第四話 落ちた名前を拾う命
―人は、どこまで生き延びて、どこから死んだことになるのだろう。
朝露で濡れた藪の中、白虎隊士の列が静かに進んでいた。目指すは十六橋、母成峠への迂回路。会津の城下町を守る最後の防衛線だというが、俺には地理も情勢もわからない。わかるのは、今この列を離れれば“死ぬ”ということだけだった。
篠田儀三郎が先頭を歩いている。小柄な背中には疲労の影が濃いが、歩幅も姿勢も変わらない。刀を斜めに背負い、視線を常に前に。俺もそれに倣うように足を運ぶが、心の中ではずっと葛藤が渦巻いていた。
俺は誰だ? 本当に、峰治として生きるしかないのか?
膝に泥が跳ねる。疲労と緊張で、足の感覚はすでに半分しか残っていない。
「止まれ!」
低く抑えた声が列の先から響く。全員が一斉に伏せ、刀を地に構える。敵影。
――ついに来たか。
母成峠への山道は霧が濃く、前方の様子は見えない。それでも、敵の動きは聞こえた。草を踏む音、鉄を擦る音、馬の嘶き――
俺たちの目の前に、“現代”とはまるで違う形の“現実”が迫っていた。
「峰治、前へ」
振り返ると、中村が片手で合図を送ってきた。鼓動が速まる。まさか、俺が先鋒? 違う、違うだろ。そんな技術も胆力も、まだ……
「行け!」
背中を押され、半ば転がるように前に出る。その瞬間、霧の奥から銃声が鳴った。音ではない、衝撃。鼓膜を貫く破裂音と同時に、誰かの肩が弾け飛ぶ。
――戦争ってのは、殺すことだ。
学校の授業では聞いた。だけど、目の前の“殺された”は、そんな概念よりずっと重く、怖く、臭かった。
「前へ! 火線を超えるな、伏せろ!」
叫ぶ声。見覚えのない上官――たぶん、神谷蓮十――が指示を飛ばす。彼の右肩も血で染まっていたが、それでも指揮は乱れない。
前線の薮に身を潜めながら、俺は肩で息をし続けた。刀の柄を強く握り、痺れる指を一本ずつ確認する。撃たれてない、まだ生きてる。
「峰治、右だ、右!」
篠田の声。とっさに反応し、右を見た瞬間、敵兵が一人、土手を越えて飛び込んできた。新政府軍――土佐弁が飛び交っていたから、恐らくは板垣退助の配下の奴か。
俺は叫びながら刀を振るった。力任せの一撃は相手の肩を掠め、互いに転倒する。相手が起き上がるのが早いか、俺が次を振るうのが早いか――
腕が止まった。
「……子供、じゃないか……」
向こうの兵士も、俺とそう年が違わない。土まみれの顔に、涙の跡があった。目が合った。殺し合いの場で、それはほんの一瞬の“理解”だった。
だが、戦場では――
銃声。銃声。何かが飛んできて、その少年の側頭部が砕けた。俺は息を呑んだまま硬直する。
「峰治、下がれ!」
腕を引かれた。中村だ。引きずられる俺の視界の中で、少年兵の体が、音もなく傾いて倒れた。
目を開けたまま、そこには、ただ死があった。
逃げたい。逃げたい。もう無理だ。だけど、俺は列に戻る。背中を見せるわけにいかない。戻ればまた“峰治”として、誰かと背中を預けあわなければならない。
戻ると、伊東悌次郎が泣きながら地面を掘っていた。小さな穴に、折れた木札を埋めようとしている。
「名前が……なくなったら、誰か、わかんなくなる……」
それは倒れた仲間の名札だった。もう体は回収できない。でも、せめて“名”だけは埋めてやりたい――そんな気持ち。
俺もその横に膝をついた。何も言えないまま、ただ土を手で押し固めた。
“名を呼ばれること”で、この世界に繋がれた俺。
その名を“失った者”が、ここでは土に還る。
――誰の名前でもいい。伝えるために、生き延びる。
そう、あの日の夜に誓った自分の言葉が、胸の奥でもう一度灯った。
霧が晴れかけた峠の道で、小隊は再び進軍を始めた。誰も話さない。ただ、足だけが前に出る。叫び声はない。ただの、生存者の行進。
その中に、俺もいる。
もう“誰か”の名前を背負っているのではない。
その名前とともに、ここに“いる”。
――それだけが、今の俺にできる“抵抗”だった。