7話:未来に橋を
◇ ◇ ◇
朝靄が立ちこめていた。
静謐――その一語がすべてを覆う時間。
私――レイモンド・エルヴァントは書斎の窓辺に立ち、まだ冷たい気配を宿した空気の中で、ひとり静かに外を見下ろしていた。
手を窓枠に添えたまま、ただ、目を細める。
庭の向こう。
一本の木剣を、必死に振り続ける小さな影があった。
……ノクス。
その姿を目にするたび、胸の奥に、何か鋭いものが突き刺さる。
拙い。剣筋はまだ幼く、鍛錬とは呼べぬ代物。
だが、そこには確かに意志があった。
何かを掴もうと、手探りで進もうとする者だけが持つ、鈍く、だが確かな光。
「……また、こんなに早く……」
言葉は呟きにも似ていた。
皮肉のつもりだった。
だが、自嘲と安堵が入り混じったその声は、まるで他人のもののようだった。
ノクス・エルヴァント。
我が息子。エルヴァント家の嫡男。
本来なら、剣を持ち、騎士として生きることを約束された、希望の名。
……だが。
その未来は、ある日に霧散した。
星盲症――この王国でも極めて稀な病。
あの日から、あの子の瞳は光を失い、私たちの世界から切り離された。
泣き叫ぶ声を、私は聞いた。
「何も見えない」と泣きじゃくる息子の姿を、私は見た。
あれほどの絶望を、私は他に知らない。
それからの二年の歳月が流れた。
閉ざされた扉の向こうで、息子は声を失い、足音を失った。
その沈黙の重さに、私は何度も打ちのめされた。
だが。
それでも、今。
あの子は、再び立ち上がったのだ。
自らの足で、何も見えぬ世界を、夢に向かって歩こうとしている。
剣を握り、振るっている。
笑われるだろう。
盲目の剣士など、戯れ言に過ぎないと。
それでも、振っている。
――それでも、前へ進もうとしている。
……なのに。
「……私は……どうすればいい……」
握った拳に、爪が食い込む。
痛みなど、どうでもいい。
私は王国騎士団長。
数多の戦場を渡り、生き延び、勝ち続けてきた男だ。
剣の理を誰よりも知る者。
だが――
“視えぬ者”に、私は何一つ教えることができない。
剣を振るとき、視線はどこに向けているのか。
敵の気配は、どう読むのか。
打ち込みの感覚は、どう身体に刻まれるのか。
私が教わってきたものすべてが、息子には通じない。
私は……剣を教えるという“父の夢”さえ、失っていたのだ。
その晩。
書斎から寝室へ戻った私は、消灯した部屋の中で、ただひとつ、声を漏らした。
「……リュシア、起きているか」
「ええ。あなたの足音は、いつだってわかるわ」
闇の中から返ってきたのは、かつて私が恋をし、そして共に歩むと誓った女性の声だった。
リュシア・エルヴァント。
貴族社会の花とも謳われたスフィア家の令嬢にして、私の妻。
「ノクスの剣を……私は導けない」
それは、騎士としての敗北宣言だった。
自らの不甲斐なさを、吐き捨てるように言った。
「見えぬ者に、何を教えればいい? 私は、あの子に……何一つ与えられない」
そのとき、
ふいにリュシアが身を起こし、私の背にそっと手を添えた。
温もり。柔らかさ。
だが、その声には――鋼のような芯があった。
「あなたは、ずっと見守っていたじゃない」
「……」
「何も言わずに。けれど、側にいた。それだけで、あの子は救われていた。……私はそう思ってる」
私は……言葉を失った。
それでも、胸の奥に残る苛立ちは、消えはしなかった。
見守るだけでは、届かないものもある。
それを私は、戦場で何度も目にしてきた。
「なら、手を差し伸べるのではなく、橋をかけてあげて」
「橋……?」
その言葉に振り返ると、
リュシアの瞳は、まっすぐに私を見ていた。
確かな意志と、希望の光を湛えて。
「この王国には、数多の剣士がいるわ。けれど、見えぬ者に剣を教えられる者は……ごく僅か」
「……そうか」
その瞬間、脳裏に閃いた。
貴族社会の伝手。古の戦士。遥か東方にいるという、異国の剣士たち。
探せば、きっといる。
この世界のどこかに、ノクスに剣を授けられる者が。
「……ありがとう、リュシア」
「お願い、レイモンド。あの子には、まだ“希望”が必要なの」
――希望。
その言葉が、胸に深く刺さる。
ならば私は――父として、剣士として。
できることをするまでだ。
翌朝、私は馬を駆り、王都へと向かった。
探し出すために。
視えぬ者のための剣を。
あの子の未来を、もう一度繋ぐ“橋”を。
朝靄の中を貫く、一本の道。
それは、父としての私の戦場だった。
だが、その道は、剣を振るうよりも、遥かに困難なものだった。
王都までの旅路は、騎士である私にとって平坦なものではある。
だが、心の中には、かつてない重さがあった。
――本当に、私にできるのか。
そう何度も自問した。
誰かを探すということは、誰かに縋るということだ。
私はこれまで、他者に頼るよりも、己の剣と信念で戦場を渡ってきた。
だが今は、あの子のために。
私自身の誇りを曲げてでも、希望の光を掴まねばならない。
道中、朝靄に沈む森の中で馬を進めながら、ふと思い出したのは、幼いノクスの手だった。
まだあの子の手が小さかったころ、私はその手を取って、木剣を握らせた。
『こうだ、ノクス。足を広く、腰を落として、目は前を――』
……前を、か。
その言葉が、胸を刺す。
あの子に、もう「前を見ろ」と言うことはできない。
だが――ならば、私は何を与えられる? 何を信じればいい?
答えは一つしかない。
“見えないなら、見えないままでも剣を振れる方法を探す”。
それが、あの子の“夢”を信じるということだ。
だから、私は進む。
その夜、野営の焚き火の前で、ふとリュシアの言葉を思い返した。
『あなたは、ずっと見守っていたじゃない』
……そうだ。私は見ていた。
光を失った息子が、絶望を乗り越え、再び前へと踏み出す姿を。
その勇気を、あの朝の庭で見た。
ならば、私もまた、立たねばならない。
父として、あの子の夢を応援するために。
王都の灯が、地平の彼方に小さく揺れ始める。
その光は、まるで“希望”そのもののようだった。
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