3話:夢を見てもいいのなら
妹の足音が遠ざかって、部屋は再び静寂に包まれた。
けれど、さっきまでの静けさとは――どこか、違っていた。
僕の心臓の音が、妙にうるさく感じる。
何もないはずの視界に、微かな揺らぎがあるような錯覚すらあった。
……いや、気のせいだ。何も変わってなどいない。
暗闇は相変わらず深く、冷たい。
世界は閉ざされ、目に映るものは何一つない。
だけど……。
「……ルナ……」
僕は呟いた。
ほとんど口の中で擦れるような声だった。
あの子の声が、耳に残っていた。
小さくて、幼いのに、どこまでもまっすぐで、強かった。
僕のために剣を握って、僕のために努力して。
「一緒に剣を振りたい」だなんて、そんなふうに言ってくれるなんて。
馬鹿な妹だ。
あの子は、まだ何もわかっていないんだ。
もう僕は、剣士じゃない。ただの、目が見えなくなった人間だ。
夢も、気力も、全部あの日に消えた。
――それなのに、どうしてだろう。
胸の奥が、少しだけ……ほんの少しだけ、温かくなっていた。
それでも、僕はまだ、剣を握ることができなかった。
身体が動かないんじゃない。動かしたくなかった。
もし、また夢を見て、それが叶わなかったら――そのときこそ、本当に終わってしまう気がした。
だから、剣を再び握ることを躊躇われた。
ただ、それからの日々は、少しずつ、少しずつ……変わっていった。
母上は相変わらず毎日、僕の部屋を訪れた。
以前のように無理に外に連れ出そうとはせず、ただ隣に座り、いろんな話をしてくれた。
庭の花が咲いたこと。
ルナが剣ばかりではなく、魔法の初歩を覚えたこと。
昔の思い出――僕が初めて木剣を握った日の話。
僕は返事をしなかった。
でも、聞いていなかったわけじゃない。
言葉の一つひとつが、どこか遠い場所から届くように、静かに心に沁みていった。
妹のルナも、時々やってきた。
部屋の中ではしゃいだりはしない。
ただ、剣の練習のことを話したり、「今日の魔法はうまくいかなかった」と不機嫌そうに言ったり、嬉しそうに「でも、お母様が褒めてくれました!」と元気に笑ったり。
目が見えなくてもわかる。
あの子は、いつも笑っていた。
でもその笑顔の裏に、時々ふっと忍び込む不安――それも、なぜだか伝わってくる気がした。
……僕は、ルナを裏切っているのかもしれない。
あれほど強く、僕のために頑張ると言ってくれたのに、今の僕は何も返せていない。
でも……それでも。
ほんの少しずつ。
本当に、微かに――僕の中の闇が、薄らいでいくような感覚があった。
暗闇の中に、一筋の糸のようなものが垂れてきたような、そんな感覚。
掴めるかどうかもわからない。
登れる保証なんて、どこにもない。
それでも、そこに“何か”があると気づくだけで、ほんの少しだけ、息を吸うことが楽になる気がした。
ある夜、母上が言った。
「ねえ、ノクス。昔話をしてもいいかしら? あなたが五歳のとき、初めて剣を振った日のこと」
僕は何も答えない。
それを肯定として受け取ったのか、母上は語り始めた。
手のひらよりも大きな木剣を、よろよろと振り回して、転んで泣いて、でもすぐに立ち上がったあの日のこと
「あなたね、『剣が重くても、天は斬れる』って、真剣な顔で言ったのよ」
母上は笑った。
その笑みは懐かしそうで、とても優しかったが、僕は笑えなかった。
でも……その言葉が、心に残った。
――剣が重くても、天は斬れる。
そう。あのときの僕は、本気でそう思っていた。
剣を振るたびに、闇夜に煌々とする星を近くに感じた。
この空が、星々が夢の象徴だった。
今の僕はなにも見えない。
でも、もしも、もう一度だけ夢を見てもいいなら。
また剣を取っても、いいのだろうか?
怖かった。
けれど、その問いが浮かんだというだけで、僕は少しだけ泣きそうになった。
それでも、まだ僕は動けなかった。
ルナのようにはなれない。
妹のように、まっすぐには立てない。
でも、あの子の声が、母上の声が、毎日少しずつ、僕の中の闇を削っていってくれている。
崩れるようにして椅子に座り、顔を両手で覆った。
心の奥で、何かが静かに波打っていた。
それは、かつての夢の残響か、あるいはまだ言葉にならない痛みの余韻か。
どちらともつかない何かが、僕の胸の内でゆっくりと溶けていた。
それから月日が経った翌年の春。
僕は九歳になった。
あれから、少しずつ話すようになってきた。
扉の向こうから、控えめな足音が近づいてきて、僕の部屋のドアが静かにノックされ、ゆっくりと開いた。
「失礼いたします。お掃除と、お洗濯物を……」
それは、いつも世話をしてくれている若いメイドだった。
彼女は音を立てないように歩き、淡々と部屋の隅を整え始める。
僕は何も言わない。言う必要もない。
彼女もまた、無理に話しかけてこない。
ただ、淡々と、慣れた手つきで作業を進めていく。
やがて、窓のところへと移動した気配がした。
「少し埃っぽいので、換気をしますね」
僕はずっと部屋にいるせいで気付かなかったが、彼女がそう思うのなら、そうなのだろう。
カーテンが揺れ、戸の留め具が外れる音がする。
窓が開かれた瞬間、ひやりとした風が頬を撫でた。
風の匂いが、部屋に入り込む。
草の匂い。花の匂い。土の匂い。
――そして、音。
「違う、ルナ。振り下ろす前に腰が浮いている。重心は低く、足裏で地を掴んで」
その声は、聞き間違えるはずがない。
父上――レイモンド・エルヴァント。
あの厳格で、強く、そして誰よりも剣に正直な男。
そして、数年前まで王国騎士団長の任を国王から拝命されていた人物でもある。
現在は領地の経営もあり、その任を副団長へと譲ったらしい。
その父上の声が、風に乗って聞こえてきた。
僕は、思わず顔を上げた。
視界に何も映らないのは変わらない。
それでも、確かにそこに“何か”がある。
鼓膜に届く父上の声と、打ち込むような木剣の音。
そして、それに応えるルナの小さな声。
「は、はいっ……!」
力の入った返事が、空気を震わせた。
「今のはよかった。もう一度、その感覚で。だが、もっと速く」
バシッ、と空を裂く音。
それに続く、打突の音。足音。息遣い。
ルナの呼吸が荒い。必死で食らいついているのがわかる。
メイドが窓を閉じようとしたのがわかった。
俺が剣を振れないから、気遣ったのだろう。
そっと窓枠に手をかけ、閉める音がしようとした瞬間――。
「……待って」
僕は小さく、けれど確かに口を開いた。
初めて、彼女と話した気がした。
彼女の手が止まる。
「……開けたままで、いい」
微かに驚いた反応が伝わって来る。
しばしの沈黙のあと、小さな声で「かしこまりました」と返される。
彼女は足音を残さぬよう部屋を後にした。
部屋に再びひとりきりになって、僕は音に耳を澄ませた。
木剣の風を裂く音。
父上の指導する、厳しいけれどどこか誇らしげな声。
そして、ルナの――僕の妹の、精一杯の声。
そのすべてが、僕の心の奥底で、何かを揺さぶった。
目には映らなくても、見えてくるような気がした。
あの子が汗だくになって、真剣に木剣を振るう姿。
父上の前で必死に立ち向かおうとする、その小さな背中。
その光景は、かつての僕そのものだった。
見よう見真似で木剣を振って、転んでも立ち上がって、
そして、ただ空を――星を、夢を見上げていたあの日の僕。
「……ルナ……」
呟いた声が、喉の奥で震える。
遠いと思っていた夢が、
自分とは無縁になったと思っていた剣が、
その音と声に引き寄せられるように、胸の奥で蠢いていた。
耳を澄ませる。
木剣が打ち合う音に、地を蹴る足音。
そして、ルナの叫び。
「お兄様に――褒めてもらうためにっ!」
その声が、心臓を撃ち抜いた。
なぜ、そこまで……。
涙は出ない。
けれど、胸の奥が、どうしようもなく熱くなる。
僕は、まだ何もできない。
剣も握れない。立ち上がることすらできない。
だけど――。
耳に届くその音が、確かに僕を“元の世界”へと引き戻していた。
もう一度、あの剣を――。
そう思った瞬間、身体がほんのわずかに前へ傾いた。
それは、ただの錯覚かもしれない。
でも、それは確かに“僕の意志”だったような気がした。
闇の中で、僕は、まだ見ぬ“天”を見上げようとしていた。
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