第三話 違う名前
――ここは、死ぬ場所だ。
吐き捨てたその言葉が、耳鳴りに混じって自分に返ってくる。
泥に膝を取られたままの俺を、誰かが腕を引いた。肩が抜けるかと思うほど乱暴だ。
「立て、酒井! 後れたら撃たれるぞ!」
またその名前。酒井。酒井。
俺は榎木湊だ、と叫びかけたが、喉が詰まって声にならない。代わりに咳き込み、肺に入った焦げ臭い煙を吐き出す。視界の端で、火の粉と紙片が風に舞った。
斜面を駆ける少年兵たち――白い袖。泥だらけの裃。腰に刀、肩に鉄砲。俺の知っているどの部活ユニフォームとも違う、戦の装束。
銃声が遅れて鼓膜を叩く。耳がキーンと鳴り、足がもつれた。
「まだ撃ってこねぇ! 林まで下がれ、はやく!」
怒鳴ったのは、泥まみれの少年。この時点の俺は知らない。ただ、その目だけはぎらついて忘れがたい。
潅木の陰に転がり込む。胸が上下しすぎて苦しい。刀なんて握ったことがない手は痺れ、柄がずるずる滑る。
周りの少年たちが短く名乗り合っている――が、俺には聞き取れない。
「……ぎさぶろ……」
「……ないき! 弾、まだ……」
「ていじろ……泣くな、こら!」
名字と名前が飛び交う。方言混じりで耳に入らず、音の塊として砕けて落ちる。
俺は震える手で自分の袖口をつまんだ。布地は粗く、汗と泥で重い。爪の隙間に土が入り込んで痛い。夢にこんなディテールは出てこない。これは現実だ。
視線を落とすと腰の帯――いや兵装帯か――に差してある鞘が割れている。刃の三分の一ほどが露出して泥を噛んでいた。
「おい、峰治。怪我は?」
至近距離で声。振り向くと、年長に見える少年がしゃがみ込み、俺の腕を取る。凛とした目。整った所作。――誰。
「……俺、は……」
「応えられるなら大丈夫だ。動け。交替で前へ出る」
彼は躊躇なく立ち、仲間に指示を飛ばす。その背に、泥で汚れてなお白く映える袖。
(今の……“ぎさぶろ”って聞こえた。篠田……儀三郎?)
歴史で見た名前が、耳の奥で弾けた。同時に胃がひっくり返る。ほんとに? ここ、まさか――
「言えない」瞬間
銃声が近づき、木の皮が剥げ飛ぶ。俺は思わず叫んだ。
「待って! ここ、どこ――」
最後まで言えなかった。誰も聞いていない。いや、聞いているのに、誰も振り返らない。戦場では“説明”より“動く”が先だ。
俺だけが、事情を説明してもらえる立場じゃないのだと理解した。
歯を食いしばり、何も分からないまま指示に従って這う。泥と血の匂いが顔に張りつく。指先で掴んだ根が滑って折れ、顔面から落ちた。口内に土。吐く。
日が落ちきるころ、ようやく銃声が遠のいた。木立の奥で火が焚かれ、小さな輪ができる。そこに押し込まれ、湿った飯を渡された。
飯というより、ぬるい粥。腹に入ればなんでもいい、と誰かが笑った。
「酒井、食えるか」
まただ。その名前。俺のものじゃない。
匙を握ったまま固まる俺に、少年が覗き込む。涙目で、鼻をすすっている。
「よかった……さっき倒れてたから……死んだかと思った」
「……誰……」
「伊東。伊東悌次郎。忘れた? ……やだよ、忘れんなよ」
泣くな、と別の少年が肩を小突く。中村だ。さっき怒鳴ってた奴。
「峰治、頭打ったんだろ。寝りゃ治る。な?」
俺はうなずくしかなかった。否定したら、この輪から弾き出される気がした。
火を囲んで、ぽつぽつと話が出る。
「帰ったら田に出ろって親父が。もう田は焼けたけどな」
「城に妹がいる。籠城だ。生きてるかどうか」
「……負けても、名は残るかな」
笑えない冗談に、誰も声を出さない。火が爆ぜただけ。
俺の順番が来る。中村が顎で促す。
「峰治、お前は? 家族、いたろ」
喉が詰まった。
目の前に浮かぶのは、仏壇の兄。弁当箱を詰める母。通学路。バス。スマホの画面。
「……覚えて、ねぇ」
吐き出すみたいに言った。嘘とも真実ともつかない曖昧な言葉。
篠田が火越しに俺を見た。
「戦で記憶を落とすことはある。無理をするな。名前さえ応えられりゃ務まる」
名前。――俺のじゃない名前。
輪が崩れて各々寝支度に移る頃、ひとりの若い指導役が近づいた。帯刀の角度が大人のそれ。神谷蓮十と呼ばれていた。
「酒井……いや。お前、目の奥が違うな」
心臓が跳ねる。喉が乾く。
「どこで鍛錬を? あるいは、どこで怠けた?」
揶揄うように笑って去っていったが、足音が遠ざかるまで息ができなかった。
(バレた ……?)
寝床代わりの藁束。眠れるはずがない。月明かりで自分の刀を確かめる。鍔の根元に刻印――判読できない。柄巻は摩耗し、手汗で湿っている。俺の刀じゃない。誰かの生きた証が付着したままの刃だ。
ふいに、指の隙間に紙片が触れた。柄下に挟まっていた薄い和紙。泥で滲んで読めないが、かろうじて「さかい」の字。
――本当に、この身体は酒井峰治のものだ。
胸が冷たくなる。じゃあ、峰治本人は?
灰色の空。冷え込む気温。突撃前の点呼が始まる。指揮を執る声が各小隊を巡る。
「篠田儀三郎!」
「応ッ!」
「日向内記!」
「応ッ!」
名が呼ばれ、声が返る。ひとつ、ひとつ。欠けた名には沈黙が落ち、その沈黙を飲み込むように次の名が呼ばれる。
「……伊東悌次郎!」
「お、おうっ!」
焚火で泣いていた少年の声が震え、周囲が小さく笑って空気を戻す。
そして――
「酒井峰治!」
内臓がねじ切れそうになった。返事をしなければ、ここで俺は誰でもない。ただの異物として置き去りにされる。返事をすれば、“俺じゃない誰か”を生きることになる。
息を吸い込む。
「……応ッ!」
声が出た。自分のものとは思えない太い声だった。
周囲の肩が一瞬緩む。そこに俺は“いる”のだ、と彼らが受け入れた空気が、肌に伝わった。
(俺は……俺は、今だけでも峰治だ)
出立前、篠田が刀の持ち方を直してくれる。
「掌はこう割れ。指を噛むな。振れなくとも、握りは嘘をつかぬ」
言われるままに構える。重い。震える。
「怖いか」
「……怖い」
「怖くていい。逃げぬならそれで武士だ」
武士。俺は武士じゃない。でも、逃げないことなら、できるかもしれない。
陣太鼓。遠くの銃声。指示が飛ぶ。少年たちが列を成す。
俺は列に入る。肩がぶつかる感触が、生きている証拠みたいだった。
(帰りたい。けど、置いていけない)
(生きて帰って、伝える。――誰の名前でもいい。とにかく、俺が見たことを)
号令が落ちた。
「進め――!」
足が前に出た。俺の知らない時代へ、俺じゃない名前で。
それでも、今はそれでいいと思った。