第八話 幻の城
靴が重かった。いや、もはや靴ではなかった。泥を吸い込んだ布と革の塊が、足にまとわりつく。
「……あと、少しだ」
そう言ったのは誰だったか。中村か、伊東か、それとも自分自身か。
冷たい風が、飯盛山の斜面をなでていく。赤く染まる夕陽が、背後の山々を沈黙の海に変えていた。
湊は、音のしない世界にいた。足音すら、風に飲まれる。隣を歩く者の息遣いだけが、かろうじて現実を繋ぎとめている。
登って、登って、そしてまた一歩。
ふと、視界が開けた。
――そこに、城があった。
鶴ヶ城。
湊は思わず息をのんだ。
幼いころ、旅行で一度だけ訪れたはずだ。
石垣の切り立ち、白漆喰の天守、その姿を写真に収めたことを、なぜか今、はっきりと思い出した。
だが――それは、違っていた。
煙。黒煙。
城の上空に渦を巻く、巨大な暗雲があった。
天守の輪郭が、歪んで見える。焼けているのか、そう思わせるほどに、赤黒い陽が照りつけていた。
「……落ちたんだ……」
誰かが呟いた。
それは呪文のように、隊士たちの間を巡った。
「落ちた……落ちた……」
中村が膝をつき、篠田が無言で空を見つめる。伊東は口元を震わせ、こみ上げるものを堪えていた。
湊は、言葉が出なかった。
(本当に……終わったのか)
ようやく守り抜いてきた、いや、守るために歩いてきた鶴ヶ城が、燃えている――ように見えた。
それだけで、少年たちは崩れた。
目を伏せ、地に手をつき、ある者は嗚咽を漏らし、ある者は天を睨みつけて泣きもしなかった。
死を覚悟していたはずだった。
けれど、それは「城がある」ことを前提にした覚悟だった。
帰る場所、待っている誰か、そうしたものがすべて焼け落ちたと知ったとき、人は何のために死ねばいいのか分からなくなる。
湊もまた、膝をついた。
(終わった……のか?)
震える指先が、地面を掴む。泥と草と、かすかな血の匂い。
けれど、呼吸は続いていた。
胸が上下し、心臓が打っている。
それが、ただの生理現象ではなく、「生きている」という証であることに、なぜか泣きたくなった。
隣で、篠田が言った。
「俺たちは……どうすりゃいい」
誰に聞いたわけでもない。ただ、空に向かって吐かれた問いだった。
湊には、答えられなかった。
(俺は、何でここにいる?訳も分からずこんな場所に来てどうしてここにいる?)
現代での記憶は、日に日に薄れていく。
スマホの感触も、LINEの通知音も、夜のコンビニも――まるで嘘みたいだった。
今、目の前にいるのは、死にそうな仲間たちだけ。
名前も、年齢も、好きな食べ物も、全部知らないのに、ただ一緒に生きようとした人間たち。
湊は立ち上がった。
「……まだ、落ちたって決まったわけじゃない」
小さな声だった。だが、確かに誰かの耳に届いた。
「え?」
中村が顔を上げた。
「煙だって……あれは……もしかしたら、火事じゃないかもしれない」
自分でも、無理があると思った。けれど、それでも言いたかった。
「見に行かないと、分かんないじゃないですか」
伊東が、かすかに笑った。
「……お前、前よりよく喋るようになったな」
篠田が立ち上がる。
「どうせ死ぬなら、もう少しだけ……前へ進んでからでも、遅くねえ」
皆、また歩き出す。幻を現実に変えるために。
夕陽が完全に沈む前、湊はもう一度、あの煙を見つめた。
あれが絶望の証か、あるいは希望の陽炎か――それはまだ、誰にもわからない。