9話:隻眼の剣豪
邸を出たのは、昼過ぎだった。
王都の陽光はどこまでも澄みきっていて、白壁の街並みに反射するその輝きは、まるで過去の記憶すら洗い流そうとするようだった。
けれど、私の胸には静かに沈殿する思索と、騎士として、そして父としての誓いが重く根を張っていた。
――隻眼の剣士・ゲンサイ。
未だ名も素性も確かでない、東方の隻眼の老剣士。
だがその存在は、盲き息子が見据えようとしている未来と、かすかに結びつく希望だった。
わずかながらでも、それを感じた。感じてしまったのだ。
しかし、それはあまりに遠い。
今なおこの王国のどこかで剣を携えているのか……それすら定かではない。
希望というには脆すぎる。
だが、他に道などなかった。
私は帰還するなり、書斎にこもって地図を広げ、あらゆる記録を漁った。
諜報の断片、果ては吟遊詩人の噂話に至るまで――信じられるものも、信じがたいものも、手当たり次第に掴み取った。
そして、家臣たちを呼び寄せる。
「ゲンサイという剣士を探せ。隻眼の、東方の老剣士だという。どこにいるかは不明だが……生きている限り、この国のどこかにいると聞いている」
私の命に、皆が一瞬たじろぎながらも、やがて覚悟を込めた表情に変わった。
ノクスのことだと気づいたのだろう。
誰も問わなかった。問わずとも、それが私の――いや、父の命であると、皆わかってくれていた。
文を飛ばし、人を走らせ、時には私自身が馬を駆った。
剣の民も、修道士も、漂泊の傭兵も、誰彼構わず当たり、情報を引き出した。
書斎に戻るたび、ふと目を閉じると、庭で剣を振るうノクスの姿が浮かぶ。
あの子は、視えぬ世界で、たった一人、剣を振っている。
その姿が、私を突き動かした。
父として。
そして、かつて剣を執った者として。
――そして。
初夏の風が庭木を撫で始めた夜のことだった。
書に目を通していた私のもとへ、家臣の一人が静かに扉を叩いた。
「旦那様……お探しの隻眼の剣士が見つかりました」
私は、立ち上がっていた。
反射的に。まるで誰かに操られていたかのように、すでに外套を手にしていた。
「どこにいる?」
「本邸の客室にお通ししています。ただ……かなりの年配に見えました」
「構わん。すぐ案内してくれ」
廊下を進む足音が、やけに吸い込まれるように感じた。
まるで、この石造りの館そのものが、私の決意を静かに受け止めているかのように。
客間の前で一呼吸を置く。
私は、扉を押し開けた。
そこに――座していたのは、まさに異質そのものだった。
白髪を後ろに束ね、静かに佇む老人。
だが、その着流しの下に覗く筋肉の線は、齢を重ねた肉体にはあまりに鋭すぎた。
左目は布で覆われ、残る右目が私を見据える。
その眼差しに、私は一瞬、息を止めた。
――“無”。
殺意ですらない。
ただ、斬るという本質だけがそこにあった。
私は、生涯で数多の剣士と対した。だが、この男は違った。
すべてを超えていた。
まるで、剣そのものが人の形を取ったような存在――そうとしか言いようがなかった。
「……貴殿が、ゲンサイ殿か?」
私は問うた。
彼は、頷いた。
「うむ……ゲンサイ・アカツキと申す。祖国では【隻眼の剣豪】などと呼ばれておったが、今はただの旅人よ」
――隻眼の、剣豪?
その言葉に、私は心の奥がざわめくのを感じた。
【剣豪】という呼び名。
それは、剣を志す者すべてにとって、【剣聖】と同等の、到達点を意味する称号だ。
この目の前の老剣士が、果たしてその域にあるというのか?
いや。しかし、目を見れば否応なくわかる。
これは“虚飾”ではない。
本物だ。
「私は、レイモンド・エルヴァント。この国の貴族であり……」
「……盲き息子の、父であろう?」
私は言葉を失った。
それを告げた彼の声には、ただの同情や憐憫ではない、静かな理解があった。
「……お願いがある。あの子に、剣を教えてやってはくれぬか。私はもう、あの子に何も教えられぬ。ただ、あの子は……光なき世界の中で、再び夢に手を伸ばそうとしている」
震えぬように声を保つのが、やっとだった。
だが、ゲンサイはしばしの沈黙ののち、ぽつりと呟いた。
「……ワシは、我流じゃ」
その響きに、私は小さく息を呑む。
「この身に流派はない。師も持たず、道場も持たず、ただ一人、戦場で磨いた剣。……真上を斬りたくてな。愚かと笑われようが、それでもワシは、この剣であの“天”を斬ろうとしてきた」
――天を斬る。
その言葉に、私の脳裏にある伝説が過った。
あの、お伽噺の【天斬りの剣聖】。
そしてノクスの夢でもある。
ノクスもまた、「天を斬るんだ!」と言っていた。
彼もノクスと同じ夢を追う者だったのか……
だが、目の前の男は、もはや伝説ではない。
現実であり、生きた剣だ。
「……それでも構わない」
私は、静かに言った。
そのとき、自分の中に一片の迷いもなかった。
「剣とは、流派ではなく、意志だ。ノクスが進みたいと願うならば、それがどんな剣であろうとも、私は――父として、それを支える。それに、息子も、ゲンサイ殿と同じく『天を斬るんだ』と言って立ち上がったのだ」
私の言葉に、ゲンサイは目を大きく見開き、ふと笑った。
老いた剣士の眼差しは、どこか温かく、そして、どこまでも静かだった。
「同じ夢を追う者、か……よかろう。ならばまず、示そう。ワシの剣が、通じるものかどうか」
彼の隻眼が、蒼く燃えるような光を宿す。
「貴殿の軍の最強と剣を交える。手加減も名乗りも不要。ただ、剣を見よ。それで足りる」
ゲンサイはそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
その身のこなしには、齢八十とは思えぬ滑らかさと静謐があった。
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