第十二話 記録者の条件
鶴ヶ城の秋雨は、戦火をも鎮めることはなかった。
飯盛山を後にして数日。あの焚火が残した黒い輪郭も、今では灰と泥に溶けていた。白虎隊士二十人――生き残った者たちは今、城内の片隅で「予備兵」として生を繋いでいた。
湊はその一人だった。
銃も刀も預けられ、与えられた任務は、伝令、炊事、負傷兵の搬送。名誉も誇りも、すでにこの城には置いてきた。自刃の決意を止めたのは誰でもない、自分だった。だが、それが「正しかった」と言えるほど、彼の中に答えはなかった。
それでも、生きている。
「おい、峰治。倉庫の確認、済んだか」
兵の声に応じて頷き、湊は干し芋と味噌を載せた木箱を背負う。城の石畳を、ぬかるみに足を取られながら進む道。その傍らには、同じように沈黙を貫く仲間たち。彼らの眼差しは、どれも言葉を持たなかった。
そんな日々の中で、彼は一人の少女に出会った。
「君、峰治って言うんだよね? ……ありがとう、運んでくれて」
医務室の軒先。声をかけてきたのは、包帯を持った少女――すみと名乗った。腰に小さな帳面を差し、黙々と炊き出しを続ける彼女は、どこかこの戦場に似つかわしくなかった。
「記録を、つけているの。毎日、亡くなった人の名前と、その人が最後に言ったこと。私……それくらいしかできないから」
彼女はそう言って、手元の帳面を見せてくれた。震える筆跡。にじんだ墨。そこには、誰にも知られず消えていった兵士たちの「痕跡」があった。
湊は、なぜだかその文字に見覚えがあるような気がした。
それは翌日のことだった。
「峰治、地下壕の片付けだ。昨日の砲撃で一部崩れたらしい。燭台持って行け」
命じられた場所は、城の北隅。西洋式に造られた軍事倉庫の跡地だった。湊は蝋燭を灯し、湿った石の階段を一段ずつ下りる。
湿気と土の匂い。崩れた木箱。煤けた地図。
そのときだった。
壁の割れ目から、何かが落ちた。奇妙な手触りの布――そして中から現れた一冊の本。
湊は言葉を失った。
洋装の製本、見たことのない図形。ページにはラテン語に似た文体で、天文暦や幾何学図、そして奇妙な数式が並ぶ。だが何より彼を釘付けにしたのは、その冒頭に書かれた一節だった。
“Tempus est observatio. Mundus ex scriptura conservatur.”
「時間とは観測である。世界は、記録されることによって保存される。」
その瞬間、湊の中で、なにかが繋がった。
――記録。
玖条湊というがこの時代に送り込まれた意味。それは、戦うことでも、勝つことでもない。起きたことを、在ったこととして“遺す”こと。
彼はそっとその本を元に戻し、蝋燭を吹き消した。
夜、再び医務室の裏手で湊はすみに会う。彼女はまた誰かの名を帳面に記していた。
「俺も……書こうと思う。記録を」
湊は、小さな和紙と墨を借りる。筆の先が震える。だが、その一文字目が生まれた瞬間、胸の内に灯がともったような気がした。
「これは記録である。十九人と一人、その命が在ったという証のために——」
砲声が、遠くで鳴った。城が、また一日分、耐えた音だった。
そのとき湊の影は、蝋燭の火に照らされて、記録の上に長く落ちた。
彼の書きかけの一枚が、鶴ヶ城の夜風に小さく揺れていた。