第九話 まだ終わりたくない
雨は上がったが、雲は低く、飯盛山の空は鉛のように重かった。
中腹の岩場に、白虎隊士たちは肩を寄せ合い、身を伏せるようにして身を寄せていた。湿った地面の冷たさが、皮膚の奥まで染みこんでくる。
湊は、山腹の傘松に背を預けながら、遠くを見ていた。見えぬはずの城を、目に焼きつけようとするように。
「……煙が見えた」
偵察に出た一人が戻ってきたのは、日が完全に沈んだ直後のことだった。
「黒い煙が、鶴ヶ城の方から……そして、兵の動きもあった。おそらく……」
その先の言葉は不要だった。
誰もが、己の胸にそれを完結させていた。
――城は、落ちたのだ。
「嘘だ……そんなはずが……」
誰かがかすれた声で呟いた。
だが、否定の言葉はそれきりだった。ひとつ、またひとつと、少年たちの瞳から光が失われていく。
それは、火が燃え尽きるのではなく、心が、魂の奥底から折れていく感覚だった。
――この戦は、終わった。
だが、それは「生き残れた」という意味ではない。むしろその逆。戦の果てに残された者たちに訪れるのは、「帰れぬ現実」と「誇りの終わり」だ。
やがて、隊士たちは焚き火を囲むように集まり、口々に、まるで遺言のようにそれぞれの言葉を語り始めた。
「俺の家は、城下の紙問屋でな。妹が一人いるんだ。嫁にやる前に、親父に見せてやりたかった……」
「おらんとこの田んぼ、今年は豊作だって聞いてたのによ。もう、一度も見ることはねぇな」
「母上に、もう一度だけ会いてぇ」
焚き火の火花が、まるで涙のように夜空へ舞った。
そして、伊東悌次郎が静かに湊に問うた。
「……酒井、お前は、何のために戦ってきた?」
湊は言葉に詰まった。
(俺は……何のために?)
携帯電話も、制服も、教室も……記憶のどこかに置き去りにしてきた現代の景色。そこには、今こうして命を削る理由など、なかったはずだ。
ただ、目の前にいた彼らと共に、走り、剣を振り、傷を負った。
「……俺は、全部思い出せるわけじゃない」
震える声で、ようやく言葉を継いだ。
「でも……今ここにいるのは、本当だ。みんなが、俺のことを“峰治”って呼んでくれて……俺も、そう思おうとしてた。……そうじゃなきゃ、怖くて、立っていられなかった」
誰も口を挟まなかった。
「俺はきっと……この“今”の中にある。だから、俺は――」
湊はそこで、言葉を切った。言い切れなかった。
だが、それだけで充分だった。湊の言葉は、少年たちの心に、小さな火種を灯した。
それは、炎ではない。生き残ろうという希望でもなかった。
ただ、誇りを守るために、最後まで立ち続ける“意志”だった。
――夜が明ける。
その直前、誰かがぽつりと呟いた。
「白虎隊の名に恥じぬ最期を……」
その言葉が、静かに連鎖していく。
「会津のために――」
「我が家の名にかけて――」
「兄の無念を晴らすために――」
やがて、それはひとつの“決意”となって、隊士たちの中に根を張った。
誰も泣かなかった。
悲しみは既に、涙を超えていた。あるのはただ、静かな覚悟だけだった。
「待ってくれ……!」
湊が叫ぶ。
「頼む……まだ……まだ、終わらせないでくれ!」
だが、誰も湊を咎めなかった。誰もが、彼の叫びに痛みを感じながらも、背を向けて自分の中の“終わり”を見つめていた。
そのとき――。
空が、微かに白み始めた。
重たい雲の向こうに、かすかな光が射しこむ。
湊はその光を見た瞬間、思った。
(まだ……終わっていない)