4.交流
───翌日───
翌日の夕方、宣言通り手土産に菓子折りを買って帰宅し、すぐ藍川さんの家を訪ねた。そしてその場でしばらく日和り倒したのち、意を決して隣の部屋のチャイムを押す。
───ピンポーン
あぁ、押してしまった……神様仏様翠川様……どうか、どうか、せめて居留守だけは勘弁してください……!
───カチャッ
ドアが、ゆっくりと、ほんの少しだけ開いた。
「……あ、こ、こんにちは……」
声がした瞬間、俺の心臓が跳ねた。
よ、よし……とりあえず居留守だけは回避できた……!
今日はラフなパーカー姿で、髪を結んでいる。やっぱり、どこか儚げな雰囲気のある子だ。
しかし、この声……気付きづらいが、よく似てる。翠川エリの、それと──
「あ、どうも。また急にすみません。………あ、これ。知り合いに実家が和菓子屋のヤツがいまして、そのツテでもらった物なんですけど、よかったらどうぞ」
メチャメチャ嘘です。あなたに近づくための課金アイテムです。
「えっ……あ、そんな、気を遣わせてしまって……でも、ありがとうございます……」
こちらこそ、気を遣わせてしまってマジすいません。
…………いやそうじゃなくて!
「菓子折りを渡しに来たのも勿論なんですけど、今日はこの前電気屋で会った時のことを話したくて。……覚えてます?」
「あっ………………」
彼女の目がすっと泳ぐ。その挙動の一つひとつが、まるで踏まれた猫のように敏感だ。
また、あの時のようににげられてしまうのではないか……一抹の不安が頭をよぎる。
だがこればかりは、面と向かって彼女にきちんと伝えなければならない。
「あの時は……その、本当にすいませんでした。……知り合って間もないのに、強引すぎてましたよね……?そのせいで不快な気持ちにさせちゃって……」
「えっ……いや、そんはことは…………」
「いや自分でも分かってるんです。俺って昔っから独りよがりで、周りのこととかが全然見えてなくて……。そのせいで今までも同じような失敗をしてきてるのに…………ホント同じ失敗ばかりで……」
「ち、ちが……っ、ちがうんです……っ!」
突然、藍川さんが慌てたように声を上げた。瞬間、その瞳に浮かぶ涙が光を反射するのが見えた。
小さな声。けれど、その目は俺をしっかりと見ていた。
「………………藍川さん?」
「……ちが……うんです……わたしが、……わ、悪かったんです……」
声が震えている。か細く、すぐにでも途切れてしまいそうなその声を、俺は聞き逃さぬように集中した。
「……わたし、人と話すのが……とても苦手で……昔から、ずっと……」
言葉を続けるのが、きっとものすごく苦しいのだろう。でもそれでも、逃げずにいてくれている。
「……わたし、ほんとは……仲良くしたかったんです。でも、でも……! 怖くて……どうしていいか、分かんなくて……!」
言葉が、まるで堰を切ったように溢れてくる。必死に絞り出すようなその声には、長年心の奥に閉じ込めてきた葛藤と、自分自身への怒り、そして――ほんの少しの、勇気が混じっていた。
「本当は……こんな自分、やだって、ずっと思ってて……。でも、でも、やっぱりダメで……」
あぁ、俺と同じだ。俺だって、変わりたいって思ってる。けど、なかなかうまくできない。その不甲斐なさに、何度も自己嫌悪して……。
「……なんか、似てるなぁ、俺たち」
思わず、そう呟いていた。
藍川さんは、びっくりしたようにこちらを見た。涙が、まだ頬に残っている。
「……俺も、ちょっと変わりたくてさ。あのときのこと、ちゃんと話さなきゃって思ったのも、そういう気持ちがあったからなんだ。……俺自身、全然大した人間じゃないけど、もし良かったら、少しずつでも仲良くなれたらなって……」
驚いたことに、今まで使っていた敬語も自然と消え去っていた。
このときすでに、自分にとって彼女は赤の他人などではなくなっていた。
そう、彼女の言葉を聞いた瞬間、何かを感じたんだ……今まで感じたことのなかった、確かな心の繋がりのようなものを……
そして、藍川さんは目を伏せて、少しだけ考えるような素振りを見せたあと――
「……ゆっくり、なら……」
その声は、蚊の鳴くような小さな声だったけど、はっきりと聞こえた。
「……仲良く……して、ください……」
その瞬間、何かが胸の奥でぽんっと弾けた気がした。
「っ、……うん! こちらこそ、よろしく……!」
ぎこちなくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて、顔が勝手に笑ってしまう。
藍川さんは少しだけ戸惑ったような表情をして、それから、ほんの少しだけ――笑った。
とても、柔らかくて、透き通るような笑顔だった。
───少し前まで、自分は彼女の素性を暴こうと躍起になっていたはずだった……。隣人があの翠川エリかもしれないと、心を躍らせていた自分がいた……。なのに、今は不思議とそんなことはどうでも良くなっているっている自分がいる。
だって、今目の前で、こうして俺の言葉に応えてくれた彼女こそが――
きっと、誰よりも大切な人になる気がしたから。




