2話:お兄様に、また笑ってほしくて
◇ ◇ ◇
リュシアは静かに扉を閉じると、その場にしばらく立ち尽くしていた。
ノクスの姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。
部屋の中はあまりにも静かで、ただ彼の息遣いだけが、かすかに聞こえていた。
優しくしたかった。何か力になりたかった。
けれど、何一つ届いていない――その現実が、胸を締めつけた。
やがて、ゆっくりと足を動かし、廊下を歩き始める。
静かな邸内の空気に、彼女のヒールの音が控えめに響いた。
階段を降り、窓の外に広がる中庭を横目に廊下を曲がると、小さな影が立っていた。
金の髪が陽を受けて輝き、大きな碧の瞳が、じっと母を見上げている。
「……お母様」
それは、ノクスの妹――ルナ・エルヴァントだった。
今年で五歳になり、家族からはルナという愛称で呼ばれ、兄を誰よりも慕い、兄の夢を自分の夢にして生きる幼い少女。
この一年、彼女は兄のために泣かずに剣を振り、兄のために笑顔でい続けた。
「お兄様、今日も……?」
問う声は震えていた。
心配を押し隠すようにまっすぐな瞳だったが、瞼の端には涙の跡がうっすら残っていた。
リュシアは小さく頷いた。
「……ええ。今日も……ダメだったわ」
声は柔らかかったが、どこか掠れていた。
ルナは拳を握りしめて、唇を噛む。
悔しくて、苦しくて、それでもどうにもできない自分が歯痒かった。
「お兄様……きっと、すごく苦しいんです。わかってるのに……なのに、私……」
そこまで言って、彼女は首を振った。
涙を見せるわけにはいかなかった。兄の代わりに、泣くわけにはいかなかった。
「私、もっと強くなります。もっと頑張りますから。お兄様の代わりになれるくらい……お兄様の夢、私が守ります!」
リュシアはその小さな背中を、そっと抱き寄せた。
母と娘が重なるように、胸と胸とが触れ合う。
「ルナ……ありがとう。あなたは、本当に強い子ね」
その言葉に、ルナの肩がぴくりと震えた。
幼い子供に、重すぎる責任を背負わせているとわかっていても、今はそれを止める術がなかった。
「でもね、ルナ。あなたの中に、ノクスの姿を重ねることは、しないであげてほしいの。あなたには、あなたの剣がある。あなたの夢があっていいのよ」
それでもルナは、きっぱりと首を振った。
「……違います。私、自分の夢のために頑張ってるんです。お兄様が笑顔を見たいから」
リュシアは、驚いたように目を見開いた。
それは、あの夜バルコニーで『天斬りの剣聖』を語ったときの、幼いノクスの瞳とよく似ていた。
強く、まっすぐで、何よりも――眩しかった。
「だから、誰よりも剣を振ります! 誰よりも魔法を覚えます! ……そして、いつかお兄様に言うんです」
ルナは、小さく胸に手を当てた。
「――私のお兄様は誰にも渡しませんからって」
ふっと、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
けれど、それは本気の宣言だった。
リュシアは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
この娘がいる限り、ノクスはまた剣を取るだろうと。
また、あの時の笑顔を見せてくれるだろうと。
それから数日が経った。
エルヴァント邸の庭――訓練場に、小さな影があった。
朝露がまだ芝に残る時刻。
静かな空気の中で、剣の打ち合う音ではなく、木剣が空を裂く音だけが響いていた。
五歳の金髪碧眼の少女が、一心不乱に木剣を振っていた。
その体はまだ小さく、腕も細い。
本来なら人形を抱いて遊ぶ年頃のはずだった。
けれど彼女は、遊びの一つもせず、汗をかきながら剣を振るい続けている。
「……まだ、です……。もっと、速く。もっと、強く……」
誰に言うでもなく、ひとり呟くように。
目の奥にあるものは、幼子のそれではなかった。
傍らでは、屋敷付きの老騎士がそっと見守っていた。
エルヴァント家に仕えて三十年、かつては現当主の剣術指南役でもあった男――グラン。
老騎士は、何も言わずにただその姿を見つめていた。
叱ることも、励ますことも、もう必要なかった。
彼女は既に、誰よりも真剣だったからだ。
時折、手が震え、何度も足がもつれそうになりながら、
それでも彼女は、一度も泣かなかった。
兄が失った剣の道。
また兄に剣を振るってほしくて、自分自身の力で、彼女は剣を学んでいた。
幼いながらも、兄が我武者羅に剣を振るっていたのを見ていたのを覚えている。
あんなにも、楽しそうに剣を振るっていたのだ。
それをまた見たくて。
そうして――半年が経った。
季節は巡り、風は冬の匂いを孕み始めていた。
ルナは、少しだけ身長が伸びた気がしていた。
それでもまだ、兄の肩には届かない。
けれど、今日だけは、兄の元へ行くと決めていた。
白いブラウスに濃紺のケープを羽織り、小さな手で扉を叩いた。
「……お兄様。私です。ルナです」
返事はない。けれど、それは想定の内だった。
静かに扉を開ける。部屋は、今も変わらず静寂に包まれていた。
窓は重いカーテンで閉ざされ、光も入らない。
けれど、彼女の瞳は、暗さに怯えることなく、まっすぐ兄を見た。
椅子に腰をかける兄。
その背は、少しだけ前より痩せて見え、孤独に見えた。
「お兄様……。今日は、少しだけお時間をください」
兄は動かない。
でも、気配でわかる。呼吸の音が、微かに変わった。
それでも彼は、聞いている。
ルナは一歩、兄の側へ近づいた。
「私、剣を始めました。お兄様のように……ううん、違う」
そこで言葉を止め、小さく首を振る。
「いつかお兄様と一緒に、剣を振りたいんです」
彼女の声は震えていなかった。
五歳の少女とは思えないほど、まっすぐで澄んだ音だった。
「まだまだ、未熟で、転んだり、剣もふらついたりします。でも……」
小さな手が、ギュッと胸元を握る。
「いつかお兄様が、また剣を握りたいと思ってくれるように。また、私と遊びたいと思ってくれるように。その日が来るまで、私は剣を振り続けます」
彼女は微笑んだ。
泣かずに、怒らずに。まるで、光のように――優しく、温かく。
「……お兄様、私、頑張りました」
沈黙が、また部屋を包む。
けれど、その沈黙の中に、確かに何かが揺れていた。
ノクスの眉が、ほんのわずかに動く。
閉ざされた世界に、小さな音が、微かな希望の音が――響きはじめていた。
ルナは、静かに立ち上がった。
もう言葉は多く要らなかった。
伝えるべきことは、全部伝えたのだから。
そっと扉へと向かい、振り返る。
「……私、もっともっと頑張りますから! 頑張って、頑張って、お兄様にたっっっっくさん褒めてもらうんです! 「よく頑張ったね」って。ふふっ。だから、もたもたしていると、すぐに先に行って置いて行っちゃいますよ?」
そう言って、微笑みながら扉を閉じた。
その小さな足音が去ったあと、ノクスの胸の奥で、何かがそっと芽吹き始めていた。
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