『雨の降らない国で、天気を売る少女』
第一章 雨を売る少女
奇跡、という言い方がいちばん高く売れる。
だから市場では、なるべくそう呼ばせておく。
今日の寝床代まで考えると、奇跡でも何でも売れる名前のほうが助かる。
あたし自身がそう信じてる顔をする必要はない。
朝から何も飲んでいない喉で、青布を巻き、真鍮の鈴を二つ鳴らして、値段を言えばいい。
それだけで、たいがいの人間は勝手にありがたがる。
安くはない。けれど死ぬよりはましだと、人は思う。
「一椀ぶんで銀貨二枚。荷車一台ぶんの畑なら五枚。先払い」
名前を聞かれるより先に、値段を言う。
それが癖になったのは、名前を覚えられるとろくなことにならないからだ。
神殿も役所も、都合のいい奇跡は欲しがるくせに、勝手に売る人間は嫌う。
昼の市場は、焼けた鍋の底みたいに熱かった。
布張りの天幕は風を通さず、香辛料も家畜も汗も、全部がぬるい匂いになって鼻につく。
でも、水の匂いだけがしない。
人は多いくせに、誰もが自分の生活だけを守って生きている顔をしている。
あたしは、そういう顔が嫌いじゃない。
ただ、今日のあたしも似たような顔をしてるんだろうとは思う。
「ほんとに降るのかい、娘」
商人の婆さんが、皺だらけの手で水袋を抱えたまま言った。
初めて見る客は胡散臭そうに見て、前に買った客は黙って金を出す。
「降らなかったら半分返すよ」
「半分も取るのかい」
「空だって、ただじゃない」
鼻で笑うと、周りの客もつられて笑った。
笑ってる間は、みんな少しだけ喉の渇きを忘れる。
あたしは天幕の切れ目から空を見た。
あの声を探すときだけ、喉は焼けるくせに耳の奥が冷える。
白く焼けた空の、そのずっと向こう。
見えもしない高さに、その声はいつもいる。
――局地湿度偏差、微小。
――西市場区、流路残余。
――再配分可能量、僅少。
機嫌の悪い死人みたいな声だ。
なのに、聞こえなくなったらそれはそれで死ぬ気がする。
最初に聞いた夜から、一度だって優しくなんかなかった。
喉に手をやる。熱い。いつだって熱い。
それでも耳の奥を澄ませば、空のどこかに残っている細い筋みたいなものがわかる。
風の継ぎ目、見捨てられた湿り気、王都へ運ばれるはずの、零れたぶん。
あたしは鈴を鳴らした。
「ほら、願いなよ。神様でも王様でも、好きなほうに」
あたしは両手を上げる。もちろん芝居だ。
半分は見世物、半分はあたし自身のための嘘。
客は芝居を欲しがるし、あたしも何かに祈るふりをしないと、”声”に触れられない。
目を閉じると、空の奥で何かがずれる。
鍵穴に合ってない鍵をむりやり捻るみたいに、ぎし、と嫌な感触が骨の中を走った。
天幕の上で、ぽつ、と音がした。
埃の匂いが一瞬だけ変わる
次に、もう一つ。
群衆が息をのむ。
三つ、四つ。
やがて、爪で乾いた板を叩くみたいな小さな雨が、あたしの屋台の周りだけに降った。
歓声が上がる。
鉢や皿や、差し出された手のひらが慌てて空を向く。
子どもが笑う。必死な顔で空を見上げる大人は、たいてい醜い。
でも、その醜さが生きるってことなんだろうとも思う。
見たことがある顔じゃない。あたし自身がしたことのある顔だ。
あたしは唇を舐めた。血の味が少しした。
「ほらね。奇跡だ」
言いながら、端のほうで倒れかけた小さな子を見つけた。痩せた母親が抱きとめてる。
買う金がない顔だった。
ああいう顔は見飽きてる。
そのくせ、見なかったことにするのが下手だ。
雨の筋を少しだけずらした。
誰にもわからない程度に。
母子の口もとに落ちるように。
子どもの唇が雨を追うように少し開いた。
母親がはっとしてこちらを見る。
あたしは目を逸らして、別の客に手を出した。
「次。払う人から先」
そのとき、群衆の端で、誰かがこっちを見ていた。
若い男だった。
旅装でも商人でもない。
役人だ、とすぐにわかった。水務局か、神殿付きか、そのへん。
どっちにしろ、ろくでもない側の人間だ。
男は騒ぎにまぎれず、ただ観察する目であたしを見ていた。
周りが空を見上げる中で、一人だけ”あたし”を見ていた。
あたしは笑って、鈴を鳴らした。
「見物料は高いよ、お役人さん」
男は答えなかった。
ただ、あたしが雨を止めるまで、その場を動かなかった。
雨が切れたあと、世界はさっきより乾いて見えた。
いつもそうだ。降らせたあとの空は、少しだけひどくなる。
あたしの中身まで持っていかれたみたいに、喉の奥が空になる。
でも、市場の石畳に残る暗い染みだけは、本物だった。
第二章 王国の顔をした男
市場を抜けて路地に入ったところで、その男に声をかけられた。
さっきまでの歓声が、路地に入った途端に嘘みたいに遠い。
「少し、お話を伺えますか」
伺う、という言葉のわりに、足を止める余地を残さない声だ。
丁寧な声で人を止めるやつは、たいてい命令することに慣れている。
「いや」
「拒否権の話ではありません」
「なら最初からそう言いなよ。感じ悪い」
歳は二十代半ばくらいで、陽に焼けてない顔をしてた。
愛想よく笑いもしなければ、偉そうでもない。
ただ、静かにあたしを見ていた。
「水務記録局、監査補のイリヤスです」
「へえ。立派」
「あなたが無許可で局地降雨を発生させた疑いがあります」
「疑い、ね」
雨を降らせた、じゃなくて”発生”させたと言う。
そういうところが、役所の人間っぽい。
あたしは壁にもたれて笑った。
喉がまだ痛い。
でも、笑ってないと、顔に疲れが出そうだった。
「雨が降っただけで捕まえるの? 王都って暇なんだ」
「自然降雨ではありませんでした」
「この国の役人は、空まで帳簿で数えるんだ」
「数えなければ、人が死にます」
その言い方が、あたしの古傷に触れた。
「……便利な言い方だよね、それ」
あたしは笑ったまま、指先の熱だけが引いた。
「事実です。水は管理しなければ奪い合いになる」
「管理」
「ええ」
「恵み、じゃなくて?」
「恵みも、配分がなければ飢えた群衆に潰されます」
「じゃあ聞くけど」
と、あたしは壁から背を離した。
「切るのは、誰が決めるの」
イリヤスは少しだけ眉を寄せた。
「何を、です」
「水。雨。井戸。配給。順番。そういうの全部」
一拍、沈黙が落ちた。
路地の向こうで、荷車の軋む音がした。
「優先順位は必要です」
「必要なんだ」
「全員を同時には救えません」
「救う、ね」
笑うつもりもないのに、笑いが漏れた。
嫌な笑い方だなと、自分でもわかる。
「王様の空なんでしょ。なら、あたしがおこぼれを拾って回したって同じなんじゃない?」
「同じではない」
「どう違うの」
「王国は秩序のために管理している。あなたは私益のために掠め取っている」
「へえ」
胸のどこかが、かすかに痛んだ。
図星ってやつだ。
だから腹が立つ。
「人聞き悪いな。ただの商売だよ」
あたしは肩をすくめた。
「雨を売らなきゃ死ぬんだ。そっちは違うんだろうけど」
「……私は、あなたを罰したいわけでは」
「じゃあ何。哀れんでる?」
「いいえ」
それだけは、迷いなく言った。
そこだけは少し気に入らない。
「記録にない降雨が続けば、配分の不整合が生じます」
「人間のほうが先に不整合だよ」
吐き捨てるように言って、あたしは路地を抜けた。
追ってくる足音はなかった。
でも、その夜、空の声はいつもよりはっきりしていた。
宿代わりの壊れた倉庫の屋根に寝転んで、星も見えない白い夜空を睨んでいたときだ。
――王都儀礼、第七周期。
――湿度集中、中央区。
――外縁三区、供給停止。
――再配分先、王城周縁。
胸の奥が冷えた。
あたしは跳ね起きた。
外縁三区。
城壁外の南端。
井戸が浅くて、配給札がなきゃ三日ももたない連中の住む場所だ。
「またかよ……」
喉に触れる。指が震えていた。
あの夜もこの空は静かで、やけに綺麗だった。
母さんはもう起き上がれなくて、弟は空の皿を抱えたまま眠っていた。
父さんは配給所へ行ったきり、帰ってこなかった。
あたしは立ち上がった。
考えるより先に、足が動いていた。
その途中で、あの役人の顔が浮かんだ。
この国の制度を信じてる目。
帳簿の外の事実をまだ知らない目。
「……知らないなら、見せるしかないか」
誰に言う訳でもなく、そう呟いていた。
第三章 次に切られる場所
翌朝、記録局の出先は思ったより簡単に見つかった。
役所の建物ってのは、どうしてどこも水の匂いがしないんだろう。
イリヤスは机に向かっていた。あたしを見ると、驚くより先に立ち上がった。
「あなたが来るとは思いませんでした」
「嬉しい?」
「まったく」
「気が合うね」
あたしは机に両手をついた。
「南外縁三区が切られる」
「何の話です」
「今夜から。王都儀礼のために水と湿り気が持ってかれる」
「そんな記録はありません」
「あるよ。あんたの紙にはなくても、空のほうには」
イリヤスの目が少しだけ細くなった。
馬鹿にする顔じゃない。測る顔だ。
「根拠は」
「声」
「……それでは記録に出来ません」
「だろうね」
あたしは鼻で笑った。
それから、机の端に置いてあった配分帳を指で叩いた。
「でも、こっちにも変な数字くらいあるでしょ。王都の儀式が近いんだから」
イリヤスは黙って帳簿を開いた。
頁を繰る指が速い。
こいつは真っ直ぐだ。
こういう人間は嫌いじゃない。
真面目な振りをして、人を踏みつけているやつが嫌いなだけだ。
しばらくして、彼の手が止まった。
「……中央区の湿度備蓄が、儀礼規定より多い」
「で?」
「南外縁の輸送予定が、昨夜の分だけ抜けています」
「ほらね」
「手違いの可能性も」
「便利だね、その言葉」
彼は顔を上げた。
昨日より少しだけ、低いところで怒っている顔だった。
「確認します」
「現場で?」
「まず記録を……」
「そうしてる間に、みんな干からびるよ」
あたしは踵を返した。
だが一歩目で、背後から声が飛んだ。
「待ってください。私も行きます」
南外縁三区は、王都から半日も離れていないのに、別の国みたいな顔をしていた。
井戸の縁にはひびが入り、並んだ壺はどれも底が見えていた。
列に並ぶ人間の目には怒る力も残っていない。
子どもは泣く元気がないと静かになる。
喉の渇きを、一度でも知ってしまった人間は、たぶん一生忘れない。
「いつもこうなのか」
イリヤスが言った。
本当に知らなかった顔で。
「いつもだよ」
あたしは乾いた壺の列を見たまま答えた。
「祝祭の前、巡礼の前、王族の婚礼の前、神殿の大祈祷の前。
どっかが必ず切られる。目立たないとこから順番に」
「しかし、救済水の規定は……」
「紙の上だけだよ」
老婆が空の水袋を抱えて座っていた。
その隣で若い女が赤ん坊を揺らしている。
途方に暮れた顔のまま、腕だけが動いていた。
イリヤスは、呆然と立ち尽くしていた。
「管理って、こういうこと?」
あたしはわざと静かに聞いた。
「恵みって、こういう顔で待つこと?」
彼はすぐには答えなかった。
やっと出てきた声は、昨日より慎重だった。
「……記録と現場が違う」
「違うんじゃない。同じなんだよ」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
王都儀礼の準備を告げる鐘だ。
ここには水が一滴も届かないのに。
イリヤスが拳を握るのを、あたしは横目で見た。
「地下流路を見せてください」
彼が言った。
「この地区の配分がどこで切られているか、現場を確認したい」
「危ないよ」
「儀礼のためでも、こんなことがあっていいはずがない」
あたしは少しだけ笑った。
「あたしはサヤ。いいよ、連れて行ってあげる。でも落ちても知らないから」
第四章 廃水路の底
南外縁の地下は、乾いた腐臭を溜めこんでいた。
乾いた石の匂い。
古い鉄の錆。
足もとには昔、水が流れていた跡だけが黒く残っている。
灯りを掲げるたび、壁に刻まれた奇妙な印が浮かんでは消えた。
祈りの文字に見える。
でも近づくと、ただの記号だ。
人間に見せるためじゃなく、機械どうしが話すための言葉。
「旧文明の……設備か」
イリヤスの声が、狭い通路の奥で低く響いた。
「聖なる水路、って教わらなかった?」
「教わりました」
「嘘だね」
あたしは先へ進んだ。
このへんの空気は嫌いじゃない。
地上よりずっと正直だ。
乾いて死んだものは、そのまま転がってる。
通路のいちばん奥に、崩れかけた扉があった。
子どものころ、偶然ここに来た。
いや、飢えと渇きから逃げ込んだというほうが近い。
父さんは配給所へ行ったきり戻らなくて、母さんと弟はもう動けなかった。
あたしだけが、どうしても死ねなかった夜だ。
そのとき、あたしはここで声を聞いた。
あたしが扉に触れた瞬間、耳の奥で乾いた音が弾けた。
――仮認証個体、再接続。
――旧系譜信号、微弱一致。
――区域三一、停止理由:上位儀礼優先。
――民生供給打切。
――苦情処理:完了。
息が止まった。
イリヤスが何か言った気がしたけど、遠かった。
視界の奥で、古びた板みたいな壁面が薄く青く光る。読めないはずの文字が、読めてしまう。
停止理由。
上位儀礼優先。
民生供給打切。
打切。
それだけだった。
母さんと弟が、死んだ夜も、その向こうでは、たったそれだけで済まされていた。
「……ああ、そう」
笑ったつもりだった。
声にならなかった。
喉の奥が焼ける。
涙じゃない。
涙の出る場所は、ずっと前に干上がってる。
「サヤ……」
イリヤスが近づく気配がした。
あたしは手で制した。
「来ないで」
強く言ったつもりなのに、少しかすれた。
壁の光に、古い記録が断片みたいに浮かんで消える。
王都の式典。王家の園庭。神殿の祭具洗浄。
その脇に、供給停止、延期、外縁優先度低、って文字が並んでる。
「天災じゃなかった」
自分に言い聞かせるみたいに、あたしは呟いた。
「最初からずっと、人が決めてたんだ」
イリヤスはしばらく何も言わなかった。
その沈黙だけは、少しありがたかった。
やがて彼が、ごく低い声で言った。
「……私は、知りませんでした」
「だろうね」
「でも、知らなかったでは済まない」
「済むよ。上にいるやつほど、そうやって済ませてきた」
あたしは壁から手を離した。
指先が震えていた。
「でも、あんたは今見た」
振り向いて言う。
「もう、知らない側には戻れない」
イリヤスの顔色は悪かった。
それでも目は逸らさなかった。
「王都儀礼は今夜です」
「そう」
「中央制御塔の分岐を開けば、集中配分を崩せるかもしれない」
「かもしれない、ね」
「サヤなら……繋げられるかもしれない」
魔法使いみたいに言うな、と思った。
あたしは特別なんかじゃない。
たまたま死にそびれて、空の腐った声が聞こえるだけだ。
「祝福じゃないよ、こんなの」
「ええ」
「生き残った罰みたいなもんだ」
「……それでも、使えますか」
その問いは、優しくなかった。
だからよかった。
優しい顔で頼まれたら、たぶん殴ってた。
あたしは喉に触れた。
熱い。あの夜と同じだ。
「使うよ」
壁の青い光を睨んだまま言う。
「でも勘違いしないで。
みんなを救いたいんじゃない。王様の庭に落ちるはずの雨を見ると、吐き気がするだけ」
イリヤスは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「それで十分です」
第五章 王の雨
王都儀礼の夜、城の白壁は月より明るかった。
塔の周りには神官と衛兵、それから役人たち。
水を司るって顔をして歩く人間は、みんな靴が綺麗だ。
泥にも飢えにも触れずに、この世界を動かしてる顔をしている。
中央制御塔の基部に入る手前で、あたしたちは止められた。
先頭にいたのは、水務総監のナディームだった。
年嵩の男で、目尻にだけ柔らかい皺がある。
こういう顔の男は、自分を善人だと思ったまま人を簡単に切れる。
こういう顔が、いちばん嫌いだ。
父さんを連れて行った連中を思い出す。
「監査補イリヤス。持ち場を越えて何をしている」
「総監、儀礼用配分の差し替えには規定違反があります」
「儀礼の配分は私の管轄だ」
静かな声だった。
怒鳴らない人間の残酷さを、あたしはよく知ってる。
ナディームの視線があたしに移る。
「その娘か。記録外の雨を売っているのは」
「だとしたら、何だよ」
あたしはナディームを睨んだ。
「サヤ、言い方を」
と、イリヤスが小声で言った。
「水は誰かのものじゃないんだ」
「ええ、確かに……そうなんですが」
ナディームは眉一つ動かさなかった。
「君は空を盗んでいる。王国は国を維持している。その違いは大きい」
「維持のために切るんだ」
「切らなければ、もっと多くが死ぬ」
その理屈は知ってる。
知ってて、ずっと嫌いだった。
「全員を救えないのは事実だ」
ナディームは続けた。
「だからこそ優先順位がいる。王都が機能を失えば、流通も治安も配給も崩れる。
結果として地方はさらに死ぬ。中央の安定は全体の命だ」
「都合がいい理屈だね」
「それが現実だ」
イリヤスが一歩前に出た。
「しかし、今回の集中配分は王都儀礼の演出に過ぎません」
「象徴は秩序だ、イリヤス。人は見える形の安定を必要とする」
「そのために南外縁を切るのですか」
「一夜の調整だ。致命的ではない」
致命的じゃない?
その言葉で、何人死んできたんだ。
あたしは笑うのをやめた。
「ねえ、総監」
自分でもびっくりするほど静かな声が出た。
「死ぬのがあんたの母親でも、同じこと言う?」
「個人的感情で制度は動かせない」
「だろうね」
喉に熱が集まる。
壁の向こう、塔の奥。あの声が呼んでいる。
――儀礼配分、固定。
――上位権限待機。
――再接続個体、近傍。
「でもさ」
あたしは一歩、前に出た。
「こんな制度のせいで、死んでいい人間なんていない」
ナディームが衛兵に目配せした。
動く前に、イリヤスが割って入る。
「彼女に触れるな」
「命令系統を忘れたか、イリヤス」
「忘れたわけではありません。私は見たのです」
その声で、ほんの少し空気が変わった。
制度の側の人間が、制度の言葉だけでは立てなくなる瞬間の匂いがする。
あたしはその隙に塔の基部へ手を伸ばした。
冷たい金属。石に偽装された古い端末。
全身を、嫌な光が貫いた。
視界の中で、王都の配分線が網みたいに広がる。
中央へ、中央へ、王の庭へ、神殿へ、白い石畳へ。
その一方で、外縁は細く絞られて、かすかな湿り気まで奪われていく。
あたしは歯を食いしばった。
簡単だ。王都の線を切ればいい。
でも、それだけじゃ同じだと思った。
誰かが独り占めするだけの形は、そのまま残る。
あたしだって雨を売ってきた。
空の零れを拾って、値段をつけて。
生きるためだった。
そう言えば少し楽になる。
でも、楽になったぶんだけ、誰かは相変わらず空の下で口を開けてた。
「サヤ!」
イリヤスの声が遠くで聞こえる。
熱で頭が割れそうだった。
「……うるさい」
笑った。
血の味がした。
王都へ集められた線を、切る。
切って、閉じて、終わり。
その先であたしの手が止まった。
違う。
それじゃまた、誰かが配る側に立つだけだ。
なら。
あたしは残っている分岐を、開けるだけ全部こじ開けた。
王都の庭へ落ちるはずだった雨も、神殿の祭壇を濡らすはずだった湿り気も、外縁へ、農地へ、市場へ、城壁の外へ、ひび割れた井戸の上へ。
――警告。
――統御喪失。
――広域散布へ移行。
――権限逸脱。
「そうだよ」
焼ける喉で、あたしは呟いた。
「最初から、誰の権限でもないだろ」
塔が鳴いた。
古い獣みたいな音だった。
次の瞬間、王都の夜空が裂けた。
第六章 誰のものでもない雨
最初は、誰も信じなかった。
儀礼のために中央だけを濡らすはずだった雲が、風にほどけるみたいに広がっていく。
塔の上に溜め込まれていた白い湿り気が、城壁を越え、市場へ、外縁へ、遠い畑へ散っていく。
一滴。
また一滴。
白壁に落ちる。
衛兵の肩に落ちる。
あたしの頬にも落ちる。
それから、降った。
王の庭だけじゃない。
誰かの金貨の上だけでもない。
配給札を持つ手にも、持たない手にも、同じように。
どよめきが、悲鳴みたいに広がった。
笑ってるのか泣いてるのかわからない声が、あちこちで上がる。
人は本当に驚くと、祈る前に口を開けるんだと、そのとき知った。
ナディームが何か命じていた。
でも、もう遅い。
空は一度ほどけたら、塔だけではすぐに掴めない。
あたしはその場に膝をついた。
喉が焼けすぎて、もう痛いのかどうかもわからない。
「サヤ」
イリヤスがしゃがみ込む。
顔が近い。雨で濡れて、はじめて普通の若い男みたいに見えた。
「生きていますか」
「嫌な聞き方」
「そうですね」
その返しに、少しだけ笑った。
笑うと胸が軋む。
「……声が」
あたしは空を見上げた。
さっきまで耳の奥に張りついていた機械じみた囁きが、消えている。
「聞こえない」
耳に入るのは、ただ、たくさんの雨が降る音だけだった。
「後悔しますか」
イリヤスが聞いた。
あたしは少し考えた。
王国はたぶん終わらない。
明日になれば、また別の形で水を囲うやつが出る。
人間はそういうもんだ。今日を生きるだけで精一杯なんだから。
この厳しい現実に綺麗事など言ってられない。
市場へ戻れば、あたしはもう前みたいには雨を売れないかもしれない。
売れないなら、食えない。
食えないなら、また別のやり方で生きるしかない。
「後悔……するかもね」
正直に言った。
「でも、誰かのものみたいに落ちる雨を見るよりはましだよ」
イリヤスは濡れた睫毛を伏せた。
「私は、戻れません」
「どこに」
「前の自分にです」
あまりに真面目な顔をするから、あたしは鼻で笑った。
「勝手に戻れば」
「戻れないと言っています」
「相当、面倒臭いね」
でも、嫌いじゃない。
城壁の外へ目を向けると、人影が空を仰いでいた。
壺を差し出す者もいれば両手を広げる者。
突然の雨に、ただ立ち尽くす者もいた。
そのどれもが美しくはなかった。
あたしは立ち上がろうとして、少しよろけた。
イリヤスが手を出す。
あたしは一瞬だけ迷って、その手を借りた。
「勘違いしないで」
立ち上がりながら言う。
「助けたいわけじゃない」
「ええ」
「目の前で人に死なれると、あたしの気分が悪いだけ」
「それは以前にも聞きました」
雨が強くなる。
乾いた石畳が、ようやく暗く染まっていく。
あたしは顔を上げた。
誰のものでもない雨。
最初からそうあるべきだったのかもしれないし、そんな綺麗事で済む話じゃないのかもしれない。
それでも今は、見上げる人間を選ばずに降っている。
頬を伝う水が、雨なのか、昔の夜から忘れてきた何かなのか、よくわからなかった。
「サヤ」
イリヤスが呼ぶ。
「なに」
「これから、どうしますか」
「知らない」
少し考えて、肩をすくめる。
「でもまあ……」
市場のほうを見る。
南外縁のほうも。
塔の白壁も。
同じ雨の下にある。
「あんたらがまた空を奪うなら、邪魔をする」
「職務上、それは非常に困ります」
「知ってるよ」
彼がほんのわずかに笑った。
最初に会ったときにはなかった顔だ。
あたしはもう一度、空を見上げた。
声は聞こえない。
ただ、雨だけが降っている。
母さんも、父さんも、弟も、もう帰ってこない。
失ったものは、雨ひとつで埋まるような浅い穴じゃない。
理不尽は消えないし、世界はたぶん明日も平気な顔で誰かを切り捨てる。
それでもと思う。
誰かに切られる順番を待つだけの夜より、
自分の手で空に傷をつけた夜のほうが、少しだけましだ。
あたしは唇を舐めた。
もう血の味はしなかった。
「……いい雨だね」
誰に聞かせるでもなく言うと、隣でイリヤスが小さく頷いた。
でも、あたしは笑わなかった。
ただ、降り続く雨の中に立っていた。
空は、王のものでも、あたしのものでもない。
たぶん最初から、誰のものでもなかった。




