第五話 それでも
夜が降りると、空気は急に冷え込んだ。昼の湿気を含んだ土の匂いが、じわりと体温を奪っていく。雨はまだ細く、野営地を包む松の葉を静かに濡らしていた。
湊は焚火の外、ひとり傘松の下に立ち尽くしていた。
髪が濡れる。肩も冷たい。だがそれよりも、あの声が耳を離れなかった。
同い年くらいの少年兵の最後の叫びにも似た声が、死にたくない。
生々しい記憶は、現実とも幻ともつかず、湊の心を掻き乱していた。
「おーい、酒井。そっち寒ぇだろ。来いよ」
焚火のそばから声がした。中村時太郎だった。年の割に穏やかで、なにより面倒見がいい。彼の隣には伊東悌次郎、そして篠田儀三郎。
湊は逡巡したが、足を向けた。
火に近づくと、ほのかな温かさと、飯盒で煮た雑炊の匂いが鼻をかすめた。
「なんだその顔。幽霊でも見たか」
「……いや」
ろくな返事もできずに座ると、篠田が飯盒から湯気立つ雑炊をよそってくれた。
「生きてるうちに腹ぐらい満たせ。どうせ明日はまた地獄だ」
伊東が笑うと、篠田が肘で小突いた。
「お前、口が悪ぃ。こいつ、ちっとも笑えねぇぞ」
「んなことねえ。これでもだいぶマシになった方だ」
そんな軽口の応酬に、湊は少しだけ、胸の硬さが解けるのを感じた。
「酒井、お前って……故郷どこだったっけ」
不意に中村が問う。
湊は一瞬言葉に詰まる。
(……酒井峰治。会津藩士の家。確か、四番隊所属)
思い出すのではなく、頭の中で構築する。まるで台本をなぞるように。
「……鶴ヶ城の近く、です」
「そうか。じゃあ、城が見えなくなるまで逃げるのは、つらかったな」
その一言が、胸を刺した。どこか自分の言葉が、誰かの本当を傷つけた気がして。
「お前はさ、ここに来る前、何がしたかった?」
今度は篠田が問うた。
その問いには、何も答えられなかった。
(何を……したかった?)
スマホをいじり、課題をギリギリに仕上げ、帰りにコンビニでパンを買う。
そんな日々が、まるで遠い国の記憶のようだった。
「別に……なんも、ないです」
小さく呟いた声に、誰も突っ込まず、ただ火の音だけが周囲を包んだ。
夜は更け、やがて当番の交代時間。
湊は篠田と共に哨戒に出る。雨はなお降り続け、足元をぬかるませていた。
「酒井、お前……初陣のとき、震えてたな」
唐突に、篠田が言った。
「俺もそうだった。兄貴が戦で死んでな。俺だけ生き残って……情けねぇと思ってた」
「……兄さん、も?」
「ああ。白虎隊じゃねぇ。でも、似たような場所で死んだ。だからな、今でも怖いんだよ。死ぬのも、生き残るのも」
湊はうなずけなかった。
代わりに、ふと口をついたのは、
「それでも、進むんですね」
「進むさ。俺らは“隊”だからな」
その言葉は、焚火よりも暖かかった。
夜明け前、遠くから合図の太鼓が聞こえた。
「出陣か……」
篠田が呟く。
湊は、刀の柄を無意識に握っていた。
もう震えてはいなかった。