17話:目覚めの蒼
夏の陽は、まだ背に熱を帯びていた。けれど、その熱はどこか鈍く、遠ざかる季節の名残のように弱まりつつあった。庭を渡る風には、麦を干したときのような乾いた匂いと、どこか秋の影が混じっている。
僕と師匠は、その風を背に受けながら稽古を続けていた。
耳を澄ませば、衣擦れの音。土を踏む軽やかな衝撃。
そして、剣が空を裂く、わずかな音の震え。
それらが一つになり、僕の中に剣の軌跡を描き出してくれる。
目の見えぬ僕にとって、それは唯一の景色だった。
「……ふっ」
師匠の息遣いが、短く鋭く耳に触れたかと思った、その瞬間だった。
すっと、風が途切れた。
続くはずの踏み込みの音も、剣のうなりも、聞こえてこない。
代わりに、砂を崩すような小さな音と、何かが地面に倒れこむ鈍い音が響いた。
「し、師匠っ!」
僕は反射的に声を上げ、音の方へ駆け寄った。
手が探り当てたのは、汗に濡れた衣と、異様なまでに熱を帯びた身体。師匠の呼吸は浅く、弱々しい。
「誰か! 誰か早く来てくれ!」
声を張り上げると、屋敷の者たちの駆け寄る足音が響いた。
僕は必死に状況を告げ、彼らに師匠を託す。
それからの出来事は、走る足音と、慌ただしく飛び交う声ばかりが耳に焼きついている。
土間を踏む重い音。
剣を引き抜くような気迫を帯びた気配。
「ノクス!」
父上の声だ。低く、鋭い。けれど、その奥に焦りが滲んでいる。
「そこの者、医師を呼べ! 急げ!」
家中に響き渡る声で命じると、誰かが駆け出す音が続いた。
母上が膝をつき、僕の背に手を添える。
「大丈夫……大丈夫よ、ノクス。母さんがいるわ」
その声は柔らかいのに、わずかに震えていた。
僕の肩を包む手が、必死に温もりを伝えようとしている。
そのすぐ横から、小さな息遣いが聞こえる。
「……お兄……様……?」
ルナの声はか細く、震え、言葉が途中で潰れてしまう。
「ルナ、泣かないで。大丈夫よ、きっと」
母上が優しく言う。
「……母上、ですが……」
僕は何かを言い返そうとしたが、喉の奥がつまって声が出なかった。
視界は暗く、何も見えない。
なのに、周りの音と気配だけが鮮やかすぎるほどにはっきりと迫ってくる。
父上の足音が近づき、硬い膝が床に着く音。
「ノクス、聞こえるか」
その声は努めて冷静を装っていたが、近くで聞くと息が荒い。
「……はい」
ようやく出せた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「すぐに医師が来る。それまで耐えろ」
父上はそう告げると、母上の肩に手を置いた。
その一瞬の沈黙が、彼の心中を物語っていた。
やがて、医者が呼び寄せられ、静かに診立てが行われた。
衣擦れの音と薬箱の金属音、そして長い沈黙。
最後に医者は、ゆっくりと息を吐きながら首を横に振ったのがわかった。
「……老衰です。もって数ヵ月かと……」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が沈んだ。
誰も声を発せず、ただ互いの息遣いだけがそこにあった。
僕の胸の奥で、何かが音もなく崩れた。
そんなはずはない。あの剣を振るう背中が、風のように軽やかで、天を裂くように鋭かった師匠が……そんな、終わりを迎えるなんて。
言葉が喉に詰まり、唇がわずかに震えた。
「……騒がしいのう」
低く掠れた声が、不意にその沈黙を破った。
師匠が目を開け、事の次第を察したように笑った。乾いた、けれども不思議と澄んだ笑いだった。
師匠は、短く笑った後、しばらく息を整えていた。
その呼吸の間合いが、やけに長く感じられたのは、僕の心がざわついていたせいだろう。
「……ノクス」
名を呼ぶ声は、いつになく低く、澄んでいた。
「ワシはもう、長くはない。医者に言われる前に察していた。もう長くない、と」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮まった。
耳に残るのは、師匠の声と、自分の鼓動だけ。
「だからこそ――お前を、今以上に鍛える。死ぬ前に、ワシのすべてを叩き込む」
師匠の気配が、近くでぐっと迫る。
「覚悟は……良いな?」
目が見えなくても、師匠の瞳が真っ直ぐ僕を射抜いているのがわかった。
喉の奥が熱くなり、言葉がすぐに出てこなかった。
けれど、僕は力強く頷いた。
「……はい」
その瞬間、師匠が小さく笑う気配がした。
あの笑みは、いつも厳しくも温かかった。
翌日からの訓練は、まるで地獄そのものだった。
剣筋はこれまでの比ではなく、鋭く速く、僕の身体と耳の限界を執拗に責め立てた。
一太刀ごとに地面が震え、風は刃のように頬を切り裂く。
僕は音と匂い、足裏の微かな圧力の変化――そのすべてを総動員し、必死に追う。
だが、どれだけ振りかざしても、剣は虚空を斬るだけだった。
右から、切り裂くような剣音が流れたと思えば、すぐに左から木刀の柄が肩を撃つ。
息は乱れ、汗が首筋を滴らせ、膝はガクガクと笑っていた。
「どうした、ノクス! 耳だけで追うな。心で、感じろ!」
師匠の声が雷鳴のように胸を揺さぶった。
心で感じる……?
どうすれば――わからない。
けれど、確かな熱が胸の奥で燃えた。
この人の想いに、応えたい。
この人の剣を、真正面から受け止めたい。
師匠の覚悟に、僕のすべてを以って答えたい――!
限界の壁が音もなく崩れ落ちた瞬間、胸の奥で何かが軋み、砕け散った。
風が激しく吹き荒れ、束縛していた眼帯がふいに解け落ちる。
闇の向こう、世界が砕け散り、光の奔流が奔り出す。
視界は、まるで空の底を溶かしたような澄んだ蒼に染まった。
無数の蒼い粒子が流れ、音や気配が鮮明な色彩を纏って映る。
鏡のように刀身に映る自分の瞳を見つめる。
光を失った僕の紫の瞳は、無垢な天の蒼を湛えた静謐な湖のように、限りなく澄み渡った蒼へと変貌し、光を取り戻していた。
これが、六年ぶりに取り戻した“視界”。
蒼の瞳で、初めて師匠の顔を捉えた。
わずかに背を丸め、白く長い髭が風に揺れる。
その鋭い眼差し、剣を構える姿は、まるで山を揺るがす不動の巨峰のようだった。
彼の全身から放たれる殺気、魔力の流れ――それらは視界の中で蒼の波紋となり、確かに刻まれている。
空中を描く剣の軌道もまた、未来の一瞬を切り取ったかのように視覚化されていた。
「……その目は!」
師匠の声は震え、驚きが伝わってくる。
僕は刀を握り直す。
この六年ぶりに得た、蒼き視界を携え――この人に、認めてもらうんだ。
だが代償は、すぐにやってきた。
蒼の力が消えた瞬間、視神経を焼き尽くす激痛が走る。
目の奥から脳へと響く痛みは鋭く、慎重に、そして限度を超えぬようにこの力を使わねばならない。
「行きますよ、師匠!」
それでも、今はただ――蒼の世界の中で、僕は一気に踏み込んだ。
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