30話:流れに沈む前に
呼吸が荒い。
胸の奥で鼓動が跳ね、手に握る剣が微かに震える。
僕は耳を澄ませ、床に落ちる水滴の規則的な音、壁に反響する微かな振動、湿った岩肌に触れる風の揺れまで、すべてを地図に変える。
魔物の気配――それはまるで生き物の息遣いのように、僕らの周囲を巡り、心臓の奥に冷たい警鐘を鳴らしていた。
次々と襲いかかる魔物の刃、牙、魔力の波動。
何度も避け、斬り、切り裂く。倒した魔物から魔石や素材が落とすたび、僅かな勝利の重みが手のひらに残る。
しかし、体は確実に蝕まれていた。
筋肉は重く、刃を握る手はわずかに震える。
呼吸が荒く、足取りも乱れ、間合いの感覚が鈍る。
アリシアの気配も、微かに乱れ始めていた。呼吸のリズムが不規則になり、剣を握る腕の力に波が生まれる。
その瞬間――鋭い衝撃音。
「きゃっ⁉」
アリシアの悲鳴が、僕の胸に針を刺すように響いた。
咄嗟に距離を詰めようとする。だが、彼女の足が滑り、魔物の爪が肩に深く食い込むのを感じた。
「……アリシア!」
胸の奥が凍る。息が止まる。
考える間もなく、剣を振るう。
「――〈一ノ型・紫電〉ッ!」
稲妻の如き一閃。首を裂き、魔物は光と共に消滅した。
力を振り絞り、彼女の方へ駆け寄り、倒れる体を支える。
魔力の流れで傷を確認するが、幸い命に別状はない。
だがこれ以上は動けないだろう。
胸に寄せる彼女の体は重く、温かい。苦しそうな吐息が耳に届く。
しかし背後から、次の魔物の気配が迫っていた。
「アリシア……」
「だい、丈夫……まだ、戦えます!」
彼女も意識を取り戻したのか、不格好ながら剣を構える。
僕も刀を構える。二人の間に、戦う以外の選択肢はない。
次々と迫る魔物を前に、再び刀を振るう。
体中に増えていく傷。冷たい血と熱い息が交錯する。
心の奥で、叫びが震える。
「ぐっ、まだ……こんなところで死ぬわけには……!」
魔物を次々に斬り伏せ、傷を負い、また斬り伏せる。
アリシアも数体を倒す。しかし、彼女もまた傷を負い、血を流す。
その瞬間、足元の岩が崩れる音が聞こえ、崖の縁から小石が滑り落ちる。
――落ちる。
「――あぇ?」
理解できていない声。彼女の非力な呻き。
崖の縁で足を踏み外したアリシアは、まるで宙に浮かんだかのように体を揺らす。
その瞬間、僕はすべてを悟った。
――ここで躊躇えば、彼女は落ちる。
僕は迷わず、自ら身を投げた。腕を伸ばし、渾身の力でアリシアを抱き寄せる。
「――ノクス、なんで⁉」
「大丈夫、絶対離さない!」
風が顔を叩き、耳を切り裂くように吹き付ける。
崖の底へ引きずられる感覚が全身を満たす。
空気の圧力、指先に伝わるアリシアの体温、流れる風の摩擦。
盲目の僕には、視界がなくとも、音と気配だけで崖の形、風の強さ、落下速度が手に取るようにわかる。
岩肌を擦る水しぶき、濁った水の勢い、下に広がる川の音——すべてが生きた地図だ。
「ノクス……や、やめて……!」
「やめられるか! 見捨てるなんてできない!」
彼女の声は恐怖に震えている。
それでも僕の腕に身を委ね、無意識に体を固めた。
僕は全身の力を込め、落下の衝撃を最小限に抑えようとする。呼吸を整え、音の波を読み、流れの動きを掌握する。
「しっかりしろ、アリシア。きっと大丈夫だから!」
「……う、うん……!」
風が耳を切り裂き、衣服が全身を締め付ける。
髪が顔を叩き、冷たい空気が肺に流れ込む。
それでも僕は、アリシアを守るために、全感覚を研ぎ澄ます。
音の反響、風の流れ、水の圧力——それぞれが僕に落下のタイミングを教え、衝撃を受け止める角度を指示する。
僕らの体が徐々に水面へ近づく。
水の冷たさと勢いが指先から伝わり、胸の奥を貫く。
濁流に体が押し流される瞬間、アリシアの腕が僕の首に絡む。
「ノクス……生きてますか?」
「もちろん。まだ死ぬわけにはいかないだろ?」
笑みを返す余裕はなかった。
水の圧力で呼吸が苦しく、体中の筋肉が悲鳴を上げる。
水の轟音が全身を包み込む。
濁流に体を押され、足も手も自由に動かせない中、耳だけが頼りだ。
水面に反響する自分たちの声、胸の下を流れる渦の音、岩肌に当たる水のぶつかる音。すべてが僕の手のひらにある地図となる。
――流れを読む。
水は左岸に向かい、岩に当たると右に反れる。
僕はアリシアの体を抱き寄せながら、腕の力を抜かず、しかし全身をしなやかに揺らすことで流れの衝撃を最小限に抑える。
冷たさが体に食い込み、息が肺を突き破るが、彼女の体温は確かに僕の胸に伝わる。
守るべき温もりがある限り、僕はここで沈むわけにはいかない。
ついに流れが緩やかになり、手足で水を蹴って岸へと体を押し上げる。
濁流を抜けた瞬間、周囲に漂う静けさに胸が引き締まる。
しかし、魔物の気配は感じられないことから、迷宮内にある安全地帯だろうと推測する。
「……ノクス……生きて、ますか……?」
震える声。
僕は微かに笑いを含ませて答える。
「当然。こんなところで死んだら師匠に笑われちゃうからね」
けれど、沈むように疲れ切った体に、まだ戦いが待っていることを思うと、胸が重くなる。
「あなたらしいですね。でも、ここは……」
彼女は言葉を詰まらせる。
しかし、それから先を言わなくても、何を言いたいのかは理解できる。
それは、先ほどの落下で、僕らはさらに下の階層へと運ばれたということだ。
上層に戻る道は、食料から考えても今や絶望的。
アリシアが意を決したのか、小さく息を吐く。
「……私はもう、これ以上は動けません。だから、ここに置いていってください……せめて、あなただけでも……」
声は消え入りそうで、でも僕の胸を打った。
「そんなこと言うな!」
反射的に叫ぶ。
体が疲れきっていても、胸に抱く彼女を置いて行けるはずがない。
師匠が亡くなったときの、あの喪失感。あんなの、もう二度と経験したくない。
「一緒に帰る。絶対に、離さない」
少しの沈黙。
互いの息遣いが水の音に混ざる。
「……でも、ノクス……」
「休めばいい。ここで少しだけ、体を休めて、魔力と体力を取り戻そう」
今は、互いに生きることだけが最優先だ。
「……そう、ね。ごめんなさい」
「取り乱すのはわかる。でも、一人より、二人の方が助かる確率は高くなるよ」
「……ノクス、ありがとう……」
アリシアの声は少し柔らかく、敬語は消えていた。
僕は驚きつつ、口元に笑みを浮かべる。
「君らしいよ、その方が」
「え……そ、そう……?」
頬が熱くなる気配。足元を踏みしめる小さな声。
盲目でもわかる。
微かに息が詰まったこと、指先が体の前で震えていること。
焚火を起こし、濡れた衣服を乾かす。
炎のパチパチという音、湿った布が熱で縮む感触が耳と手に伝わる。
「……なんか……恥ずかしい……」
「うん。まあ、それは僕もだけどね」
顔を赤くするアリシア。耳まで熱くなる息遣い。
僕は苦笑しつつ、手早く衣服を広げ、互いに少しずつ服を乾かしていく。
火の熱と湿り気、呼吸の混ざり合い。
盲目でも、音と気配だけで何をしているかはわかる。
しかし、アリシアが躓き、僕の肩にぶつかった瞬間――
「ちょ、なにするの!」
――スパァンッ!
小さな悲鳴とともに、彼女の手が僕の頬を強く叩いた。
「っ……!」
息が止まり、頬に痛みが走る。
それよりも、彼女の心臓も、手の振動も、恥ずかしさで跳ねている。
僕は咳き込みながら、「ご、ごめん……でも、悪くないのはアリシアじゃ……?」と返すと、さらに顔を真っ赤にして「うぅ~」と俯くアリシア。
焚火の前で、湿った衣服を乾かしつつ、互いの距離と気配を感じる。
このような絶望的な状況で、どうしてか分からないが、それを心地よく感じていた。
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