諸悪の根源
ひとりの老人が、牛車を曳きながらふぅふぅと息をつき、額に流れる汗を拭う。
「やれやれ……こんな僻地まで魔族が侵攻とはのう……儂のような身寄りのない老人が急いで逃げたところで、今さら行くあてもないのじゃが……」
男と同じように老いた牛は、とぼとぼと鈍い歩みで彼のわずかな家財を曳いていく。
村の住人はすでに警告に従ってとっくに避難しているが、男は村のはずれに独り暮らしをしていたため、避難命令にはすぐに気がつくことができなかった。
寂しそうな眼で夕焼けの空を見上げ、男は口ひげを撫でながら、
「まあ、軍の命令には従わんとな……」
と、己を納得させ、指示された避難場所に向かう。
ここは砂漠の都市エスメラの遥か東――大陸連合〝セントラル〟の主要国、ヴァイスレッド帝国の管理する開拓地のひとつだった。何百年にも及ぶ魔王軍と人類の争いは十年前に終結したが、長きにわたる侵攻によって人間の土地の多くは荒廃していた。戦いで国自体が滅び、そもそも誰も所有していないという土地も数多とある。連合はそういった土地に戦争で故郷や家族を失った者たちを移住させ、人類の所有地を少しでも奪還、拡大しようと画策していた。
だが現実には、働き盛りの若者から戦争によって徴兵され、命を落としてきたという背景がある。開拓とは名ばかりの、極度の過疎地が急速に増えつづけるばかり。
一方で、家族や故郷を失った老人たちは、こうして宛がわれた土地に縋るほかない。
「おっ、と……!?」
牛の手綱が強く引っ張られてて、男は危うく転倒しかける。
牛車の車輪が石を巻き込んだらしい。そのせいで脱輪した荷台の重さに耐えきれず、牛の方が転倒し、悲愴な声でグー、モーと飼い主に向かって助けを呼んでいる。
「おぉ、すまんな……急かされたせいで車輪の整備もままならなかったんじゃ、許しておくれ……」
老人はそう言って愛牛の頭を撫でて元気づけてやり、荷台の方に回ろうとした。
「おじいさん、大丈夫ですか?」
若い男の声がして、倒れたはずの荷台がぐっと持ち上がった。
大した家財は載せていないが、帝国に貸与された農機具や牛の餌を合わせるとかなりの量になる。
男が荷台に近づくと、そこには赤茶色の髪をした闊達そうな青年が荷台を片腕で支えていた。
整った顔立ちをしていて、好感の持てる爽やかそうな青年だったが、その表情はどこか物思いに耽っている最中のような、年齢不相応な静かな影を纏っている。
その言い知れない寂れた雰囲気に、老人は一瞬呑まれそうになりながらも、冷静に状況を察して彼に礼を述べた。
「お、おぉ、すまん若者よ……! 今車輪を付け直すから、そのまま支えておいてくれ」
「ええ、わかりました。急がなくて大丈夫ですからね」
「お前さんも……帝国の兵隊さんかね?」
老人は手際よく作業しながら若者の身なりを確かめた。
白を基調とした制服のような清潔な衣装に、簡素な軽鎧の装備をつけた姿は、一兵卒にも将校にも見えず、どちらかといえば平民のようですらあった。
だが、腰に剣を帯びた彼の纏う雰囲気は妙に洗練されているというか、立ち姿ひとつとっても隙のない身のこなしをしている。
若者はふっと妙に達観した微笑を浮かべると、穏やかに言った。
「ええ、まあ……軍に雇われてる者です。魔族の侵攻を止めに来ました」
「そうか、こんな寂れた地の老人を救いに、よう来てくださったものじゃ……ありがとう。儂の孫も生きておったら、お前さんと肩を並べて戦っておったかもしれんのぉ」
「……お孫さんは」
若者は、わずかに顔を伏せて問うた。
「ああ、死んだよ。十年前、魔王が征伐された後に、魔族の敗残兵どもが帝都を襲撃したじゃろう? あの襲撃で、孫も嫁も息子も……。親玉の魔王を殺されて、捨て身の復讐に走ったテロじゃというが……」
若者は何も答えなかった。
もはや男の中には、恨みも怒りも残っていない。
家族を理不尽に奪われたときに、涙は出尽くした。
今はただ、ひとり残された現実を直視することしかできない。
それでも、一度口にすると、どうしても言葉にせずにはいられない。
「………勇者が、〝ポータル〟を開いたからじゃ」
魔王の居城は、人類の住むアルゼシリア大陸から大海を隔てて存在する魔境、モルゲニアにある。魔族が海を隔てた人類の土地へと容易に侵攻できたのは、彼らの使うポータルと呼ばれる転移門があったからだ。
その巨大にして強大なポータルは各地にあり、軍の一個大隊規模の魔物を一瞬にしてアルゼシリアへと送り出せる。しかも、アルゼシリア側にはどこにポータルの出口が開通されるのかは予想できない。人類が何百年も劣勢に追いやられてきたのは、その魔王軍の神出鬼没性にあった。
だが、十年前、ある冒険者パーティーがポータルの謎を解明し、大陸から魔境モルゲニアに進軍。幾多の戦いを乗り越えて魔王城まで到達し、魔王そのものを打ち滅ぼしたのだ。
しかし、問題は彼らの帰途にあった。
彼らはモルゲニアからポータルを開き、アルゼシリアに帰還した。
そしてあろうことか、ポータルの出口を塞がなかったのである。
「魔王を倒したことに浮かれて、うっかり戸締りするのを忘れたんじゃろう。そのうっかりのせいで、何万人も死んだ……儂の家族もな。大きなことを成すのなら、最後の最後まで気を抜かんのが普通じゃないかのう? 少なくとも、儂ならそんなケアレスミスは起こさんわい」
老人は眉間に深い皺を刻み、自然と険しくなったまなざしで手元を見た。痩せさらばえた指は土と泥に汚れ、小さな孫の手の感触すら覚えていない。
功を焦った若者の不手際で、皆が死んだ。ときどき、無性に思い出す。魔王を討伐後、帝都に凱旋を果たした冒険者パーティーのリーダーの面構えを。
まだ十四、五の少年だった。自分の孫は、その年まで成長できずに、死んだ。
自分は帝国民どころか、世界中に愛されているのだ、と確信しきった、あの緩んだ笑顔を、思い出す。
忘れかけていた怒りの情念が、男の臓腑を焼く気配があった。
そこで、本人は唐突にわれに返り、「そうら、できたできた」と嵌め直した車輪を見て陽気そうに言った。
「ありがとうな、お前さんも気をつけて戦っとくれよ。あの、〝勇者〟とかいう、調子に乗った若者の尻ぬぐいで、お前さんたちも大変じゃな」
「……ええ、そうですね」
若者は、木漏れ日のような淡い微笑を浮かべて頷いた。
二たび礼を言い、男が先を急ごうとすると――空から猛々しい角笛の咆哮が響いてきた。
牛が怯えた声を漏らし、男は何が起きたのかと慌てる。
「大丈夫です! あれは帝国の竜騎兵の――」
「上級悪魔族・総司令官アルティマ、出現―――ッ!! 全軍、戦闘配置に就け――ッ!!」
空から翼竜に騎乗した伝令が角笛を吹き、土地一帯に警戒を呼びかけている。
「予想された襲撃が早まったんです! おじいさん、早くここから――」
「探しましたよ! 〝勇者殿〟!!」
空から女の声が降ってきたかと思うと、若者の前に一本の腕が伸びてきて、その肩を掴む。
翼竜に騎乗した女は片腕の力だけで相手を引き上げると、あっという間にその背に同乗させてしまう。
「魔力解析が進んだ結果、この近くにポータルが出現するそうです! 魔力の震源は、元魔王軍の四天王総帥、ウルティマ将軍の弟――、アルティマとのこと! 〝勇者殿〟! 貴方のご助力を願いたい!」
竜が羽ばたくたびに女の金髪が風にたなびき、後ろに乗った男の視界を阻む。
勇者と呼ばれたその男は、苦渋を浮かべた顔で遠ざかる地上を見やった。
老人は茫然と目を見開き、絶望に染め上げられた表情でそこに立っていた。
「ん? 勇者殿!? 何かありましたか!?」
「………いいえ、なんでも……ありません……」
勇者と呼ばれた男、ウィル=エルレインの声は、すでにもう地上には届かない。
高速の翼竜は赤焼けの空を引き裂き、軍の到達地点である荒野へと急いでいた。
いつだってそうだ。
自分の本当の声は……誰にも届かない。
だが、それこそが世界から与えられた罰だと、彼は知っていた。




