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空白のアクレリア  作者: 新田 あめ
第1章:セントラル
8/10

7.お酒と甘い夜

TMD任務を終えて戻ってきた日から、イリアの様子は少し変わったように見えた。


やたらと作業のスピードが早い。

報告書の処理も、鉱装の調整も、必要以上に丁寧だった。

まるで何かに追われるように、黙々と手を動かしている。


(……無理してるな)


声をかけようとしたが、うまく言葉が見つからない。

問いただすには、タイミングが悪い。イリアの集中が

深すぎる。


焦り、もがき……?

けれど、彼女は何も話してくれない。


「……調整、終わった」


ふと、イリアが口を開いた。

今日は珍しく早めに区切りをつけたらしい。

少し考えるような間を置いて、続けた。


「まだ少し早いけど……食堂、行かない?」


言い終わったあとの表情が、ほんのわずかにほころんでいた。

作り笑顔ではない、自然な笑み。

それを見た瞬間、レイの中のわだかまりが、少しだけ緩んだ。


「……ああ」


短く返事をする。

イリアの歩調に合わせること。それが今の自分にできる精一杯だった。


横に並んで歩く彼女は、少しだけ肩の力が抜けているように見えた。

無理に問い詰めなくてよかった。


(今はただ、隣で、見守るだけでいい)


レイは、イリアの表情を盗み見る。

明るい笑顔。

けれど、笑顔の裏側に——何かが潜んでいるように見えた。


***


食堂でイリアが頼んだのは「日替わりのデミグラスとチーズのオムライス」。そしてレイはいつものように「E定食」を選んだ。


E定食——それは一部の者に密かに人気のある、タンパク質と食物繊維に特化したメニュー。栄養価は高いが、味は限りなく淡白。それをあえて選び続けるあたり、レイの性格がにじみ出ていた。


「またそれ?」


イリアが笑う。チーズがとろけたオムライスを目の前にしながら、対面の質素な定食に目を向ける。


レイは少しだけ得意げに、「バランスがいいからな」と返した。


その真顔が妙におかしくて、イリアはふっと笑ってしまう。


「もう、それしか言わないじゃん。わたしも見習ったほうがいいのかなぁ、その健康意識。最近肉付きが良くなってきた気がして…」


そう言いながら、イリアはほっぺをつまむ。


(いや、主任はそのままでいい)


もちろん、口には出せない。


彼が配属されてきた当初は、至る所で女性社員たちが彼の噂をしていた。あの人、かっこいいよね、なんて。けれど今では、そんな声はほとんど耳にしない。


イリアにとって、顔立ちがどうとか、そういうことで誰かを意識する感覚はよく分からなかった。でも、レイの噂が下火になった理由は予想できた。


(かっこいいのは事実だけど、それと同じくらい、初対面の人には冷たいもんね)


「そういえば、街に出たことある? 前は休日によく行ってたんだ。最近、6番地にチーズケーキの美味しいお店ができたらしくて、ちょっと気になってるんだよね。まぁ、休みなんてほとんど取れないんだけど」


イリアが楽しそうに話す。レイは少し考えてから言った。


「街には、ほとんど行かない。休日は身体づくりと訓練に時間を使ってる」


「真面目だなあ」


その実直さがなんだか可笑しくて、イリアはくすりと笑った。


***


週末。

イリアは研究室で、たまっていた事務処理を淡々とこなしていた。


(……はぁ、やっと終わった)


書類を机に置き、椅子にもたれかかる。背中にじんわりと疲れが滲む。

少しの間ぼんやりと天井を見つめていると、ふと数日前の会話が頭をよぎった。


——6番地にある、美味しいケーキ屋さん。


(……そういえば、そんな話してたっけ)


迷うように視線を落とし、それから静かに立ち上がる。


(……行ってみようかな)


ひとりで街に出るなんて、いったいどれくらいぶりだろう。

いつもなら、仕事がひと段落したあとはそのまま研究室に籠もって、趣味の鉱装開発に没頭するのが常だった。

今は、ライゼス村のことをもっと調べたいという思いも強い。焦る気持ちは、消えていない。


——けれど今日だけは、どうしても気持ちの切り替えが必要だった。


ライゼス村のことは、趣味にさえ集中できないほど心を重くしていた。

どこかで息をつかなければ、きっとこのまま潰れてしまう。そんな予感があった。


日が沈みかけた頃、6番地に到着。洒落た木造の外観の店に駆け込んだ。


「……ない」


ショーケースはすでにほとんど空だった。


(そりゃそうだよね。人気店だもん、早く売れるに決まってる)


ため息をついて店を出ると、視界の端に見慣れた人影が映った。


「主任……?」


そこには私服姿のレイが立っていた。

ラフでありつつも機能的な——動きやすそうな私服姿が、妙に新鮮だった。セントラルの外で、しかもこんな場所で彼に会うなんて、思いもよらなかった。


「どうしてここに?」


「あのとき主任が言ってたから、ちょっと気になって」


イリアの目がぱちぱちと瞬いた。


(まさか、わたしの話、覚えててくれたの?)


嬉しさを隠すように、イリアは笑って言った。


「お目当てのものはなかったし、せっかくだから、ご飯でも食べる?」


誘うつもりではなかったはずなのに、気がつけば言葉が口をついて出ていた。

レイはきょとんとしたような顔をしたあと、少しだけ間を置いて頷いた。


「……ああ」


(誘っちゃった……!しかも…OKしてくれた……)


イリアは自分の行動に驚きながらも、レイの隣を歩いていった。


***


入ったのは、街外れにある庶民的な居酒屋だった。派手さはないが、料理が評判で、客の入りも程よい。週末の夜にしては静かで、隅の席に座ると、外の喧騒がうそのようだった。


イリアが「たまには飲みたい」と言った。

今だけは——ライゼス村のことを忘れたい気分だった。


頼んだのは果実酒のロック。ほんのり甘くて、喉に引っかかる刺激も優しい。

イリアはそれをどんどん飲んでいった。普段はそれほど酒に強くないくせに、なぜか今夜は止まらなかった。


「主任、飲みすぎ」


呆れた態度の裏に、心配が混じるレイの声。


イリアは頬をぷくっと膨らませて、コップをテーブルに置く。

表情は拗ねたようでいて、どこか子供のような甘えも混じっていた。


「ねえ。そろそろ“主任”じゃなくて……イリアって呼ばないの?」


口からこぼれた言葉に、自分自身が驚いた。


(……なに言ってるの、わたし)


普段なら絶対に言わない。酔っている自覚はあった。でも、止められなかった。


レイの手が、ピタリと止まる。

目の前のグラスを持ち上げた手が、そのまま宙で止まり、しばらく動かなかった。


一瞬の沈黙。けれどそれは決して重苦しいものではなくて、むしろ静かに心が揺れ動くような、不思議な空気だった。


「……イリア」


短く、けれど、真っ直ぐに呼ばれたその名前。

たったそれだけのことなのに、胸の奥がぽっと熱くなった。誰かに受け入れられたような、ほんの小さなぬくもりが、心の中にともった。


「……じゃあ私は、レイって呼んじゃおうかな…」


自分で言いながら、恥ずかしさに思わず目をそらす。耳がじんわりと熱くなるのが分かった。


(ああもう、どうしてこんなこと言っちゃうんだろう……)


その姿を見て、レイはぎこちなくコップを机に置いた。


(……主任は、ずるい…)


***


なんとかしてセントラルに戻ってきたが、イリアの足取りはふらふらだった。


「らいじょーぶ……わ!」


足がもつれ、転びそうになる。


「無理だ。掴まってろ」


レイはイリアをそっと自分の側に引き寄せ、自分の腕に掴ませる。だがイリアは完全にバランスを崩して、レイの胸元にもたれかかった。


「ごめん…わたしの部屋の場所…いまは説明できる自信ない……」


「……はあ」


(完全に潰れてる)


レイは静かにため息をつき、そのままイリアをおんぶして自分の部屋へと向かう。

週末の夜、研究棟は施錠される。彼女の部屋が分からない以上、他に選択肢はなかった。


イリアの体温が背中から伝わり、心拍数が上がっていくのがわかる。


部屋に着くと、そっとベッドに寝かせる。シャワーを浴びたレイは、イリアに布団をかけ、椅子に座って目を閉じた。


(……もう主任じゃない、“イリア”か)


静かな夜。隣のベッドからは、安らかな寝息だけが聞こえていた。

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