第二話 硝煙の前に
仏壇の前に、兄の遺影が飾られている。
優しそうな笑みを浮かべたまま、永遠に歳を取らない兄は、今も僕の中で「完成された人間」としてそこにいる。
「……行ってくるよ」
言葉に出してみたけど、やっぱり僕の声は仏壇には届かない。
それでも、朝の光を反射する写真のガラス越しに、兄の目が少しだけ揺れた気がした。
キッチンでは、母が黙々と弁当を詰めていた。
「修学旅行、福島だったよね」
「うん。会津若松ってとこ」
「白虎隊、見てきなさい。兄が好きだったの」
「……そっか」
会話が続かない。
母との距離は、ここ数年ずっとこうだ。近くて、遠い。
僕の中で時間が止まったあの日から、ずっとこのままだ。
通学路、バスの車窓、サービスエリア。
クラスメイトのはしゃぎ声が、耳の奥で反響する。
僕はひとりで流れる風景を眺めながら、無意識にスマホを触る。
何も通知は来ていない。
会津若松に着いたのは昼過ぎだった。
飯盛山。白虎隊十九士の墓がある場所。
「ここで少年たちが集団で自刃したわけです」
語り部の女性の声は、どこか演劇じみていて、現実味がなかった。
「……当時、彼らは十六歳から十七歳ほど。今の皆さんと同じくらいの年頃ですね」
それを聞いて、数人が「まじかよ」とか「若すぎん?」とか呟いていた。
僕は何も言わなかった。
言葉にするほど、何かを感じているわけでもなかったから。
だけど、彼女の言葉のひとつが、奇妙に引っかかった。
「彼ら十九人は全員が命を絶ちました。ただ、ひとりだけ……。負傷して動けず、偶然助かった少年がいたのです」
ひとりだけ、生き残った――?
そのフレーズに、胸の奥がざわつく。
白虎隊=全滅ってイメージだった。違ったのか。
「名前は……飯沼貞吉。その後も会津の記憶を伝え続けました」
次の瞬間、視界が、ふっと歪んだ。
地面が揺れた?
違う。僕の身体が、ぐらついている。
気づけば足元が不安定になり、まるで地面が崩れていくような感覚に襲われた。
「……え?」
視界が白く染まる。
空気が、一気に熱を帯びた。
遠くで、爆発音のような――。
――バンッ!
その音が聞こえた瞬間、僕は土の上に倒れ込んでいた。
「いっ……!? つ……つめたい、なに……!?」
目の前に、焼け焦げた壁がある。
まるで爆撃を受けたような……戦争映画でしか見たことのない景色。
「どこ、これ……っ、なにが……」
立ち上がろうとする。手が震える。
スマホはない。バッグもない。
着ていた制服も、変わっていた。灰色の羽織? 和服?
「――っ、動くな!」
声がした。誰かの怒鳴り声。
次の瞬間、何かが目の前に倒れ込んできた。
少年だった。
顔中血まみれで、肩を撃たれている。
「た、頼む……これを……っ」
彼は、震える手で銃を僕に渡してきた。
短銃。木と鉄の感触。重い。
「な……なに、これ……僕、は……」
ぐらりと視界が回る。
どこか遠くで銃声が響いた。
それを最後に、僕の意識は、闇に沈んだ。