番外編1・野営の夜
砂漠を抜けて初めて迎えた夕方。
東寄りになったことで緑も目立つようになり、クロトたちは林の中で野営を敷くことにした。
魔法で熾した火に当たりながら、修行の課題である絵本をせっせと読むリンネを横目に、クロトは杖を片手に立ち上がる。
「周囲に結界を張ってくる。あまりここから離れるなよ」
「はーい師匠」
「あと、あまり急いで本を読み進めると、後で読むものがなくなるぞ。書庫へのポータルはしばらく使えないからな」
「なんでー?」
「俺の作ったポータルはドアを介さないと使えないんだ。建造物のないところにドアだけ突っ立っていても、〝ドア〟という概念は成立しない。概念は異なる空間同士を繋ぐための楔であって、エーテルに介入するための媒介でもあり……」
もののついでにと説明を続けたクロトだったが、ふと妙に静かな気配を放っているリンネを見下ろす。
リンネは片手で腰を支えながら、近くにあった棒切れを杖代わりにして、「ホホホ……」と穏やかに笑い声をあげた。
「若い人の言葉はハイカラすぎてわかりませんねぇ~……アタシのような年寄りにはちんぷんかんぷんですよ……」
「…………」
現実逃避に老婆のふりを始めた弟子を無言で見つめ、クロトはため息をついた。
種族としては未熟な少女だが、実年齢では百才に迫るエルフが言うと洒落にならない。
「お前も魔法使いの弟子を志すなら、簡単な専門用語ぐらい耳に入れておけ。最初から理解することを放棄するな」
「ふぇっふぇっふぇっ……若い人は無茶を言いますねえ。ねえ、おじいさん?」
「ああ、俺も何を言われているのか一語たりと理解できなかった」
急に振られても冷静に対応するセロニアス。
そのふたりの長命エルフのとぼけたやりとりに、いち人間の青年であるクロトは複雑な心情を禁じ得ない。
「はあ……もういい。それよりセロニアス、このあたりで資材を集めるのを手伝ってほしい。ロイテールまでの旅程は徒歩を想定しているから、何日か野営が必要になるからな」
「わかった、マスター」
セロニアスもまた腰を上げると、リンネは少し不安そうに視線を上げた。
無論、これから結界を張るのだから彼女の身の安全は問題なかった。だが、奴隷市から解放されてからずっとクロトたちの保護下にあって、初めて物理的に一人になるのは不安らしい。
「バッグパックに食料品が入っている。リンネ、食事の用意はできるか?」
そのため、気がまぎれるようクロトは少女に仕事を与えることにした。
師匠から頼み事をされて驚いたのか、リンネはぱちぱちとまばたきすると、「ごはん? 私が作っていいの?」と聞き返した。
「ああ、簡単なものでいい。新鮮な食材から先に使って、あまり贅沢には……」
「うわー!! リンネちゃん、料理は大得意なんだよ師匠っ!! 群れでも食事当番のときはシェフって呼ばれてたんだからっ!!」
リンネは喜色満面で飛び上がった。
その意外すぎるモチベーションの高さにクロトは少々面食らったが、喜んで引き受けてくれるというならこれ以上のものはない。
クロトがセロニアスとともに野営を離れていくのを、リンネは両手を振って見送った。
数十分後。
結界の展開と周囲の状況確認を終えたクロトは、木材を抱えたセロニアスを連れてリンネのもとに戻った。
そこに広がっていたのは………、
「前菜のキャベツのスープに、サラダはカブの酢漬け。メインには、きのこの串焼きでーす!」
透き通るような色合いにスープに、くたくたに煮込まれたキャベツ。
ビネガーの爽やかな香りを放つカブの薄切りに、串に通され香ばしい焼き目のついたきのこ。
木のボウルと葉っぱの皿に丁寧に盛られた本日のコースを前に、クロトは一時思考停止した。
「…………その、まさか………」
あろうことか、クロトは考えが及ばなかった。
森での生活を好むハイ・エルフは、自然の恵みを大事にしている。
たとえ正規の種族から外れたはぐれエルフであろうと、食の好みは変わらないだろうという予測が、なぜできなかったのか。
屋敷では食事は好きなようにとらせていたからわからなかった。
一日砂漠を歩き通した、平均的な成人男性の栄養補給として、これは……。
クロトが気まずそうにしていると、リンネは気がついたかのように手を叩き、
「あ、もちろんリンネシェフのスペシャリテもあるよ!」
「え……」
「本日の目玉は、じゃじゃーん! 大根のミントジュレ寄せ・キイチゴのソース風味だよっっっ!!」
まず最初に鼻腔を突くミントの強い香り。その後、鼻から流れ込んできた野生のベリーの甘酸っぱい芳香が、大根のほんのり辛い風味に乗って、クロトの胃の腑を焼いた。
資材を抱えたセロニアスに至っては、真顔で硬直している。
当のシェフは達成感と誇りに満ちた表情で、師匠と先輩エルフに着座を促す。
なすすべもなくクロトたちは少女の言いなりになった。
まず前菜にと渡された木の器から、キャベツの青っぽい香りを嗅ぐ。
「……味付けは……」
「もっちろん、食材の味を生かすために、塩だけだよ! ちょっぴりのお塩が、キャベツの甘みを引き出すんだよ~っ!」
えっへん! と得意そうに知識を披露し、胸を張るリンネ。
クロトは温かい器を両手にしたまま、ごくりと固唾を飲んだ。
「キャベツはよく煮たから味わって食べてね! 師匠っ!」
眩しい笑顔が、クロトの人としての善良な部分を焼く。
自然と早まる鼓動。背中に滲む冷たい汗。こういう食事には覚えがある。両親が忙しいとき、預けられた祖父祖母の家で、「身体にいいから」「こういうの食べてたら早く大人になれるから」と言われてふるまわれた健康的な、しかし子どもの味覚に合うとは言えない滋味溢れる献立たち。
たまにしか会わない祖父母の前で見栄を張って、無理やり平らげていた記憶がクロトの脳裏に蘇る。
皮肉なことに、久しぶりに思い出した肉親の記憶がそれである。
凍りつくクロトの横で、何か深く思いつめるような表情をしたセロニアスが、スプーンを握った。
クロトがびくりと肩を震わせていると、彼は大きく器を傾け、がばり、とスープを口に放り入れた。
ぞぞぞぞぞぞぞ………とキャベツと塩味のお湯をひと息に啜るセロニアス。
そして、口いっぱいに詰まったキャベツを、もっしもっしと咀嚼していく。
その豪快な食べっぷりに、クロトはしばらく放心した。
「パイセン! 良い食べっぷりだね! キャベツ、好き!?」
ひとしきり咀嚼した後、ごくりと呑み込み、息をついてセロニアスは言った。
「嫌いではない」
「そっか! じゃあ、おかわり要る!? まだまだあるよ!」
「…………………。もらおう」
セロニアスはあきらかに躊躇ってから、少女に空の器を差し出した。
クロトはその決死の姿勢を見て、雷鳴に打たれたかのような感覚を覚えた。
こんなにも自分を殺しているセロニアスを見るのは初めてだ。
二杯目も大きくいくセロニアスを見てから、リンネはやや不安そうにクロトを見た。
「師匠……あんまりお腹、空いてない?」
弟子の純粋に心配するまなざしに、クロトは心が折れた。あるいは、覚悟が完了した。
セロニアスに負けず劣らず、塩味のキャベツを豪快にほおばると、細かく噛んで機械的に飲み干す。
塩で引き立つ葉野菜の青臭い風味と、妙にトロッとした芯の歯触りが舌に残る。
だが、クロトは横の男に倣ったわけではなく、自らの意思で、
「…………おかわり」
「はいよーっ!! スープおかわり一丁~!!」
と、空の器を少女に差し出した。
気風のいい職人のように鼻をこすって、リンネは颯爽と二杯目をよそう。
その後も、クロトとセロニアスは食べた。
ひたすら、食べ続けた。
最低限の味付けがされた野菜たちを。
ふたりの男があまりにも景気よくおかわりを要求するので、リンネシェフは大忙しで給仕に走り回り、鍋が空になる頃にはすっかり夜も更けていた。
明日も旅は続く。
体力を養うため、早めに寝支度を済ませ、就寝。
「……………………。」
妙に寝付けず、クロトは満天の星を見上げながら、思った。
満腹なのに、何かが絶望的に満たされない………。
しかし、油断して腹の音を立てようものなら、向こうで寝ている弟子が気づきかねない。
切なさを訴える腹部を押さえながら必死で気を逸らそうとする。
「う~ん……むにゃむにゃ……白菜のおつけもの……」
弟子の大きな寝言がクロトの精神を追い詰めた。
これ以上ヘルシーな食べ物の話をされたら気が狂いそうだ。
歯を食いしばり、毛布を頭まで引き上げたクロトは、その瞬間、衣擦れの細かい物音を聞いた。
大きな体躯に見合わない最小限の物音で、寝所からそっと抜け出したセロニアスは、林の中に向かっていく。
その背中が林の奥に消えてからしばらくして、胸騒ぎに駆られたクロトもまた静かに身体を起こした。
その瞬間。
「……すぅ……すぅ……ぅううん……ねえちゃ~ん……ナスのおひたし食べすぎだよぉ……」
「………………」
なぜかばつの悪い思いをしながら、クロトはその場を後にし、林に消えた従魔の跡を追った。
魔法で足音を消し、セロニアスの行方を追うことしばらく。
やっと見つけた彼は、鼻息の荒い巨大なイノシシと対峙していた。
しかもがっぷり四つで獣と組み合っている。
「ブギイィイイ~~~……!!!!」
「…………ふんッッッ!!!」
正面からぶつかってきたイノシシの牙を掴んで押さえ込み、攻撃を防いだまま、セロニアスは裂ぱくの気合で獣の巨体を投げ飛ばした。
野生のイノシシは軽々と吹っ飛び、大木に激突して沈黙した。
命を落とした獣に向かって、セロニアスは一礼すると、懐からナイフを取り出した。
手際よく解体を済ませると、必要なだけ肉をそぎ落とし、ナイフに串刺しにして熾した火に近づける。
そう時間もかからないうちに、ナイフの先から新鮮な脂がじゅわりとこぼれ落ちた。ちょうどいい赤みを残した肉に、セロニアスはかぶりつくと、惚けた表情で咀嚼していた。
茂みに隠れてクロトのもとに、肉が焼け、ワイルドかつジューシーな脂がしたたる匂いが風に乗って届く。
ぎゅーぅぅううう……………。
「っ………マスター!?」
「…………」
クロトはなぜ腹の音を消す魔法を編み出しておかなかったのか後悔した。
喘ぐような腹の音を聞きつけ、肉を口にいっぱいに詰め込みながら振り向いたセロニアスは、信じられないものを見たような目をクロトに向ける。
しばらく無言で見つめ合った後、じゅわ……とセロニアスの手元で焼ける肉が脂を弾けさせた。
その瞬間、すべてを理解したらしいセロニアスは、何も言わずにナイフごと刺さった肉を差し出す。
言葉はもう、いらなかった。
施しを受け、心の中で泣きながら、クロトは舌の上で溶ける肉と脂の旨味に感謝した。
セロニアスは淡々と追加の肉を焼き、淡々と己も食う。
「マスター。………俺はずっと、自分はエルフでもなければ人間でもないと思ってきた」
焼けていく肉を見つめながら、セロニアスはふと呟いた。
「だが、リンネの手料理を食べたとき………『もしかしたら俺は人間寄りかも』と思った。生まれて初めてだった。俺はエルフの暮らしはできそうもない……」
「……自分を偽る必要はない」
嘆く半人半魔の従魔に向かって言いながら、(ここで良いこと風に言う必要はあっただろうか?)と謎に違和感を覚えたが、クロトはその後も食欲が収まるまで肉をほおばった。




