1話:光の届かぬ場所で
大陸のほぼ中央に位置し、豊かな大地と穏やかな気候に恵まれた国、アルディア王国。
その西端に広がる広大な領地に根を張るエルヴァント伯爵家は、代々王国の騎士団長を輩出してきた名門。
剣術の家系として知られ、その誇りと技を代々継いできた。
僕――ノクス・エルヴァントは、その家に長男として生まれた。
緑に包まれた丘の上に、白亜の石で築かれた広い屋敷があった。
そこには四季の花が咲き乱れ、風は草の匂いを運び、夜には満天の星が空を飾っていた。
その屋敷のバルコニーで、母が語ってくれた物語がある。
――【天斬りの剣聖】
天を斬った、たったひとりの剣士の伝説。
当時五歳だった僕は、母の優しい声とともにその物語を聞いた。
それはまるで夢のようで、心が震えたのを覚えている。
見上げた夜空の星々は、手を伸ばせば届きそうなほど近く思えた。
あの夜を境に、僕の中で何かが目覚めた。
空を見るのが好きになった。
星が好きになった。
剣が、もっと好きになった。
そしていつしか、僕も『天を斬る剣士』になりたいと、本気で思うようになった。
憧れが、夢になったのだ。
それから毎朝、まだ体の小さな僕は屋敷の裏庭にある訓練場に立った。
誰に言われたわけでもなく、ただ夢中で木剣を振った。
構えも知らず、足の使い方もめちゃくちゃで、剣士の真似事にすぎなかったけれど――それでも、僕は誰よりも剣を振った。
剣を握るたび、空を見上げた。
――いつか、あの空を斬るんだ。
そんな幼い願いだけを胸に、何度も、何度も。
けれど、それは七歳までの話だ。
今の僕には、空も、星も、剣の輝きも――何ひとつ見えない。
そう。僕は、失明なったんだ。
異変が起きたのは七歳になったばかりの頃だった。
ある朝、朝焼けがやけにぼんやりしていた。
空が霞の中に沈むようで、いつもの鮮やかさがなかった。
次に、母の笑顔が、輪郭を失っていった。
目の前にいるはずなのに、どこか遠い世界にいるような、そんな錯覚。
遠くの木々は、絵の具が滲むように色を溶かし、日々の風景が濁っていった。
最初は疲れ目かと思った。誰にも言えなかった。言いたくなかった。
でも、願いとは裏腹に、その濁りは消えず、やがて世界は、僕の目の前から完全に姿を消した。
星の、空の、剣の煌めきが――僕の世界から、すべて消え、真っ暗闇に染まった。
その瞬間、僕の心からも、何かがこぼれ落ちた。
静かに、音もなく。けれど二度と戻らないかけらだった。
もう剣は振れない。
空も見えない。星も届かない。
夢も、目標も、意味も――何ひとつ残らなかった。
世界が暗闇に閉ざされてから、一年余りの月日が経ち、僕は八歳になっていた。
僕は昼も夜も区別のつかない部屋で、ただ無気力に座っていた。
何もない。何も欲しくない。
息をしているのは、惰性だった。
生きているというより、死ねないだけだった。
そんな部屋に、控えめなノック音が響いた。
「ノクス、私よ。入ってもいいかしら?」
その声だけで、誰かわかる。
僕の母上、リュシア。
優しい声だった。今も変わらず、毎日僕のところに来てくれる。
けれど、僕にはもう応える力もない。
声を返す意味も、見出せなかった。
しばらくして、扉の取っ手が静かに回る音がした。
そして、カチャリと音を立てて、扉が開かれる。
光が差し込んだのかもしれない。
でも、僕の目には、何も映らない。
ただ、音だけが、そこにあった。
足音が、床を渡る。
かすかな衣擦れと、香り――母上の香水の匂い。
それらすべてが懐かしく、胸の奥のどこかが疼いた。
けれど、僕は顔を上げなかった。動きたくなかった。感じたくもなかった。
「ノクス……今日は、少しだけ風にあたりに行かない?」
母上はそう言って、僕の前に膝をついた。
言葉の端々には、いつもと変わらぬ優しさがあった。
けれど、それは同時に、僕の傷をざらりと撫でるような苦しさを伴っていた。
「今日はね、庭の白薔薇が綺麗に咲いていたの。あなたの好きだった場所、覚えてる?」
――覚えてる。
でも、そんなこと、どうでもよかった。
花が咲こうと、鳥が鳴こうと、空が晴れようと。
僕の目には、もう何も映らない。
「風も気持ちよかったのよ。丘の上からは、きっと夏の雲が――」
「やめてよ!」
僕は声を絞るようにして言った。
母上の言葉は、まるで優しすぎる刃物だった。
希望を差し出して、それが僕には届かないという事実だけを突きつけてくる。
「そんなの、全部、もうどうでもいいんだよ……!」
胸の奥から、黒く淀んだものが込み上げてくる。
それは悲しみでも怒りでもなく、ただ、どうしようもない絶望の塊だった。
「星が綺麗? 花が咲いた? 風が気持ちいい? ……僕には、何もわからないんだよ……! 何も、見えないんだよ!」
机にあった木製の置物を、思わず手探りで掴み、床に叩きつけた。
鈍い音が部屋に響き、母上は少しだけ、肩を震わせた気がした。
「……剣も振れない、夢も見られない……なのに、なんで僕は生きてるの……? なんで、生きなきゃいけないの……? 意味なんて、もう、何もないのに……!」
涙は、もう出なかった。
何度も泣きすぎて、とうに枯れ果てていた。
しばらくの沈黙が流れた。
その中で、母上の吐息だけが、わずかに震えていた。
「……そう、ね……」
静かに、母上はそう呟いた。
諦めではなく、祈るような声音だった。
何かを飲み込むように、感情を押し殺した声。
「……ごめんなさい、ノクス。私、どうすれば……」
かすかに揺れた声が、耳に残る。
でも、僕はその優しさすら、もう耐えられなかった。
「出てってよ……。僕の前に、もう来ないでよ……」
言ってはいけない言葉だとわかっていた。
でも、口が勝手に動いていた。
母はしばらく黙っていた。何かを考えていたのかもしれない。
けれど、僕にはその表情が見えない。
やがて、母はゆっくりと立ち上がった。
「……わかったわ」
それだけを言って、母は静かに部屋を出ていった。
扉が開き、「ノクス、また来るわね」と言ったのが聞こえ、扉は閉じられた。
閉まる扉の音が、まるで世界との最後の接点が切れるように響いた。
残された部屋には、静けさだけが残る。
そして、何も見えない僕の世界に、再び重たい闇が降りてきた。
見えない空間に座り込んだまま、僕はただ、息をしていた。
生きている、というより――まだ、死ねないだけだった。
静寂が、耳の奥を締めつけるように響いていた。
時計の音だけが、静かに鳴り響いている。
しかし、その針の音も、冷たくて、静かで、どこまでも孤独で、自分の心臓の鼓動だけが、唯一の「生きている証」みたいだった。
母上が去って、どれくらいの時間が経ったのかはわからない。
日も昼夜もわからない僕には、時間の感覚なんて、とっくに壊れてしまっていた。
ただ、気配がなくなったことで、残された空間にぽっかりと空いた穴のようなものを感じる。
あんな言い方、しなければよかった――そう思っても、もう遅い。
でも、僕にはどうすることもできなかった。
どうせまた明日も、母上は来るのだろう。
そして、また優しい声で、何かを語りかけてくるのだ。
僕が傷つけたというのに、それでも変わらず、同じように。
……それが、怖かった。
目が見えなくなった世界の中で、唯一残っていた「優しさ」が、いつか壊れてしまうかもしれない――その不安が、僕を苛んでいた。
壊したくない。けれど、触れたくもない。
遠ざけたい。でも、失いたくない。
そんな矛盾だけが、ずっと胸の奥でくすぶっていた。
なんとか布団に倒れ込み、身を横たえる。
目を閉じても、見える景色は何も変わらなかった。
闇の中で、僕はただ、静かに息を吐いた。
心も、目と一緒に、壊れてしまえばよかったのに――……
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