5話:盲いてなお、魂に灯を掲げて
本日最後の更新になります。
春が、静かに、けれど確かに過ぎていった。
空気は湿り気を帯び、風はどこか青く、生き物たちの声が一層色濃く響くようになった。
季節は夏へと移ろい、空は高く、地は眩しく、世界はあらゆる命の気配で満ちていく。
……でも、僕の目には何も映らない。
それでも、感じることができる。
季節の変化は、確かにこの身のまわりを包んでいる。
日差しの角度、風に含まれる香り、湿度の違い。
そうした小さな気配が、今の僕にとって、時間そのものだった。
――けれど、それだけでは足りなかった。
あの日、庭で聞いた剣の音。
ルナの小さな息遣い、踏み込みの音、打ち込む時の気迫。
それらが、僕の心の奥を静かに、でも確実に揺らし続けている。
それから何度も、自分に問いかけた。
もう一度、剣を握りたいのか?
本当に……あの場所に戻りたいと願っているのか?
それは、たとえ痛みを伴ってでも、手にしたい夢なのか?
答えは、出なかった。
だけど、答えを探したいという思いだけは、胸の奥に確かにあった。
一人で、声にも出せず、ただ静かに、ただ真剣に、自分と向き合い続けていた。
今夜もまた、夜が訪れる。
窓を開け放った部屋に、夜風が静かに流れ込んできた。
湿った空気が昼の熱をほんのりと残しながらも、どこか柔らかくて涼しい。
カーテンが風に揺れ、その布越しに、夜の音たちが忍び込んでくる。
虫の声。草が擦れる音。遠くのせせらぎ。
目には何も見えない。ただの闇しかない。
それでも風を感じていると、世界が静かに呼吸しているように思えた。
僕は窓辺の椅子に腰を下ろし、背を預ける。
そっと置かれた杖には触れずに。
何もしていないふりをして、けれど思考は止まらなかった。
胸の奥が、騒がしい。
あれから何度も、あの剣の音が頭の中を駆け巡った。
ルナの声。母上の笑み。父上の静かな咳払い。
あの夜のぬくもりが、何度も何度も、僕の中で反響していた。
もう一度……剣を振ってみようか。
その衝動は、日を追うごとに少しずつ、でも確実に大きくなっていた。
だけど、それと同じくらい、いやそれ以上に――恐れも膨らんでいった。
もし、また何もできなかったら。
昔のように身体が動かなかったら。
誰かに笑われたら。
期待を裏切ってしまったら。
そんな問いが、胸の内で渦を巻いていた。
僕は、そっと顔を上げて、窓の外に向けた。
視界は真っ暗で、星空など見えるはずもない。
けれど――どこかで、星は確かに瞬いている。
……幼い僕は【天斬りの剣聖】に憧れていた。
彼のように、天を斬るんだと。
五歳の頃の記憶が、ふいに胸を突いて蘇ってくる。
小さな僕は、母上に言った。
『……僕も、天を斬りたい』
あのときの僕は、心からそう願っていた。
子どもなりに、ただの夢想ではなく、魂の底から信じていた。
剣を振ることで、彼しか知らない空の彼方に届く――そう信じていた。
あの頃の僕には、何の根拠もなかった。
でも、疑いもなかった。
斬るという行為は、技術や力の問題ではなく、願いであり、祈りであり、夢だった。
天を目指す。
天を超える。
己の限界を打ち破る。
たった一振りで、この世界すべての強者に抗う。
そんな風に、本気で思っていた。
――今の僕は?
視力を失ってからの僕は絶望し、そのすべてを捨ててきた。
怖くて、傷ついて、夢を見ることすら罪だと思っていた。
もう無理だと、何度も自分に言い聞かせてきた。
でも、あの温もりが。
ルナの声が。
母上の包むような優しさが。
そして、天星の薔花の香りが……
心の奥に燻っていた火を、そっと、でも確かに灯そうとしていた。
本当に、もう一度……剣を握ってもいいのか?
この手は、まだ夢に届く場所にあるのか?
目は閉ざされたけれど、心はまだ前を向けるのか?
無数の問いが、夜風に乗って胸の奥を巡る。
その一つ一つが、僕の心にそっと針のように触れてくる。
でも――答えは、外にはない。
僕自身の中にしかない。
もう、誰かに委ねることも、尋ねることもできない。
これは、僕自身が選ばなければならない。
そう、かつて五歳の僕が、『いつか天を斬れる』と信じたように。
夜風が、そっと頬を撫でた。
まるで、空から誰かが差し伸べた手のように優しくて、そして確かに背を押してくれる。
まだ答えは出ない。
でも――僕は何度でも問いかける。
何度でも、自分に問い直す。
もう一度、剣を――握る覚悟が、自分にあるのかを。
その問いの答えが、今夜、出そうな気がしていた。
夜風が、僕の頬をそっと撫でていった。
それはただの風じゃなかった。
長いこと閉ざしていた扉の前に立ち、そっと手をかけてくれたような、優しい風だった。
胸の奥に沈殿していた澱みが、ふっと揺らいで、少しずつ溶けていくような気がした。
……まるで、自分自身を赦していく時間だった。
赦していなかったのは、誰でもない。
父でも、母でも、ルナでも、運命でも、神様でもなかった。
僕が赦せなかったのは――僕自身だ。
視力を失ったことを、ずっと世界のせいにしていた。
夢を絶たれたことを、ただの不運だと決めつけていた。
でも本当は、あのとき剣を捨てた瞬間に、僕は僕に言い聞かせていたんだ。
「お前は、もう価値がない」と。
「夢なんて、見たこと自体が罪だった」と。
何度も、何十度も、自分に杭を打ち込むようにして、そう言い聞かせてきた。
それは諦めなんかじゃない。
自己否定だった。
目が見えないから剣は振れない。
目が見えないから夢は叶わない。
だからもう何もできない。そうやって、自分の存在すら否定し続けてきた。
……でも。
今、胸の奥で微かに揺れているこの熱は、なんだろう。
音も光もないのに、確かに燃えている。
見えない世界の中で、ずっと消えていたと思っていた“希望”が、まだ僕の中に残っていた。
怖い。
正直に言えば、恐ろしい。
また失敗するかもしれない。
また何もできずに、誰かを失望させるかもしれない。
……僕自身を、もっと深く傷つけてしまうかもしれない。
けれど、それ以上に――もう一度、あの天を斬るという夢を目指したい。
その願いが、痛いくらいに胸を締めつけていた。
耳を澄ませば、虫たちの鳴き声が夜を彩っている。
風はやわらかく、世界は静かだった。
その静寂の中で、僕の中にある本音が、ようやく輪郭を持った。
――ああ、僕はもう一度、剣を振りたかったんだ。
強さがほしいんじゃない。誰かに勝ちたいわけでもない。
ただ、もう一度――あの感覚を、取り戻したい。
天を斬ると信じていた頃の僕。
物語に出てきた【天斬りの剣聖】のように、夢に向かって無我夢中で剣を振っていた、あの時間。
あの瞬間。あの手応え。あの鼓動。あの汗と呼吸のすべてを。
目が見えないなら――別の手段で世界を視ればいい。
足裏の感覚、空気の流れ、音、匂い、皮膚に触れるわずかな震え。
そのすべてが、僕にとっての眼になる。
その覚悟が、ようやく、心の底に根づいた気がした。
――そのときだった。
ふと、母の声が耳の奥で蘇った。
『ノクス。あなたは、もう一度夢を見てもいいのよ』
その声が、胸の奥を静かに、しかし強く揺らした。
あのときは、ただ黙っていた。何も返せなかった。
けれど今の僕なら、答えられなかった理由がわかる。
「そうか……夢を諦める方が、何よりも怖かったんだ」
その瞬間、カーテンが風に大きく揺れた。
夜風が一気に部屋へと吹き込み、僕の両目を覆っていた眼帯が、ふわりと外れて床に落ちた。
それは、何かの儀式のようだった。
長く続いた闇の時間が、ひとつの節目を迎えたかのように。
終わりの音であり、そして――始まりの合図。
露わになった紫の瞳は、光を宿さない。
視界には何も映らない。
けれど、その奥には、絶望を超えてなお、微かに燃え続けていた灯が――確かにあった。
それは、目では見えない光だった。
でも魂には、はっきりと感じられる熱だった。
僕は、ゆっくりと杖に手を伸ばした。
木の質感、馴染んだ手触り。
何度も握って、すり減ったこの杖の感触は、過去と今を繋ぐ唯一の証だった。
そして、口を開いた。
誰にでもなく、自分自身に向かって。
「たとえ目が見えなくとも、剣は振れる。夢は――捨てない」
それは、誓いだった。
誰のためでもない。
この世界に対してでもない。
それは、僕が僕自身に与える、初めての赦しであり、夢を諦めないための決意だった。
最後までお読みいただいてありがとうございます!
これにて第一部完結です。
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