3話 人は苦手、でも人がいないと夢は叶わない
武藤大雅は、《Cafe Étoile》の裏口で、エプロンの紐を結びながら思っていた。
(……ここ、だいぶ慣れてきたな)
初出勤の日の自分を思い出すと、
今の自分は別人みたいだ。
声は相変わらず小さい。
笑顔も、ぎこちない。
それでも――
「ここに立つこと」だけは、もう怖くなかった。
「おはよう、大雅くん」
澪が、いつもの落ち着いた声で言う。
「……おはようございます」
「今日は、ちょっと人来るよ」
「……え?」
「近くで、学生向けの起業セミナーがあるの」
その言葉に、
大雅の胸が、ぴくりと反応する。
(……起業)
(……カフェ)
頭の中で、
夢と現実が、久しぶりに重なった。
⸻
昼過ぎ。
店内に、
普段とは違う空気の客が入ってくる。
ノートPC。
資料の束。
名刺ケース。
(……仕事できそうな人たち)
一人の女性が、カウンターに近づいた。
年は、大雅より少し上。
眼鏡をかけ、
無駄のない服装。
「ブレンド、お願いします」
「……はい」
注文を受け、
澪に視線を送る。
澪は、小さく頷いた。
(……落ち着け)
コーヒーを出すと、
女性は一口飲んで、少しだけ目を細めた。
「……美味しいですね」
「……ありがとうございます」
その一言だけで、
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「ここ、静かでいい」
女性は、
ノートを開きながら言った。
「作業、はかどりそう」
その言葉に、
大雅は思わず答えてしまった。
「……それ、狙ってます」
(……あ)
言ってから、
後悔する。
だが、女性は驚いた顔をして、
それから笑った。
「狙ってる?」
「……あ、いえ……その……」
「いいね」
遮るように、言われた。
「ちゃんと“誰のための空間か”を考えてる店」
その言葉は、
評価だった。
⸻
「……あの」
女性が、会計の時に言った。
「この店、
誰が作ったんですか?」
「……店長です」
「そう」
少し考えてから、
彼女は名刺を差し出した。
「私、**宮野 玲奈**って言います」
「……え」
「学生向けの起業支援、やってるんです」
名刺には、
《学生起業サポート/コンサルタント》
と書かれていた。
(……え?)
「ここ、
“夢を考える人”が集まりやすい場所ですね」
「……そ、そうですか」
「うん」
玲奈は、はっきり言う。
「こういう場所、
将来自分でやりたい人、
絶対いる」
大雅の心臓が、
大きく跳ねた。
(……バレてる?)
「……あの」
勇気を、かき集める。
「……実は、俺……」
言葉が、止まる。
(……言え)
(……今、言え)
「……カフェ、やりたくて」
声は、小さい。
でも、嘘じゃない。
玲奈は、少しだけ驚いて、
それから、優しく笑った。
「いいね」
その二文字が、
あまりにも自然で。
「怖くない?」
「……怖いです」
即答だった。
「それなら、向いてる」
「……え?」
「怖いのに考えてる人は、
ちゃんと現実を見るから」
その言葉は、
澪とは違う角度で、
大雅の背中を押した。
⸻
閉店後。
澪は、名刺を見ながら言った。
「……人脈、できたね」
「……人脈、ですか」
「そう」
澪は、少しだけ笑う。
「夢ってね、
一人で叶えるものじゃない」
「……」
「人が増えるほど、
大変になるけど」
それでも、と続ける。
「進める距離も、伸びる」
その言葉が、
胸に残る。
⸻
その夜。
心愛と、久しぶりに通話した。
『最近、どう?』
「……少し、慣れてきた」
『そっか』
一拍。
『たいがさ』
「……うん」
『人、増えてきたね』
その言葉は、
責めていない。
でも、
距離を確かめる響きがあった。
「……うん」
『でも』
心愛は、少し笑う。
『たいがが、
自分の世界を広げてるのは、
嫌じゃない』
胸が、少しだけ軽くなる。
『たださ』
『たまには、
置いてかないでね』
「……うん」
約束は、まだ続いている。
⸻
翌日。
玲奈から、メッセージが届いた。
『よかったら、
今度ゆっくり話しません?』
『夢の話』
画面を見つめながら、
大雅は深く息を吸った。
(……来た)
(……人と、ちゃんと話す場面)
怖い。
でも。
(……逃げない)
そう決めて、
「お願いします」と返事を打った。
待ち合わせは、
大学近くの小さなコワーキングスペースだった。
ガラス張りの入口。
中には、ノートPCを広げた学生や社会人が静かに作業している。
(……場違いじゃないよな)
大雅は、深呼吸してドアを押した。
「武藤くん?」
声をかけてきたのは、
昨日の女性――宮野玲奈だった。
今日はジャケット姿。
より“仕事の人”という雰囲気が強い。
「……はい」
「来てくれてありがとう。
座ろっか」
向かい合って座る。
テーブルの上には、メモ帳とペン。
(……面接より緊張する)
「じゃあ、最初に」
玲奈は、穏やかな声で言った。
「武藤くんの“夢”、聞かせて」
心臓が、跳ねる。
(……来た)
「……カフェ、です」
「うん」
「……自分の店を、持ちたくて」
言えた。
それだけで、胸が熱くなる。
「どういうカフェ?」
(……どういう)
頭の中が、一瞬真っ白になる。
――静かな場所。
――話しかけられない安心感。
――居場所。
でも、それを言葉にするのが、難しい。
「……落ち着ける、場所で」
「誰にとって?」
「……え」
玲奈は、責めない。
ただ、問いを投げる。
「学生? 社会人?
常連さん?」
沈黙。
(……考えたこと、あるはずなのに)
「……人と話すのが、苦手な人」
絞り出すように言った。
「……俺みたいな」
玲奈は、少しだけ驚いて、
それから頷いた。
「いいね」
「……いい、ですか」
「明確だよ」
彼女は、メモを取りながら言う。
「“自分が救われたかった場所”を作る人は、
強い」
その言葉に、
胸の奥が、じわっと温かくなる。
⸻
「じゃあ次」
玲奈は、ペンを止めない。
「お金の話、していい?」
(……来た)
喉が、きゅっと鳴る。
「……はい」
「初期費用、考えてる?」
「……少し」
家賃。
設備。
豆。
人件費。
頭の中に、
数字が浮かぶ。
「……正直、
全然、足りません」
玲奈は、即答しなかった。
「でも」
「?」
「“分からない”じゃなくて、
“足りない”って言えるのは、
もう一段階進んでる」
その評価は、
厳しくも、優しかった。
「人脈、作れる?」
「……苦手です」
正直すぎる返事。
玲奈は、少し笑う。
「知ってる」
「……え」
「人脈作りが得意な人は、
“こういう場所”で
そんな顔しない」
納得しかなかった。
「だから」
玲奈は、まっすぐ言う。
「武藤くんは、
“必要な人とだけ、
ちゃんと繋がる”タイプ」
その言葉は、
呪いを解くみたいだった。
⸻
帰り道。
大雅は、
自分が“疲れているのに、前向き”なことに気づいた。
(……否定されなかった)
(……ちゃんと、聞いてもらえた)
それだけで、
世界が少し広くなる。
⸻
その夜。
心愛と、通話。
『会ってたんでしょ?
昨日の人』
「……うん」
『どうだった?』
「……怖かった」
『だよね』
「……でも」
一拍。
「……楽しかった」
電話の向こうで、
心愛が小さく息を吸う音がした。
『……そっか』
「……心愛?」
『ううん』
少し間があって、
心愛は言う。
『たいがが、
たいがの言葉で
夢を話してるの、
想像できた』
その声は、
少しだけ、遠い。
『それ、
私の知らないたいがだね』
胸が、きゅっとする。
「……でも」
大雅は、必死に言う。
「……一番最初に、
話したのは、心愛だ」
それは、事実だった。
心愛は、少し黙ってから笑う。
『……それ、
ずるい』
『でも、ありがと』
⸻
翌日のバイト。
澪は、
大雅の様子を見て、すぐに気づいた。
「……話したね」
「……分かります?」
「うん」
澪は、コーヒーを淹れながら言う。
「“考える顔”から、
“決める顔”に変わった」
その言葉に、
背筋が伸びる。
「……澪さん」
「ん?」
「……俺、
ちゃんと現実、見てました」
「それでいい」
澪は、少しだけ距離を取るように、
一歩下がった。
――支える人から、見守る人へ。
その変化が、
大雅には分かった。
⸻
閉店後。
玲奈から、またメッセージが来た。
『次は、
数字と場所の話、しよっか』
『逃げなかったね』
画面を見つめて、
大雅は小さく笑った。
(……逃げてない)
まだ、怖い。
でも。
(……一人じゃない)
翌週。
大雅は、大学の中庭で一人、ノートを開いていた。
ページの上には、箇条書きの文字。
・落ち着ける
・話さなくていい
・長居できる
・安すぎない
・静かすぎない
(……これ、店の条件、だよな)
書きながら、
自分でも曖昧だと思った。
「……条件多くない?」
後ろから、声。
振り向くと、
心愛が立っていた。
「……見てた?」
「がっつり」
心愛は隣に座り、
ノートを覗き込む。
「たいがらしいね」
「……そうか?」
「うん。
“自分が安心できるか”を
一番に考えてる」
それは、褒め言葉のようで、
同時に、怖くもあった。
「……それじゃ、ダメかな」
「ダメじゃない」
即答。
「でも」
心愛は、少し言葉を探す。
「……お客さんは、
たいがだけじゃない」
胸に、ちくりと刺さる。
(……分かってる)
「……分かってる、けど」
「うん」
「……どうしたらいいか、
分かんない」
心愛は、
一瞬だけ目を伏せてから言った。
「……相談、すればいい」
「……誰に」
「もう、いるでしょ」
玲奈の顔が、自然と浮かんだ。
⸻
その日の夕方。
大雅は、
再びコワーキングスペースにいた。
玲奈は、
今日はラフな服装で現れた。
「大学生っぽい顔してる」
「……それ、褒めてます?」
「もちろん」
笑ってから、
すぐ真剣な目になる。
「今日は、
“怖い話”するよ」
「……はい」
「理想のカフェって、
実は一番潰れやすい」
心臓が、ぎゅっと掴まれる。
「“静か”“落ち着く”“居心地いい”
――これ、
回転率が低い」
「……」
「売上、出にくい」
容赦がない。
でも、
目は優しい。
「だからね」
玲奈は、
大雅のノートを指差した。
「この条件、
“全部”じゃなくていい」
「……え」
「優先順位」
その言葉に、
雷が落ちたみたいだった。
「一番、譲れないのは?」
大雅は、
しばらく黙った。
頭の中で、
夜のカフェ、
一人で座っていた自分が浮かぶ。
「……無理に、
話さなくていい」
声は小さかったけど、
確信があった。
玲奈は、
大きく頷く。
「決まり」
「……え」
「それを“核”にしよ」
夢が、
少しだけ形になる瞬間だった。
⸻
帰り道。
大雅は、
初めて誰かに
“夢を削られた”のに、
嫌じゃなかった。
(……守られた)そんな感覚。
⸻
夜。
心愛の部屋。
二人は、
床に座って資料を広げていた。
「……これ、
物件サイト?」
「……うん」
「本気じゃん」
「……逃げたくない」
心愛は、
一瞬、笑ってから言う。
「ねえ、たいが」
「……なに」
「もしさ」
少し、声が震える。
「カフェ、成功したら……
私、どういう立場?」
その問いは、
今まで避けてきたものだった。
「……幼馴染?」
「それだけ?」
胸が、詰まる。
(……今、答えたら)
(……壊れる気がする)
「……今は」
精一杯の言葉。
「……一緒に、
悩んでくれる人」
心愛は、
それを否定しなかった。
「……そっか」
でも、どこか寂しそうだった。
⸻
数日後。
バイト先で。
澪が、
突然言った。
「知り合いに、
物件詳しい人いる」
「……え」
「紹介しよっか」
「……いいんですか」
「条件一つ」
澪は、
真剣な顔で言う。
「“自分の店”を、
人の力で作る覚悟、ある?」
喉が鳴る。
(……一人じゃ、無理だ)
「……あります」
答えた瞬間、
肩の力が抜けた。
澪は、
少しだけ笑った。「よし」
⸻
その夜。
大雅は、
ベッドに寝転びながら思う。
(……人、怖い)
(……でも)
今日、ノートにはこう書いてあった。
・一人でやらない
それは、
コミュ症の自分が
初めて書いた、
せめてもの“約束”だった。




