2人
とてもてとても、狭い部屋。
窓もなく、薄暗い部屋。
あるのはテーブルと二つの椅子。
そして、外に出るための1つの扉だけ。
男と女が、椅子に座り、テーブルを挟んで話をしていた。
「和馬…私を殺して」
女が、男を真剣な顔で見つめていた。
和馬と呼ばれた男は、優しい顔をしていた。
心の繊細さが伝わってくる。
和馬は、強く首を振ると口を開いた。
「美幸…そんな事は、僕には出来ない」
和馬は、今にも泣き出しそうな顔をしている。
震える声で、話を続けた。
「物心が付いた時から君と一緒だった。これからも、きっと上手くやっていける」
美幸は、美しい女性。
和馬は、美幸のいない世界など考えられなかった。
苦しい時、悲しい時、美幸は悲しみをすべて受け止めてくれた。
美幸がいなかったら、苦痛だらけの、この世界ではきっと生きていけなかっただろう。
「美幸…」
和馬は美幸の顔を見つめた。
美幸は優しく微笑んだ。
「和馬、私は、この世界に居てはいけないの。
あなたを、苦しめる存在なの」
「そんなことは…」
和馬が何か言おうとすると、美幸は椅子から立ち上がった。
部屋の中を、見渡すとゆっくりと歩き出した。
美幸の目からは、涙が流れていた。
和馬の後ろに回ると、腕を首に絡ませ優しく抱きしめた。
「私も、悲しいの…和馬と別れるのは…」
耳元で囁く声。
何度も、励まし助けてくれた優しい声。
和馬の目からも、涙が溢れ出していた。
「お願い…」
美幸の声の中には、強い意志と決意が感じられた。
和馬は美幸の、気持ちがわかった。
立場が逆なら、きっと自分も同じ事をしただろう。
「…わかった」
和馬は、ゆっくり立ち上がると、
美幸の方を向いた。
濡れた頬で、美幸は微笑んでいた。
和馬は、美幸を抱きしめた。
「たとえ、美幸が消えてしまっても、僕は君の事を忘れない。
ずっと忘れない」
和馬は強く強く美幸を抱きしめた。
まるで、1つになるかのように力いっぱい抱きしめた。
「ありがとう」
美幸はかすれた声で言った。
和馬は、美幸の体から離れると、
美幸の首に手を掛けた。
手のひらに、温もりが伝わってくる。
時間が止まったかのように、和馬は動けなくなった。
美幸が、和馬の手にそっと触れると、
静けさを破るように口を開く。
「お願い」
和馬は、震える両手に力を込めた。
美幸の体から力が抜けていく。
「さようなら」
美幸の体が崩れ落ちた。
和馬は座り込むと、美幸の体を抱き上げた。
和馬の目からは、涙が溢れていた。
美幸の頬に涙がこぼれ落ちた。
「美幸…美幸…」
和馬は何度も美幸の名前を呼んだ。
美幸の体が、ゆっくりと消えていった。
トントン。
扉を叩く音がした。
和馬が扉の方を向く。
「和馬さん。大丈夫ですか?」
扉の向こうから、聞き覚えのある男の声がした。
「起きてください」
和馬は、ゆっくり立ち上がると扉に向かって歩き出した。
ノブに手を掛けると、後ろを振り向いた。
美幸の体があった場所を見つめる。
「美幸」
和馬はノブを回すと扉を開けた。
外には光が満ち溢れていた。
和馬は、外に向かって歩き出した。
和馬は、ゆっくり目を開けた。
目の前には、男の顔があった。
「大丈夫ですか?意識ははっきりしてますか?」
扉の向こうから聞こえてきた声だった。
和馬は、ゆっくり辺りを見渡した。
清潔感が、あふれる部屋。
「大丈夫です…先生」
「美幸さんとは、話出来ましたか?」
「…はい」
和馬は、小さい頃、親から虐待を受けていた。
なぜ自分が、暴力を振るわれるのかが判らず、毎日泣いていた。
灰色の世界だった。
ある日、夢の中に少女が現れた。
「初めまして、和馬君」
「君は、誰なの?」
泣きじゃくりながら問いかけた。
少女は微笑んだ。
「私は、美幸」
優しい声。
少女は和馬の手を握った。
「私が、変わってあげる」
その日から、親から暴力を振るわれると、記憶を無くすようになった。
記憶を無くした夜は、美幸が現れる夢をみた。
美幸は、和馬にいつも優しくしてくれた。
美幸だけが、和馬の理解者だった。
美幸が、世界に色を付けてくれた。
大きくなるにつれて、親からの虐待も無くなった。
しかし、和馬の記憶がなくなる事がたびたびあった。
夢の中で、美幸に会える喜びと、
記憶を無くす不安で、和馬の心は不安定になっていった。
ある日、1週間近く記憶がなくなる日があった。
夢の中で、美幸は不安な顔をしていた。
和馬は、美幸に話しかけた。
「どうしたの?」
「私…怖い」
和馬は美幸が、何に対して怖がっているのか判った。
和馬がずっと不安に思っていた事。
記憶をなくしている間、美幸が和馬になる。
− 多重人格 −
いつも、心のどこかによぎる言葉。
「美幸…」
和馬が美幸に触れようとした時、意識が現実へと引き戻され
目が覚めた。
−「私…怖い」−
美幸の言葉が蘇る。
このままではいけないんだろう。
その日の昼、和馬は精神科医の元を訪ねた。
何度もの、診察の結果「解離性同一性障害」と診断される。
医師からは、子供の頃に受けた虐待が原因だろうと告げられた。
医師は、見て欲しい物があるとビデオを見せた。
画像がテレビに映る。
テーブルを挟み和馬と医師が向き合っていた。
和馬には覚えのない事だった。
ビデオの中で、医師は和馬に問いかけていた。
「あなたは、誰ですか?」
和馬が口を開いた。
「美幸です」
しっかりとした口調で答えている。
医師がさらに話しかける。
「あなたは、和馬さんではないのですか?」
「違います。私は美幸です。和馬は、今眠っています」
和馬はビデオを見てショックを受けた。
頭では分かっていたつもりだったが、実際自分の目で、
美幸としての自分を見ると、苦しくなる。
自分であって、自分じゃない。
自分の前に、現れる美しい姿をした美幸ではない。
和馬の姿をした、美幸。
画面の中の和馬と医師が話しを続けていた。
美幸はすべての事を判っていた。
今、自分のおかれている状況が…。
美幸が画面に向かって口を開く。
「和馬、私を殺して」
「美幸は、消えました」
和馬は、医師に対して弱々しく微笑んだ。
「そうですか」医師は、それ以上何も言わなかった。
美幸、美幸、美幸…
和馬は何度も、心の中で名前を繰り返した。
美幸が消えてから、1ヶ月。
和馬の記憶が無くなる事は、無くなった。
美幸に会うことはない。
和馬は、考える。
死ぬって何だ?魂ってなんだ?
肉体の死が、死ぬ事ならば肉体の無かった美幸は、死んだ事になるのだろうか?
魂は、あったのだろうか?
死んだら、魂は天国に旅立つというけれども、美幸の魂は、旅立ったのだろうか?
美幸は確かに存在した。
笑った顔、泣いた顔。
抱き合った感覚、首を絞めた感覚。
すべてが、蘇ってくる。
考えても、答えは出ない。
分かっている事は、美幸は和馬にとって必要な存在だったって事。
2人で1人だったって事。
美幸のいない世界では、生きる意味が無い。
− 色の無い世界 −
「今、行くよ」
和馬は、ビルから飛び降りた。
暗い話ですが、最後まで読んでくれてありがとうございます。
ご意見いただけると、うれしいです。