚めた。こんな顔も本名も分からない人間を、信頼していいものなんだろうか。
(……よし)
わたしは意を決して、キーボードに手をかけた。
To : GHOST@graveyard.com
Title : Re:Re:Re:Re: GHOST NEVER DIES
ゴーストへ。
はっきり言って、あなたを疑っています。
一度顔を見せなさい。話をしましょう。そうでなかったら、お金は払えません。
十二月二十一日の午後四時ちょうど、ボストン・コモンのフロッグ池前に来なさい。
では、ごきげんよう。
Lily Carpenter
自分の顔写真をつけて、メールを送信する。
返事はその日のうちに来た。
To : Lily Carpenter
Title : Re:Re:Re:Re:Re: GHOST NEVER DIES
了解
以上
コモンについたのは、三時五十分過ぎだった。
まだらに凍った土を踏み抜き、道を進む。木々の根元では、リスの親子がちょこちょこと走り回っている。
ボストン・コモンパークは、ダウンタウンの中心にある市民公園だ。広大な敷地の中に草木が茂り、家族連れが散策を楽しむ憩いの場。温度計がゼロより下を指すこの季節でも、大勢の人たちが広場をのんびりと巡っている。
園内にある大きな池、通称フロッグ池のほとりに立ち止まる。
池はすっかり凍りつき、夏の間涼しそうに水浴びしていた鳥達は、スケート靴を履いた子供に変身して楽しそうにリンクを滑っていた。
(この寒いのに、よくやるわね)
わたしは手袋の両手を口元にやり、はぁっと息を吐いた。暖かい吐気が、霜の張ったような頬に心地いい。
暑いのは嫌いだけど、寒いのはもっと嫌いだ。ボストンの街は、そういう人間にひどく冷たい。
視界一杯に広がる氷の白が余計に寒さをあおるような気がして、わたしは池に背を向けた。柳の木から風に乗って飛ぶ粉雪と、道を行く人たちの厚いコートが、目の前を流れていく。
送り迎えの運転手は公園の外で待たせてある。「ついてきたらクビ」と申し渡してあるから、見られる心配は無い。
(さー、いつでもいらっしゃい)
ここに来たのは、スケートをするためなんかじゃない。幽霊のかぶったシーツを引っぱがすためだ。
わたしはまだ見ぬゴーストの素顔を思い浮かべ、シミュレーションを行った。
貧相なモヤシみたいな奴だったら、バツ。
太っちょのカボチャみたいな奴でも、バツ。
クリント・イーストウッドみたいな渋めのおじさんだったら、マル。
レオナルド・ディカプリオ似の端正な顔をした青年だったら、さらにマル。
人は見かけで判断できる。十三年生きてきた中で、わたしが自信を持って言える人生哲学だ。
もし逆上した相手に襲われても、ここでならまわりの人が助けてくれる。用意周到とはこの事ね、とわたしは自分で自分を褒め称えた。
と、足元に野球のボールが転がってきた。次いで、きゃあきゃあと甲高い声が近づいてくる。
レッドソックスの帽子をかぶった小さな少年が走り寄ってきた。ボールを拾い、また来た方向に戻る。背中で揺れるフードの向こうに、父親らしい男の人がグローブを振りながら笑っているのが見えた。
わたしは今よりずっと小さい頃、パパと一緒にここに来たことを思い出した。
キャッチボールなんてやったことはない。けれど、ただパパと歩いているだけで、池の水鳥を眺めているだけで、木陰のリスを追いかけているだけで、ひたすらに楽しかった。
今でもその時のパパの顔を思い出すことができる。今よりシワが少なくて、おひげももっと黒くて、そしてすごく優しい笑い方をして――。
「……ふん」
わたしは思い出を鼻息で吹き飛ばした。今さらどうでもいいことだ。
それにしても遅い。公園に着いてから、二十分は優にたっているはず。
ひょっとして、口先だけで本当は来る気がなかったか。そう考えると、下がった体温は一気に上昇した。
(あと一分して来なかったら、帰ってやるから)
懐から懐中時計を取り出し、純金製の蓋を開ける。
と、そこで、蓋の裏側に何かがくっついているのに気がついた。爪先ほどの小ささの、丸く赤い点だ。染みとか汚れとかではない。
――何だろう、これ。
そう思った瞬間だった。
蓋に、大穴が開いた。
もの凄い勢いで手の中から時計が弾け飛び、道の向こうに落ちて跳ねた。一瞬遅れて腰を抜かした私の耳に、さらに一瞬の間を置いて、「タァ……ン」とかすかな音が響いた。
寒さも冷たさも意味を失った。
道行く人たちが立ち止まって、尻もちをついたわたしの顔を不思議そうに見ている。誰もが、何が起こったのか分かっていない。誰もが、変な女の子が時計を投げ捨てて座り込んだと思っている。
怒鳴り散らす気にはならなかった。恥辱も屈辱も感じなかった。きっと馬鹿みたいな顔をしていたと、自分でもそう思う。
やがて、人波がまた流れてゆく。わたしはへたり込んだまま、呆然と手の中の時計を見ていた。道行く子供の奇異の視線も、コートのお尻に染み込んでくる水の冷たさも、まるで気にならなかった。
ただ、まだ手に残る鈍い痺れと、耳に残るかすかな銃声だけが、わたしを支配していた。
出迎えの言葉なんて聞いてる場合じゃなかった。
マーゴが「おかえりなさいませ」を言い切る前に、わたしは彼女の横を通り抜け、玄関ホールを突っ切った。
赤じゅうたんの上を、今まで屋敷の中ではやったことのないくらいの早歩きで通り過ぎ、階段を上がる。濡れたコートのお尻に気付いたマーゴが後ろで何か騒いでいたけど、知ったことじゃない。
部屋に入り、叩きつけるようにドアを閉め、鍵をかける。髪が襟にひっかかるのをもどかしく思いながらコートを脱ぎ、乱暴に床に放り投げ、ベッドの上に飛び込み、枕に顔を押し付け、ぶるぶると体を震わせて、
「わ――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
叫んだ。
――すごい。
すごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごいすごい。
恐かったとかびっくりしたとかより、まず感動した。
ゴーストは公園に来なかったけど、何も不満は無かった。かわりに見せられたものすごいパフォーマンスに、わたしは酔った。
蓋の裏側に見えたあの赤い点、あれは映画で見たことがある。レーザー光線を目標に当てて、照準をつける装置だ。
でも、だからって、わたしは「命中させて当たり前」だなんて思わない。
あの時、懐中時計はわたしの胸の前にあった。わたしの体に当てずに撃つためには、かなり高い所から、角度をつけて狙い撃たないといけない。そしてあの時、わたしの後方にあった高い建物は、公園の外にある高層マンションだけ。一キロ以上も離れたところにある建物だ。
ゴーストは本物だった。正真正銘の、スナイパーだった。
二千ドルの懐中時計が使い物にならなくなったことなんて、どうでもよかった。わたしは興奮した勢いのままガバッと起き上がり、転がるようにパソコンの前に座った。
To : GHOST@graveyard.com
Title : Re:Re:Re:Re:Re:Re: GHOST NEVER DIES
親愛なるゴーストへ
あなたを信用します。
あらためて仕事を依頼します。お金は言われた金額を払います。
それと、日にちを指定します。
パパとママを殺すのは、クリスマスの夜にしてください。
その日、二人はニューヨークに仕事に行っているはずです。そこを狙ってください。
詳しい場所などは、あとで連絡します。
では、ごきげんよう。
Lily Carpenter
メールを送信し、カレンダーを見る。
クリスマスまで、あと少し。
わたしを裏切ったパパとママが、わたしを裏切ったクリスマスの日に、わたしの雇った殺し屋に撃たれて死ぬ。こんな痛快なことはない。
お金なら、パパとママが死んだ後で払えばいい。二人がいなくなれば、家の全財産はわたしのものになる。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
カレンダーの日付を赤丸で囲む。「25」の数字が丸で囲まれたとき、わたしの願いは叶うんだ。
こんなクリスマスの楽しみ方をしている女の子は、きっと世界でわたし一人だけだろう。
誰もいない部屋で、わたしはそっとほくそ笑んだ。
クリスマスの朝が来た。
枕元の時計の針が八時を指したところで、わたしは目を覚ました。
とっくにスクールは休みに入っているから、マーゴは起こしに来ない。なのに、体は勝手に夢から浮き上がってしまう。
毛布の中から壁掛けカレンダーの日付を確認し、ぎゅっと体を縮める。
――ああ、とうとうこの日が来てしまった。
昨日はなかなか寝付けなかった。唐辛子を口にしたわけでもないのに、午前三時まで目が冴えてしまってどうしようもなかった。
前金は、昨日払った。
コモンでの一件から、また何回かメールのやりとりがあり、報酬の八分の一を先に支払うことになった。全財産をそっくりバッグに詰め、マサチューセッツ駅のコインロッカーに、鍵は構内のトイレの天井に。全てゴーストの指示通りだった。
物陰にひそんで、お金を取りに来るゴーストの顔を見てやろうかとも思ったけど、やめた。
わたしみたいな子供がゴーストを出し抜くなんて、できるわけない。そして、ゴーストは、裏切り者を決して許さない。
そう、ゴーストは冷酷で、正確な殺し屋なんだ。パパとママは今日、死ぬんだ。間違いなく。
もう、後戻りはできないのだ。
(何迷ってるのよ……わたしの馬鹿)
ベッドから体を起こした。パパとママが仕事に出かけるまで、まだ少し時間がある。死ぬ前に顔を見てあげるくらいはいい、と思った。
食堂に入ると、マーゴが長テーブルの食器を片付けていた。
二人分だった。
「あ、おはようごぜえますだ、お嬢様」
「マーゴ……パパとママは?」
「もうとっぐに、お出かけになられたっちゃ。ショーの前準備さ早まっだがらって、ニューヨーク行ぎの朝一番の飛行機さ乗っで」
わたしは窓の外に目を向けた。食堂の壁一面に張られたガラス窓の向こうに、寒空を貫く飛行機雲が見えた。
「もちっと待ってけらっしょ、お嬢様。今、朝ご飯さ用意しますで……」
「いらない」
「え?」
「いらない。今日は何も食べない」
何か言おうとしたマーゴに背を向けて、わたしは食堂を出た。
廊下を歩きながら、わたしはさっきまで感じていた迷いが、別の感情に取って代わられるのを感じた。
昨日もおとついも、パパとママは仕事でずっと家を空けていた。その前、最後に二人の顔を見たのはいつだったかと考えて思い出せず、わたしはぽつりと呟いた。
「早く死んじゃえ」
昼の間、何をしていたかは覚えていない。
最初はテレビにかじりついていた。『ニューヨークで射殺事件あり』。そのニュースが流れないか、それだけを見ていた。
だけど画面に映るのは、クリスマスツリーと、サンタクロースの格好をしたおじさんばかり。たまらなくなって、すぐに消した。
――目が覚めたら、夜になっていた。
むくりと横になった体を起こす。途端、わたしの体は絨毯の上に落っこちた。
「あいたぁ……」
どうやら、リビングのソファーでうたた寝をしてしまったらしい。はしたない。
目の前の暖炉の火は消えていて、シェードランプから漏れる頼りない光だけが、リビングをぼんやりと照らしている。
窓の外は闇だ。雪は降っていない。見慣れた庭の木がぽつぽつと立っていて、その向こうはレンガの壁になっているはずなのだけれど、闇が濃すぎて見ることはできなかった。屋敷の中は、物音一つしない。
パパとママはもう死んだのだろうか。
そう思った瞬間、わたしは不意に、自分が別の世界に連れてこられたような感覚に襲われた。
パパとママがいた、朝の光につつまれた世界は果てしなく遠くに吹き飛び、代わりに明けない夜に覆われた世界が訪れる。この世でもあの世でもないその場所に、わたしはソファーに乗ったまま、さらわれてしまったのではないか。そして、決して訪れない朝日を、たくさんの幽霊に囲まれたまま、いつまでも待ち続けるのではないか――。
わたしはリビングを飛び出した。
廊下も階段も真っ暗だった。屋敷の中いっぱいに詰まった氷のような空気をかき分けながら、わたしは走った。
玄関広間はいつも以上に広く見えた。敷き詰められた絨毯は、悪い血のように赤黒かった。左右に広がる廊下に人の気配はなく、ただ、イタリア彫刻や中世騎士の鎧だけが声もなくたたずんでいた。
「マーゴ……マーゴ?」
返事はなかった。凍りついた空気に反射して、わたしの声は広間に空しく響くだけ。
玄関のチャイムが鳴った。
びくついて周りを見回す。けれど、マーゴの姿はあらわれず、立ち尽くすわたしの前でチャイムは何度も鳴り続ける。
わたしは唾を飲み込み、玄関に近づいた。
掴んだ銀製のノブの冷たさが不意に現実感を呼び戻し、警察なんじゃないか、そう思いながらも手は止まらず、大きなドアがゆっくりと開き、
「メリークリスマス!」
サンタが二人でやって来た。
「はっは、リリィー! いい子にしてたか? サンタのおじさんがプレゼントを持ってやってきたぞ!」
「もー、フィンランドからソリに揺られて十何時間、大変だったんだから。お肌が乾燥しちゃうわ」
灰色ヒゲと、ちょっと濃い化粧の見慣れた二人が、赤装束を着て玄関先でわいわい騒いでいた。わたしはただ呆然とするばかり。
「む? どうした、おい、まさか誰だか分からんのか?」
「リリィ、ママよ、ママ。で、こっちのおヒゲのがパパ」
「な、なんでここに……」
パパとママはしてやったりの顔で笑った。
「あのね、パパと二人でずっと前からお話してたの。ハロウィンの時も誕生日の時も、リリィといてあげられなかったでしょ? だから、クリスマスこそはどうしてもって」
「本当は仕事も全部なしにして、一緒にいてやりたかったんだがな……どうしても外せんかったんだ。それで、仕事先の人に無理言って準備と後片付けの時間を早めてもらったりして、大急ぎで終わらせて帰ってきたわけさ。ほれ、ニューヨークで買ってきたプレゼントもあるぞ」
大きな布袋を自慢げに掲げるパパサンタ。
屋敷内の電気が点き、廊下の奥の部屋からマーゴがあらわれた。
「申し訳ねっす、お嬢様。んだども、旦那様方がお嬢様を驚かせようっつっておっしゃるもんだどや……」
「まあなるべくあれだ、ドラマティックに盛り上げてやりたかったからな。マーゴを責めてやるなよ」
パパはそう言ってわたしの横に来ると、分厚い手袋でわしゃわしゃと髪の毛を掻き回した。わたしは言葉もなかった。
「……ん? どうした黙り込んで。怒ってるのか?」
怒ってなかった。
でも、喜んでいるわけでもなかった。
パパとママはまだ生きていた。
でも、それは『まだ』っていうだけで、つまり――。
「あなた、すみませんけど早く入ってくださる? 寒くて寒くて……」
「おお、すまんすまん」
開いたドアの前で縮こまるママに、パパは顔を向けた。
その額に、赤い点が浮かんだ。
何も考えることは無かった。
「だめぇ――――――――――――――――!」
体当たり。
パパがよろめく。その一瞬後に、広間の階段脇にある花瓶が破裂した。
勢い余って転んだわたしは、顔を上げて玄関の外を見た。
暗闇の中に赤い光が見える。一筋の線のようだったそれは、すぐに視界全部を覆う眩しい海となり、次の瞬間には赤い蛍のようになって闇に浮かんでいた。
今度はわたしが助けられる番だった。強く腕を引かれ、わたしはパパの胸に抱きすくめられた。途端、階段の手すりが撃ち抜かれる。
(え)
パパの肩越しにそれを見て、わたしは血の気が引いた。
(わた、し……?)
思い出す、ゴーストの噂。
ゴーストは決して標的を仕損じない。パパを撃ち間違えたわけじゃない。
そして――ゴーストは決して裏切り者を許さない。
光の線が、再びわたしを捉えた。
体が動かない。声も出ない。
――やだ。
そう動こうとした口が、赤い衣装の胸に塞がれる。ものすごい勢いで、わたしはパパに抱き上げられていた。
「バーバラ! マーゴ! 奥に!」
切羽詰った声でそう叫び、パパが広間の奥に足を踏み出す。
と、その足元一センチ前の絨毯が弾けるようにえぐれた。あざ笑うようなゴーストの銃撃。
「旦那様! こっちです!」
玄関の横に伸びる廊下からマーゴが大声を出し、パパはそっちに走った。ママも後ろに続く。
マーゴも、それに冷静に動いてたように見えたパパも、実はとんでもなく混乱してたのだと思う。
完全に間違った判断だった。
走るパパ達の右側、庭に面した窓の一つが割れた。前を行くマーゴの鼻先を銃弾が通り、左側の壁がチュイン、と鋭く鳴いた。
続けて銃弾の嵐が襲ってくる。ガラス窓が滅茶苦茶に割られ、飛び散る破片と着弾の音とママたちの悲鳴が廊下中に鳴り響いた。パパももうかがみ込むだけで、動けない。動けばやられる。引き返すことも、窓際に身を隠すことも、できはしない。
地獄のような光景。いつでも殺せるのに、そうしようとはしない。ゴーストは遊んでいた。手の中の虫を弄ぶように、わたし達をいびり殺そうとしていた。
涙が出た。
わたしのせいだ。何もかも、わたしが悪いんだ。
パパとママは、こんなにもわたしを愛してくれてるのに。仕事の間を縫って、わたしのためにできることを考えてくれたのに。
わたしが勝手に思い込んで、勝手に二人を憎んで、殺し屋まで雇って。みんなを巻き込んで――。
赤い蛍が見えた。
冷気を貫いて、レーザーサイトがわたしの額を捉える。もう終わりなんだ、そう思いながら、それでも死にたくなくて、わたしは涙と鼻水を垂れ流した。
「リリィ!」
不意に、視界が赤い衣装に覆われた。パパがわたしに覆いかぶさってきたのだ。
横からはママも抱きついてくる。二人とも、身を挺してわたしをゴーストの弾から守る気だ。
パパの腕が、痛いくらいに体を締め付けてくる。ママの声が、嗚咽混じりにわたしを呼ぶ。すぐそばではマーゴが床に伏せ、震えながら神様に祈っている。
腕の隙間から見える赤い光線は、真っ直ぐにパパの背中を狙っていた。
駄目だ。それだけは駄目だ。
わたしは精一杯の力を込めて、パパの腕とママの肩の間から顔を出した。
「ごめんなさいみんなを殺さないで!」
そう叫んだ瞬間、待っていたように光線が私の額にロックされた。
死を告げる矢が風を切って真正面から向かってくる。
そして額に冷たい感触を感じるのと同時に、わたしは世界が終わる音を聞いた。
ぺこん。
「……え?」
世界が終わる音は、思ったより気が抜けていた。
その奇妙さにそっとまぶたを開く。と、そこには六枚羽の天使さまも筋肉ムキムキの悪魔もいなくて、ただ割れた窓ガラスから十二月の風が静かに吹き入ってきているだけだった。
「リ、リリィ!」
ママがわたしの額を見て、ニワトリみたいな声を上げた。両手をばたばたさせながら「矢が、矢が」と何度も繰り返している。
額に手を当てて仰天した。本当に矢が刺さっていた。
あわてて握り締めると、矢はきゅぽん、と音を立ててあっさりと外れた。先端が吸盤になった、おもちゃのダーツだった。
お尻が割れて、バネ仕掛けのトナカイのマスコットがびよん、と飛び出してくる。わたしはもう、何にびっくりしていいか分からなくなって、呆然とそのダーツを見つめるばかりだった。
パパとママがわたしを思い切り抱きしめる。マーゴが顔を覆ってへたりこんでいる。みんながわたしの名前を呼びながら泣いている。
窓の外では、銃撃も銃声も止んでいた。
夜風に乗って、ジングルベルが聞こえてきた。
お灸をすえられた、のだと思う。
あれから色々大変だった。市警の人がいっぱい来て、屋敷のまわりにロープを張って、現場検証というのをやっていた。
わたしは自分の部屋にいるように言われていたから、詳しいことは分からなかったけど、刑事さんがパパに話をしているのをこっそり盗み聞きしたら、「脅迫があったわけでもないし、悪質な悪戯なんじゃないか」ということを言っていた。パパは全然納得していなかったみたいだけど。もちろん、二人の話には、ゴーストのゴの字も出てこなかった。
エマからは電話が来た。
テレビで事件を知ったとか怪我は無かったかとか、ものすごい勢いで聞かれたけれど、わたしが案外元気な声で返すので、安心したみたいだった。
その後は、学校のこととか、年末の過ごし方とか、他の友達のこととか結構たわいのない話ばかりしていた。
電話を切る間際、わたしは深呼吸して、
「ありがとう」
と言った。エマのあぜんとした沈黙が、なんだかくすぐったかった。
パパとママは、年末のお仕事もボストン響のニューイヤーコンサートも全部キャンセルして、ずっと家にいた。マーゴも、オクラホマの実家に帰るのを中止して、わたしの身の回りの世話をしてくれた。みんながわたしを見る目は、まるで失くしかけた宝石を取り戻したみたいで、わたしは嬉しいのと、うしろめたいのの混ぜこぜになった気持ちでいっぱいだった。これからは、今までみたいなワガママはなるべく言わないようにしよう、と思っている。
最後にもうひとつ。
ゴーストに渡した例の前金は、全部わたしのところに戻ってきた。クリスマスの数日後、わたしがマサチューセッツ駅に行くと、鍵はトイレの天井に置かれたままでロッカーの中身にも手はつけられていなかった。
ただ、違ったのは、ロッカーの中に一枚の手紙が入っていたことだ。きっとゴーストが、扉の隙間から差し込んで入れたのだろう。
不思議な幽霊が残した、最後のメッセージ。わたしはそれを、誰にも話さず、いつまでも持っておこうと思う。
手紙には、あの愛想の無い書き方でたった一行、こう書いてあった。
Merry Christmas, Dear Lily.
僕は外国の街並みってのにすごく憧れてるんですが、言葉が話せないというヘタレな理由でほとんど海外に行ったことがありません。
で、その代わりに外国の街を舞台にした小説を書いて行った気になるっていう……そんな理由で書いたってもいいじゃないでしょうか、ね(←?)
これの舞台はボストンですが、何年も前に書いたやつなので、なんでボストンだったのかよく覚えてません。レッドソックスが優勝したころなので、それの影響かな。
あと、読み返すと主人公のワガママぶりにイラッとしましたが、ロリだし許されると思うよ(・3・)