6.存在しない村
(今日はレイがいない……か)
イリアは椅子に座ったまま、小さく息を吐いた。
いつもの朝と違って、研究室が少しだけ広く感じる。
TMDに人手が足りず、レイは急遽任務に駆り出されたらしい。彼から送られてきた短いメッセージには、四日後に戻るとだけ記されていた。
「……四日間、長いな……」
つい口から漏れた言葉に、イリア自身がハッとする。
慌てて姿勢を正し、いつも通り作業に取りかかろうとしたその時——
コンコンッと扉をノックする音がした。
「はーい」
返事をするのと同時にドアが開き、ニーナが顔を覗かせた。
「イリア、調子はどう?エルシードくんとはうまくやってる?」
「……まぁそこそこ。でも今日から四日間はTMDの任務で不在みたい」
「なに〜?その言い方、ちょっと寂しそうじゃん」
イリアは小さく笑いながら、「別に、そんなことないよ」と返した。
そのやり取りのあと、ふいにニーナの表情が真剣なものへと変わる。
「……イリア、ライゼス村のことなんだけどさ」
空気が一瞬で張り詰めた。
イリアは無意識に息を呑み、ニーナの次の言葉を待つ。
「最近、生活応用開発部門のスタッフで、北部山岳エリアの調査に行った人がいたの。……で、ちょっと聞いてみたんだけど、変なことを言ってたのよ。“その辺りにライゼス村なんて名前の村は存在しない。セントラルの管理地しかない”って」
「……え?」
イリアの思考が一瞬で凍りつく。
存在しない? 村が? 私の家族が住んでる、あの場所が?
「北部山岳エリアには、ルクスの管理棟と、管理スタッフの住宅だけがあるって。書類上でも“無人区域”だと記録されてたって……。おかしいわよね?」
(理解が追いつかない……)
目の前の現実が崩れていくような錯覚。
イリアの手が、気づかぬうちにわずかに震えていた。
ニーナが、心配そうに顔を覗き込む。
「イリア、大丈夫? 私の方でも、もっと詳しく調べてみようか? ……上層のアクセス権が必要になるかもしれないけど、頼めば——」
「ううん、大丈夫。ありがとう。でも……ニーナを巻き込みたくないから」
イリアは静かに微笑んだ。けれどその笑みには、どこか痛々しい力がこもっていた。
「……そう。分かった。でも、無理しないで。何かあったら言ってちょうだいね」
ニーナの声には、なお消えない迷いと不安が滲んでいた。
***
ニーナが研究室を出ていったあと、イリアはその場にじっと座ったまま、しばらく動けずにいた。
心臓の鼓動が、自分でも不快なほどに速い。胸の奥がざわつく。指先が冷たい。
(……ライゼス村が、存在しない?)
自分が生まれ育った、あの場所が。家族が今も暮らしているはずの村が、無人区域?
(気になる。確かめたい。……今すぐ)
イリアは研究机の端末を立ち上げる。機関ネットワークに接続し、ログイン。手のひらに汗を感じながら、キーワードを入力する。
「北部山岳エリア ルクス管理棟」
検索開始。
でも、結果は予想通りだった。
——何も、出てこない。
「該当する結果はありません」と、機械的な文が表示されるだけ。
(……やっぱり)
イリアは深く息を吐く。
3ヶ月前に届いた母からの手紙。いつものように、村の近況や天気の話、イリアの体調を気遣う文面だった。そこに、管理棟の話など一切なかった。
——もちろん、それまでの手紙にもそんな話はなかった。
もし、村のすぐそばにそんな大規模な施設ができていたなら、母が黙っているはずがない。
母は、些細な出来事でも必ず知らせてくれた人だ。誰かが転んだとか、飼い犬が逃げたとか、近所の子供が木から落ちたとか——それすら手紙に書くような人だった。
(……おかしすぎる)
イリアの中で、ひとつの仮説がかたちを成していく。
——何らかの理由で、ライゼス村は消された。
——その場所、あるいは近くに、ルクスの管理棟が建てられた。
この3ヶ月でライゼス村が消され、その跡地に管理棟が建てられたのだとしたら。つまり、最近になって建てられたものなのだとしたら……。
今はまだデータベースに記録がないのも、頷ける。もしくは、機関が意図的に隠しているのか。
自然災害なんかじゃない。地図から削除され、名前も消え、痕跡すら残されていないのだ。
もしこれが機関の手によるものだとしたら、そこには意図と計画がある。
そして、その計画の名はおそらく——《REBOOT》。
ふと、頭をよぎる。
(エルシードくんの故郷は?)
彼は確か、5歳のときにセントラルに保護された。
故郷が無くなったと言っていた。でもその詳細を、本人の口からは一度も聞いたことがない。
語らなかったのではなく──何も知らず、語れなかったのかもしれない。
あの資料、《孤児育成プログラム選別レポート》の中で見つけた──レイだと思われる子供のページにあった記述。
「X-11857 初期化完了。国内対象データ、全消去」
イリアは震える手で、今度は国内に存在するルクス管理棟の情報を検索した。
今回は、広域データベースにアクセスするために許可申請を飛ばす。数分の待機の末、承認が下りた。
——結果は、驚くほどあっさり出た。
画面に表示されたのは、国内に点在する数多の管理施設の分布マップ。
それぞれの管理棟には建設年、所在地、用途が簡易的に記載されていた。
イリアは目を凝らし、リストをスクロールする。
(レイが保護されたのは、20年前。つまり、その頃、もしくはそれより少し前に建てられた棟が怪しい)
表示順を【建設年順(古い順)】に並べ替えた。
一番上に表示されたのは、ちょうど20年前に建設された管理棟だった。
********
管理棟 No.01/南西トロム湿原地区
建設年月:21**年6月
備考:初期対応施設・旧型処理区画あり
********
「トロム湿原……聞いたことない名前」
イリアの眉がわずかに動く。
(レイが生まれた場所、消えた故郷が……もしかしたら、この施設と繋がってるかもしれない)
——まだ仮説でしかないけれど
村が、何らかの理由で地図から消され、その痕跡の上に「管理棟」が建てられる。
これが一箇所ならまだしも、他にもあったら?
管理棟という名目のもとで、どれだけの集落が——どれだけの人が、過去を奪われたのか。
「…………っ」
イリアはそっと、ノートを手元に引き寄せた。
ライゼス村、ルクス管理棟、トロル湿原……
いくつかの言葉をメモした後、深呼吸をした。
少しだけ背筋を伸ばし、首を回す。
脳はまだ冴えているが、目の奥に疲れが溜まっているのを感じる。
(この先、何が出てくるんだろう)
レイには、まだ話せない。
レイの“過去”に関わるかもしれないことを、確かな根拠もなくぶつけるわけにはいかない。
でも、真実から目を逸らすこともできなかった。
「ごめんね、エルシードくん……でも私は、知りたい」
独り言のようにそう呟き、イリアは研究室の照明を少しだけ落とした。
再びノートに目を落としながら、次に調べるべき項目を脳内で整理していく。
これ以上進めば、もう元には戻れない。
でも——それでも構わない、真実が知りたい。
"REBOOT=再起動"
その単語が、イリアの脳内を支配していた。
***
レイがTMD任務に出てから、3日目。
ライゼス村の件が頭から離れず、イリアは仕事にも集中できないでいた。
「……はぁ」
食堂で軽く昼食を済ませ、廊下を歩く足取りも重い。
(こういう時、誰かと一緒にいたら、少しは落ち着くかもしれないのに……)
そんなことを考えながら、角を曲がった瞬間だった。
研究室の前に、見慣れた黒髪の男が立っていた。
「……え?」
「任務、急いで終わらせてきた」
レイは淡々と言う。
イリアの中で何かが、ふっと緩んだ。
(戻ってきた……)
それだけで、なぜか涙が出そうになるくらい、安心してしまった。
「……ありがとう」
「なんのことだ?」
イリアは何も言わず、ただ笑った。
緊張が、ようやく少し解かれた気がした——その笑顔は、久しぶりに心からのものだった。