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空白のアクレリア  作者: 新田 あめ
第1章:セントラル
9/10

8.出発の決意

朝、部屋には淡い光が差し込んでいた。少し空いた窓のカーテンが、風に揺れている。

ベッドの上では、イリアが布団にくるまりながら、静かに身じろぎした。


「……ん……」


ゆっくりと目を開ける。見慣れない天井。そして——頭が少し重い。


(え、ここどこ……あれ……?)


思考が追いつかず、イリアはしばらく茫然と天井を見つめていた。

ふわっと、果実酒の甘い残り香が鼻先に残っている。


「……うそ。私まさか……やっちゃった……?」


跳ね起きかけた瞬間、ずきん、と頭に鈍い痛み。二日酔いだった。

額を押さえたイリアは、少しだけ冷静になって部屋を見渡す。簡素で、無機質な部屋。家具は最低限。生活感のかけらもない。


「ここって……エルシードくんの部屋……?」


そこでようやく、昨夜のことが断片的に蘇る。

——レイと居酒屋に行って、お酒を飲みすぎて……酔って、ふにゃふにゃになって……そのあと……。


「………………」


イリアはベッドの上で、ひとり静かに頭を抱えた。


(なにやってんの、私……!)


そのとき、カチャ、とドアの開く音がした。


「起きたか」


レイだった。Tシャツ姿で、手にはマグカップを持っている。無表情のまま近づいてきて、イリアの前にそれを差し出す。


「水…」


「え……」


とまどうイリアに、レイは眉ひとつ動かさずに言う。


「昨日、かなり飲んでたの、記憶あるか?」


「え、あ……ちょっとだけ、あるような、ないような……?」


とぼけるように目を逸らしながら答える。でも 本当は…(うそ。けっこうある。でも思い出したくない……!)


「そうか。じゃあそれでいい」


レイはそれ以上なにも言わず、椅子に腰を下ろした。

無表情に見えたその横顔に、ふと、イリアは視線を向ける。


「……その、レイは、昨日のこと、どう思ってる?」


「特に何も」


「……本当に?」


レイは一瞬、目を伏せた。それからわずかに目線を横にずらす。


「主任は、無防備すぎる。……気をつけたほうがいい」

(普通の男なら……勘違いする)


イリアはその言葉に一瞬だけ戸惑って、それから頬を赤らめた。


「え、ちょ、ちょっと待って、わたし、一体何を…」


「昨日、イリアと呼べと言われた。あと、俺のことも名前で呼ぶって…覚えてるか」


「あ……」


言われてから、昨日何があったのかようやく思い出した。


(わたし、言った。言ったよね、「レイって呼んじゃおうかな」って……)


「……レイ、覚えてたんだ……」


「忘れるわけない。酔ってたのはイリアだけだ」


レイは淡々とそう言いながら、また視線を逸らす。

イリアは水を飲みながら、俯いて小さく笑った。


(この人、やっぱり優しい。無口で、ぶっきらぼうなのに——ちゃんと、優しい)


マグカップを持つ手に、すこしだけ力が入った。


(あれがわたしじゃなくて、他の誰かだったとしても。きっとこの人は同じようにしたんだと思う。……でも——)


ふと、レイが立ち上がった。


「まだ休んでろ。あとで軽食持ってくる」


「うん……ありがとう、レイ」


その名を呼んだ瞬間、レイの足が一瞬だけ止まる。

けれど何も言わず、そのまま部屋を出て行った。


(……もしかして、ちょっと、照れてた?)


イリアはそっと、マグカップを抱えたまま、もう一度小さく笑った。


***


イリアはレイより一足先に彼の部屋を出た。


シャワーを浴びたばかりの髪は、まだ濡れている——レイの部屋を、そっと、ひとりで出てきたばかりだった。


胸の奥に残る、ほのかな熱。昨夜の会話も、沈黙も、近すぎた距離感も、どこか現実味を失っていく。無人の廊下に出た瞬間、あの柔らかな空気が、夢のなかの出来事だったように感じた。


(……でも)


イリアは廊下を歩きながら、思わず胸元を押さえる。


(私、浮かれすぎだ)


あの時間は、確かに特別だった。あんなに穏やかで楽しい気持ちになれたのはいつぶりだろう。気づけば、どうでもいい話をして、たくさん笑っていた。こんな風に心からリラックスできたのは久しぶりだ。


けれど同時に——レイと過ごした時間が、イリアの中にあった迷いを断ち切ってくれた。


(私が、解き明かさなきゃ。ライゼス村のことも、レイの故郷のことも)


いま、アクレリア中の情報網からライゼス村の存在が消されている。新聞にも地図にも記録にもない。最初から村が無かったかのような、奇妙な現象。調査を頼もうにも、「そんな村は存在しない」と言われて終わる。だったら、自分で行くしかない。自分の目で見て、確かめるしかない。


研究室のドアを開けると、冷たい空気がふわりと身体を包んだ。


イリアはバッグを棚に置き、端のソファへ腰を下ろす。始業まではまだ少し時間がある。いつもならすぐにデスクに向かって作業を始めるのだが、今日はなぜかそれができなかった。


二日酔いの気持ち悪さを抱えながら、天井を見つめる。


(片道一週間。往復と調査を含めれば、少なくとも三週間……)


頭の中でざっとスケジュールを立ててみる。高速鉄道と連絡バスを使えば途中まではスムーズに行けるが、最後の山間部には乗用ルルファでの移動が必要になる。宿泊先も考えて移動しなければならない。でも、これ以上だらだらと情報を探っていては——そろそろ機関に勘付かれる可能性がある。そう考えると、すぐにでも準備が必要だった。


「行こう」


イリアはそう呟き、姿勢を正した。端末を起動し、休暇申請フォームを開く。


申請期間を「三週間」と入力するのをためらった。こんなに長期の休暇を突然申請したら、クロイツ部長に何と言われるか……でも。


(そんなの、どうでもいい。大切なのは、ライゼス村の真相を知ること)


イリアは入力を終えると、[印刷]ボタンでにカーソルを合わせ、エンターキーを押した。


始業後にクロイツ部長の元へ行き直談判する予定だ。


ふと、小さく笑みがこぼれる。


(なんか、久しぶりに「私」でいる気がする)


両親のことも、幼馴染のことも、私の大切な思い出がすべてが消された世界で、自分だけが真実を覚えている。その孤独と焦燥は、いつの間にか重い鎖になっていた。でも今は違う。昨夜のレイとの会話が、イリアの中の何かを少しずつほどいてくれていた。


「おはよう」


ドアが開き、レイが入ってきた。


「あ……さっきぶり」


思わず声が裏返り、イリアは咄嗟に目を逸らす。今朝のことを思い出してしまって、顔が熱くなる。


「……急にいなくなるから、少し焦った」


レイの言葉は、ほんの少しだけ、責めるような響きがあった。


「ごめん、レイに迷惑かけたくなかったの」


「俺は別に……」


イリアは立ち上がり、顔を上げた。


「もし誰かに見られて、変な噂が立ったら……レイに迷惑かけちゃうでしょ」


その言葉に、レイはしばし黙った。


そして少しだけ視線を逸らして、ぼそりと呟いた。


「俺は……イリアとなら、別に何と思われてもいい」


「え……」


イリアは顔が一気に熱くなるのを感じる。


(この人…絶対、女たらしだ……騙されちゃダメ……)


そう思いながらも、胸の鼓動が鳴り止まない。

レイはそれ以上何も言わなかった。


なんとか平静を装いながら、作業の準備を始めた。


「……そろそろ仕事、始めようか」


「……ああ」


互いに目を合わせるのが少しだけ気まずくて、それでもどこか温かい空気が、研究室の中を静かに満たしていた。


レイが端末を開き、今日のテスト予定を確認し始める。イリアも、モニターに鉱装の設計図を表示し、微調整の準備を始めた。


——けれど、イリアの胸の奥には、さっき決めたばかりの「決意」が熱を持って灯っている。


自分の目で、確かめに行く。たとえ何が待っていようと、もう迷わない。


イリアの視線が、ふと休暇申請の用紙に向かう。


「部長……説得できるといいけど」


小さく呟いた声に、レイが振り向いた。


「何か言ったか?」


「ううん、なんでもない」


イリアは笑顔を作って答えた。


(行こう、私の故郷——ライゼス村へ)

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