修行のはじまり
リンネはどきどき、わくわくはずむ胸を押さえてクロトの部屋にやってきた。
これから初めての修行が始まる。魔術師になるための、大切な第一歩。
「たのもーぅ!!」
気合を込めた一声とともに、リンネはドアを叩いた。
「お前は道場破りか。……まあいい、入れ」
中からドアを開けたクロトはさっそく呆れ顔だったが、目が合った瞬間、リンネの瞳はやる気満々にかがやく。
そのまま部屋に通される瞬間も、リンネは弟子になれた誇らしさでいっぱいだった。堂々と顔をあげ、胸を張り、大きく腕を振って、厳かに師匠の部屋の中に進む。
一度入ったことがあるクロトの部屋は、書き物机を中心に、簡素な家具がいくつか置いてある程度だった。だが、リンネは今見える光景に目を疑う。
そこは巨大な書庫だった。哲学的な紋様の彫られた天井と、吹き抜けになった各階には、重厚な本棚がぎっしりと陳列され、大切に保管されている本たちが醸し出す、深沈とした冷たい空気がリンネの鼻先にそっと触れる。
もはや書庫というより、本の城といったほうがふさわしいか。
「お前のくぐったドアはポータル化した転移門だ。ここは俺が秘匿している隠れ家のひとつ。離れていてもコード化した呪文さえドアに施せば一瞬で移動できるようになっている」
リンネはぽかーんと大きく口を開き、自分が師匠と呼ぶ男の魔術のスケールの壮大さに今一度衝撃を覚えた。
「わーーーー!! すっごぉーーーー!! これ全部師匠の本なの!??」
リンネは踊り出すように書庫の真ん中に駆け寄ると、大きく手を広げ、その場で三百六十度回転した。どこを見渡しても、本だらけだ。
「まあな。……まだ解読できていない積読本も、三~四割はあるが……」
ぼそりと低い声で呟くクロトには気づかず、リンネは黄色い声ではしゃぎながら、色んな本棚の前に移動する。
背の高い本棚たちの前には脚立があった。リンネはそれを見て飛び乗り、梯子を遊具のように駆け上がるが、てっぺんに到達しても、リンネの背丈では本棚の半分の高さも届かない。
「師匠~届かないよー――……っ!?」
ぶー、と口をひん曲げて不満を口にした瞬間、「捕まっていろよ」とクロトが言い、人差し指を空に向けた。リンネが身構える暇もなく、脚立はものすごい速さで上昇を始める。本棚たちをとっくに追い越して、何階分も通り過ぎていくと、脚立にしがみついたリンネはあれだけ高かった天井に手がつきそうになる。
そこから書庫の全体を見下ろして、リンネは深い感動に包まれた。これだけの本、リンネなら百年かかっても読み切れない。そこに自分の知らない知識が、知らない世界が、数多となって存在している。
リンネは、この本の城に入ることを許された嬉しさで胸がいっぱいになった。
くるくると周りを見渡し、ふと脚立の下――そこはもう遥か下だ――に視線をやると、クロトの黒い髪が小さな点のように見えた。
彼に向かってぶんぶんと片手を振ると、クロトは立てた人差し指を下ろす。脚立は再び伸縮を始め、ゆっくりとした速度で地に降りていった。
「あー! 楽しかったー! これが修行?」
脚立から降り、ダンスのステップを踏むように絨毯を踏みしめたリンネはその場でくるりと回転し、わくわくとした瞳でクロトを見る。
クロトは「そんなわけがあるか」と冷徹に言った。
彼は手にした杖を掲げ、リンネに四方を見渡すよう促す。
「お前は字が読めるか?」
「読める! 姉ちゃんに教えてもらったもん」
「エルフ語のことか?」
「ううん、大陸の言葉もだよ! どっちも覚えてた方が役に立つかもしれないって、姉ちゃんとか群れの仲間が教えてくれた!」
クロトはその返事を聞いて、「そうか、俺が教える手間が省けたな」と呟く。
「とりあえず、この書庫から一冊本を選んでもらう」
「それから!?」
「それを読んで、内容を俺に話してもらう」
「………それだけ?」
「それだけだ」
クロトは平然とそう言った。
それを聞いて、リンネは一瞬考えると、「それだけ!?」と驚愕しながら聞き返す。
リンネたちはぐれエルフの群れは、人間が去った村の跡や施設の廃墟をたまに隠れ家にすることがあり、そこに放置されている人間の書物の類もよく見つけた。
だが、そういうものを見つけても、姉代わりのイオが「子どもが読むものじゃない」とか「人間の残酷さがわかるからよくない」と言って引き取ってしまうことがほとんどで、リンネは実はまともな本というものを読んだことがない。
姉がくれるのは主に勉強がらみの本だけで、もうとっくに覚えている言葉の辞書や、簡単な算術などの教本とか、面白みのないものばかりだった。
それが、今からここにある本を読んでいい、と言われているのだ。
イオに制限されていた未知の世界が、今、リンネの全方位に広がっている。
「それだけとは言うが、今のお前が理解できる中身の本というと少ないぞ。俺に説明して理解させるとなるとより難しくなる」
クロトの冷静な言葉も、今のリンネには届かない。
リンネはすっかり本の城の虜になってしまったような気分で、うっとりとかがやく瞳で四方を見ると、「お前の手の届く範囲にあるのは一応お前が読んでも問題ない本ばかりだ。脚立を使わないと取れない本は今のお前には無理……」などと師匠が言っている途中でシュバババ!!!と目を瞠る速さで駆け出し、あちこちの本棚の前を高速で移動する。
リンネは興味を惹かれた本をまとめて抱え、持てなくなるほどの数に達すると、近くの読書机にどさどさどさと滝のように本を積み下ろした。
その扱いの粗末さに、持ち主であるクロトが眉をひそめる前に、リンネは瞬く間に色んな本を開き、目をぐるりと回しては、閉じて、次の本に向かうことを繰り返す。
そんなことをひとしきり繰り返して、数分後、彼女が放った言葉は、
「師匠の本難しすぎ!! 何書いてあるかわかんない! ぜんぜん面白くないぃぃ~!!」
「…………そりゃそうだろう」
案の定といったように、クロトは息をつく。
リンネの目の前には小難しい語彙と回りくどい文章が羅列され、ただでさえ本を読みなれない彼女には解読することさえ困難を極めるような書物しかなかった。
クロトがそれをわかっていて修行をさせたことに、リンネもここにきて初めて彼に不満を覚えた。
ぶぅぶぅ、と上と下の唇をぶつけて鳴らし、不満を訴える弟子に、クロトは背を向けると、本の城を後にした。
「自分に合った本を見つけるのも魔術師のセンスのうちだ。ここは屋敷と自由に出入りできるから好きに使え。ひとりで脚立は危ないから使うな」
「せめて師匠のおすすめを教えてよ~!」
「受け売りじゃ意味がない。自分でやれ」
「鬼ぃぃ~! 師匠の鬼ぃい~~~~!!!」
リンネはバンバンと机を叩いて彼をそしるが、クロトは相手にせず部屋を去ってしまう。
机に突っ伏し、しばらく項垂れていたが、このままでは修行にならないと諦め、ようやく顔を上げる。
さっきまでは全方位に広がる書棚を、自分の知らない世界に連れて行ってくれる魔法の鍵とすら思っていたのに、今やそれらは夢の世界からリンネを締め出す強固な門番だ。
「ううぅ~~……!」
唇を震わせ、ぶるんぶるん、と意味のない音を立てて自分を鼓舞しながら、リンネは再び本を求めて旅に出た。
手当たり次第に本を開くと、出るわ出るわ、洪水のような難しい言葉、文章。難解な挿絵。
一文一文をじっくり眺めて観察し、読解しようと試みるあいだに、リンネの脳細胞はしゅわしゅわと泡を立てて消えてなくなるようだった。
そうしていること小一時間。リンネはついに心が折れそうになった。本とは、看板の文字が読めるとか、常識的な単語を聞き取れるとか、そういう基本的なことだけではダメらしい。
おまけに難しい語彙のちりばめられた長い文章は目が滑り、言葉の意味を考えたり想像するだけで脳に疲労感が溜まる。
魔術師とは、皆こんな難しい読書をしているのか……。
リンネは、憧れていた魔術師の実態を知って絶望した。
(わたしに読める本なんか……ないのかな……)
大量に積んだ本を見て、リンネはふと心が空しくなるのを感じた。
しかし、師匠の大切な本であることを思い出し、一冊一冊、本棚に戻し始めることにした。
「これは、ここだっけ………え~っと……」
記憶を頼りに、分厚い本を隙間に押し戻していく。
最後に、脚立を使う高さではないが、リンネの背丈でぎりぎり届くという高さの段に、重たい辞書を差し込もうとする。そのとき、両手で抱えた本の重さでバランスを崩しそうになり、リンネはとっさに目当ての棚の下部を片手で掴んだ。その瞬間、何かの出っ張りがてのひらに触れる感触がしたかと思うと、それは簡単に凹み、がしゃん、と何かが組み合うような音を立てた。
ゴゴゴ……と重々しい音がして、微かな埃が舞い上がる。
あまりに驚いて、リンネはとっさに本を手落としたばかりか、しりもちをついた。
目の前で巨大な本棚が縦に移動したかと思うと、そこにさらに本棚が現れる。
ただでさえ膨大な量の書物だったのに、さらに本棚が隠れていたとは……。
「師匠……こんなにたくさん読んでどうするんだろう?」
師匠への謎が深まる。
リンネは気を取り直して、奥に現れた本棚を眺めた。
すると、奇妙なことに、この本棚に保管されている本はほかの本とは何かが違う。
背表紙が、黄色かったり赤かったり、明るくて派手な、だがどこか親しみやすい暖かい色合いをしている。ほかの難しい本と比べると、厚みも手ごろで、薄いものが多い。何より、造りそのものが違って見える。
違和感を得たリンネが、本を手にとり、表紙に書かれているタイトルを読み上げる。
「『よいこのむかしばなし』」
リンネは、雷に打たれたような衝撃を覚えた。
「………子ども向けの本だ~~~~っ!!!!」
驚きのあまり、その場でぴょん!と跳ねてしまいながら、リンネは快哉の声をあげた。
あまりに嬉しいので、涙まで出てきそうだ。涙で目の前が滲みそうになるのをぐっと堪えて、リンネは震える指先でページをめくる。
「……『むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがすんでおりました。おじいさんは、やまへしばかりに……』しばかり?? しばって何?? 『おばあさんは、かわへせんたくにゆきました』……おばあさんは、川で洗濯ね……ふむふむ、なるほど……」
リンネは、自分でもわかる言葉が使われていることに安心を覚えながら先を読み進める。
本には挿絵がふんだんに使われており、あまり達者な絵柄とは言えない。だが、そのリアルではない、ところどころ大胆に誇張した筆遣いが、却ってリンネの好奇心を惹いた。
老婆も老翁も、見たことのない着物を着ている。だが、ふたりはにこやかに笑顔を浮かべており、リンネにはそれが彼らが優しい性格で、夫婦で仲睦まじく暮らしている証拠に感じて、嬉しくなった。
「『おばあさんがかわでせんたくをしていると……おおきなももが、どんぶらこ、どんぶらこと流れてきました』――どんぶらこ???」
聞いたこともない言葉だ。
川から大きな桃が流れてくるという展開にもびっくりだが、その言葉が妙にリンネの琴線に触れた。
「あはっ……あははは! 変なの! どんぶらこ、どんぶらこ、だって! 意味わかんないよ~!」
おかしさのあまり、リンネはお腹が痛くなるほど爆笑した。うっかり涙まで滲んでくる。
聞いたこともない、だが、へんてこすぎて面白い。なのに、妙に桃が流れてくる絵を想像させてくる。
その言葉の妙なる調べに、すっかりハマったリンネは、歌うようにその先を読み上げた。
「『ももからうまれた、ももたろう』?」
リンネはいつしか絨毯にぺたりと座り込み、真剣な瞳に、好奇心の光を偲ばせて、綴られる物語を夢中で読み進める。
それは、彼女の知らない世界だった。
桃太郎と呼ばれた少年が、動物の仲間とともに鬼退治に出かけ、鬼を倒し、金銀財宝を手にして、おじいさんおばあさんのもとに返ってくる――。
すべてが新しく、奇妙で、面白くて、リンネは、夢中になって何度もその本を読み返す。
「ぷっ……ぷぷ……『どんぶらこ!』『どんぶらこ!』」
くっくっと笑いをこらえ、肩を震わせながら、リンネは何度もその言葉を繰り返す。
その言葉は、魔法のようにリンネの耳に、記憶に、深く刻みつけられた。




