第六話 見えぬ明日
夜が明けきらぬ山道に、湿った土の匂いが立ち込めていた。木々の間を縫うように、白虎士番隊の列が進んでいく。湊――いや、“酒井峰治”もその一員として、静かに歩を進めていた。
足元はぬかるみ、草の露が脚絆を濡らす。風が冷たく、だが心はもっと冷え込んでいた。
(本当に……行くのか)
自問は意味を持たなかった。すでに命令は下り、列は止まることなく戸ノ口原を目指している。
背後から、伊東悌次郎の声がした。
「なあ酒井、剣は研いできたか?」
湊は一瞬、返答に詰まる。だがすぐに、言葉を繕った。
「……中村がやってくれた」
「お、そりゃ心強ぇな」
中村時太郎が笑って応じる。「お前の剣、切れ味悪いと怪我するだけだしな」
いつもと変わらぬ軽口。しかし湊は、どこかその笑いの奥に無理を感じた。
隊はやがて林を抜け、広がる原野――戸ノ口原へと差し掛かる。霧がまだ低く漂い、遠くの山影がぼんやりと見える。
その瞬間だった。
「前方に敵影!」
斥候の声が響く。緊張が列を駆け抜け、誰もが鞘に手をかけた。
湊もまた、腰の刀に手を添える。その手が、微かに震えていた。
(来る……)
銃声。
最初の一発は、乾いた風を裂いた。
次いで、怒涛のような銃撃が続く。新政府軍の先鋒が突如霧の中から現れ、乱戦が始まった。
「下がるな! 前を崩すな!」
指揮官の叫びが飛ぶ。
白虎隊は必死に応戦するも、相手は数も装備も上。薩摩、長州、土佐の連携は見事で、銃と剣が次々に仲間をなぎ倒していく。
湊は目の前で、見知った顔が血に倒れるのを見た。
息を呑む間もなく、敵兵が迫る。反射的に抜いた刀が、ようやく一太刀を受け止める。
手が、痛いほどしびれた。腕の芯が震え、それでも足を止めることは許されなかった。
「酒井! 下がれ、囲まれるぞ!」
篠田儀三郎の声が飛ぶ。
後方では会津軍の本体が崩れ、全体が退却を始めていた。混乱と恐怖が地面に渦を巻くように広がっていく。
「撤退だ! 戸ノ口原から離れろ!」
命令が飛ぶと同時に、湊たちは山の方角へと走り始めた。
仲間の姿がばらばらになっていく中、湊は必死に中村と伊東を探す。ようやく視界の端に二人の姿を捉え、合流する。
「大丈夫か!」
「足にかすった……だがまだ動ける!」
負傷しながらも必死に笑う伊東の姿に、湊は喉の奥が熱くなるのを感じた。
(俺は……ここで死ぬのか?)
震えが、また戻ってくる。だがそのとき、篠田が背後から叫んだ。
「生き残れ、酒井! お前は生きて伝える役目があるんだ!」
その言葉は、湊の胸を貫いた。
生きて、伝える。
それはこの時代にいない“未来の者”としての、唯一の存在理由に思えた。
「分かった、必ず……!」
返す声が、かすれていた。
夕刻、ようやく野営地の端に辿り着いた湊たちは、そこで夜を迎える。
飯盛山の影が、遠くに霞んでいた。